二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(九)

生い立ち──東京時代


広重画「東京名所之内銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」、『錦絵 幕末明治の歴史 9 鹿鳴館時代』より

明治初年の東京

 最盛期には人口一三〇万人を数え、一九世紀初頭までは世界唯一の一〇〇万都市だった江戸も、維新直後はすっかりさびれていました。人口の半数を占めていた武士の多くが江戸を離れたからです。旧幕臣約一万四〇〇〇人は慶喜(よしのぶ)や徳川宗家を継いだ家達(いえさと)にしたがって静岡へ移り住み、諸藩の江戸藩邸も少数の留守居役を残しただけで、江戸詰めの侍もほとんど国許へ帰ってしまい、空き家同然になっていました。とうぜん武家奉公人は失業し、武士を顧客としていた商人や職人も商売あがったりでした。(1)
 しかし間もなく首都の治安を守るための羅卒(らそつ)後に巡査と改称〕三〇〇〇人の募集など新政府の官職も増え、人びとは職を求めて上京しはじめます。花袋(かたい)・田山録弥(ろくや)の父が上州館林から警視庁巡査に応募して上京し、息子録弥ら家族を呼び寄せたのは明治九年のことでした。知識欲に燃え立身出世の野望をいだく若者も東京へ東京へと引き寄せられました。石見国津和野・旧亀井藩の典医・森静男が長男林太郎を連れて上京したのは明治五年のことでした。また、後に房太郎の義兄となる井山憲太郎が医者の勉強のため上京したのは、高野家が一家をあげて上京した明治一〇年のことでした。同じような事例は、いたるところに見られました。高野家の上京にも、息子たちの教育に対する配慮があったのかもしれません。

 その頃、首都・東京を〈文明開化の象徴〉として内外へ向けて飾り立てる大プロジェクトも相次いで始まりました。これも多くの人びとを首都に引き寄せました。こうして明治六年にいったん五七・六万人にまで落ち込んだ東京市内の人口は、明治一一年には区部だけで七三万人弱、郡部もあわせれば一〇五万人へと回復をみせたのです。
  文明開化を誇示する企てのなかで最大のものは鉄道建設、もうひとつが〈銀座煉瓦街〉の建築でした。鉄道は明治五年九月一二日(一八七二年一〇月一四日)に新橋・横浜間が開通し、盛大に式典が開かれ、翌日から営業運転に入りました。それまで歩けばたっぷり一日はかかり、当時最速の馬車に乗っても四時間の道のりが、わずか五四分に短縮されたのです。
  また銀座煉瓦街も、明治七年に着工し明治一〇年六月九日には完成していました。イギリス人建築家ウォートルス(T. J. Waters)の設計で、ロンドンのリージェント・ストリートをモデルにしたこの街は、新橋から京橋までの約四キロを中央に八間の車道、左右に各三間半の歩道を設け、これをすべて煉瓦で舗装し、道の両側にはバルコニーのある煉瓦造りの二階屋を建ち並ばせたものでした。従来の大通りより二倍近く広い通りも人びとの目を惹きましたが、ガス灯が夜も明るく町を照らし、そこを箱馬車や乗り合い馬車が行き交う光景が人びとの目を驚かせたのです。これも鉄道とともに外国人に向けて日本の文明開化を印象づけることを狙った仕掛けのひとつでした。つまり横浜から新橋までは列車で運び、新橋から都心へは煉瓦街のまんなかを馬車を走らせたのです。明治一五年になると、この煉瓦街の道にレールを敷いて鉄道馬車が走り始めます。もちろん日本人にとっても〈銀座煉瓦街〉はあたかも日本のなかの異国そのもので、この頃から盛んになりはじめた東京見物の一番の目玉となったのでした。
  もっともこの煉瓦造りの家は窓が少なく床が低いため風通しが悪く、夏は蒸し風呂のようで、押入の品物は三日もたたぬうちにカビが生えるなど、そこに暮らす人びとの間ではすこぶる悪評でした。このためなかなか買い手もつかず、はじめは空き家だらけで、猿芝居や軽業などの見せ物小屋と化したものが少なくなかったそうです。冒頭に掲げた錦絵は、銀座をかなり美化して描いており、実際はもっと荒涼とした景色だったようです。明治15年の銀座煉瓦街、下岡蓮杖派着色写真帳

 上の着色写真は明治一五年、銀座通りに馬車鉄道が開通した時のものです。いずれにせよ、京橋から新橋までを銀座と呼び〈銀ぶら〉などという言葉が生まれたのはずっと後のことだそうで、「私たちは銀座通(ぎんざどおり)とはいわず、煉瓦通(れんがどおり)、また煉瓦へ買物になどとはなはだ奇妙なことばを使っていた」と、京橋生まれの鏑木清方は証言しています(2)。日本中に○○銀座が生れるほど、銀座が日本の盛り場の代表になるのは二〇世紀に入ってからのことでした。この銀座煉瓦街と外人居留地の築地、それにあちこちに建てられた官庁、学校などの洋風、あるいは和洋折衷様式の建築を別にすると、東京はまだまだ江戸時代そのままの「水路と橋の町」「どろんこ道の町」でした。長崎銀屋町の自宅前の石畳の道に慣れていた高野一家は、「東京もあんがい田舎だね」などと話し合ったのではないでしょうか。

 この頃の東京の様子を、岩三郎と同年の生まれで、当時は京橋の本屋・有隣堂の小僧として日本橋・京橋界隈を毎日飛び回っていた田山花袋は、次のように回想しています。(3)

 「その時分〔明治一四年ころ、田山録弥一一歳〕は、東京は泥濘の都会、土蔵造りの家並の都会、参議の箱馬車の都会、橋の袂に露店の多く出る都会であった。考えて見ても夢のような気がする。京橋日本橋の大通の中で、銀座通りを除いて、西洋造りの大きな家屋は、今の須田町の二六新聞社のところにあったケレー商会という家一軒であった。それは三階の大きな建物で、屋上には風につれてぐるぐる廻る風速計のようなものがあった。何でも外国の食料品か何かを売っていた。〔中略〕
 夜は通りに種々な食物の露店が出た。鮨屋、しる粉屋、おでん燗酒、そば切の屋台、大福餅、そういうものが小さい私の飢をそそった。中で、今は殆どその面影をも見せないもので、非常に旨そうに思われたものがあった。冬の寒い夜などは殊にそう思われた。それはすいとんというもので、蕎麦粉かうどん粉かをかいたものだが、その前には、人が大勢立って食った。大きな丼、そこに入れられたすいとんからは、暖かそうに、旨そうに湯気が立った。そこにいる中小僧が丼を洗う間がないくらいにそのすいとんは売れた。
 京橋の橋の西の袂には、今では場末でも見ることの出来ない牛のコマ切の大鍋から、白い湯気が立って、旨そうな匂いが行きかう人々の鼻を撲った。立派な扮装をした人たちも平気で其処で立って食った。食物と言えば、橋の袂には、大抵何処の橋の袂にも、そういう露店が沢山に出ていた。」〔傍線は原文では傍点〕

 高野一家が移り住んだのは、このような、まだ江戸と東京が混在する町、古い過去が消え去らずに残る一方、新しいものがつぎつぎと生まれつつある過渡期の都会だったのです。 彼らが落ち着いたのは、東京府第一大区一二小区橋本町三丁目八番地でした。この住居表示は一八七八(明治一一)年の「郡区町村編制法」によって廃止され、神田区久右衛門町一番地と改められました。なぜこうした住居表示変更が行われたのか、理由はわかりません。ただ、前の町名である橋本町は、坊主姿で門付をする〈願人坊主(がんにんぼうず)〉と呼ばれる芸人の住む木賃宿で知られた地域でした。ちなみに、藤沢周平『用心棒日月抄』の口入れ屋・相模屋の所在地も、この橋本町ということになっています。後にみる大火の後に、東京のスラム再開発第一号の対象となった町でしたから、久右衛門町への住居表示変更は、高野家にはおおいにプラスとなったことでしょう。
 ここは借地で、地主は渡辺新三郎、敷地面積は一九五坪でした(4)。この土地に旅人宿兼回漕店・長崎屋を開業したのです。木造二階建ての家は一階が一〇三坪八合五夕、二階は五八坪二合五夕、計一六二・一坪の母屋に、一、二階各一〇坪、計二〇坪の土蔵がついていました(5)。岩三郎はこの長崎屋の庭にあった池で落ちて溺れかかったところを折から滞在中だった侠客・小金井小次郎に助けられたことがあるといいます(6)。子供とはいっても小学生が溺れそうになるというからにはかなり大きな池だったに違いありません。建坪や池の大きさからみても、都心の宿屋としてはかなりの大きさだったといってよいでしょう。 東京第一大区地図(部分)明治8年10月

 ところで「大区小区」という住居表示は分かりにくいと、たいへん評判がわるく、明治七年三月八日から明治一一年一一月二日まで僅か四年八ヵ月存在しただけでした。そのせいもあって第一大区一二小区などと言ってもどの辺か見当もつきませんが、後の神田区と日本橋区、現在の千代田区と中央区にまたがる地域です。より具体的にいうと浅草橋、和泉橋、それに伝馬町牢屋跡(いまの十思公園)を結ぶ、ほぼ三角形の地域です。

 その頂点のひとつの浅草橋は、奥州街道と日光街道への出口でした。つまり東北方面から江戸・東京への入り口だったのです。芭蕉が奥の細道の旅に出た千住の宿から江戸へ向かうと浅草橋になり、これを渡って浅草橋御門を通れば江戸の府内です。浅草橋から江戸城の正門にあたる大手門の方角へまっすぐ延びている道の両側が馬喰町、ついで小伝馬町です。馬喰町、小伝馬町はともに旅人宿の街でした。その馬喰町の右隣りが橋本町です。

 長崎屋のある橋本町三丁目八番地(神田区久右衛門町一番地)は、浅草橋と美倉橋のほぼ中間点の角地にあり、家の前の道はそれぞれこの二つの橋へ通じていました。下の絵は浅草橋を描いたものですが、石橋に架け替えられたばかりの明治七年ころの様子です。神田川にはまだきれいな水が流れ、屋形船や荷を満載した舟が行き交っています。奥に見える橋は柳橋でそこから先は隅田川になります。 広重画「浅草橋より神田川柳橋之図」明治7年頃、『錦絵 幕末明治の歴史 7』より

 要するに、長崎屋が立地したのは昔からの旅館街に隣接し、また東京の水運の要である神田川沿いで、しかも〈大川〉(隅田川)へも一〇分たらずで行ける貨物の集散地でした。旅人宿兼回漕業を開くには絶好の立地だったと思われます。ちなみにここは明暦の大火までは寺町で、法善寺、願行寺など五つの寺が並んでいました。長崎屋は法善寺跡にあたります。なお隣はかつては代官屋敷で江戸府外の天領を統括する郡代役所がありました。実は、馬喰町に旅人宿が集まったのも、この代官所に訴えの筋がある人びとが泊まる公事宿が多かったからだといいます。

 最後に、インターネット上の地図で今のこの場所を確かめておきましょう。つぎのMapFan Webのアイコン を押してみてください。そしてMapFan Web ページへ行って「大きい地図サイズにかえる」をクリックした上でご覧になると、隅田川まで入るので全体的な位置関係が良く分かります。なお、現在の住居表示では千代田区東神田一丁目一五番地一二号の東神田一郵便局とエトワール海渡プラザ館のあたりだと思われます。なお《編集雑記》2に高野家の旧跡探検の記を書き、現在の写真も掲載していますから、ご参照ください。




【注】

(1) 今回の叙述はさまざまな書物に依拠しており、それをひとつひとつ注記するとあまりに煩瑣になるので、使用あるいは参考にしたものを著者名の五十音順で列記するにとどめたい。
☆ 朝倉治彦・稲村徹元編『新装版 明治世相編年辞典』(東京堂、一九九五年)
☆ 石井研堂『明治事物起源』全八冊(筑摩書房、ちくま学芸文庫、一九九七年)
☆ 石塚裕道・成田龍一『東京都の一〇〇年』(山川出版社、一九八六年)
☆ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 一三 東京都』(角川書店)
☆ 鏑木清方『随筆集 明治の東京』(岩波文庫、一九八九年)
☆ 斎藤月岑『増訂 武江年表』一、二(金子光晴校注、平凡社、東洋文庫、一九六八年)
☆ 瀬沼茂樹編『現代日本記録全集 4 文明開化』(筑摩書房、一九六八年)
☆ 田村榮太郎『江戸東京風俗地理 二 銀座 京橋 日本橋』(雄山閣、一九六五年)
☆ 田山花袋『東京の三十年』(岩波文庫、一九八一年)
☆ 『中央区三十年史』上(東京都中央区役所、一九八〇年)
☆ 鶴見俊輔他編『日本の百年 一〇 御一新の嵐』(筑摩書房、一九六四年)
☆ 東京都『東京百年史』第二巻(東京都、一九七二年)
☆ 東京都中央区教育委員会編『中央区沿革図集 日本橋編』(中央区立京橋図書館、一九九五年)
☆ 東京市日本橋区役所編纂『日本橋区史』第三冊、一九一六年
☆ 東京市日本橋区役所『新修 日本橋区史』上下一九三七年
☆ 野村喬編『内田魯庵全集』第三巻(ゆまに書房、一九八三年)
☆ 初田亨『東京 都市の明治』(ちくま学芸文庫、一九九四年)
☆ 長谷川時雨『旧聞日本橋』(岩波文庫、一九八三年)
☆ 長谷川時雨「渡り切らぬ橋」(長谷川仁 紅野敏郎編『長谷川時雨 人と生涯』ドメス出版、一九八二年所収)
☆ 福沢諭吉『福翁自伝』(講談社文庫、一九七一年)
☆ 宮武外骨『明治奇聞』(河出文庫、一九九七年)
☆ 森銑三『明治東京逸聞史』一、二(平凡社、東洋文庫、一九六九年)
☆ 矢田挿雲『江戸から東京へ(一)』(中公文庫、一九七五年)

(2) 鏑木清方著 山田肇編『随筆集 明治の東京』(岩波文庫、一九八九年)一二三ページ。

(3) 田山花袋『東京の三十年』(岩波文庫、一九八一年)七ページ、九〜一〇ページ。

(4) 「明治六年第壱大区沽券図」(東京都中央区教育委員会編『中央区沿革図集 日本橋編』一三六ページ)。なお、地価は七五〇円と記されている。馬喰町三丁目の一九六坪の地価が七〇〇円であるから、立地としてとくに悪いわけではないことがうかがえる

(5) 『高野家要用簿』

(6)大島清『高野岩三郎伝』一九ページ。 



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