二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(一三)

生い立ち──東京時代



長崎屋炎上

小林清親「浜町より写す両国大火」 小林清親「両国大火浅草橋」

 父の死からわずかに一年半後、さらなる不幸が高野一家を見舞いました。明治一四年一月二六日未明におきた〈松枝町(まつえだちょう)大火〉で長崎屋が焼失してしまったのです。火災が発生したのはこの夜午前二時半すぎのこと、火元は久右衛門町から西へ五〇〇〜六〇〇メートルほど離れた神田松枝(まつえだ)町の寸莎(スサ)屋でした。原因は放火、何者かが隣の米屋との間に山積みしてあった「寸莎」に火をつけたといいます。「スサ? 何だそれは?」と思われる方が多いでしょう。「寸莎」はスタとも呼びますが、壁のひび割れを防ぐために壁土に混ぜる〈つなぎ材〉です。ふつう荒壁用には刻んだ稲藁、上塗り用には麻や紙が素材として用いられました。いまではよほど特別な家でないと土壁など塗りませんから、スタ屋商売はすたれ、職業別電話帳にもそんな業種は見あたりません。左官業でさえ半ページ余、それも吹きつけ塗装と兼業のようです。しかし明治初年の東京では、壁といえばとうぜん土壁、しかも耐火建築として土蔵造りが大流行でしたから、スタの専門店があったのです。
 たまたま松枝町二二番地のスタ屋塩崎國二郎の家の前を通りがかった巡査が放火を発見し、近所をたたき起こして消火につとめたのですが間に合いませんでした。燃えやすいスタが冬のカラカラ天気で乾燥しきっていたのと、折からの北西の烈風に煽られてあっという間に燃えあがり、手がつけられなくなったのでした。火はあちこちに飛び、隅田川さえ越えて燃え広がりました。猛火は一六時間ものあいだ天を焦がし、神田区二一ヵ町、日本橋区二七ヵ町、本所区五〇ヵ町、深川区一〇ヵ町と四区一〇八ヵ町一万数千戸を焼き尽くしたのです*1。久右衛門町は風下でしたから、命からがら逃げ出すほかなかったでしょう。冒頭の絵は〈最後の浮世絵師〉小林清親がこの火事を描いた三枚組のうちの「浜町より写す両国大火」(右)と「両国大火浅草橋」(左)です。 小林清親「久松町ニテ見る出火」、永田生慈『資料による近代浮世絵事情』三彩社刊より

 松枝町大火からわずか三週間後の二月一一日には神田柳町から出火し、またも神田区二一ヵ町、日本橋区二七ヵ町の二二六八戸を焼く大火となっています。「火事は江戸の華というより神田の華だった」との説がありますが、確かに神田は火事の多い町でした。小林清親はこの火事も「久松町ニテ見る出火」として描いています。

 ところで、火災発生の現場から長崎屋まではかなりの距離がありました。とうぜん大事な品を土蔵に運びいれ、窓や扉に目塗りするだけの時間的余裕はあったはずです。土蔵は二〇坪でしたから、商売用の布団や家具什器など相当量の家財を詰め込むことが出来たと思われます。しかし火の勢いが猛烈だったからか、あるいは造りが堅固でなかったためか、結局は土蔵も燃え落ちてしまったそうです。岩三郎は「家は焼け、蔵は落ち、私ども親子四人は素っ裸の姿となって街頭に放り出された」*2と記しています。岩三郎らが通った千代田学校も焼失しましたが、その千代田学校より五〇坪も大きな家構えの長崎屋一八二坪は丸焼けになってしまったのです。旅人宿・長崎屋が東京一の繁盛をうたわれたのも、ほんのつかの間のことでした。

 その後、横浜の伯父たちの支援をえて一家は日本橋区小網町四丁目二番地に転居し、ここで旅人宿を営業しています。小網町は水運の便がよく回漕問屋が集まっていた場所でしたから*3、あるいは同業者の助けもあったのでしょうか。しかしいずれにしても小網町はほんの一時だけの仮住まいでした。同年八月初めには日本橋区浪花町で、新築か改築かはっきりしませんが、家の工事を始めています*4
 一家が移り住んだ浪花町は、新和泉町、住吉町、高砂町とともに元吉原と呼ばれ、明暦大火以前は吉原遊郭の一部でした。吉原は大火後に浅草に移されてしまいましたが「大門(おおもん)通り」「思案橋」などの地名に遊郭の名残を残していました。広重画「久松町劇場久松座繁栄図」、『錦絵 幕末明治の歴史 9 鹿鳴館時代』より
 この界隈はまた、江戸時代から芝居小屋で知られたところで、長崎屋のすぐ前には久松座、後の明治座がありました。高野家は、江戸時代なら日本最大の歓楽街のまっただ中に移り住んだのでした。
 もっともすでに遊郭はなく、この絵の久松座も火事で焼けてしまい仮小屋で興行中でしたが。周辺には役者をはじめ芝居関係者の住まいも多かったとのことで、なまめいた土地柄だったそうです*5。あの謹厳そのものの高野岩三郎博士が「しばしば母をともなって芝居見物」をしたり、娘義太夫が好きで「ひまをみては呂昇や三蝶の妙音にききほれた」*6というのも、子供時代にこうした土地で暮らしたからではないでしょうか。

 浪花町の長崎屋については、建物の図面をはじめ『要用簿』にある各種の書類から久右衛門町時代にくらべると、はるかにいろいろなことが分かります。建物は二階建てで一階は三四坪、二階は二四・五坪の計五八・五坪です。うち土蔵部分が一二坪ありますから、母屋は四六・五坪ということになります。宿屋としての部屋数は九畳一間、八畳一間、六畳二間、四畳半二間の計六室三八畳です。久右衛門町時代の三分の一ですが、それでも家と土蔵で六〇坪近い大きさです。しかも、この時高野家はまだ長崎には銀屋町の家屋敷のほかに山林も所有していました。当座の資金として三菱会社から身元保証金一〇〇円、同利子一七円五〇銭の返却を受け、明治一四年一一月九日には旅人宿の営業を再開しています。年末には五升供え、三升供えをはじめ鏡餅一三重ねなど、餅だけで八円も注文しているのです。高野家が火災によって大打撃をうけたことは確かですが「素っ裸の姿となって街頭に放り出された」というのは文学的表現としても誇張がすぎ、事実に反しているようです*7

 むしろ『要用簿』の無味乾燥な文書の背後から浮かび上がってくるのは、気丈な母マスの姿です。夫仙吉にしたがって先祖代々住み慣れた土地を捨てて上京し、ようやく仕事が軌道に乗り始めたところで寡婦となり、しかもその直後に東京一の評判をとった旅館を焼失してしまったのです。ふつうなら子供をかかえて途方にくれるところでしょう。しかしマスは、そうした不運にもめげず、新たに土地家屋を手に入れて改修し、火災の一〇ヵ月後には旅館業を再開しているのです。久右衛門町長崎屋が東京一の旅人宿と評判されたのも、おそらくマスの女将としての力が大きかったに違いありません。マスの力量は再開された浪花町長崎屋でも発揮されたようで、翌明治一五年一年間の止宿人の数は延べ二六二三人、六室の宿に一日平均七人余が泊まっています。かなりの稼働率と言うべきでしょう*8



【注】


*1 『新聞集成 明治編年史』第四巻、三三九〜三四〇ページ。原資料は『東京日々新聞』一月二七日付。なお焼失した町の数は『中央区年表 明治文化編』(中央区立京橋図書館編集発行、改訂版一九九一年)六六ページによる。焼失戸数は『新聞集成 明治編年史』第四巻三四四ページによれば一万五二六一戸であるが、一万〇六三七戸など異説もある。なお火元の松枝町は、北辰一刀流千葉周作の道場で知られた「お玉が池」があった町で今の住居表示では千代田区岩本町周辺である。

*2 鈴木鴻一郎編 高野岩三郎著『かっぱの屁』(法政大学出版局、一九六一年)四〇ページ。しかし、この叙述の正確さにはやや疑問が残る。仮住まいの小網町でも旅館を営業しているところをみると、土蔵は焼け残ったのではないか。なお、この時はまだ祖母かねが健在であったから、一家は四人ではなく五人である。

安藤広重「鎧の渡し小網町」 *3 『東京名所図会 日本橋区之部』は小網町について「当町は水運の便利を有するを以て、回漕若しくは運送を営む者多く」と記している(睦書房復刻版、一一七ページ)。広重《名所江戸百景》の「鎧の渡し小網町」は、蔵の建ち並ぶ小網町を描いている。

*4 明治一四年八月二日付、高野房太郎名義で久松警察署宛に出されている「仮板囲願」の冒頭には次のように記されている。「私コト持有〔所有の誤記?〕日本橋区浪花町八九番地ニ建設有之候土蔵構家屋見世先破損致候ニ付今回建直仕度」。新築とも改築ともとれる文言であるが、借家ではなく持ち家であることは明らかである。なお八九番地は八十九番地ではなく八番地と九番地にまたがった土地であった。浪花町には一番地から二四番地までで、八九番地は存在しない(『中央区沿革図集 日本橋編』一七三ページ)のである。旧長崎屋の所在地を、例によってウエッブ上の地図で確認しておきましょう。

このアイコンをクリックして見てください。なお、ここは現在の住居表示では、中央区日本橋人形町二-二五-一三のあたりです。

山本松谷「親父橋よりよし町を望む」、『明治東京名所図会』講談社刊より *5 下の絵は、人形町にちかい芳町を描いた山本松谷の絵です。黒い土蔵造りは当時の日本橋の大店の特徴でした。
 当時の日本橋、とりわけ元吉原周辺の雰囲気、人々の生活のありようについては長谷川時雨『旧聞日本橋』(岩波文庫、一九八三年)参照。時雨(本名長谷川やす)は、高野一家が浪花町に引っ越す二年前の明治一二年、大門通りの角にあたる通油町で生まれています。『旧聞日本橋』は『女人芸術』のオーナー編集者であった時雨が少女時代に目にした日本橋界隈の人びとの生活を、すぐれた劇作家の筆で自在に描いた作品である。本文を補う意味で、火事の際の町の雰囲気を活写したその一節を紹介しておきましょう。

「その時の火事は大きかった。江戸時代の残物で、日本橋区内のコブであった汚い町が一掃されたが、哀れな焼け出されも沢山あった。一度眠った私の家が叩き起こされた時は、大門通り一ぱい火の子がかぶっていた。家々では大提灯を出して店の灯を明るくした。酒屋はせわしげで、蕎麦屋は火をおこし、おでんの屋台はさかんに湯気をたてた。纏がくる、梯子がつづく、各組の火消しが提灯をふりかざして続いてくる。見舞い人が飛ぶ。とても大通りは通られはしない。子供たちは角に立って、ガクガクして飛んできておちくだける火の子の華を眺めていた。火喰鳥が空をまわっているからこの火事は大きくなるなどろくな事はいわなかった。」


*6 大島清『高野岩三郎伝』(岩波書店、一九六八年)四三五ページ。

*7 前にも述べたように、岩三郎は房太郎についての回想記を二回ほど発表している。そのどちらも、房太郎が「単純な労資協調主義者」ではなく、彼の労働運動への関心は貧しい生活のなかから生まれた自然発生的なものであったことを強く主張している。このためであろう、岩三郎の回想は、いずれも高野家の貧しさをかなり誇張して描いている。

*8 ちなみに男女の内訳は男が二四二七人、女が一九六人。また府県別では石川県六一七人、熊本県三九五人、長崎県二二〇人がベストスリーであった。



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