二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(一四)

生い立ち──東京時代



越境入学──江東学校へ

 千代田学校を卒業した房太郎は、本所回向院の境内を使って明治八年秋に設立されていた公立小学江東(こうとう)学校の上等小学へ進みました*1。進学した月は分かりませんが年次はおそらく明治十一(一八七八)年でしょう*2。ところで、またここで疑問が生じます。房太郎はなぜ自宅のある神田区内の学校、あるいは大区小区時代に同じ区内だった日本橋区の学校へ進学しなかったのかということです。もっとも久右衛門町からなら、江東学校も距離的にはそれほど遠くはありません。両国橋を渡ればすぐ回向院ですから一キロ足らず、子供の足でも二〇分程度でしょう。しかし問題は江東学校へ進学したのが房太郎だけでなく、弟の岩三郎も同校へ進学し、ここを卒業していることです*3。岩三郎の場合は、久右衛門町ではなく小網町や浪花町の家から通ったのですから、学校までは二キロ以上ありました。おそらく四〇〜五〇分はかかったに違いありません(東京第一大区地図第一大区小区分絵図参照)。もちろん明治の人にとって、そのくらい歩くのはごく普通のことでした。しかしすぐそばに久松学校、有馬学校など上等小学の課程を設置した学校があったのですから、兄弟揃って江東学校に進んだのは、それなりの理由があったとみるべきでしょう。

 実は、教育環境という点からみると江東学校はけっして良い場所にはありませんでした。むしろ最悪だったかもしれないのです。ご承知のように回向院を有名にしたのは境内で開かれた勧進相撲です。文政一〇(一八二七)年からこの寺の境内で年二回の大相撲の本場所が開かれていました。左上の絵は明治三二年当時の回向院です。創立当時の江東学校はこの絵の手前右、門を入ってすぐ右手の四六四坪を占めていました。回向院はまた、全国各地の寺のご本尊のご開帳でも有名でした。ご開帳の際は秘仏だけでなく「みせもの」と称して宝物や種々の飾り物などが展示され、行列やら山車やら宣伝的な催しもありました。ご開帳は宗教行事であるだけでなく、見せ物的要素も小さくなかったのです。その点では、回向院は浅草の浅草寺と似た性格の寺でした。

国利画「東京名勝之内両国橋」、『錦絵 幕末明治の歴史 6 文明開化』より山本松谷画「回向院の大相撲」、『明治東京名所図会』より

 さらに、学校の行き帰りには隅田川にかかる両国橋を渡らねばなりませんでしたが、この橋の両側の袂には火除け地が設けられており、徳川時代にはその空き地を利用して見せ物小屋や矢場などいかがわしい店が建ち並ぶ盛り場でした。明治六年には人気の的だった見せ物小屋が禁止されましたが、それでも子供が毎日行き来するのに相応しい場所ではありませんでした。

 では、なぜ高野兄弟は江東学校を選んだのでしょうか? もちろん今となっては、こうした問いにはっきりした答を出すすべはありません。推測するしかないのですが、ひとつの答は、江東学校が周囲の学校にくらべ教育水準の高さで評判だったのではないか、ということです。『本所区史』は、江東尋常小学校の沿革のなかで次のように記しているのです*4

「明治十九年十一月成績優良校の一として、畏くも、皇太子嘉仁親王殿下(大正天皇)の御台臨を辱ふした」(強調は引用者)

 もうひとつの傍証は、左の絵です。これは明治一〇年の刊行、東京の教育界で活躍中の人びと十六人を描いた錦絵の部分です。区中小学校置教師亦洋学導所所謂生徒嗚呼知識増基、『錦絵 幕末明治の歴史 6 文明開化』より 左下の立っている人物には「江東学校 山川利済」とその名が記されていますが、彼は同校二代目の校長でした。その背後の人物は文部大輔の田中不二麿、その右隣が女子教育の跡見花渓、ほかにも洋学の福沢諭吉や工部大学校の設置母体責任者として工部卿伊藤博文らの名があります。つまり江東学校の校長は当時の教育界における新進気鋭の人材と目されていたのです。
 さらにいえば、江東学校が「成績優良校」となった大きな理由は、同校が男子校だったことにあると思われます。当時、東京の他の小学校の多くは共学でしたが、明治一〇年、江東学校を母体に江東女学校が別個に設立され、それ以降男女別学になっていたのです。これが同校の教育水準を上げる結果になったのは明らかです。その頃の親たちは、また世間一般も「女に学問はいらない」という考えを強くもっていました。就学率をみても、明治十二年の全国平均で男は五八・二一パーセントであったのに対し女は二二・五九パーセントにすぎません。全体的にみて女生徒の勉学意欲は男子生徒にくらべ低かったようです。内田魯庵は「明治十年前後の小学校」で、彼が体験した男女共学の高等小学の雰囲気をつぎのように記しています。

 「今一軒僅かに半年在籍した小学校は男女共学であつて、私のクラスは男が私一人でアトが尽く女であつたには弱らされた。小学校といひ条今の高等で、其頃は女は小学校を卒業すれば、或は卒業しなくても良い縁談があれば嫁入りしようといふ年頃であつたから大人びてゐて、年少の私などは児供扱ひして丸で対手にしなかつた。学課は碌々出来ないでも若い教師はチヤホヤして成績で一番の私は却てノケ者にされて小さくなってゐた。此の不愉快な学校を罷めて本の学校へ戻つて古い教師や同級生と一緒になつた時はノウノウとした」*5

 以上はあくまでも推測ですから、はたして当たっているかどうか分かりません。ただ私は、高野兄弟が近くの学校に行かずわざわざ遠い江東学校へ通ったのは、それなりの理由があったに違いないと考えています。さらに言えば、そこに母マスの意思が働いていたことを感ずるのです。 母ます 長崎屋には、東京大学医学部学生など立身出世の野望にもえる若者が何人も止宿していました。マスは、そうした学生たちを目の当たりにして、学問が人生の展望を変える力をもっていることを肌で感じていたことでしょう。父親代わりもしなければならない立場の彼女とすれば、兄弟により良い教育を受けさせようと考えたに違いないと思うのです。

   明治十四年、房太郎は江東学校を卒業しました。このことは岩三郎が「兄を語る」のなかでつぎのように述べていることから明らかです。

「兄は浅草橋の千代田小学校から、つぎに江東小学校に転校し、十四年に高等小学を卒業した。同窓生(ママ)は五、六人であった。」

 岩三郎も数年後に同じ学校を卒業していますから、この兄の卒業年次についての記憶は確かだと思われます。また『要用簿』には、明治一四年一一月から一二月にかけ、長崎の所有地の名義人や回漕業者としての名義が、仙吉から房太郎に書き換える手続きがとられたことが記録されています。これも、房太郎がこの頃、高等小学校を卒業したことを裏書きしていると思われます*6
 なお、岩三郎が回想で、同窓生といっているのは、おそらく同期の卒業生でしょう。高等小学校の卒業生が一時に六人もいたとなると、それ自体、江東学校の教育水準の高さを示す証拠になります。それというのも、当時、高等小学を卒業するのは、現在われわれが想像する以上に大変なことだったからです。前に「文明開化の子」のところでちょっと触れましたが、当時の小学校は半年ごとに試験を課し合格者だけが進級する仕組みでした。さらに下等小学、高等小学のそれぞれを卒業する際は、卒業試験(大試験)が課せられました。ですから高等小学を卒業するには、実に十八回もの試験に合格しなければならなかったのです。しかもその進級試験もきわめて厳格なものでした。文部省は「学制着手順序」のなかで「生徒階級を踏む極めて厳ならしむ……毫も姑息の進級をせしむべからず」との原則を各府県に指示していました。 とりわけ卒業試験となると、試験委員は師範学校の訓導などが特別に任命され、複数校が合同で試験を実施することが原則だったといいます。斉藤利彦『試験と競争の学校史』に試験の実状が紹介されていますが、それによると卒業試験の場合、試験会場には師範学校が使われ、四日間にわたって二十二科目もの試験が朝から夕方まで課せられたといいます。会場には試験官だけでなく府県の官員や師範学校長、戸長、学区取締らが立ち会い、さらには父兄の参観も許されたのでした。口頭試問の場合は生徒一人に対し立会人が周囲を取りかこむ形で実施されているのです*8
 当然のことながら落第者も多く、明治一四年の青森県の進級試験の例でみると北津軽郡の受験者三三八八人中一一五三人が落第、落第率はなんと三四・〇パーセントです。青森県全体でも約二〇パーセントでした*9。この進級制の厳しさを端的に示しているのは、小学校在籍者の学年別数、というより当時の言い方では等級別の数です。房太郎が上等小学へ進学した一八七八年現在、東京の数値は分かりませんが、おそらくそれほど大差がないであろう京都府の統計をみると、小学校在籍者総数は五万九一九三人でしたが、上等小学の在籍者はなんと二九四人、〇・六七パーセントに過ぎません。さらに最高学年にあたる上等小学一級の在籍者はわずかに四人、一万五〇〇〇人に一人という少なさでした。そのなかから、厳しい大試験に合格した者だけが小学校の卒業証書を獲得したのです。前々回の「父の死」で私は房太郎が「学校では優等生だった」と書きましたが、そのように断定した根拠はここにあります。



【注】

*1 墨田区教育委員会編集発行の『隅田区教育史』(一九八六年、一〇六五ページ)によれば、創立時の名称は公立小学江東(こうとう)学校であった。大正三年三月三一日に呼び方を変え、江東(えひがし)尋常小学校となった。理由は述べられていないが「こうとう」では高等小学校と紛らわしいからであろう。
 なお境内に江東学校の建設をみとめた回向院は、無縁寺と呼ばれたように、明暦の大火の犠牲になった人びとを埋葬した無縁塚の上に建てられた寺である。明暦大火の死者だけでなく、安政地震の犠牲者、刑死・牢死者など無縁無名の人びとの後生をとむらった。境内に鼠小僧次郎吉の墓があるのも彼が刑死者だったからであろう。

*2 これは房太郎が明治七年に下等小学へ入学したと仮定しての進学年次である。明治6年末の入学だったとすると一〇年の進学ということになるが、それでは東京移住の年とかさなってしまい、千代田学校へほとんど通わなかったことになり、岩三郎の回想と矛盾する。なお大島清氏は、江東学校へ進学したのは長崎屋が火事で焼け、小網町へ移ったからだと述べておられる(『高野岩三郎伝』岩波書店、一九六八年、五ページ)。この通りだとすると高等小学まで千代田学校で学んでいたことになるが、千代田学校には高等小学の課程はなかった。

*3 なお高野岩三郎は、後年、江東小学校の校友会長をつとめている。江東校友会の実務を担当していた佐竹建造氏からの手紙、はがき各一通が残されており、はがきには次の一節がある。

 江東校友会は当日遺族よりのお招きにより小生僭越ながら校友会を代表して列席いたしました。而して先生の御名によりまして弔詞を霊前へ呈しました。弔詞の全文は次の如くであります。
   弔詞
江東校友会は会員糸永新太郎君の遠逝を悼み恭しく哀悼の意を表します。
                 会長  御名

 ちなみに作家の斎藤緑雨、芥川龍之介も江東学校の生徒であった。緑雨は土屋学校からの転校で卒業前に東京府立一中へ進学しているが、龍之介は明治三〇(一八九七)年に江東学校付属幼稚園に入り、翌年江東小学校へ入学、三八(一九〇五)年に高等科二年を修了し東京府立第三中学へ入学するまで八年間この学校で学んでいる。そのこともあって、芥川の作品にはしばしば回向院や隅田川(大川)が出てくる。
 たとえば、「追憶」の二十三では回向院の境内での見せ物について、つぎのように述べている。

 僕は当時回向院の境内にいろいろの見世物を見たものである。風船乗り、大蛇、鬼の首、何とかいう西洋人が非常に高い竿の上からとんぼを切って落ちて見せるもの、──数えたてていれば際限はない。しかし一番面白かったのはダアク一座の操り人形である。その中でも又面白かったのは道化た西洋の無頼漢が二人、化けもの屋敷に泊まる場面である。彼らの一人は相手の名をいつもカリフラと称していた。僕は未だに花キャベツを食う度に必ずこの「カリフラ」を思い出すのである。

 また「或精神的風景画」という副題をもつ「大導寺信輔の半生」の冒頭は、回向院の近辺をつぎのように描いている。

 大導寺信輔の生まれたのは本所の回向院の近所だった。彼の記憶に残っているものに美しい町は一つもなかった。美しい家も一つもなかった。殊に彼の家のまわりは穴蔵大工だの駄菓子屋だの古道具屋だのばかりだった。それ等の家々に面した道も泥濘の絶えたことは一度もなかった。おまけに又その道の突き当たりはお竹倉の大溝だった。南京藻の浮かんだ大溝はいつも悪臭を放っていた。
 彼は勿論こう言う町々に憂鬱を感ぜずにはいられなかった。しかし又、本所以外の町々は更に彼には不快だった。しもた屋の多い山の手を始め小綺麗な商店の軒を並べた、江戸伝来の下町も何か彼を圧迫した。彼は本郷や日本橋よりも寧ろ寂しい本所を、──回向院を、駒止め橋を、横網を、割り下水を榛の木馬場を、お竹倉の大溝を愛した。

 なお、芥川龍之介関係の文献では江東小学校に「えひがし」とルビをふっているものが多い。だが注1でふれたように江東(こうとう)小学校がが江東(えひがし)尋常小学校へと呼称を変えたのは一九一四(大正三)年三月のことである。芥川龍之介が同校の付属幼稚園に入った一八九七(明治三〇)年はもちろん、高等科二年を修了した一九〇五(明治三八)年でも江東(こうとう)小学校であった。

*4 『本所区史』(本所区編集発行、一九三一年)一四〇ページ。

*5 内田魯庵「明治十年前後の小学校」(野村喬編『内田魯庵全集』第三巻、一九八三年、ゆまに書房、一一〇ページ)。

*6 ただし、私が『明治日本労働通信』の解説として書いた「高野房太郎小伝」で卒業月を三月としたのは誤りで、十一月か十二月だった可能性が高いと思われる。
 当時の卒業月が一定でなく、学校によって異なっていたことは、次のような事例からも明らかである。たとえば、北村透谷は房太郎とほとんど同時期に生まれている。より正確にいえば一週間早い明治元年十一月十六日の誕生だったが、彼が数寄屋橋の泰明小学高等科を卒業したのは明治一五(一八八二)年一月二三日であった(「北村透谷年譜」日本近代文学大系第九巻『北村透谷・徳富蘆花集』角川書店、一九七二年)。また、京橋区の城東小学校で第一回(明治一三年)と第二回(明治一四年)の卒業生は、ともに十一月に卒業している。なお人数は第一回が男二、女三の計五人、第二回は男三、女二の計五人であった(『城東尋常小学校要覧』、一九三五年九月、創立六十周年記念誌)。

*7 斉藤利彦『試験と競争の学校史』(平凡社、一九九五年)一一六 〜一一七ページ。

*8 前掲書、第三章「試験制度の実際」七五 〜 一〇九ページ。

*9 仲新監修『学校の歴史 第二巻 小学校の歴史』(第一法規出版株式会社、一九七九年、七三ページ)。なお、国立教育研究所編集発行『日本近代教育百年史』第三巻(一九七四年)五三九ページも参照。



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