二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(一七)

社会人一年生──横浜時代



横浜商法学校の仮校舎となった横浜町会所

草創期のY校

 房太郎が働きながら通った商業学校の正式名称は横浜商法学校でした。「商法学校」といっても法律学校ではなく「武士の商法」の商法、つまり「商いの仕方についての学校」です。これが後年Y校として知られた横浜商業学校、現在の横浜市立横浜商業高等学校の幼名でした。房太郎が横浜へ移った直後の一八八二(明治一五)年三月二〇日に開校式をあげています。もっとも校舎はまだ未完成で、あの時計台のある本町一丁目五番地の横浜町会所で開校式をあげ、そこを仮教室として授業が始まりました*1小野光景
 商法学校の創設を決め、資金を出したのは横浜の貿易商たちでした。彼らは外国商館に有利な貿易慣行を変えようとさまざまな努力を重ねていました。そのためには英語ができ外国人と対等の立場で国際的な商取り引きをおこなえる人材の育成にあると考えたのです。

 学校創設の中心となって動いたのは小野光景(おの・みつかげ)三十七歳でした。本書第三回で亀右衛門・弥三郎兄弟について紹介したときにふれた『横浜町会所日記』の筆者小野兵助の長男です。戸長、横浜第一大区区会議長、横浜商法会議所初代副頭取などの公務を担うと同時に、横浜正金銀行の支配人などをつとめていました。明治十六年には小野商店を創設して生糸売り込み業にも参入しています*2
 彼は丸善の早矢仕有的(はやし・ゆうてき)の紹介で、福沢諭吉に学校運営に相応しい人物の推薦を求めました。その請いを入れ、福沢が選んだのが三十三歳の美沢進(みさわ・すすむ)でした。美沢進は岡山県の出身、漢学を阪谷朗廬(さかたに・ろうろ)*3に学んだ後、一八七二(明治五)年八月から七年一二月まで箕作秋坪(みつくり・しゅうへい)*4に英学を学び、さらに八年一月に慶應義塾へ入学し、三年余で全科を修学し、一一年四月に卒業しました。卒業の翌月から諭吉の推薦で三菱商業学校教授となりますが、教育上の主義主張で他の人びととあわず職を辞したばかりでした。新設の横浜商法学校の校長となった美沢は、これ以降関東大震災直後に死去するまでの四十二年間をY校ひとすじに生き、「校祖」と呼ばれることになります*5
 創立当時の教員は美沢をふくめて五人、一方入学した本科の生徒はわずかに四人でした。昼間、しかも卒業まで五年間もかかる本科に学ぶだけの条件をもった若者はまだ多くはなかったのです。そこで急遽三月二五日に夜学で修業年数二年の速成科が開設され、これには十四人の生徒が入学しました。その顔ぶれは分かっていませんが、おそらく高野房太郎はその一人だったでしょう。創立当時の状況を初期の本科生だった中村房次郎はつぎのように回想しています*6

「商法学校が出来ると云ふので入学試験を受けに行きました。英語と漢学と云ふやうな受験科目だと記憶しています。何しろ入学者がたった四人だったのには驚きました。校長の美澤先生、英語の永井久太郎先生、アリスマチック、つまり英語で算術を教える波多野重太郎先生、須田先生、それに漢学の先生の五人ゐました。それに小使が一人で学校の方は六人、生徒の方は四人でした。弁当をもって行きました。休み時間に廊下で鬼ごっこなどをして騒いで叱られたものです。永井久太郎先生は黄八丈の着流しで教壇に立ち、美澤先生はその時分から洋服を着て居られ《セルフヘルプ》と云ふやうなものを教はったやうに記憶してゐます。」

 この回想からもうかがえるように、横浜商法学校は〈美沢塾〉といってよいほど小規模で、校長美沢進の個人的影響力の強い学校でした。美沢の十八番はスマイルズ《セルフヘルプ》で、これを原書で朗読した上でその内容を論じています。明治初年のベストセラー・中村正直訳《西国立志編》の原著書の《セルフヘルプ》です。この講義は、その英語の発音が破格であることと身振り手振りを交えた熱弁で、長くY校の名物でした。なにしろ美沢が最初に英語を習った箕作秋坪はもともと蘭学者でしたから、その英学は読解を目的とした「変則英語」で、understandingをオンドルスタンデング、 serviceをセルバイスなどと発音するものだったのです。
 明治二〇年代のはじめに第四期生として美沢の話を聞いた烏水・小島久太は、そのセルフヘルプ講義をつぎのように回想しています*7

「美沢先生の同書の講述は、さながら過去の時代を、明治に引き戻し、西洋人を日本人として、眼前に彷彿させてゐるようで、日本人よ自立せよ、創造せよと、先生を通じて、私たちは刺激を受けていた。これこそ、私たちにとっては、当代の新道徳経であった。正直のところ、私は、後に多くの碩学から深遠なる学理を聴講したことはあっても、美沢先生の〈自助論〉の講義のごとく、若々しい生命を授けられたことはなかった。今でも頭に残っている名講義だ。」

 「日本人よ自立せよ」というのは創立者であり、学校財政を支えた貿易商たちと共通する考えでした。小野光景らが求めていたのは外国と対等にわたりあえる人材でした。もちろんこうしたナショナリズムはただ貿易商だけのものではなく、当時の日本人全体をとらえていた意識でした。
 それを象徴する事件が商法学校創立直前におきています。一八八一(明治一四)年の「連合生糸荷預所事件」です。そのころ生糸を輸出するには、まず仮契約をして荷物を外国商館に引き渡しました。その上で、外国商館側が計量や品質検査をおこない、その費用は日本側に負担させたのです。このように仮契約の段階で荷物を渡してしまっている上に、計量や検査も外国に主導権を握られていたのです。外国商館側はこの慣行を悪用し、契約途中で価格を引き下げたり、ときには契約を一方的に破棄さえしました。このような貿易慣行をあらため、生糸取り引きの主導権を日本側で確保することをめざしたのが「連合生糸荷預所事件」でした。横浜の生糸売込商が共同で倉庫を備えた「連合生糸荷預所」を設立し、計量・検査はここで実施し、取引は見本糸でおこなうとしたのです。

 もうひとつ、日本人の間におけるナショナリズムの広がりを明瞭に示した事件があります。一八八六(明治一九)年におきた「ノルマントン号事件」です。どの日本史教科書にも記述されている事件ですが、その重要性はかならずしも充分理解されていないように思われます。しかし、当時は日本中がこの問題で沸き立ったといってよいほどの大事件でした。同年一〇月二四日、横浜居留地三六番アダムソンベル会社所有の英国船籍のノルマントン号が和歌山沖で座礁沈没し、多数の犠牲者が出たのです。問題は船長はじめ英国人乗組員二六人は全員がボートで脱出して助かったのに、日本人乗客二三人全員、それにインド人水夫らが犠牲になったことでした。しかも船長は神戸のイギリス領事による裁判でいったん無罪とされたのです。この時、横浜で創刊された『毎日新聞』はじめ、朝野・時事・報知・日報の五新聞社は連名で犠牲者救済のキャンペーンを展開すると同時に、船長の責任を追及しました。各地の民衆はこれに熱狂的に応えますが、横浜市民はとりわけ熱心でした。日常的に外国人と接しており、汽船とかかわる業務に携わっている人びとが多かったからでしょう。横浜商法学校の富田源太郎らも、事件の真相をイギリスの新聞に広告することを目的とする募金運動をおこしています。
 横浜商法学校の教育の背景にもこのナショナリズムがあったのです。小島烏水はこれについてつぎのように証言しています*8

「時代には時代の理想がある。横浜商法学校が幼稚の学校であったにしても、時代の理想からは、自然の影響を受ける。統率者なる美沢先生も、叙情詩を持つ。それはなんであったか、横浜の貿易は生糸を初めすべて外国商館によらなければ、輸出ができなかった(ただ一個の同伸会社だけが生糸の直輸出をしているというので、私たちの目には社長高木さんが英雄に見えた)。日本人自身の直輸出、これが望ましい。また日本の汽船でも外国航路の船長は、すべて外人であった。日本人の船長では乗客がないとまで危ぶまれた。更に大きな問題として、東洋の諸国が、西洋の列強に、攻略せられ、奴隷にせられ、わが祖国の独立とても、心配された時代でもあった。日本は伸びなければならない。頭上の重圧力を、はね返さなければならない。独立自尊は福沢諭吉先生の標語であって、その使徒の忠実なる第一人者、かつ古武士の気象をたぶんに持ち合わせた美沢先生の、身に代えても抱持する主張であった。」

 このように美沢が強調したのは、彼の師である福沢諭吉が強調した「独立自尊」の精神でした。美沢塾ともいうべき商法学校がモデルにしたのは彼が学んだ慶應義塾だったのです。つまり高野房太郎らは「諭吉の孫弟子」でした。房太郎は生涯を通じて経済学に強い関心をいだき、日本経済の発展を重視ししましたが、その経済学の基礎を学んだのはまさにここ横浜商法学校においてでした。

 横浜商法学校で、もうひとつ注目されるのは英語教育の重視でした。専門の英語以外にもセルフヘルプが原書で講義され、数学までもが英語の教科書(ビジネス・アリスメティック=商業算術)を使って教えられていたのです。房太郎は英語に抜群の力量を示しましたが、その基礎もこの学校で養われたのでした。私塾的な学校とはいえ、横浜商法学校の英語教育の水準はかなり高かったと推測されます。それを端的に示しているのは本科の第一期卒業生富田源太郎です。彼は岩三郎が「兄の相棒」として最初にあげている人物ですが、在学中の一八八五(明治一八)年に『米国行独案内・一名桑港事情』と『英和商売用会話』の二冊の本を刊行しているのです。どちらも十七、八歳の少年がまとめたとは思えない充実した内容です。これらの本のことなど富田については次回で詳しくふれますので、今回はここまで。


【注】

*1 Y校百年史編集委員会編『Y校百年史』(一九八二年、横浜市立商業高等学校内Y校百年史編集委員会刊行) 二九〜三一ページ。

*2 小野光景(一八四五〜一九一九)については、堀勇良「港都のグランド・デザイナー 小野光景」(前掲『横浜商人とその時代』参照。

*3 阪谷朗廬(一八二一〜一八八一)は美沢と同じ備前川上郡の出身で幕末・明治期の著名な儒学者。その子芳郎は福沢諭吉の女婿で長く大蔵官僚をつとめ、第一次西園寺内閣の大蔵大臣。

*4 箕作秋坪(一八二六〜一八八六)は作州津山の出身の蘭学者。一八六二年幕府の遣欧使節に福沢諭吉らとともに翻訳方として随行した。菊池大麓ら学者を輩出した家系で知られている。

*5「校祖美澤進先生履歴書」(『Y校百年史』同上)五六六〜五六八ページ。なお美沢の夫人は後の慶應義塾大学総長小泉信三の従姉であり、美沢夫妻は信三の結婚の媒酌人であった。小泉信三「美沢先生を偲ぶ」(『Y校八十周年記念誌』所収)は美沢の人柄を良く伝えている。

*6『Y校百年史』(同上)四〇ページ。なお同書は中村房次郎を「Y校創成期の第一期生」としている。中村の回想も「商法学校が出来ると云ふので入学試験を受けに行きました。〔中略〕何しろ入学者がたった四人だったのには驚きました」と書いており、本科第一期生は四人とする事実と合致する。しかし彼は明治四年の生まれで、商法学校が設立された時には満十一歳前後で学齢を十三歳とする規則(『日本近代教育百年史』九)と合致しない。しかし草創期ではこうしたことも充分あり得たであろう。
 ちなみに、中村が同校を卒業してはいないことは、Y校の同窓会・社団法人進交会の昭和一四年度総会の記録につぎのように記されていることから明らかである。第一期の卒業生は三人であり、他の生徒より三歳も年の若かった中村がついていけなかった可能性は高い。

「食後のテーブルスピーチは理事長中村房次郎氏によってはじめられた。中村氏は例の謙譲な態度で当時の思ひ出を語らる。実を申すと私は学校を卒業しては居りませぬ。中途退学です」(『進交会会誌』第三四号、昭和一四年三月二〇日)


*7 小島烏水「生い立ちの記──Y校在学時代から『日本山水論』を出すまで」(小島烏水『アルピニストの手記』平凡社ライブラリー、一九九六年)二八〇ページ。

*8 小島烏水前掲稿(小島烏水『アルピニストの手記』平凡社ライブラリー、一九九六年)二七九ページ。




『高野房太郎とその時代』既刊分目次  続き(一八)富田源太郎のこと

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