伯父・弥三郎の死
キワの結婚は、彼女だけでなく高野家の人びとの日常にも大きな変化をもたらしました。なにより家業の旅館・長崎屋は、中心的な働き手でしかも評判の看板娘を失ったことで大打撃を受けました。そうでなくてもこの頃、長崎屋は不景気の影響で年々泊まり客が減り続けていたのです*1。それもあってのことでしょう、キワが嫁いでわずか三ヵ月後の一八八六(明治一九)年一月、マスは長崎屋の廃業を決意し、翌二月六日付でこれを役所に届け出ています。浪花町の家屋と土蔵は五七〇円でひとに譲りました*2。
同年二月九日、高野一家は全員の戸籍を日本橋区浪花町から横浜市住吉町六丁目八〇の伯父高野弥三郎方に移しています*3。一家をあげて横浜へ移住した形です。もっとも岩三郎はまだ共立学校へ通学中でしたから、おそらく東京に残ったのではないでしょうか。
マスが旅人宿の廃業と横浜移住を決意したのは、長崎屋の経営困難というだけでなく、弥三郎の希望に応える意味もあったものと思われます。ちょうどその頃、弥三郎の糸屋は境町から横浜ステーション傍の住吉町に移転し、駅前旅館として経営規模を拡大したばかりでした。岩三郎は彼の伯母、つまり弥三郎の妻について「鋭い人でもな」かった*4と述べています。おそらく旅館の女将としてはやや力不足なところがあり、そこで弥三郎はマスの力を借りることを思いついたのではないでしょうか。なにしろ彼女は、短期間で長崎屋を東京一の旅館にした実績をもつ女将でしたから。キワの婚礼の話と同時に長崎屋の将来が問題となり、そこで長崎屋廃業とマスの横浜移住が決まったに違いありません。
ところが、なんと長崎屋の廃業から三ヵ月もたたない四月二二日、晴天の霹靂ともいうべき事態がおきました。房太郎一家が杖とも柱とも頼んできた弥三郎が急死してしまったのです*5。確かなことは分かりませんが、死因はコレラだった可能性があります。この年の春から夏にかけて横浜ではコレラが流行し、講学会も一時会合をとりやめていたほどでした*6。海外からの客や帰国者も泊まる回漕業兼旅館業は、コレラ感染の危険性が高い職場でした。
高野弥三郎は房太郎とその家族にとって「かけがえのない人」でした。父仙吉が長年の家業を廃業して長崎を離れる決断をしたのは、弥三郎の勧めがあったからでした。長崎屋が短期間で東京一の旅館となったのも弥三郎の援助があったからです。さらに仙吉が死んだ後、弥三郎は高野家にとって文字どおり「父親代わり」となっています。長崎屋が「松枝町大火」で全焼してしまった時、彼はマスを励まし援助して、浪花町で旅人宿を再開させたのでした。高等小学校を卒業した房太郎を手許にひきとり一人前になるよう育てていたのも弥三郎であり、キワの結婚を機にマスを横浜に呼び寄せたのも、また弥三郎だったのです。
その頼みの伯父がいなくなったことで、糸屋におけるマスや房太郎の立場は微妙なものとなりました。糸屋には仙太郎という跡取りがおり、その母もいました。仙太郎の年齢は分かっていませんが、弥三郎の歳から考えると房太郎よりは年上だったでしょう。どのようなやりとりがあったのか分かりませんが、マスはふたたび東京に戻り、岩三郎といっしょに生活を始めました。大きな家を借り、学生下宿を始めたものと推測されます。旅人宿時代から長崎屋は学生を泊めていましたが、こんどは学生下宿専業になったのです*7。
もちろんこの時マスは長崎屋の再建も考えたに違いありません。房太郎はすでに糸屋で五年の修業をつんだ立派な大人でした。ただ、浪花町の家を処分してしまった後ですし、わずか五七〇円の売却代金では、とても長崎屋の再興資金に足りないことは明らかでした。マスは学生下宿で暮らしをたてるとしても、房太郎の身の振り方を決めねばなりませんでした。この時、房太郎は思い切ってかねてからの願いであった渡米の決意を母に語り、その同意を得たのでした。
問題は渡航費用でした。船賃は最低の三等でも五〇ドルしました。一八八六年六月現在の為替レートは四〇ドルが五〇円前後でしたから、五〇ドルは日本円で六二〜六三円ということになります。それに「洋行」ともなれば、船賃だけでは済まず、旅支度、渡米後の当座の生活費など、かなりまとまった金が必要でした。その頃アメリカへ渡航するのに、いったいどのくらい費用がかかったのでしょうか? この問いに答えてくれる最適な本があります。房太郎が出発した時、つまり明治一九年一二月に刊行された『来たれ日本人──別名桑港旅案内』*8です。この本は、明治版『地球の歩き方』サンフランシスコ編ともいうべきもので、旅行に必要な品々についても具体的に列記し、その価格まで記しています。そこには洋服二着、靴一足、シャツとズボン下各三枚、帽子、カラーとカフ、ハンカチーフ各一ダース、筆記用具、カバン、毛布大判一枚などなどが挙げられており、総額八四円〇三銭と細かい数字を記しています。このほか当然のことながら辞書は必携、さらに到着後の小遣いとして三〇〜四〇ドルは必要であると指摘し、どんなに切りつめても「渡航費用」総額は一五〇円になると結論しています。おそらく房太郎も渡航費用として二〇〇円前後は準備したものと思われます。もちろん房太郎自身も渡米に備えて貯金はしていたでしょう。しかし住み込み店員の給料で渡米旅費をまかなうにたりる蓄えなど出来る筈もありません。おそらく多くて数十円前後、残りは浪花町の家を処分した代金五七〇円のなかから出してもらったものに違いありません。
一口に二〇〇円といっても、今では大福やまんじゅう一、二個くらいしか買えない金額ですから、一九世紀末にそれがどれほどの値打ちだったかなかなか実感できませんが、一一〇余年前では、庶民にはとても手の届かぬ大金でした。なにしろ大福や饅頭なら一個五厘つまり一円で二〇〇個も買えた時代です。かけそば一銭、鰻重でも二〇銭で食べられたのです。二〇〇円あれば一家四人が一年近く暮らせました。今の貨幣価値に直せばどんなに少なく見積もっても五〇〇万円から六〇〇万円にはなると思います。なにしろ家一軒を売った代金の三分の一以上なのですから。
それからしばらくたった同年一一月二五日、房太郎は旅券を取得しました。冒頭にその写真を掲げましたが、その右半分には日本語で次のように記されています。左半分は右側と同じ趣旨のことが中国語、ロシア語、英語、フランス語、ドイツ語の各国語で記されているだけです。*9
第三一〇二号
東京府平民 高野房太郎
十八年
右ハ商業研究之為米国桑港ヘ
赴クニ付通路故障ナク旅行セシメ且必要ノ保護
扶助ヲ与ヘラレン事ヲ其筋ノ諸官ニ希望ス
明治十九年十一月二十五日
日本皇帝陛下外務大臣従二位勲一等伯井上馨
所持人 高野房太郎
この旅券に記されているように、彼の渡米の目的は「商業研究のため」でした。研究といっても、学校で会計学や簿記等の勉強を意図していたわけではありません。その後の房太郎の行動から考えると、日本の物産をアメリカで販売するための「市場調査」的なことを考えていたようです。それと同時に、英語を身につけることも彼の大きな目標でした。
この頃アメリカを目指した若者の目的はさまざまでしたが、あえて分ければ二つのタイプがありました。ひとつは勉学を目的とするもので、ひたすら高等教育を受けることを目指す留学生です。一般的に言ってこれは経済的に余裕がある者でなければ困難な道でした。ただしアメリカはヨーロッパと違って、貧しい若者でも才能があり貧苦に耐えて努力すれば高等教育を受けるチャンスが皆無ではありませんでした。片山潜や星一のように、苦学して大学を終えた者もいたのです。*10もうひとつのタイプは文字どおりの〈外国人労働者〉で、短期間に効率よく金を稼ぐことを目標にアメリカへ出稼ぎに行った人びとです。
房太郎の場合はそのどちらでもありませんでした。生活の実態からみれば〈外国人労働者〉的な生活を送ったといえますが、同時に英語や経済学の学習にも力を入れています。大学をめざしての学校教育には目もくれませんでしたが、使える英語を習得するために個人教授を受けたり、サンフランシスコ商業学校の別科に学んだりしています。
房太郎がこうした独特のコースを選んだのは、彼には母や弟への仕送りの義務があり、正規の学校教育を受ける経済的余裕も、時間的余裕もなかったからでしょう。また母をはじめ周囲は彼に長崎屋の再興を期待し、彼自身もその期待にこたえることを当然のことと考えていたからでしょう。その一方で、横浜時代に身につけた学問への志向も強烈なものがあったのでした。
同時に見逃せないのは、同攻会横浜支会の講演会で聴いた高田早苗の「洋行論」の影響です。高田の主張のポイントは「洋行を企つる者は、すべからく観察を主とすべし、研磨を主とすべし、講学を主とすべからず」というものでした。「講学」というのは聞き慣れない言葉ですが、正規の学校教育を指しています。つまり、欧米の学校は神学やラテン語など「吾人東洋未開の民、実益実利に汲々とする者にとっては、左まで効能なきもの」が必修となっている。そうした学問に時間と金を費やすのはムダで、それより「先輩の講義と自家の独習によりて以て学問を研ぐべし」と説いているのです。高田はまた「学位の如きは、之を得ざるももとより可なり」と主張しています。この主張は高田早苗の「見識」を示したものというべきですが、世俗的な出世という点で考えると、このアドバイスは裏目に出た面がなくはありません。
房太郎はこの高田の教えにきわめて忠実で、しかもそれ相応の成果をあげています。彼はアメリカ社会を注意深く「観察」し、「研磨」につとめました。当時の日本人としては抜群の英語力を身につけただけでなく、自己の見聞を通じて労働組合の意義を発見し、これを故国の人びとに紹介したのでした。しかし彼が得た学歴は、サンフランシスコ市立商業学校別科の卒業証書一枚だけでした。ところが、彼が一〇年後に帰国した時の日本は、すでに学歴社会に一歩も二歩も足を踏み入れていたのです。もし彼がアメリカで正規の高等教育を受け学者の道を選んでいたなら、世俗的には、彼の生涯はずっと恵まれたものになっていた可能性は高いと思われます。
出航を二日後にひかえた一八八六(明治一九)年一一月三〇日、友人たち数十人が野毛山の〈西洋亭〉に集まり、房太郎の渡米を祝い励ます送別会を開いてくれました。この席には同攻会横浜支会の会員だけでなく、振商会の富田源太郎も出席して挨拶しています*11。
【注】
*1 明治一五年の宿泊客数は延べ二六二三人であったが、明治一七年には一一七三人、明治一八年は一〇五一人となっている(『要用簿』)。また「明治十八年十二月御備誂控」はつぎのように記している。「〔前略〕本年モ昨年ニ続イテノ不景気 昨年ハ〔お供え餅は〕三斗ナレ共亦々倹約サシ二斗五升ツクコト」(『要用簿』)
*2『要用簿』に明治一九年一月二〇日付けの「建物売渡証」の控えがある。これによれば日本橋浪花町八番地・九番地所在の家屋一棟、土蔵一棟総体を五七〇円で清水たきに売り渡している。土地は借地であった。
*3「送籍御届」(『要用簿』)。
*4 高野岩三郎「兄高野房太郎を語る」(『明日』)。
*5『東京横浜毎日新聞』四月二四日、同二五日の四面に、以下のような会葬御礼の六行広告が出ている。
亡父彌三郎葬送ノ節御会葬被下難有奉存候
就テハ混雑ノ際御尊名伺洩レモ可有之乍大
略新聞紙上ヲ以奉拝謝候
横浜住吉町六丁目
明治十九年
四月廿四日 高野 仙太郎
なお、死去した日が四月二二日であることは、井山憲太郎の書簡下書きに「本月廿二日叔父も死去」とあることによる。高野家の過去帳には高善院泰安慈性居士行年四九歳とある〔大島清氏宛、原田美代氏書簡〕。
*6『中央学術雑誌』第三八号(明治一九年一〇月一〇日)につぎのような記事がある。
「 横浜支会
横浜なる本会支部にては悪疫流行のため久々会合を休みたる処漸々虎病も勢力を減じたるを以て去る九月十九日会員会集し支那人雑居の利害及貧生米国行の利害等の問題にて討論を開き論弁数刻頗る盛会なりし趣支会理事員三堀為吉君より報道ありたり。」
*7 マスがおそらく学生下宿で生計をたてていたであろうことは、過去の経歴と、その後の住所が東京大学や一高に近い本郷区東片町、あるいは本郷区駒込千駄木林町などであったこと、さらに大内兵衞の回想「社会政策学会と高野先生」(鈴木鴻一郎編『かっぱの屁』二七ページ)のつぎの一節から推測したものである。
「T君は、私より一年前の卒業生で、私は顔見知りではありましたが友人ではありませんでした。T君は長崎市の相当の商家の出身でありました関係からでしょうか、高野先生の家に寄寓しておるということでありました。高野先生のご両親は長崎出身であって、特にお母様が、たいへんな女丈夫で学生の世話をお好きであったからと存じます。」
*8 米国桑港寓周遊散人原著・東京石田隈治郎編輯『来たれ日本人──別名桑港旅案内』(東京開新堂、明治一九年一二月刊)。船賃は四一ページ、為替レートは五六〜五七ページ。なお、ここでは『日系移民資料集』北米編、第五巻〈渡米案内〉(一)(日本図書センター、一九九一年一二月刊)によった。
*9 旅券は本来返還しなければならないものであったが、房太郎は紛失届を出して、これを手元にとどめていた。その現物は、高野岩三郎が大事に保管していたが、現在は法政大学大原社会問題研究所が所蔵している。
*10 片山潜については数多くの研究が自伝も各種出ているが、さしあたり隅谷三喜男『片山潜』(東京大学出版会、一九六〇年)を参照されたい。また星一については大山恵佐『努力と信念の世界人 星一評伝』(一九四九年、共和書房刊、同復刻版一九九七年、大空社刊)、または星新一『明治・父・アメリカ』(一九八四年、筑摩書房刊)参照。
*11 『中央学術雑誌』第四二号(明治一九年一二月一〇日)は「洋行」と題する記事で房太郎をふくむ三人の会員のアメリカ行きを次のように報じている。
本会々員にして嘗て本紙にも尽力せられたる東京専門学校政治部及英学部得業生園田猛熊氏は今度研学の為め北米合衆国に洋行せらるる由にて、同氏同窓の知友は近々氏の為に送別会を開く由なり。
又横浜なる本会支会の会員今西兼治氏は、横浜正金銀行より桑港出張の命を受け、本月廿四日ゲーリック号に乗込まれたり。
横浜支会発起者の一人にて、殊に同会に尽力されたる高野房太郎氏〔強調引用者〕も亦、今度商業研究の為め米国へ赴るヽに付き、同会員は去る〔十一月〕三十日野毛山西洋亭に於て送別会を開きたるが、相会する者数十名、富田源太郎、三堀為吉、河合順太郎等諸氏の席上演説あり、又高野氏の答詞もありて中々の会盛〔ママ〕なりし由。但し同会員は前陳今西氏の為にも東楼に於て離別会を開きたりと。