二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(二五)

スクールボーイ



1870年代末のオークランドにおける中国人の家事使用人の写真。白いエプロン、白い上着は男の家事使用人の制服ともいうべきものだった。房太郎もおそらくこうした服を着ていたであろう。from Oakland's Image

 房太郎が最初に見つけた仕事は〈スクールボーイ〉でした。〈スクールボーイ〉と言っても「男生徒」という意味ではありません。サンフランシスコ周辺で使われていた独特の言葉で、通学時間を保障することを条件に家事の手伝いをさせる、いわばオペア(au pair)の男性版でした。当時の日本語ガイドブックでは、これを〈学校小僧〉と訳していますが、むしろ在米日本人の間で、軽蔑的、あるいは自嘲的に使われていた〈下女書生〉の方が実感がこもっていますし、より実態を示していると思われます。

 〈スクールボーイ〉は、人件費の高いカリフォルニアでは、安上がりな家事使用人として根強い需要がありました。もともとは、中国人がほとんど独占していた職業分野ですが、一八八〇年代に中国人排斥運動が盛んになったため、日本人がしだいにとって代わりつつあったのです。若いといっても二十歳前後の青年を「ボーイ」と呼ぶのは不自然な気がしますが、おそらくインドや中国で家事使用人をボーイと呼んだことからきたものでしょう。いずれにせよ、小柄で、言葉もたどたどしいアジア人は、少年にしか見えなかったに違いありません。

 房太郎がスクールボーイになったことは、岩三郎が「兄高野房太郎を語る」のなかで次のように述べていることから明らかです。

 「兄はアメリカへ行って、いい商売をさがしたが、なかなかないので、誰もが手っ取り早く入るスクールボーイ(家庭労働の皿洗い)になった」*1

 スクールボーイの賃金は安く、ほかの仕事なら一日一ドルにはなるのに、一週で一〜二ドル程度でした。しかし、その分勤務時間は短く、学校に通う時間もあったのです。薄給ではあるものの、部屋と食事が与えられ、アメリカ人の家庭で英語を実地に習いながらアメリカ社会と文化について学ぶ意味もあり、短いながら勉強する時間も保障されていたので、アメリカに到着したばかりの若者向きの仕事でした。
 ただ、その仕事の内容は岩三郎が注記したような「皿洗い」だけではありません。ユウジ・イチオカ『一世』によれば、その仕事はつぎのようなものでした*219世紀のアメリカの台所

 家族の誰よりも早く起床し、火を起し、湯を沸かし、朝食用にテーブルをしつらえる。家庭によっては、コーヒーを沸かし、マッシュ(とうもろこしがゆ)を作る。朝食後のテーブルを片づけ、皿を洗う。その後、日中は学校に通う。午後三時か四時に帰宅し、夕食の準備を手伝い、もう一度テーブルをしつらえる。夕食後に片づける。その後は自由に勉学に専念できる。以上は平日の日課である。土曜日には、一日かけて家を掃除しなければならない。日曜日は休みである。

 つまり、「ウエイター兼台所の下働き兼掃除人」というところでしょう。慣れてしまえば、仕事自体はそれほど難しくはないと思うのですが、言葉の壁、それ以上に文化的な違いに阻まれて、われわれが今思うほど簡単な仕事ではなかったようです。主家の女主人をはじめ家の人びとや同僚のメイドやコックとの相性が良ければ問題は少ないのですが、そうでない場合は大変だったに違いありません。さまざまな失敗談が伝えられています。たとえば、詩人のヨネ・野口〔本名、野口米次郎(一八七四 - 一九四七)、彫刻家イサム・ノグチの父〕は、房太郎より六、七年後にアメリカに来ていますが、彼とその友人たちの在米体験をつぎのように伝えています*319世紀のアメリカの家庭で調理につかわれたレンジ

 アメリカの家庭との最初の出会いで、何という茶番を演じてしまったのだろう。ストーブでさえ不思議なものだった。友人の一人は天日〔天火=オーブン〕の中で焚き付けを燃やして、火を起こそうとした。別の友人はガス灯を吹き消してしまうところだった。床磨きをしようとして、靴はおろかズボンさえ脱ぎ始めて女主人をぎょっとさせた人もいる。実に奇想天外だと思われるだろうが、本当のことだ。当人にとってはごく自然のことだった。アメリカの服はとてつもない贅沢品と思っていたからだ。可哀想に、汚してしまうと心配したのだ。自分も、ノックもせずに、女主人の化粧室に飛び込んでしまった。

 スクールボーイの口は少なくないとはいえ、雇い主の気に入られなければ、すぐ解雇されました。房太郎の一〇年後に渡米した星一(ほし・はじめ)は勤め先を何遍もしくじり、〈追い出され星〉と呼ばれましたが、そのスクールボーイ体験をつぎのように語っています*4

 福音会には時々、スクール・ボーイを雇い入れ度いと思う主婦が来て入り口のベルを押す。ベッドにゴロゴロしていた連中は、バネがかヽった様に一斉に飛び起きて、玄関の廊下に並ぶ。すると主婦は一人一人品定めをして気に入った者を約束して連れて行くのであった。
 星は早速この選に入ってある家へ行って、命令されたとおりに二時間ばかり働くと、「お前は家では間に合はぬ、もうよい」といはれて、追い出されてしまった。星はその後、熱心にスクールボーイの口を探したが、どれもこれも数時間の試験で追い出されてしまった。何しろ上陸二、三週間で、言葉はわからない、習慣には全く通じないのだから実際役に立たないのも無理はなかった。
 こんなことがあった。ある家に行くと、すぐ主婦が窓を拭けといって、バケツと布を持って来てくれた。星は布に一杯石鹸をつけて、ガラスを拭いた。拭き終わると主婦に「窓は拭けたが次の用事は何か」と尋ねた。主婦が来て窓ガラスを見ると、ガラスは一面に石鹸が乾いて真っ白になっている。主婦はお前は良い子供だが、家では間に合わないといって、追い出されてしまった。ある時は庭の芝生に水を撒けというので撒いていると、そこの主婦が来て、後ろから星に話しかけた。星がホースの口をもって主婦の方をふり向いたら、主婦の頭から水をひっかけてしまって、そのままお払い箱になった。植木鉢を割ったり、主婦の化粧鏡をこわしたり、兎に角、こうして追い出されること二十五回に及んだ。

 もっともスクールボーイが長続きしなかったのは、雇い主がすぐ追い出したからだけではありません。雇われた側にとっても、スクールボーイはあくまでアメリカ生活に慣れるまでの〈腰掛け仕事〉に過ぎなかったからです。それと、明治の男どもは家事労働は本来〈下女の仕事〉だと思いこんでいましたから、大の男が女主人に命令されたり、メイドの指図で皿洗いや掃除洗濯をすることに屈辱感をおぼえる者が少なくなかったのでした*5




【注】


*1 高野岩三郎「兄高野房太郎を語る」『資料室報』一四五号(一九六八年一〇月)一七〜一八ページ。

*2 ユウジ・イチオカ著、富田虎男・粂井輝子・篠田左多江訳『一世──黎明期アメリカ移民の物語り』(刀水書房、一九九二年)、二七ページ。

*3 Yone Noguchi Some Stories of My Western Life ユウジ・イチオカ著、前掲書、二八ページより重引。

*4 大山恵佐『努力と信念の世界人 星一評伝』(一九四九年、共和書房)。この本は序文で「主として星翁の記憶を中心としている」と記されているように、口述筆記を基礎にまとめられたものである。なお星新一『明治・父・アメリカ』(一九七五年、筑摩書房)は、星の長男による伝記であるが、在米時代の記述は、ほぼ全面的に『努力と信念の世界人 星一評伝』によっている。

*5 こうした「明治男の偏見」を端的に示しているのは、尾崎咢堂の「在桑港下女書生」批判です。一八八八年に保安条例によって東京からの退去命令を受けた尾崎行雄は、アメリカに渡り、サンフランシスコを中心とするアメリカ西海岸における在留日本人の情況をきわめて批判的に日本の新聞に報じたのでした。

 「人は境遇に因て其思想も変化し、下女仕事を為せば其思想まで下女同様の程度に墜落する者と見え、日本人の多く寄宿し居る福音会などに行て其の談話する所を聞けば、徹頭徹尾雇い主の寛厳、食物の善悪等に過ぎず、恰も日本にて炊婢の井戸端会議を聞くに異ならずと云り。但し是は小生を訪問せる諸客の異口同音に小生に語れる所にて、小生は未だ福音会に至て変性女子を実見せざれば確言する能わざれど決して間違ひなかるべしと信ず。
 右の如く根性まで下女同様に成り下がりたる人々ゆえ、当地は働けば幾何にても金の取れる土地柄なるにも拘はらず之を儲蓄して修業する等の考は更になく、一日働ては二三日寝食ひをする様の考のみ為し居る様子なり、慨嘆の至りと云ふべし。」

 つまり尾崎は、彼を訪ねてきた男たちが、「福音会に寄宿している連中の話していることは、スクールボーイを雇っている人びとの評判や与えられる食事の善し悪しなどばかりで、下女の井戸端会議を聞いているようだ」と異口同音に言っていることを伝えているのです。おそらく尾崎を訪ねて来た連中は、サンフランシスコ周辺の〈政治青年〉たちだったに違いありません。彼らは、自身がアメリカに来た当座は福音会を利用しながら、そこに集うクリスチャンとは相容れないところがあったのでしょう(同志社大学人文科学研究所編『在米日本人社会の黎明期』三〇〜四五ページ参照)。





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