二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(三一)

焼け跡の街で

 房太郎のポイント・アリーナでの生活は、今回もあまり長くはありませんでした。前に紹介したアルバート・ブレイトンの手紙でわかるように、遅くとも一八八九(明治二二)年秋には、同じ太平洋岸ですが、ずっと北のカナダ国境に近いワシントン州のシアトル(Seattle, Washington)に移っているのです*1アメリカ太平洋岸、エンカルタ世界大百科地球儀から
 イチローや佐々木ダイマジンの活躍で有名なあのシアトルです。インターネットで本稿を読んでくださっている皆さまなら、マイクロソフトやアマゾン・ドット・コムの本社がここにあることをご存知の方も多いことでしょう。航空機製造のボーイング社や全世界にコーヒー店のチェーンを開いているスターバックもシアトルを本拠としています。いずれも、小さなベンチャーから世界のトップ企業へと急成長していることに、この都市のパイオニア的な性格がうかがえます。

 ただ、房太郎が降り立ったシアトルは、いたるところに黒焦げの材木がころがり、くすぶった煙の臭いがたちこめる、まるで戦場のような街でした。シアトル大火からまだ二、三ヵ月しかたっていなかったからです。雨の多いことで有名な地域ですが、梅雨の日本と違って、六月のアメリカ太平洋岸は乾期です。ずっと雨がなく、木造の町並みはからからに乾ききっていました。一八八九年六月六日午後二時四〇分、家具製造とペンキ販売を業とするジェームス・マクゴウフの地下の作業場で、ガソリン焜炉を使ってニカワを煮溶かしていた鍋が噴きこぼれ、瞬時に燃え広がってしまったのでした。火は一階、二階へと吹き上げ、またたく間に隣の酒屋にうつり、ウイスキー樽を爆発させ、出火からわずか二〇分でマディソン街からマリオン街にかけての一ブロックが猛火に包まれました。北北東の風が火の勢いを強めた上に、渇水で水道の水圧が低く、海からの取水も干潮のため出来なくなるなどの不運も重なり、シアトルが誇ったオペラハウスをはじめ、商業地区を中心にした25ブロック、一二〇エーカーが丸焼けになってしまったのです。一二〇エーカーなどと言われても実感がわきませんが、約五〇万平方メートル、幅を仮に五〇〇メートルとすれば、延長が一キロにもなります。甲子園球場のグランドなら三三面がとれる広さと言った方が分かりよいでしょうか。真っ昼間の火事で犠牲者が出なかったのは不幸中の幸いでしたが、一二時間あまりでシアトルのダウンタウンは跡形もなくなってしまったのでした*2

 しかし、火災がシアトル経済に打撃を与えたのは、ほんの一時のことでした。大火後、シアトルは木造だった家を煉瓦造りに変え、道路のレベルをあげ、水道の水圧をあげるなどの都市改造を実施し、短期間で立派な町並みを造り上げたのです。実はこの頃、アメリカ北太平洋岸は、まだどことなく西部劇の雰囲気が残る〈最後のフロンティア〉でした。とくにシアトルは、太平洋から深く入り込みながら水深が深いピュージェット湾という天然の良港に面し、無尽蔵といってよいほどの森林資源に恵まれ、さらに州内には炭坑もあり、木材・石炭の積み出し港として急成長していました。荷物の積み出し先はサンフランシスコをはじめとするアメリカ各地のほか、日本や中国などアジア・大洋州の各地に及んでいました。このため、一八八〇年にわずか三五五三人でしかなかったシアトルの人口は、大火の時には三万一〇〇〇人にふくれ上がっていました。火事は一時的に五〇〇〇人から仕事を奪いさりましたが、誰も長く失業してはいませんでした。災害復旧に多くの人手を必要としたからです。火事から一年後に実施された一八九〇年の国勢調査ではシアトルの人口は四万二八三七人を記録しています*3。一〇年間で一二倍、火事の前より一万二〇〇〇人近く増えたわけです。 1886年のシアトル反中国人暴動

 この時期にシアトルに集まって来たのは主として白人ですが、〈マイノリティ〉のなかで目立ったのは日本人でした。中国人排斥運動がこの地域でとりわけ激烈だったことが影響していると思われます。一九世紀後半、反中国人感情はアメリカ全土に広がっていました。中国人労働者が低賃金に甘んじて働くこと、弁髪のように外見だけですぐわかる独自の風俗を維持し、市内に分散せずチャイナタウンに集住するなど、他民族と同化しないことも問題にされたのです。
 それまで中国人労働者は、大陸横断鉄道の建設や中西部の鉱山など、労働環境がもっとも厳しい職場に投入され、アメリカ経済を最底辺で支えてきました。しかし、白人労働者にとって、中国人労働者は、賃金水準を押し下げ、その職を奪う競争相手と意識されたのです。東海岸よりも西海岸の各地で中国人排斥運動が展開されたのも、このためでした。サンフランシスコなどアメリカ西部の労働組合のなかには、経営者を相手にするより、中国人移民を排斥するために組織されたものが少なくありません。
 実は、この中国人排斥運動が熾烈をきわめたのはワシントン州でした。その象徴的な出来事のひとつに〈シアトル反中国人暴動〉があります。一八八六年二月六日、土曜の深夜、労働騎士団などブルーカラー層を主体とする白人がチャイナタウンに乗り込み、家々を回って中国人を強制的に港まで連行し、サンフランシスコ行きの船に積み込み、シアトルに留まろうとした中国人に暴行を加えるといった人種暴動がおき、連邦軍が出動する騒ぎになったのです*4。このように文字どおり力ずくで追い出された中国人のあとを埋める形で日本人が移住して来たのでした。反中国人暴動の翌年一八八七年には早くも二〇〇人の日本人がシアトルに集まり、その数は増加の一途をたどっていました*5。高野房太郎もその一人だったわけです。
 当然のことながら、日本人労働者の賃金水準もサンフランシスコ近辺よりかなり高額でした。アルバートの手紙に「君がいい仕事についたと聞いて喜んでいる。四五ドルは高給だ。ずっとその仕事を続けるべきだと思うよ。僕はいま一日一ドルの仕事をしているけれど」とあったことを思い出してください。おそらく、日本人仲間からの知らせで、この地域の繁栄ぶりを知った房太郎は、移住を決意したに違いありません。
 房太郎がシアトルで何をしていたのか詳しいことは分かっていませんが、どうやらレストランで働いていたようです。コックをしたことはないと自分で言っています*6し、皿洗いは英語が出来なくてもつとまる仕事ですから、おそらくウエーターだったのでしょう。
 しかし、房太郎はこのシアトルにも長くはいませんでした。年が明けてまもなく、同じワシントン州のタコマ(Tacoma, Washington)に移っています。なんとも腰の落ち着かない男ですが、次回はこのタコマでの生活についてお話しすることにしましょう。




【注】


*1 正確に言えば、房太郎がシアトルに着いた時は、まだワシントン州ではなく、自治権のないワシントン準州(Washington Territory)でした。ワシントン準州がアメリカ第42番目の州(State)に昇格したのは、高野房太郎がシアトルに到着して間もない一八八九年一一月一一日のことでした。

*2 大火の状況は、つぎの書物によった。
  Murray Morgan Skid Road: An Informal Portrait of Seattle, revised edition, 1960, The Viking Press, New York. 一〇七〜一一五ページ。

*3 一八八〇年と一八九〇年の国勢調査の数値は、Population Division, U.S. Bureau of the Census の Campbell Gibson "POPULATION OF THE 100 LARGEST CITIES AND OTHER URBAN PLACES IN THE UNITED STATES: 1790 TO 1990"付表一二による。また火災時のシアトルの人口は前掲のMorganによる(一一五ページ)。なお、Murray Morganは前掲書で、一八九〇年の人口を三万七〇〇〇人と記している。Morganが、この数値をどこから得たか明らかではない。ここでは公式の政府統計を採用しておこう。いずれにせよ、大火がシアトルの発展を妨げなかったことは明かである。ちなみに二〇〇〇年のセンサスでは、シアトルの人口は五六万三三七四人、全米二二位の大都市である。

*4 ワシントン大学のthe Center for the Study of the Pacific Northwestのサイトに掲載されている、同大学歴史学部、ジョン・フィンドレー教授の「ワシントン州および北西太平洋岸の歴史」のオンライン教材、その第一五講による。

*5一九〇〇年になるとシアトル市の日本人人口は三〇〇〇人に達し、同市最大の少数民族グループになっている。一八九五年には日本総領事館も設けられ、日本郵船がシアトル横浜航路を太平洋戦争開始前の一九四〇年では六九七五人と全米で二番目に日系人の多い都市であった。

*6 房太郎は、一八九〇年一〇月九日付けの岩三郎宛の手紙の中でつぎのように述べている

「小生等ガ致居候事業ノ内ニテ料理人ノ仕事ガ最モ多額ノ給料ヲ得ラレ候事ニテ小生ハ是迄モ料理人ノ仕事ハ大禁物ニ有之候ヒシガ、此度〈スクール・ボーイ〉ヲスルヲ幸ヒトシ幾分米料理ノ事ヲ勉強シ給料ノ多額ヲ得ル事ニ心掛ケベク候」

 なお、一八九一年七月にシアトルを視察した外務省の藤田書記生の視察報告書「シヤトル日本人一般の景況」は、つぎのように記している(『日本外交文書』第二四巻、四九一ページ)。これも房太郎が飲食店で働いていたことを推定する根拠のひとつである。

シャトル市に在留する本邦人は大凡二百五六十人にして、内日本雑貨店一軒、飲食店十軒、此人員四十余名にすぎす。余の二百余名は醜業者に非ざれは博徒若しくは無頼の徒にして、一定の職業を有せざるものなり。其十飲食店中醜業者之を営むあり、或は醜業者の資金を利用して営業するものありて、全数の過半を占め、目するに正業者を以てすべきものは僅々十余名に過さるべし。日本人飲食店の開店は三年以来の事にして、或は二三の者共同し、シャトル市大火の前後労働世界を目的に開業し、中には相応の利益を得しものありと云ふ。




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