高野房太郎とその時代 (32)4. アメリカ時代(10)タコマ・チョップハウス1890年春、房太郎はシアトルの南約80キロのタコマに移りました。日系人が〈タコマ富士〉と呼ぶ海抜4392メートルのレーニア山の雄大な姿を間近に眺望できる港町です。友人と共同でレストランを開業するためでした。タコマ移住の事実が分かるのは、『読売新聞』に掲載された「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」の前書きに「ワシントン州タコマにて」「四月三十日発」と記されているからです*1。 また、移住の目的がレストランの開業にあったことは、同年8月8日付けの岩三郎宛書簡で分かります。住所が「Tacoma Chophouse, 1122 Pacific Ave. Tacoma, Wash.」となっており、さらに手紙の最後に次のように記しているのです*2。 当所モ己ニ開業以来半月余ニ達シ、商業モ日々繁昌ニ赴キ居候。当時ハ百弗内外ノ日々入金ヲ有シ候。
少々古めかしい候文で、若い読者にはお分かりになり難いかもしれませんが、およその趣旨はつぎのとおりです。「半月あまり前(1890年7月中旬)、新たに商売を始め、しだいに繁盛しつつある。最近では毎日100ドル前後の売り上げがあるが、従業員10人への給料や、家賃200ドルの支払い、さらには開業当初で店の改修費などもかかっており、しばらく利益があがる見込みはない」。
「文中にある〈当所モ已ニ開業以来半月〉という〈商業〉が何であるか、氏自らがその経営に当たったものか、勤め先の商店のことか不明であるが、この当時までの房太郎氏の生活から推して、新開店した勤め先の商店をさしているものであろう」 しかし、この店がふつうの商店ではなくレストランであることは、住所の〈Tacoma Chophouse〉から明らかです。〈チョップハウス〉とは、ポーク・チョップ、ラム・チョップというように、肉や野菜を切る(chop)という言葉から来たもので、肉料理を主とするレストランです。似た名の店に「ステーキハウス」がありますが、メニューはチョップハウスとほとんど変わらないように思います。あえて言えば、ステーキハウスはビーフ・ステーキを売り物にし、チョップハウスは羊肉、豚肉料理を売り物にするといった違いがあるのでしょう。「ステーキ・アンド・チョップハウス」と称している店も少なくありません。
そのころタコマは、シアトルをしのぐ勢いで膨張をつづけていました。そのきっかけとなったのは、1873年にノーザン・パシフィック鉄道が、その終点をタコマに決めたことでした。製材業中心の小さな町にすぎなかったタコマが、オレゴン州のポートランドやシアトルなどとの競争に勝ち、大陸間横断鉄道の西のターミナルになったのです。とはいえ、1880年代初頭のタコマは、まだ人口わずか1000人前後の小都市でした。タコマが劇的な発展を開始するのは、1883年に鉄道が開通し、ノーザン・パシフック鉄道会社の本社がポートランドからここに移転してからでした。
ここは赤い町である。建物は石灰石と赤煉瓦で出来ており、屋根も赤く塗られている。いたるところにある木々の緑が、この赤をいっそう鮮やかなものにしている。町は岡の上にあり、眼下には青い海が広がり、背後にはうっそうと茂った緑の森が迫っている。陰鬱な原生林のなかにそびえ立つ赤い銃眼をめぐらした塔のような町、それがタコマである。青い空と青い海、木々の緑、赤い家、何処へ行っても塗り立てのペンキの臭いがし、製材のおが屑からでる木の香がただよっている。 【注】*1 『読売新聞』明治23(1890)年5月31日付。「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」は、その後、同紙6月7日、10、13、18、19、23〜27日と11回にわたって連載された。岩波文庫の『明治日本労働通信』245ページ以下に収録されている。この論稿自体、日本の労働問題研究の歴史の上で注目さるべき作品であるが、それについては回をあらためて述べることにしたい。 *2 この手紙は、大島清氏が発掘され、「労働組合運動の創始者 高野房太郎(2)」(法政大学大原社会問題研究所『資料室報』No.124 1966年10月所収)で初めて公表されたものです。房太郎と故郷の家族との交流を具体的に知ることができる貴重な記録なので、ここでも全文を現代文にして紹介しておきたいと思います。なお別ファイルで原文通りに翻字した書簡テキストと画像データを掲載していますので、ご参照ください。 岩三郎殿 「八坂町老母」とあるのは、母方の祖母のことである。おそらく岩三郎が祖母の死を伝えるとともに、母の心労の様子を書き送ってきたのであろう。「附テモ母上ノ事、貴弟ニ申サルル迄モナク、自分ノ思フ通リ物事ノ成ラザル度ニ、若シヤ不慮ノ変起リテ日本ヘ帰ラザルベラカラザル必要ニ迫ル事モアリテハト思ヒ出テ」と、房太郎はその心情を素直に述べている。思うように物事が運ばないことを思い知らされていたに違いない。 *3 大島清「労働組合運動の創始者 高野房太郎(2)」法政大学大原社会問題研究所『資料室報』No.124 1966年10月、3ページ。 *4 R. L. Polk & Co's Tacoma City Directory 1891, R. L. Polk & Co, Publishers. Tacoma, Washington, 613ページ。 *5人口については、1890年は国勢調査の数値、他の年度はFrank W Spencers, Tacoma City Directory 1888 vol.1による。経済動向については R. L. Polk & Co's Tacoma City Directory 1891, R. L. Polk & Co, Publishers. Tacoma, Washington, 51〜54ページ。同1892年版、45〜48ページなどによる。 *6 Caroline Denyer Gallcci The City of Destiny and the South Sound: An Illustrated History of Tacoma and Pierce County. 2001 Heritage Media Corporation, Carlsbad, CA. 62〜63ページ。原文はJuaquin Millerの日記、1889年8月31日付より。「抄訳」と書いたが、実際は、ごく一部をつまみ食い的に紹介しているだけである。 【謝辞】 冒頭に掲げたタコマ富士の写真は、大阪大学大学院人間科学研究科の小林知博氏がワシントン大学留学中に撮影されたものである。同氏のサイト内にあるChihiro's Photo Gallery of the University of Washington and Seattleに掲載されているものを、許可を得て使わせていただいた。 |
|
||
|
||
Wallpaper Design © あらたさんちのWWW素 材集 先頭へ |