「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」から一年あまり後、『読売新聞』に、また高野房太郎の労働問題論が掲載されました。今回のテーマは「日本に於ける労働問題」、一八九一年八月七日から四日間連載で、毎回一面トップを飾るという破格の扱いでした。
それまで房太郎の通信は、「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」もふくめ、文芸欄や附録など、紙面の片隅に掲載されてきました。尾崎紅葉や坪内逍遙の小説と並んで掲載されていますから、けっして軽い扱いではないのですが、どことなく埋め草的な印象があります。連載の場合も毎日続けてではなく、とびとびに掲載されていることが、そうした印象を与える一因でしょう。それにくらべると、今回はまさに異例で、編集者による、次のような「まえがき」が付されていました。
左に掲ぐる論文は在米国社友高野房太郎氏の寄稿に係る。今や労働問題大いに上下の注意を惹くに至りたれば殊に社論に換えて江湖の一考を煩わさんとす。
一八八七年に房太郎の「米国桑港通信」が初めて『読売新聞』に掲載された時は、「O. F. T.生」の匿名でした。その通信の質の高さが評価されたのでしょう、二年後には「高野房太郎」の名が明記れるようになりました。とはいえ、扱いが埋め草的である点は同じでした。しかし今回は、「通信員」ではなく「社友」としての資格で、「社論」つまり新聞社としての論説に代わる論文として公表されたのでした。もともと当時の『読売新聞』一面は、主筆・高田早苗の論説の指定席でした。そこに「日本に於ける労働問題」が掲げられたのは、同稿を『読売』の首脳陣が高く評価したからに相違ありません。世間の注目度も「北米労役社会の有様を叙す」とはくらべものにならなかったでしょう。高野の旧友、伊藤痴遊が彼を労働問題の論客として記憶し*1、在米日本人の間で房太郎が「労働問題論者」として知られるようになった*2のは、本稿によるところが大きかったと思われます。
さて、この論説で、もうひとつ注目される点があります。他ならぬその執筆時期で、一八九一年七月、つまり職工義友会の創立と相前後して書き上げられている事実です。義友会設立の目的は、「欧米諸国における労働問題の実相を研究して、他日わが日本における労働問題の解釈〔=解決〕に備えんとするにあり」、というものでした。一方、この「日本に於ける労働問題」は、日本の労働者状態の改善策を提起した論稿です。言うなれば、この「日本に於ける労働問題」は、職工義友会の創立宣言的な意味あいをもっていたのではないでしょうか。この推測が当たっているかどうかは、読者各位のご判断に委ねることとして、まずはその内容を見ておきましょう。
同稿はつぎの3部から構成されています。「第一 労働社会の現状」、「第二 労役者状態改良の方策」、「第三 日本の労役者を結合せしむるに必要なる条件」。
まず、「第一 労働社会の現状」で、高野房太郎は、日本の労働者の現状について次のような認識をしめしています*3。
社会組織が平等を欠いているため、労働者は不正な抑圧に屈服し、財産なく恒心なく教育なく勇気のない状態にある。彼らには一家団欒のよろこびはなく、妻子は飢えや寒さに苦しんでいる。貯蓄などは考えもせず、猜疑心が強く、自尊心・廉恥心もないので、結局堕落し、ついには救済の道さえなくなるであろ。これが日本の労働社会の現状ではないか。
さらにその将来を考えると、まことに嘆かわしい。労力節約の器械は日々進歩し、そのため失業する者が増えている。一致団結の行動をとるアメリカの労働者でさえ、こうした器械によって苦しめられているのに、孤立無援の日本の労働者はいったいどうなることであろうか。
また労働社会における教育の現状をみると、本人が無教育であるのはいたしかたないとしても、彼らの収入では、その子供を学校にやることもできず、身体に障害がある子さえ労働に従事させざるをえないでいる。これでは労働者はその子々孫々の代まで無知蒙昧なままで終わってしまう。これは、単に労働者の不幸であるだけでなく、日本帝国にとっても不幸ではなかろうか。
このため日本の労働者は自力ではその地位を改良する力をもたず、救済者の出現を待ち望んでいる。日本の労働者を救済するチャンスは、彼らの不満がいまだに破裂していない現在にある。もし今彼らを導かなければ、共産党、急進社会党が日本に現れることになろう。
「第二 労役者状態改良の方策」の論旨を一言でいえば、「労働組合の設立こそ、労働者状態改革の唯一の手段である」という主張です。この節は、いささか抽象的な議論に終始して、やや分かりにくいところがありますが、彼はつぎのように論じています。
日本の労働者の惨状を招いた原因を考えてみると、そこに「外部の作用」と「内部の作用」の2つ原因を見出すことができる。「外部の作用」とは社会組織の問題であり、資本家の圧迫である。一方「内部の作用」とは、労働者自身の問題である。彼らが財産をもたず知識が乏しいこと、徳義に欠け軽薄である点がそれである。両者は互いに作用しあって、今日の惨状を招いたのである。
一方、資本家側は、器械の発明や文明開化の風潮に助けられ、年々その勢力を増している。立憲制が施行されると、彼らは経済力だけでなく政治力をもつようになり、優者としての地位を確立した。労資間の勢力にこれだけの格差が生ずると、労働者側が分配の平均を望んでも実現は困難である。日本の労働者を救済するには、これらの根本原因を取り除かなければ駄目であるが、それはきわめて困難なものである。
この困難な改革を実現するには、強大な勢力を必要とする。強大な勢力をもって、徳義的、実利的で、秩序あり見識ある運動を必要としている。徳義的に運動して不正な社会組織を改めなければならない。労働者の不徳軽薄をただし、実直な気風を起こさねばならない。労働者の生活と教育程度を向上させるには、実利的な運動を展開する必要がある。労働者と資本家とを経済上同一の地位に立たせる必要がある。
では、いかにすれば、このように強大な勢力をつくりあげることが出来るのか。ただ「団結あるのみ」である。労働者が団結すれば強大な勢力をつくりあげることが出来るし、協同一致すれば秩序あり、識見ある運動を展開することができる。団結こそが力の源である。
「第三 日本の労役者を結合せしむるに必要なる条件」の節では、前節よりやや具体的に、日本において労働組合の組織化をすすめるために、とるべき方策が論じられています。その主張は、つぎの2点から成っています。第1は「名望ある有識家これを率いんことを要す」。なぜなら、日本の労働者は、自力では自己の地位を改善する力をもっていないから。無産無知、不徳軽薄、猜疑嫉妬といった問題が過去において労働者の団結を妨げて来た。この問題を克服するには、名望のある知識人が労働組合を指導する必要がある。これが、房太郎の認識です。
第2に強調されているのは「組合は、労働者に間接の利益をもたらすだけでなく、直接の利益を労働者に与える必要がある」という主張です。労働組合の組織化によって得られるものは、主として間接的な利益で、それだけでは多数の労働者を結集しえず、強大な勢力を築きあげることは出来ない。多数の労働者を惹きつけるには、労働組合は労働者に直接的な利益をもたらすものとならなければならないと論じ、つぎのように具体的な提案を行っています。文章としても比較的分かりやすい箇所なので、今回は彼自身の言葉をそのまま紹介しておきます。
労役者をして直接的利益を享有せしめんとせば、まずこの会合をして友愛協会たらしめんこをと要す。すなわちその会員の疾病に罹るやこれを救助するの資金を与え、その死亡するやその家族に扶助金を給与し、その火災その他の不幸に遭遇するや、これを援助するの仕組みを設く。これその一方なり。労役者の貯金を集めて共同営業会社を設け、労役者をして資本家の地位を兼ねしめ、生産上分配上労役者をしてその利益を享有せしむるにあり。あるいは物品の製造に従事し、あるいは日用必需品の売捌に従事し、以て労役者の収入を増し、若しくはその生計費用を減ぜしむ。これその二なり。
つまり、房太郎の提案は、(1)労働組合が「友愛協会」=「共済組合」として相互救済活動を行うこと、(2)「共同営業会社」=「生産協同組合と生活協同組合」としての活動もおこなうことなのです。彼が目指しているのは、労働組合が強大な勢力となり、資本家と対等の地位を占め、労働者全体の社会的地位を引き上げることにあるわけですが、それには時間がかかり、労働者は労働組合の意義をすぐには理解し得ない。したがって、労働組合に相互救済機能や協同組合的機能をもたせ、労働者に直接的利益を実感させなければならない、そう主張しているのです。つまり、この提唱は、単に労働組合の勧めであるだけでなく、共済組合の勧めであり、協同組合の勧めでもあったのです。
以上、この「日本に於ける労働問題」を読んで気づかされるのは、房太郎がすでにこの段階で、後の「労働組合期成会」や「鉄工組合」において実践した路線を打ち出している事実です。これはいずれ後ほど、詳しく述べることになるでしょうが、高野はゴンパーズが強調した職能別組合の組織化を第一目標にはしませんでした。労働組合の組織化に先立って、知識人や労働組合に理解ある資本家までをも会員とする「労働組合期成会」=「労働組合の成立を期する会」、端的にいえば「労働運動の応援団」を結成したのです。これは何よりも、労働運動の発展にとって、有識者の指導・援助が決定的に重要だと彼が考えていたからでした。これまでの高野房太郎研究の多くは、房太郎がアメリカ労働総同盟のオルグとして活動した事実から演繹して、彼をゴンパーズ主義者であり、ゴンパーズの影響下に職能別労働組合の組織化をすすめたと述べています。しかし、これは事実に基づかない主張だと思います。房太郎がゴンパーズと出会ったのは一八九四年のことです。実際には、房太郎は、ゴンパーズと会う三年以上も前に、日本の労働組合の組織化をいかに進めるべきかを、自分で考えていたのでした。
もうひとつ、この論文を読めば、「高野房太郎が労働運動家となったのは、貧しい少年時代を送り、アメリカで外国人労働者として苦難の生活を送った体験があるからだ」という説が、当を得ていないことも、ご理解いただけるのではないかと思います。房太郎は明らかに「有識者」の側に身をおいて労働組合運動の意義を説いているのです。自らを労働者階級の一員であると考えて、労働組合の組織化を企てているわけではありません。無知な労働者を導いて、労働組合の組織化を援助し、指導する立場にある「有識者」の一人して、「日本に於ける労働問題」を論じているのです。これは、すでに第三〇回「労働運動への開眼」で述べたことではありますが、高野房太郎研究にとっては重要なポイントなので、再度強調しておきたいと思います。
いずれにせよ、職工義友会創立の時点で、「当時の日本人の間で、彼ほど労働運動に早くから関心をいだき、深い知識をもっていた人物はいませんでした」、と私が高野房太郎を評価したことの根拠は、ご理解いただけたのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
*1 伊藤痴遊は「亡友の思ひ出」と題する回想記で、「高野は、読売新聞へ投書して頻りに労働問題を論じ始めた。恐らく彼はこの問題の先駆者というてよかろう。片山潜らは高野に学ぶところが多く、その外にも多くの同志を得るにいたり、高野は一躍して労働問題の大先輩になってしまった」と記している。第一九回「伊藤痴遊とその仲間たち」参照。
*2 サンフランシスコで発行された日本語雑誌『遠征』第三一号(明治二六年八月)に「高野房君」と題する小文が掲載されたが、その冒頭の一句に「労働問題論者として其名も高野君」とある。
*3 ここでも引用は原文通りではなく、現代語訳、それも分かりやすさを優先した抄訳である。