二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(四四)

ニューヨークにて(一)──アメリカ海軍へ入隊


マンハッタン島から、ニューヨーク・ネイビーヤード方面を見る。右手の橋がブルックリン・ブリッジ、左手がウイリアムスバーグ・ブリッジ

 一八九四(明治二七)年四月、房太郎はグレイト・バーリントンを離れ、ニューヨーク市に向かいました*1。彼が長い間、ぜひ見たいと思っていたアメリカ最大の都市にようやく辿り着いたのです。
 ニューヨークで、まず最初に赴いたのはネイビー・ヤードでした。ここは、日本開国のきっかけをつくった海軍提督ペリーが司令官だったことでも知られた場所ですが、その旧蹟を訪ねるためではなく、新しい仕事を探すのが目的でした。ふつうNavy Yardは「海軍工廠」とか「海軍造船所」と訳されますが、この場合は「海軍基地」とする方が適当だと思います。ニューヨーク・ネイビー・ヤードは単に軍艦の建造や艦艇の修理をするだけでなく、軍港として兵站基地であると同時に、兵員の募集も行う海軍の複合施設だったのです。
 この基地は、ニューヨークとは言ってもマンハッタン島ではなく、ダウンタウンからイースト川を隔てた対岸のブルックリンにありました。ブルックリンがニューヨーク市の一部となるのは一八九八年のことですから、房太郎が訪ねた時にはまだ独立のブルックリン市でした。ネービー・ヤードは、冒頭の写真のように、右手のブルックリン橋と左手のウイリアムスバーグ橋の間にあるイースト川の入り江に面した広大な土地を占拠していました。

 彼が探しあてた「新しい仕事」は、実はアメリカ海軍の水兵でした。今となってはちょっと想像もつかないことですが、当時のアメリカ海軍は多数の外国人を入隊させていました。房太郎が乗り組んだマチアス号の場合をみると、指揮官などを除く兵員一三〇人のうちアメリカ生まれが五八人、外国生まれでアメリカ国籍を取得した者が三八人、残りの三四人は外国人です。外国人のうち一〇人は日本人で、全員が食堂関係の業務に従事していました*2。食堂(messroom)はかつては中国人が独占していた職場ですが、中国人排斥運動の影響で日本人を雇用するようになっていたのです。ヴァーモント号の点呼簿をみると、軍楽隊(musician)はイタリア人だけであるなど、外国人は国別に特定の職場に集中する傾向があったようです。同じ言語を話す者は同一職場に集めた方が、管理運営上、好都合だったからでしょう。

 おそらくサンフランシスコかタコマにいる間に、房太郎はアメリカ海軍がニューヨークで日本人を採用していることを知り*3、帰国の旅に軍艦を利用し、同時に世界を一周することを思いついたのでしょう。彼はかねてから「一度、帰国するか、そうでなければ東部の諸州に行くか、あるいは南米かメキシコへ行くか、あるいは船乗りとなるかといったことを考えて」いました*4。ニューヨークへ行ってアメリカ海軍の水兵になれば、この将来計画のうち、中南米行き以外のすべての希望が成就するわけでした。働きながら世界各地を見て回ることが出来るという点が魅力的だったに違いありません。もちろん、帰国旅費が只になることも計算のうちに入っていたでしょうけれど。
アメリカ海軍軍艦、ヴァーモント号

 房太郎が、最初に配属されたのは米軍艦ヴァーモント号(USS Vermont)〔USSはUnited States Ship(Steamerと記す事例もある)で、アメリカ海軍の現役の艦艇の船名の前につけられる海事用語〕でした。上の写真がヴァーモント号ですが、ご覧になれば分かるように、船ではありますが、大砲などを搭載した戦闘用の艦艇ではなく、実質は船の形をした事務室兼倉庫です。もともとは軍艦として一八四八年に進水し南北戦争にも参戦した船だったのですが、改造されて兵員募集や物資の補給にあたる船(Receiving Ship)として、一八六六年以降、常時ニューヨーク・ネービーヤードに係留されていたのです*5。ニューヨークで入隊した水兵は、まずヴァーモント号の乗組員となり、そこから実際に乗り組む軍艦に転属させられたのでした。

 実のところ、房太郎がアメリカの軍艦に乗り込んだ事情や、日本への帰国経路や時期などは、長い間不明した。そのやや詳しい事情が分かってきたのは、ワシントンの国立公文書館でヴァーモント号やマチアス号の『乗員点呼簿』(Muster Roll of the Crew of the USS Vermont)や『日誌』(Log)を発見してからです*6。一九七七年の暮、私の最初のアメリカ留学の時でした。ただし、これらの記録に残っていた名はタカノ・フサタロウではなく、Takane Henry(タカネ・ヘンリー)でした。ヘンリーはアメリカ時代に彼がよく使っていた名です。姓がタカネとなっているのは、申し込みの際にTakanoと記したのに、点呼簿に転記する際、誤って記載されたものと思われます*7。外国人の名は発音しにくいものですから、口頭での点呼ではこうしたミスに誰も気づかなかったか、気づいてもあえて訂正させようとはしなかったのでしょう。点呼簿は三ヵ月毎に作成されていますが、内容はどれもほぼ同じです。
 一八九四年六月三〇日付、つまり彼の名が最初に記録されている点呼簿*8には次のように記されています。


NameTakane Henry
Rating at date of Present RollMess Attendant
Date of Enlistment94 May 2
Where EnlistedNew York
Term of Enlistment1
Place or Vessel from which Receivedon board
When Received on Board May 2 / 94
Where born Japan
Age / Years22-5
Occupation  Waiter
Eye, Hair, ComplexionJapanese
Height   feet inch 4 - 11 1/2

これを日本語で表記すれば、次のようになります。
名前タカネ・ヘンリー
現点呼簿記入時の等級食堂勤務員
入隊年月日1894年5月2日
入隊地ニューヨーク
服務期間1年
乗船地または転属元の船乗船
乗船または転属年月日1894年5月2日
出生地日本
年齢22歳5ヵ月
職務ウエイター
眼・髪・肌の色日本人
身長4フィート11インチ半

 この点呼簿の記載事項には、名前のほかにもいくつか問題になる点があります。そのひとつは入隊年月日です。それは、ヴァーモント号のLog(航海日誌──といっても係留されたままの船ですから実際は単なる「日誌」ですが)の一八九四年五月四日の項に「Enlisted for 1 year, special service, Henry Takane (Mess Att.)」つまり「ヘンリー・タカネ、服務期間一年の特別業務で入隊(食堂勤務員)」と記されているのです*9。わずか二日の違いですから、それほど目くじらをたてることはないかもしれませんが、気になります。あえて推測すれば、五月二日は高野房太郎が入隊を申し込んだ日で、五月四日は身体検査などを済ませて、正式に入隊が承認された日であり、最終的には申込日が入隊日とされたのではないでしょうか。
 もうひとつの問題は年齢です。房太郎は一八六九年一月の生まれですから、入隊時の年齢は実際には二五歳四ヵ月でした。もっと端数が四ヵ月でなく五ヵ月となっているのは、房太郎が自分の誕生日、旧暦明治元年一一月二四日を西暦では単純に一ヵ月遅らせた一八六八年一二月生まれと考えていたからでしょう。二二歳の方は、わざと三歳若くサバを読んで申告したものと思われます。ことによると年齢制限があったのかも知れないと考えましたが、同じ頃入隊した日本人のなかには二五歳一一ヵ月の人もいますから、単に若く見せたかっただけではないかと思います。
 「服務期間」も、この最初の点呼簿では一年ですが、その次の九月の点呼簿では三年に変更されています。これはこの間で、契約期間を延長したものでしょう。
  ちなみに、この点呼簿で初めて判明した事実があります。それは房太郎の身長です。彼が小男だったことは、すでに紹介した『遠征』の記事でも分かっていましたが、正確には四フィート一一・五インチ、つまり一五一センチ強だったのでした。弟の岩三郎も背が低かったことは、陸軍幼年学校に入学を希望したのに、身長が基準に満たなかったため不合格に終わったというエピソードで知ることができます。大原社会問題研究所の記念写真でも、並んで立っている人たちにくらべると、高野所長の小柄な姿は目立ちます。

 アメリカ海軍の水兵となった房太郎は、同年一〇月一日にマチアス号に配属されるまでは基地内には寝泊まりせず、基地に近いゴールド・ストリート一二六番地に宿をとっています。また、出航までの約半年間は、時々点呼があるだけの待機期間で、点呼以外には仕事らしいことはなく、自由な時間がたっぷりあったようで、かねて希望していた計画をつぎつぎと実行に移しています。それについては、次回以降で、詳しくお話しすることにしましょう。



【注】


*1 房太郎とゴンパーズの交流を最初に紹介した隅谷三喜男氏は、このニューヨーク到着の日を、5月上旬のことと推測しています。(隅谷三喜男「高野房太郎と労働運動──Gompersとの関係を中心に」『経済学論集』第二九巻第一号、一九六三年四月)。しかし、五月二日にはニューヨークで新しい仕事を見つけている事実から推測すると、ニューヨーク市には、もう少し早い時点で着いていたのではないかと思われます。

*2 アメリカ国立公文書館所蔵、Muster Roll of the Crew "Machias", 30 June 1896.〔一八九六年六月三〇日の米軍艦マチアス号乗員点呼簿〕 による。

*3 一八九〇年代はじめに、ニューヨーク・ネイビーヤードで日本人水兵の募集が行われており、その事実が在米日本人の間で知られていたことは、『在米日本人基督教五十年史』につぎのように記されている。

 「当時ブルツクリン海軍鎮守府所営米国軍艦ヴアモント号に多数の同胞学生の乗り組みおるを聞き、十月の頃であった、ごみだらけの麦藁帽を冠り、粗服にて至り、乗組邦人に熱心伝道し、謄写版の刷物を頒布せり。岡島氏は所持金なく、活動の余地なきより、軍艦乗組の料理人高見豊彦氏の世話で、支那人伝道に従事しつつあるスコツト人系キャンベル嬢の働を助ける事となり、又浸礼教会派デクソン牧師を説きて補助を受け、ブルツクリン市コンコード街十七番に家を借れり、これブ市青年会の前身にして、紐育方面に於ける邦人基督団体の発端なり」(同書八二-八三ページ)。

 なお、本文中の岡島とは、岡島金弥、メソジスト派の伝道師河辺貞吉によって洗礼をうけたばかりの一青年であった。関連して、100 years of Christian Work among the Japanese in New York By Fujio Saito参照。

*4 高野房太郎より高野岩三郎宛て、一八九一年一〇月二〇日付書簡

*5 ヴァーモント号については、 Vermont on the Civil Warによる。





*6 分かっていたのは、岩三郎の回想(「兄高野房太郎を語る」『明日』一九三七年一〇月号)に記されていたつぎのような事実だけでした。

「それからどういう縁故かで、某砲艦のコック兼ボーイに乗り込んで、遠く欧州をめぐりインド、アジアを通って、二十九年二十九歳の時日本へ帰って来た」


*7 点呼簿に記載されている日本人の名前の表記には、同様な転記ミスと思われるものが少なくない。たとえば、Iwamura Kulatara(Kurataro?)、Matahashi Mishida(Nishida?)、Kinsaku Tabaia(Tabata?)など。

*8 アメリカ国立公文書館所蔵、Muster Roll of the Crew of the USS Vermont, 30 June 1894. 〔一八九四年六月三〇日の米軍艦ヴァーモント号乗員点呼簿〕 による。

*9 アメリカ国立公文書館所蔵、Log of US R.S Vermont, 4th May 1894.〔『合衆国補給艦ヴァーモント号航海日誌』一八九四年五月四日の項〕 による。





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