「いかにすれば故国に労働組合を根付かせ、発展させることが出来るか」、房太郎は残り少ないアメリカでの日々を、この問題を中心に、あれこれと思いを巡らせながら過ごしていました。「労働運動の伝統がない日本のような国で職業別組合をつくっても、弱小組合ばかりになってしまう。それより複数職種の労働者を地域的に団結させる労働騎士団型の組織から始めた方がよい」、これが彼のとりあえずの結論でした。
ただ、そのころ北米では、アメリカ労働総同盟(AFL)が労働騎士団を追い越す形で、急速に勢力を伸ばしていました。「衰退傾向にある労働騎士団より、急成長しているAFLの方に学ぶべき点が多いに違いない」、房太郎はそんな風に考えたのではないかと思われます。モデルに選んだ労働騎士団よりも、アメリカ労働総同盟との接触に積極的だったのは、そうした考慮が働いていたからではないでしょうか。
すでに第四三回の「東部への旅(二)グレイト・バーリントン」でふれたことですが、一八九四年三月、房太郎はアパラチア山中の田舎町からアメリカ労働総同盟に宛てて手紙を出していました。すぐゴンパーズ会長の返事がとどき、「手紙だけでは意を尽くせないから是非ニューヨークに来るように」と勧められたのでした。また、創刊直後の機関誌『アメリカン・フェデレイショニスト』の見本誌が送られてくると同時に、同誌に日本の労働者階級の状態について寄稿するよう、再三の依頼がありました。ゴンパーズは、この極東の島国から来た若者にひとかたならぬ興味をいだいたようです。
ただし、房太郎のニューヨーク行きは、ゴンパーズの勧めがある以前からの計画だったと推測されます。もともと彼は船員になって世界各地を見て回る希望をもっていました。ブルックリンのネービーヤードに行けば、日本人でもアメリカ海軍に雇ってもらえると知った時、彼はニューヨークに向かうことを決意したのでしょう。もちろん、ゴンパーズから手紙をもらってからは、AFL本部を訪ねることも、このアメリカ随一の大都会に行く目的のひとつとなったに違いありません。ニューヨークに着くと間もなく、房太郎は『アメリカン・フェデレイショニスト』への英文論稿執筆を開始しています。
ところが、なぜか房太郎は、すぐにはゴンパーズを訪ねようとしませんでした。依頼された原稿は、かなり長文のものを七月初めに書き上げ、送っています。しかし、面会を求める手紙を出したのは、ニューヨークに着いてから四ヵ月余も経った八月一九日、二人の対面が実現したのは、それからさらに二週間後の九月四日、火曜の夕方でした。できるだけ早く来るよう言われており、その気になればすぐにも会える場所まで来ていたのに、なぜ房太郎は面会をためらったのでしょうか? その理由は分かりません。ただ他にさしせまった用件があったとも思えませんし、それまでの房太郎のやり方から見て、この貴重な機会を無駄にしないよう、十分に事前の準備をしておきたいと考えたものでしょう。
もっとも、直接顔を合わせなかったというだけで、この間も手紙のやりとりは続いていました。他の組合指導者との文通は、労働騎士団もふくめ、ほとんど一、二回で終わっているのですが、ゴンパーズとは、一八九四年三月から一〇月までに、いま分かっているだけでも一七通の手紙が行き交っています*1。房太郎がアメリカ労働総同盟を最重要視していたことは、この事実からも明らかです。
アメリカ労働総同盟のオフィスは、イースト川をはさんでネービーヤードの対岸と言ってもよいほどの位置、ニューヨーク市クリントン・プレイス一四番地にありました*2。初めて会った二人が、そこでどのような話をしたのか、正確なことは分かっていません。両者とも、その会見の記録を残していないのです。ただ、唯一それにふれているのは、二人が顔を合わせてから三〇年近くも後に執筆されたゴンパーズの『自伝』で、つぎのように回想しています*3。
私は一八九〇年代に、当時、コロンビア大学の学生だった高野房太郎と会った。彼は労働運動に非常に興味をもつようになり、わざわざ私の事務所にやって来て、日本の労働階級に役立つと思われるアメリカの労働組合運動に関する情報を私に求めた。私は彼と数回会って話してみて、彼の才能と真剣さに打たれた。高野は日清戦争で兵役に服するために本国に呼びもどされた。彼が帰国しようとしたとき、いろいろの労働新聞に関係をつけてやって、彼が日本の労働事情を盛り込んだ特別記事をこれに寄稿できるようにした。私は長い間高野と関係をもち、アメリカ労働運動の発展状況を彼に伝えた。彼は日本の労働者の間に労働組合運動に関する知識を広めて、後日、日本の労働者が成熟して組織される段階に達したとき、はじめてその姿を現した精神に火をともしたのである。
この証言には、疑問点が二つあります。それは高野房太郎を、(一) コロンビア大学の学生だったとしていること、(二) 日清戦争で兵役に服するために本国に呼びもどされたとしていることです。どちらも事実には反しています*4。ただ、これはゴンパーズの記憶違いと言うより、房太郎が意図的にこのような印象を与えていた可能性が高いと思われます。
まず、房太郎を「学生」としたのは、長い歳月が経ち、ゴンパーズの記憶が不確かになったからではありません。実際に、ゴンパーズはそう思い込んでいたのでしょう。その証拠は、房太郎の最初の英文論稿 "Labor Movement in Japan" を掲載した『アメリカンフェデレイショニスト』誌第一巻第八号にあります。この号が出たのは、房太郎がまだニューヨークに滞在中の一八九四年一〇月のことですが、その表紙目次は、タイトルに続けて「在米中の日本人学生 F.タカノ執筆」( By F.Takano a Japanese student in the U.S.)と明記しているのです。つまり、房太郎は、自分がアメリカ海軍の水兵であることを隠し、「学生」だと自己紹介したに違いありません。
ここで、房太郎の名誉のために大急ぎで付け加えれば、彼は「真っ赤な嘘」をついていたわけではない、と思われます。実はこの時、高野房太郎が「学生」でもあった可能性は高いのです。もちろん当時の彼はアメリカ海軍の水兵として生活していました。が、それと同時に学校にも通っていたのだと推定されます。その学校とは、他ならぬ房太郎がかねてから私淑していたジョージ・ガントンが創設し、主宰していた社会経済学院(College of Social Economics)です。確証はありませんが、それを裏付ける情況証拠がいくつかあります。
その第一は、社会経済学院はニューヨークのユニオン・スクエアにあり、随時入学を認め、夜学もあった事実です。『富と進歩』を読んでから、すっかりガントンに心酔していた房太郎が、この学院の存在を知らなかった筈はありません。ニューヨークに着いて間もなく社会経済学院にガントンを訪ね、その学生になっていたことは十分考えられるのです。
情況証拠の第二は、房太郎は帰国後、ガントンが編集刊行していたSocial Economist誌やGunton's Magazine に何回か寄稿しています。そこでは、「日本における我が誌の特別代表」(Our Special Representative in Japan)と紹介されているのです。個人的な繋がりのない単なる寄稿者を「代表」とすることは考え難いでしょう。
第三に、ガントンから房太郎宛ての手紙が数通残されていますが、それはまさに先生が弟子に対する調子で書かれているのです。 たとえば、一八九六年七月七日付のガントン書簡は次のように始まっています。
六月五日付の貴簡および「日本における労働問題」に関する原稿、落手しました。玉稿におめでとうを申し述べたいと思います。君はたいへん上達しました。今回の論文は、君がこれまで書いたもののなかで最高の出来です。雑誌の八月号に掲載することにしました。〔後略〕
この手紙は、両者が単なる文通上の知り合いではなく、個人的な知己──先生と生徒の関係──にあったことを明示しています。
要するに、房太郎が「在米の一学生」として経済学を学んでいたことは事実だったと思われます。もちろん、コロンビア大学の名をそこで出すことはなかったでしょう。カレッジ・オブ・ソーシャル・エコノミックスの名を出したかどうか、そこまでは分かりませんが。
つぎの問題は「日清戦争で兵役に服するために本国に呼びもどされた」とゴンパーズが述べている点です。こちらでは、房太郎が嘘をついた、少なくとも米海軍の水兵として出航を命ぜられたという真実を隠したことは明らかです。リクルート艦ヴァーモントから砲艦マチアス号への転属が内示され、アジア地域へ出航することを知った直後、一八九四年九月二八日付のゴンパーズから房太郎宛ての手紙は、つぎのように記しています*5。
二六日付の貴簡を拝受しました。貴君が突然帰国を命令されたこと、またなるべく早い時期に貴国の労働者の組織化に着手する希望をもっておられることを承知しました。
ついては土曜の午後三時かあるいは火曜の五時半頃ここをお訪ねくださるなら、アメリカ労働総同盟の一般オルグとしての任命書をはじめ組織化の事業を成功させるのに必要な文書類をお渡しいたします。
この、どちらかの日にお目にかかることが出来ることを望み、かつ同志としての敬意をこめて。
アメリカ労働総同盟 会長 サミュエル・ゴンパーズ
これを読むと、房太郎が嘘をついていたことは明らかです。もちろん、房太郎の九月二六日付の手紙が残っていませんから、どのような言い回しをしたのかまでは分かりません。しかし、房太郎が軍務に服するために帰国せざるを得なくなったとゴンパーズが理解したに違いない内容だったことは、この手紙とすでに引用した『自伝』の叙述からみても明瞭です。ちなみに、日本が清国に宣戦を布告したのは、同年八月一日のことでした。仮に房太郎が単に「故国から呼びもどされた」と書いただけでも、ゴンパーズは、日清戦争で軍務に服するための帰国と理解したに相違ありません。
実は房太郎は、この時の嘘がばれないよう、その後何回か小細工を弄しています。彼はアメリカの軍艦《マチアス》に乗務中に、『アメリカン・フェデレイショニスト』誌に「上海の縫製労働者のストライキ」などの英文通信を寄稿しているのですが、その際、原稿をいったん日本に送り、これをゴンパーズ宛てに転送させるという手の込んだことをしているのです。
さらに後年、『アメリカン・フェデレイショニスト』誌が、わざわざ房太郎の経歴を問い合わせて来たのに対し、彼は学歴についても職歴ついても全くふれることなく、単に労働運動への関心を呼び覚まされた契機としてマクニールの本をあげるだけの、簡単な回答を寄せているのです*6。房太郎は、出稼ぎ労働者としての実像をゴンパーズらに知られたくなかったとしか考えられません。
もちろん、ゴンパーズは、彼自身が労働者出身であり、労働運動の指導者でしたから、房太郎が出稼ぎ労働者であることを知ったからと言って彼を蔑視したり軽視したりする筈もありませんでした。むしろ、労働生活を送りながらアメリカの労働運動について深く学んだその才能と努力を、高く評価したに違いありません。しかし、房太郎の側では、アメリカ海軍の水兵である事実を、ゴンパーズに知られたくないという気持ちが働いたようです。房太郎は、どうも少々見栄っ張りだったのではないかと前に書きましたが、そう思わせる根拠のひとつは、ここにあります。
同時に、彼の主観的な自己認識は、あくまでも「一留学生」だったから、こうした気持ちになったのでしょう。労働に従事するのは生活の手段にすぎない。目的はあくまでも外国で新知識を得ることにあったのでした。そう考えないと、この房太郎の言動は理解困難です。こうした彼の姿勢は、彼が労働者階級の一員として労働運動の組織者となることを決意したわけではないことを、明示しています。あくまでも有識者のひとりとして、労働運動の意義を労働者に理解させ、彼らを導かねばならないという使命感から始まったことだったのです。
この最初の会見における、二人の談話の正確な内容は分かりません。しかし、それまで二人の間で交わされた手紙などから、その内容を推測することは可能です。房太郎が、ゴンパーズからいちばん聞きたかったのは、日本で労働組合運動を始めるにあたって、いかなる組織形態をとるべきかについての意見でした。つまり、日本のような労働運動の伝統がない国では、単一の職種で労働組合を組織するならば、弱小組合が乱立する結果になるから、当初は職業の枠を超えた組織として出発すべきだという点です。
その後の経緯から見ると、ゴンパーズも房太郎の見解を承認したものと思われます。ただ「できるだけ早い機会に職業別組織に移行するように」という忠告は付け加えたに相違ありませんが。
いずれにせよ、ゴンパーズは房太郎の熱意と労働組合に関する知識に強い感銘を受けたものと思われます。そのことは『自伝』の記述にも示されていますが、それ以上に、房太郎をアメリカ労働総同盟の日本担当の一般オルグ(general organizer of American Federation of Labor for Japan)に任命した事実から明らかです。
*1
下書きを含め、実際に残っている書簡は高野房太郎からゴンパーズ宛て五通、ゴンパーズから房太郎宛て一〇通の計一五通である。しかし、内容は不明だが返信の記述から、ほかにあと二通の房太郎書簡があったことが確認できる。判明している書簡の全文は Fusataro Takano Papers 参照。
*2 なお、次のMap of Clinton Place, New York, NYをクリックしてみてください。赤い星のある箇所が、アメリカ労働総同盟事務所のあった場所です。
Map of Clinton Place, New York, NY 房太郎がいたNavy Yardから橋を渡ってすぐ傍です。
*3 サミュエル・ゴンパーズ自伝刊行会訳・訳者代表 寺村誠一『サミュエル・ゴンパーズ自伝──七十年の生涯と労働運動』下巻(日本読書協会、一九六九年)、一七八〜一七九ページ。
原著は、Samuel Gompers, Seventy Years of Life and Labor : An Autobiograpy, E. P. Dutton & Co., New York, 1925.
*4 高野房太郎の英文文献を発掘したハイマン・カブリン氏は、コロンビア大学に依頼して、高野房太郎が同大学に在籍した事実があるかどうかを調査し、次のように記している。
筆者の依頼にもとづき、コロンビア大学の記録係 John Malins氏は、一八八六年−九五年の間の同大学学生記録を調査された。しかし高野についての記録はなにも発見できなかった(同氏の筆者に対する一九五四年一一月一八日付の書簡)。高野は非公式にコロンビア大学に通学したのか、またはゴンパースが学校名を間違えたのかとも考えられる。
ハイマン・カブリン編著 『明治労働運動の一齣──高野房太郎の生涯と思想──』 (有斐閣、一九五九年)二六ページ。
*5 問題になる冒頭の一文の原文は次の通り。
Your favor of the 26th advising me that you are called home suddenly, and desire to prosecute the work of organization among your fellow workers as soon as practicable, came duly to hand.
手紙の全文は、From S. Gompers to F. Takano, September 28, 1894
*6 一八九七年一二月一七日付、高野房太郎よりサミュエル・ゴンパーズ宛て書簡。日本語訳は『明治日本労働通信』(岩波文庫)六四〜六五ページ。