二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(四七)

軍艦で世界一周(一)──砲艦マチアス


アメリカ海軍軍艦・マチアス号

 一八九四(明治二七)年一〇月一日、房太郎は、合衆国軍艦マチアス号(USS Machias)への正式な配属命令を受けました。もっとも、彼はこの事実を四日前には知っていました。事前に内示されたのか、あるいは噂に聞いたのかは分かりませんが、前回紹介したゴンパーズの九月二八日付書簡でそれは明らかです。
 いずれにせよ、補給艦ヴァーモント号での待機期間は終わり、自分の好きなことに集中できる「幸せの日々」も終わりに近づきました。房太郎は、これを残念に思う反面、未知の国々へ思いをはせ、期待に胸をふくらませていたのではないでしょうか。もっとも、その後も、マチアス号は食料や水の積み込み、あるいはドックでの整備などにかなりの日数を費やし、実際に出航したのは五〇日後のことですから、まだしばらくは「ニューヨークの休日」が続いたのでしたが*1

 マチアス号は、一八九三年、ニューイングランド最北に位置するメイン州のバース鉄工所(Bath Iron Works)で竣工したばかりの新しい砲艦で、八門の大砲を備えていました。砲艦(gun boat)とは、河川でも航行が可能なように、喫水の浅い艦艇に、比較的大型の大砲を積み込んだ小型の軍艦です。マチアスという艦名は、アメリカ海軍最初の海戦がおこなわれたことで知られるメイン州の町の名にちなんだものでした。全長六二・四八メートル、最大幅九.七五メートル、排水量一一七七トン、動力は二二〇〇馬力の蒸気機関二基で二つのスクリューを動かすと同時に、風力を使って帆走もする、いわばハイブリッド艦でした。試験航海では一五・四六四ノット、キロメートルに換算すると時速二八キロを記録しています。今から見るとかなり遅く感じられますが、一八九四年にブルーリボンをとった世界最速の船でも二二ノット、時速四〇キロでしたから、当時とすれば、とくに船足が遅かったわけではありません*2。ただ、この速度は大砲などを搭載する前、しかも乗組員の数も少ない状態での記録で、実際はもっとずっと遅かったようです。
 竣工後約一年間、北大西洋海域での任務についたマチアスは、一八九四年九月一八日、アジア艦隊に配属されました。日清戦争さなかのアジアにおいて、アメリカの国益を守るのがその任務でした。この命令にもとづいて、房太郎のマチアス号乗り組みも決まったわけです。しかし、アメリカは、中国における事態が自国にとって切迫した状況にあるとは考えていなかったようです。日清戦争の開戦から一ヵ月半も経った時期に、それもアジアへ直航できる西海岸からではなく、東海岸に停泊中の軍艦に出動命令を出したこと、発令から出航までに2ヵ月以上かかっていることなども、この推測を裏付けています。乗組員にも、戦地へ赴く軍艦としての緊迫感は、ほとんどなかったものと想像されます。

 マチアス号には、艦長E・S・ヒューストン中佐以下、総勢一四七人が乗り組んでいました。乗組員の構成は、士官(officers)一一人、水兵一三六人でした。士官の内訳は艦長一、副長(lieutenant)四、機関長三、技師1、主計官一、軍医一でした。水兵の定員は一三〇人でしたが、実際は一三六人が乗り組んでいました。その内訳は、水兵部門(seaman branch)が定員七八人に対し実乗員は八五人、機関室(artificer of engine room force)が定員二八人に対し乗り組み二九人、技術部門(artificer branch)五人、特別部門(special branch)六人、食堂部門(messmen branch)一一人でした。
  なお、すでに述べたように食堂部門は全員が日本人でしたが、その氏名、年齢、職務は次の通りです。

Name(氏名)rating(等級)
occupation(職務)
age
(年齢)
Yamauchi William(山内ウイリアム)Ccook(料理長)21歳4ヵ月
Okasawa Ichijiro(岡澤市次郎)Cattend(艦長室勤務員)
steward(給仕長)
25歳5ヵ月
Hiuga Esso(日向悦雄)mrc(水兵食堂コック?)
steward(給仕長)
33歳2ヵ月
Iwamoto Gisaburo(岩本義三郎)mrs(水兵食堂給仕長)
  
Fujita Ko(藤田功)ma(水兵食堂勤務員)25歳11ヵ月
Iwamura Kulataro(岩村倉太郎)ma(水兵食堂勤務員)
waiter(給仕)
  
Matahashi Mishida(西田又八)ma(水兵食堂勤務員)28歳1ヵ月
Nishimura Kisaburo(西村喜三郎)ma(水兵食堂勤務員)
waiter(給仕)
24歳8ヵ月
Tashima Tatiro(田島太刀朗)ma(水兵食堂勤務員)
waiter(給仕)
24歳9ヵ月
Takane Henry(高野房太郎)ma(水兵食堂勤務員)
waiter(給仕)
22歳8ヵ月
Yamada Jutaro(山田寿太郎)ma(水兵食堂勤務員)26歳2ヵ月

 この表では、氏名をなんとか漢字に復元することを試みましたが、高野房太郎以外は、すべて推測によるものです。もともと日本人の姓名は音からでは分からない上に、EssoやMishidaのように日本人名として不自然なものが含まれています。おそらく口頭での申告を担当者が書き取る形で記録したものでしょう。また、等級(rating)・職務(occupation)などには略語が多用されています。その多くは他の記録から判明しますが、一部は推測によっています。ただ、この時代、アメリカ海軍に多くの日本人が雇用されていた事実を具体的に記録しておく意味で、一八九四年一二月三日現在の食堂部門の人員構成を表示したに過ぎません*3
 なぜ、ウエイターとして長年の経験があり、英語も堪能な房太郎が最下層の mess attendant(水兵食堂勤務員)に位置づけられたのかは疑問です。しかし、その理由は、推測さえ困難ですから、控えておきましょう。
 また、この表では調理部門の人数があまりに少数です。おそらくma(水兵食堂勤務員)のうち給仕でない三人はコックの下働きだったのでしょう。あるいは欧米の労働慣行からは考えにくいことですが、日本人だけの職場ですから、人手が足りなければ、給仕も皿洗いなど調理部門の下働き的な作業も担当していたとみるべきでしょう。

 一八九四年一一月二〇日、房太郎を載せたマチアスはブルックリンの海軍基地を出航しました。最終目的地はもちろん日清戦争の戦場となっている中国や朝鮮半島海域ですが、まず目指したのはジブラルタル海峡でした。パナマ運河が開通する二〇年も前のことですから、アメリカ東海岸からは、大西洋、地中海、スエズ運河、紅海、インド洋、太平洋を経由する東回りのルートしかなかったのです。香港に到着したのは翌一八九五年三月六日、出航から三ヵ月半、一〇八日もかかっています。次回以降、この航海の様子と、その間、房太郎がどのような日々を過ごしていたのかを探ることにしましょう。



【注】


*1 マチアス号の航海日誌第1分冊(Log Book of the U.S Steamer Machias 3rd Rate of eight Guns, Commanded by E. S. Houston, Commander, U.S. Navy, Attached to Asiatic Squadron, Commencing Sept. 18, 1894 at Navy Yard, N.Y. and ending March 31st, 1895 at Amoy, China)〔アメリカ合衆国国立公文書館所蔵〕の冒頭部分は以下のように記している。

 九月二〇〜二七日 物資の積み込み。
 一〇月一日 午後二時 海軍基地のシンプソンドライ・ドックにはいる。

*2 「スピード記録の歴史 ブルーリボン」参照。

*3    なお、食堂部門の職種構成は、定員上は以下の通りです。艦長室給仕(Cabin Steward) 一人、 艦長室コック(Cabin Cook) 一人、士官室給仕(Wardroom Steward) 一人、士官室コック(Wardroom Cook) 一人 、水兵食堂勤務員(Mess Attendants) 六人、コック(Ship's Cook) 一人、合計一一人。実数でも食堂部門の人員は一一人でしたが、点呼簿に記載されている職種と、この定員枠とは一致しません。





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