二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(五二)

渤海・黄海・長江パトロール

中国主要部地図、エンカルタ地球儀により作成

 一八九五(明治二八)年四月二七日、房太郎をのせたアメリカ海軍砲艦マチアスは長崎を出航し、チーフー(芝罘)に向かいました。嵐のため予定より遅れはしましたが、五月一日に無事到着、同港に二週間碇泊しています。なおチーフー(芝罘)は昔の地名で、今はイエンタイ(煙台)と呼ばれています。山東半島の北部に位置し、かつては釜山、仁川とともに横浜・上海間定期便の途中停泊地として日中海上交通の要地でした。アメリカ領事館が置かれていたことも、この土地の重要性を示しています。ちなみに、マチアスが着いた一週間後の五月八日には、この街において日清両国間で講和条約批准書の交換がおこなわれたのでした。
 以後四ヵ月近く、マチアスはチーフーを中心に、旅順〔大連市の一部〕、大沽〔天津に近い港町〕、青島など渤海、黄海の中国沿岸をパトロールしています。この一帯は日清・日露の両戦争で戦場となった地域で、地政学的にも重視されていたのでした。パトロールといっても、たえず動き回っていたわけではなく、物資の補給などのため芝罘に何回か立ち寄り、その都度、一週間から三週間ほど碇泊しています。

 八月中旬以降、マチアスはパトロールの重点を揚子江(長江)流域に移しました。増水期になり長江の航行が容易になったからでしょう。八月一九日チーフーを発ち、同月二三日に長江河口の上海に到着しています。言うまでもなく、上海は中国最大の都市で、英米共同租界、フランス租界などを根拠地として、列強がその利権の維持拡大を競っていた街でした。 揚子江流域、エンカルタ地球儀により作成
 マチアスは上海で一ヵ月余を過ごしたのち、九月二四日出航、揚子江をさかのぼりつつ沿岸の主要都市──鎮江、南京などを経て、波陽湖に立ち寄り、一〇月三日には武漢三鎮のひとつ漢口に達しています。もともと砲艦は河川航行用に喫水を浅く建造された軍艦ですから、必要なら長江をさらにさかのぼり、宜昌や重慶にまでも到達出来るのですが、マチアスは武漢より先には進みませんでした。
 南京や武漢の夏は高温多湿な酷暑で知られ、重慶とともに〈中国三大(かまど)〉と呼ばれるほどの地域ですから、おそらく九月末でもまだ、かなり蒸し暑かったに違いありません。だからという訳でもないと思いますが、武漢に着いて四日後に、マチアスは早くもここを発って揚子江を下りはじめ、一〇月一五日には上海へ戻り、長江パトロールは終わったのでした。浅瀬の多い河川航行で修理や整備が必要になったのか、ここでドック入りし、一一月下旬まで、四〇日余を上海で過ごしています。

 このように、マチアス号が東アジアでの警備任務につき、芝罘や上海に長期間滞在するようになったことで、乗組員にも時間的な余裕ができたのでしょう。この頃から房太郎はアメリカとの文通を開始し、英文論稿の執筆をはじめています。小さな軍艦の最下級の水兵でしたから、個室はおろか机もなく、参考になる図書や資料も限られていたに違いありません。そうした悪条件にもかかわらず、彼はマチアス乗務中に、いま分かっているだけでも四本の英文論文を書いています。
 その最初の論稿が、"The War and Labor in Japan"(日清戦争と日本の労働問題)でした。五月一〇日にジョージ・ガントンが主宰する雑誌『ソーシャル・エコノミスト』に送られ、同誌の一八九五年七月号に掲載されました*1。ついで同年六月に、"The Japanese Workers' Condition"(日本人労働者の状態)をアメリカ労働総同盟の機関誌に寄稿しています*2。さらに、一〇月の上海滞在中の体験をもとに"Chinese Tailors' Strike in Shanghai"(上海における中国人縫製労働者のストライキ)を執筆し、同じく『アメリカン・フェデレイショニスト』誌に送りました*3。 さらに発表は帰国後のことになるのですが、博文館が出していた月刊誌『太陽』に、「軍艦中より寄稿」*4した"Labor Problem in Japan"  があります。
 この中で注目されるのは、最初の「日清戦争と日本の労働問題」と三番目の「上海における中国人縫製労働者のストライキ」の二本でしょう。
 第一論文は、アメリカ人に向けて、日本が日清戦争から得たものについて知らせることを目的に書かれた論稿です。内容的には、戦争中、戦地で働いた日本人労働者の賃金が通常の四〜五倍もの高さだったこと、その事実が以後の日本の労働問題、労働運動にプラスの影響を及ぼすであろうことを予測したものでした。高賃金は生活水準の上昇をもたらし欲求の増大を招くというガントン理論を適用した論文です。戦地での高賃金は一時的で一部の人びとしか享受しえないものにせよ、いったん向上した生活は「労働者の心のなかに、いつの日か花開く願望の種を蒔く」と指摘し、労働者の自覚の火種となることを論じています。この房太郎の見とおしが、かなりの程度まで当たっていたことは、その後の史実が示すとおりです。もっとも、戦時下の高収入は、単に戦地で働いた労働者だけが享受したのではなく、内地においても、戦時下の繁忙にともなう残業増大があったからでした。ところで、高野が指摘した戦地における高賃金の影響は、その後の研究ではほとんど問題にされたことがありません。しかし、一八九五年三月までの半年間に中国の野戦郵便局から日本に送金された額が七五万ドルに達したとの指摘は、検討に値すると思います。
 なお、この論稿全体を通して、日清戦争に対する批判的な視点がまったく見られないことも指摘しておかねばなりません。ただし、当時の日本人の圧倒的多数がこうした立場だったわけで、敗戦後のわれわれの目だけで見てはならないところでしょう。
 第三論文は、上海の縫製労働者二〇〇〇人が、賃金の引き上げと食事の改善を要求して八日間のストライキをおこない、ついに要求を貫徹したことを報じた論稿です。ストライキの開始は一八九五年一〇月下旬ですから、ちょうどマチアスが長江パトロールから戻りドック入りしていた時期にあたります。内容的にも、房太郎が実際に見聞し、自分で集めた資料をもとに執筆していることは明らかです。単に事実経過を記すのではなく、かなり分析的な論稿です。この論文の優れた点は、労働者に不利な状況が少なからず存在したのにストライキで労働者側が勝利した理由を検討し、中国人の民族性ともいうべき「連帯と友愛」の重要性を指摘している点でしょう。これだけの論稿を執筆しえたのは、房太郎が、現地においてさまざまな見聞や調査を重ねて得た知識とともに、彼が在米中に、さまざまな場面で直接中国人と接する機会があり、その特性について考えさせられてきた、いわば長年の体験と思索に裏付けられた見識があったからでしょう*5

 このように、房太郎がアメリカ海軍の水兵として勤務しながら英語の論稿を執筆している事実は、高野房太郎という人物を理解する上で見落とすことが出来ない点だと思います。姉のキワやその夫・井山憲太郎は、房太郎がウエイターとして働いているのを〈賤しい労働〉に従事するものと見なしていました。房太郎自身も、雇われ水兵の身の上を恥じており、長く続けたい仕事と考えていなかったいたことは明らかで、これについては次回で詳しくふれます。しかし、姉たちが思うほど〈厭うべき艱難辛苦の労働〉だと考えていた訳ではありません。水兵の仕事は、稼ぎながら同時に世界各地を見学出来る貴重な仕事として、すすんで選んだ道でした。この軍艦での旅を、彼は、その外国体験をさらに豊かにするものと考えていたに違いありません。とりわけ中国は、ぜひ見ておきたい場所だったと思われます。
 もうひとつ重要な点は、房太郎がこの軍艦での世界一周を、単に自己の見聞を広めるだけの旅に終わらせず、各地で見聞や体験をもとに、日本の将来を考え、それについて多くの人に知らせる努力を重ねていたことでした。もともと彼は、人に新たな知識や情報を伝える、新聞記者的な仕事が好きだったようです。日本物産店の仕事で多忙をきわめていた時でさえ、『読売新聞』に「米国桑港通信」を寄稿していたほどです。さらに後年、労働運動家として活動するかたわら、その生活を英文通信の執筆によって支えたのでした。また、英語の文章力を身につけることは、在米中に彼がなにより心掛けた点でした。そうした努力が実って、アメリカの労働組合機関誌に英文通信を寄稿しえたのですが、これは彼の自負心のよりどころとなり、その生き甲斐ともなったのでした。



【注】


*1 第一論文は、一八九五年三月の執筆日付が入っています。なお、房太郎が五月一〇日付けでソーシャル・エコノミスト誌に論文を送ったことは、次のジョージ・ガントン書簡で分かります。

ニューヨーク、一八九五年六月二八日

タカノ 様
 五月一〇日付けの貴簡および原稿を受け取りました。ソーシャル・エコノミスト誌の七月号に掲載いたします。
 貴君が日本の経済状態について強い関心をいだいておられることを大変嬉しく思います。これからもどしどしお便りください。秘書に貴君の講読料についての計算書を同封するよう指示しました。
                   敬具
            ジョージ・ガントン

この手紙の原文および論文"The War and Labor in Japan"は、本著作集の『Fusataro Takano Papers』に掲載済みです。また、論文の日本語訳は、岩波文庫『明治日本労働通信』九八〜一〇三ページに収められています。

*2 "The Japanese Workers' Condition"は、『アメリカン・フェデレイショニスト』第二巻第七号(一八九五年九月)初出。なお、本著作集の『Fusataro Takano Papers』に収録してあります。論文の日本語訳は、岩波文庫『明治日本労働通信』一〇四〜一〇七ページに収録。

*3 "Chinese Tailors' Strike in Shanghai"は、『アメリカン・フェデレイショニスト』第三巻第一号(一八九六年三月)初出。なお、この論稿がまとめられたのは上海滞在中ではなく、その後、朝鮮半島に移動してからのことである。なお、本稿原文も、『Fusataro Takano Papers』に収録済み、論文の日本語訳は、岩波文庫『明治日本労働通信』一〇八〜一一三ページ。

*4 "Labor Problem in Japan"は『太陽』第二巻第一四号(一八九六年七月)に掲載。なお、英文と同時に、日本語原文も掲載されている。また、同稿が軍艦内で執筆されたものであることは、『太陽』の次号(第二巻第一五号)に掲載された「北米合衆国に於ける保護貿易主義」の前書きに、次のように記されていることから分かる。

 記者曰く高野君は方今神戸の英字新聞『アドバーダーザー』記者なり。久しく米国に留学し、最も英文を善くし、曩に「日本に於ける労働問題」の英文一編を軍艦中より本誌に寄せられ、前号にこれを掲げしに〔後略〕


*5 高野房太郎は、渡米直後から中国人の力を実感させられていた。それについては、高野房太郎「米国桑港通信」第3回、「桑港における支那人の日本商店」参照。このほか本稿第三三回「〈材木伐出場〉起業計画」で紹介した岩三郎宛て一八九〇年一二月一六日付書簡の後半も参照。





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