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高野房太郎とその時代 (53)




〈戦時特派員〉に化けた房太郎

サミュエル・ゴンパーズより高野房太郎宛書簡、1985年7月28日付、2枚のうちの1枚目

 ここで、水兵時代の房太郎とアメリカ人との文通について見ておきましょう。といっても、分かっている相手はゴンパーズとガントンの2人だけですが。
  ガントンからの手紙のひとつは前回すでに紹介した1895年6月28日付のものです*1。内容は、「5月10日付の手紙と原稿を受け取った」という短い事務的な連絡でした。実はこの1895年5月10日に、房太郎はガントンだけでなく、ゴンパーズにも手紙を出しています。その手紙は残念ながら残っていませんが、それに対するゴンパーズの返信が、高野岩三郎によって保存されていました。なかなか興味深い内容なので、ちょっと長いのですが、全文を翻訳紹介しておきましょう。

1895年7月28日 
ニューヨーク市ラファエット・プレイス28番地
合同被服工組合総本部書記局

日本・東京・本郷
F. タカノ 様
拝啓
  5月10日付の貴簡拝受いたしました。実は、私は労働組合運動のため、南部および南西部の各所を訪ねる3ヵ月間の旅に出ておりましたので、当地にもどるまで、お便りに気づいて返信することが出来ずにおりました。ようやくご返事を書きながら、これが無事に貴方のお手許に届くよう、またできるだけ早くご返事をいただけるよう望んでおります。
  お手紙を、たいへん嬉しく、かつまことに興味深く拝読したことは申すまでもありません。帰国後、貴方がどのように暮らしておられるか、あれこれ思いめぐらしました。おそらく貴方の戦時特派員としての体験は多様かつ興味深く、また胸躍るものであったと拝察いたします。私は実務家であると同時に人道主義者ですから、貴国と中国との間の戦闘状態の終結によって最善の結果が得られたかどうかという点については、いささか疑念をいだいております。今のところ、野蛮な中国の王朝と腐敗した権力機構が、中国の民衆の犠牲と死の上にもたらされる改革において、民衆に役立つ改革をなしとげる希望はないように思われます。
  ことによると、帝国が分割され、王やその一族が退位したとすれば、中国の民衆にとって新しい時代が到来し、全世界の民衆が待ち望んでいる文明をかちとる闘争において前進するのを助けることになるのかもしれません。私の考えは誤った情報に基づいているかもしれませんが、これが私が到達した結論です。貴方から、この問題に関して、どのような情報でもお知らせいただけるなら、心から歓迎いたします。新聞は毎日、戦地からの詳細な報道を提供しており、また何紙かは互いに競争しあっていますから、それらを総合すれば、かなり正確であることは疑いありません。
  この手紙を受け取られる頃、私はヨーロッパに向けて出発しています。ご承知かもしれませんが私は、9月2日にウエールズのカーディフで開かれるイギリス労働組合会議に、アメリカ労働総同盟の代表として列席するよう選任されました。もちろん、10月中旬にはこちらに戻り、12月9日にニューヨークで開かれるAFLのつぎの年次大会の準備をはじめるつもりです。
  ところで、その頃までにアメリカに戻られるご予定はありませんか? もしそうであればお目にかかりたく、また大会でご報告いただきたいと存じますので、喜んでご招待いたしたいのですが。ぜひこの点についてご返事ください。もし9月末までにご返事いただけるのでしたら、ロンドンにお送りください。宛先は、ロンドン、バッキンガム通り、19番地、サミュエル・ウッド氏気付です。さもなければ、ニューヨーク市ラファィエット・プレイス28番地宛てにご返事ください。
  ご希望の『フェデレイショニスト』をお送りする件については、未入手の号からお送りするよう私の後継者に伝えます。 日本の賃金労働者の間で、自らの組織をつくり自らを守るための知識を広め感情を高めるのに何時が良いかは、貴方ご自身がいちばん良く判断できると思います。台湾や日本における運動について、当地の者の多くは理解出来ずにおりますし、またそれに関する解説もあまりないので、もしそれについてご寄稿くだされば、私や多くの友人たちにとって、まことに幸いだと思います。
  アメリカ労働総同盟の執行部人事の変化については、申し上げるわけには行かないことをお許しください。たいへんデリケートな問題ですので、それについて触れることも差し控えざるをえないことは、すぐご理解いただけるものと思います。ただ、私が労働運動の大義のために献身しているのを、貴方がご理解くださっていることには、感謝のほかありません。
 ではくれぐれもよろしく、また出来るだけ早い機会にお便りくださることを願っています。
                         敬具
                         サム・ゴンパーズ




 この手紙は、いつものアメリカ労働総同盟の用箋ではなく、合同被服工組合のものが使われています。実は、この年、ゴンパーズは、AFL会長ではありませんでした。サミュエル・ゴンパーズは、1886年のAFL創立から1924年に死去するまでの38年間に、実に37回アメリカ労働総同盟会長に選ばれています。37年間はアメリカにおけるナショナル・センターの会長在任期間としても最高記録で、おそらく世界の労働運動史でもあまり例のない長さでしょう。ただ、38年間に37回ということは、1回だけ落選した年があるわけです。それが房太郎と会見した年、1894年の11月にデンヴァーで開かれた大会でした。対立候補の全米鉱山労働者組合組合長ジョン・マクブライドに1170対976票で敗れたのです。新執行部の方針で、AFLの本部も大陸東部のニューヨークから全米の中央にあたるインディアナポリスに移転してしまい、ゴンパーズは連絡先として合同被服工組合の本部を使わせて貰っていたのです。
  よく冗談交じりに、「1895年はゴンパーズのサバーティカル・イヤー(研究休暇、充電休暇の年)」と言われるのですが、もちろん彼は労働組合運動の第一線で活動を続けていました。この手紙でもわかるように、合同衣服工組合の要請で大西洋岸南部の諸州、メキシコ湾岸の諸州をめぐる遊説旅行に出かけたり、またイギリス労働組合会議(TUC)との相互交流の第1回AFL代表として、TUCカーディフ大会へ出席するなど、労働運動のためにあちこち飛び回っていました*2
  この手紙の主要部分はいわば日清戦争の評価に関するものです。おそらく房太郎は、ソーシャル・エコノミスト誌に寄稿したものと同趣旨のことをゴンパーズにも書き送ったものでしょう。つまり、日清戦争のプラス面だけを評価する房太郎に対し、ゴンパーズは戦争が中国の民衆に及ぼす影響を考え、高野の見解に疑念を呈しているのです。とはいえ、この手紙は、ゴンパーズが自らタイプを打ち、加筆修正までしているようで、房太郎に対する敬意と親愛の情がうかがえます。なかでも、次の大会へ房太郎の出席を要請している点など、ゴンパーズが房太郎を高く評価していたことは明らかです。

 ところで、この手紙で私がもっとも興味を惹かれるのは、ゴンパーズが房太郎を新聞記者、「戦時特派員=a war correspondent」だと思いこんでいる事実です。これはもちろん、房太郎自身が、そのように自己紹介したからに違いありません。前に「房太郎はかなりの見栄っぱりだったようだ」*3と書いたことがありますが、そうした推論の根拠のひとつが、これです。房太郎はニューヨークを離れるとき、ゴンパーズに「日清戦争のため急に故国に帰らなければならなくなった」と告げていたのです。当然のことながら、房太郎はすでに日本に帰国していることになっており、今回は〈戦時特派員〉として中国に行って来たと、まったく事実に反することを書き送っていたのです。なぜ、このような嘘をついたのかといえば、アメリカ海軍の水兵=給仕であることを恥じ、これを隠し通したい、しかし中国での見聞については、これを『アメリカン・フェデレイショニスト』に寄稿したいと考えたからだと思われます。おそらく彼は、ゴンパーズ宛ての手紙の中で、日清戦争とその結果についての意見を、中国での見聞もまじえて書いていたのでしょう。
  一方で、房太郎がついたこの嘘は、彼がやりたい仕事として〈ジャーナリスト〉を考えていたことを窺わせます。新聞記者なら、自分にふさわしい、あるいは少なくとも「恥ずかしくない職業」のひとつと見なしていたのでしょう。
  いちど嘘をつくと、繰り返さざるをえなくなります。その半年ほど後に『アメリカン・フェデレイショニスト』に寄稿した「上海における中国人縫製労働者のストライキ」の冒頭で、「最近数週間の中国滞在中に」(" in my last few weeks' sojourn in China")と、いかにも特派員としての短期的な滞在であったかのように記しています。しかし、実際には、この通信を書いた時には、中国滞在はすでに10ヵ月近く経っていたのでした。

 こうした嘘の辻つま合わせを助けていたのは、弟の岩三郎でした。ゴンパーズ、ガントンとの文通は、発信・受信ともほとんど高野家の住所である「東京市本郷区千駄木林町180番地」のアドレスで送られているのです。つまり、房太郎は手紙をいったん岩三郎のもとに送り、そこからアメリカへ転送させていたわけです。当然のことながら、アメリカからの手紙もいったん日本に届き、それを岩三郎が中国のアメリカ領事館気付でマチアス号に転送していたのでした。
  その岩三郎は、この年の7月に帝国大学法科大学政治学科を卒業し、9月から大学院で学んでいました。その頃のことを、岩三郎は後年つぎのように回想しています*4

 思い起こせば今を距たること五十年前、私は明治二十五年七月当時の第一高等中学校第一部(今の第一高等学校文科)を卒え、ただちに進んで帝国大学法科大学政治学科に入り、明治二十八年七月卒業することを得たのであるが、卒業の前後において将来の方針につき頗る苦悶を重ねたのである。一方には身辺の事情はただちに糊口の途を求むるの必要を感ぜしめたのであるけれども、他方には研学の念の抑え難きものあり、いかにもして学問界において身を立てたきの情に駆られた。しかも研究せんと欲したところはいわゆる労働問題、社会問題であった。そして深く考慮を費した結果、ついに意を決して無謀にも大学院に入学することとし、専攻科目は労働問題を中心とする工業経済学とし、金井延教授の指導の下に研究に従事することになったのである。
 かようなわけであって明治二十八年九月以来大学院に籍ヲ置いたものの、十分に専攻の学科に専念するを得ずして、かえって未熟の講義や論文寄稿などに追わるるるの余儀なき有様に陥った。しかももの際先輩及び友人の厚意を辱うしたること再三に止まらない。しかしながら、事、志と違い、再び私をして煩悶に堪えざらしめるに至ったのである。

 専攻科目が「研究せんと欲したところはいわゆる労働問題・社会問題であった」というあたりには、房太郎の影響があったことは明らかです。ただ、もはや兄からの仕送りを期待するわけにも行かない岩三郎は、自活するために日本中学で西洋史、日本史、ドイツ語を教えざるをえず、研究に専念することができずに悩んでいたのでした。



【注】

*1 第52回、注(1)参照

*2 サミュエル・ゴンパーズ自伝刊行会訳『サミュエル・ゴンパーズ自伝──70年の生涯と労働運動』(1969年、日本読書協会)第17章参照。

*3 第33回「〈材木伐出場〉起業計画」参照。

*4 「統計学ヲ専攻スルマデ」『藤本博士還暦祝賀論文集』1944年刊に所収。高野岩三郎著・鈴木鴻一郎編『かっぱの屁』法政大学出版局、1961年に再録。





Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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