二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(五四)

帰 国

朝鮮半島。済物浦は今の仁川(インチョン)、エンカルタ地球儀により作成

 長江パトロールの後、上海でドック入りして整備を終えた砲艦マチアスは、一八九五(明治二八)年一一月二四日、朝鮮半島へ向かい、二八日に済物浦(チェムルポ)に到着しています。済物浦は、かつては「済物浦条約」*1などで良く知られた町ですが、現在の地図に、あまりその名は出てきません。今は仁川(インチョン)市の一部となり、仁川港となっているからです。
 済物浦は、首都ソウルの西方約三〇キロ、ソウル中心部を流れる漢江(ハン川)の河口部に開かれた港町でした。海上交通が主たる手段だった時代には、ここがソウルの表玄関でした。済物浦とソウルの関係は、言ってみれば横浜と東京の関係に近いといってよいでしょう。開国時に条約港として誕生した点でも共通しています。マチアスは、この済物浦港に翌九六年四月まで、四ヵ月余も停泊していました。房太郎もおそらくこの間に、ソウルを訪ねていることでしょう。
 このように停泊期間が長かったためか、房太郎は済物浦からゴンパーズに宛てて、手紙や通信を何通か書き送っています。
 そのひとつが前回紹介した「上海における中国人縫製労働者のストライキ」でした。『アメリカン・フェデレイショニスト』誌の一八九六年三月に掲載された通信ですが、房太郎はこれに添えてゴンパーズ宛の手紙も書いています。手紙そのものは見つかっていませんが、それに対する返信が残っています。この一八九六年二月一八日付ゴンパーズ書簡の全文を、つぎに翻訳紹介しておきましょう。

日本、東京、本郷区、千駄木林町一八〇番地
高野 房太郎 様
拝啓
 一二月一五日付、朝鮮・済物浦からの貴簡拝受し、お手紙も、またわざわざ『アメリカン・フェデレイショニスト』のために書いてくださったご論稿も、興味深く拝読いたしました。
 貴方からのお手紙をいただいて嬉しかっただけでなく、たいへん興味深く、またご帰国後にどの様に過ごして来られたのかについても思いめぐらしました。戦時特派員としての貴方の体験は変化に富み、面白くかつ刺激にみちたものであろうと推察いたします。貴方という人について、また貴方が観察されたことについて私が興味をそそられたと同時に、こうした個性的な通信をお寄せくださることは、私どもの関係を通常の友情を超えたものにしてくれます。
 もう戦争も終わったことですし、貴方がもっと割の良い仕事につかれ、貴方の才能を生かして賃金労働者の組織化を援助し、貴国やその金持ち階級が過去二五年の間に達成したような進歩をとげることを願っています。
 不思議な偶然で、貴方が手紙を書かれた次の日に、私はアメリカ労働総同盟の会長にふたたび選出され、そして今私はインディアナ州インディアナポリス市におります。
 嬉しいことに、会長としての初仕事が、貴方に対するゼネラル・オーガナイザーとしての辞令の発給です。この辞令更新は、私にとって格別の喜びです。辞令を同封いたしますのでお受け取り下さい。また、別便で一〇月号をふくむ『アメリカン・フェデレイショニスト』誌をお送りします。なお二月号は私が編集したものです。ニューヨークにおける大会で何が決められたかについてもご関心をお持ちであろうと思い、議事録もお送りします。
 では、貴方のご都合さえ許せば出来るだけ頻繁に、かつ速やかなご返事がいただけることを期待しつつ、敬具。
サミュエル・ゴンパーズ
アメリカ労働総同盟 会長

 前回、房太郎の手紙は、ほとんど東京の岩三郎経由でアメリカに送られていたと書きました。しかし一八九五年一二月一五日付の手紙は例外で、済物浦(チェムルポ)から直接出されたことが分かります。たまたま、房太郎が手紙を書いた翌日一二月一六日に、ゴンパーズはAFL会長に返り咲いたのでした。ニューヨーク大会六日目に、ゴンパーズは現職のマクブライドに一〇四一対一〇二三票の僅差で勝ち、当選を果したのでした。このタイミングの良さもあり、また手紙に添えられた通信が中国でのストライキという興味深いテーマだったこともあったからでしょう、ゴンパーズは単なる社交辞令とは思えない口調で、房太郎に対する高い評価を書き記しています。
 ところで、この一二月一五日付の手紙で、房太郎は〈戦時特派員〉がそれほど安定した仕事ではなく、また稼ぎも良くないと伝えたようです。ゴンパーズの返信に「貴方がもっと割の良い仕事につく……ことを、願っています」と書かれていることが、そうした推測の根拠にすぎませんが。
 ゴンパーズはまた、房太郎のその後の生活にどことなく腑に落ちないものを感じていたもののようです。「ご帰国ののちにどの様に過ごして来られたのかについて思いめぐらしました。戦時特派員としての貴方の体験は変化に富み、面白くかつ刺激にみちたものであろうと推察いたします」と書いています。ご記憶だと思いますが、ゴンパーズはこれとそっくり同じ言葉を、前回紹介した七月二八日付書簡でも述べていました。
 ところで、このゴンパーズの手紙を受け取る前に、房太郎はすでに彼のAFL会長復帰のニュースを知り、一八九六年二月五日付けで祝いの手紙を書き送っています。今紹介したゴンパーズ書簡より二週間近く前に書かれたものです。幸いこの手紙は残っていますので、全文を翻訳紹介しておきましょう。

ニューヨーク州ニューヨーク市
アメリカ労働総同盟
会長 サミュエル・ゴンパーズ様
拝啓
 まず何よりも、あなたが総同盟の会長に選出されたことにお祝いを申し述べたいと存じます。アメリカの労働者運動にとってあなた以上に適任な方はいないと確信しており、先の大会が社会主義者の提案をすべて否決し、力量、判断力ともに論議の余地のない人物を選出したことを、心から支持いたします。総同盟がこのうえない成功をおさめ、あなたの名声がますます高まるように、これが極東にいる一友人の心からの願いです。
 簡単な調査をおこなった結果、当市に強力な労働組合が存在することを発見しました。東京大工組合といい、日本の労働者の現状からみれば、あらゆる点で望みうる最善の組合です。もう少し詳しく調べたうえで、なるべく早くご報告したいと存じます。
 私はアメリカの労働運動、とりわけ貴総同盟についての論文を、日本の雑誌に書こうと考えています。もしあなたの写真をご恵与願えれば、論文にそえて掲載するよう働きかけてみるつもりです。
 ご多幸を祈りつつ。                          
敬具
一八九六年二月五日

日本・東京市本郷区駒込千駄木林町一八〇番地

        高野  房太郎

 中国や朝鮮にいながら、房太郎は東京の大工組合についての情報をどのようにして入手したのでしょうか。おそらく日本の雑誌か新聞記事によるものと思われます。あるいは、すでに労働問題を大学院における自分の研究課題としていた岩三郎が知らせてきたものかもしれません。
 もうひとつ、この手紙で注目されるのは、房太郎が日本の雑誌にアメリカの労働運動、とりわけアメリカ労働総同盟に関する論稿の執筆を計画していることです。まだ帰国後の生活の見通しはたっていない房太郎でしたが、新聞や雑誌への寄稿家を自らの役割と考えるようになっていたことを示しています。ゴンパーズは、この手紙に、すぐ返事を書いています。

一八九六年三月七日
日本・東京・本郷・千駄木林町一八〇番地
高野房太郎様

 拝啓
 二月五日付のお手紙たしかに拝承いたしました。いつも貴方のお便りは読むに価するものですが、今回も大変興味深く拝読いたしました。明らかに貴方の調査は、かなり強力な大工組合そのものの存在を示しており、私は『フェデレイショニスト』の次号に短信としてこの事実を記載するつもりです。
 別便で「中国人縫製労働者のストライキ」に関する貴方の通信を掲載した3月号を2部お送りいたします。
 もしなにか今後のご調査の結果、面白い問題がありましたら、ご通信いただければたいへん嬉しく存じます。ご承知のように、私は貴方のご論稿をともに『フェデレイショニスト』に掲載して以来、貴方がお書きになるものに興味を持っておりますので。
 私がアメリカ労働運動のために尽くしていることを賞賛してくださったことに心から感謝申し上げます。また私がAFLの会長職に当選したことをお祝いくださり、まことに有難うございました。
 貴方と同様、私もその信念を貫く勇気をもち、不快なことや挫折をまねく逆境においてさえ、その信念を表明する人びとに敬意を払います。
 いずれにせよ今日において、アメリカの労働組合員は私の立場を拍手をもって承認しております。
 別便で刊行されたばかりの文書でご関心がおありになると思うものを何通かお送りいたします。おそらく日本の雑誌にアメリカ労働運動に関する論稿をお書きになるときに役立つのではないかと思います。
 私の写真であまりよいものはありませんのですが、そこそこの出来のものをお送りいたしますので、どうぞご自由にお使いください。
 頻繁にお便りくださることをねがいつつ。
サミュエル・ゴンパーズ
貴方の兄弟である
アメリカ労働総同盟 会長

  文末にある「貴方の兄弟である」というのは、英語の原文では"Fraternally yours"で、普通に訳せば「敬具」という手紙の結びの文句です。通常は"Sincerely yours"と書くところを、このように労働組合内の同志間の挨拶を使っているのです。この辺の変化にも、ゴンパーズが房太郎に同志としての親近感をいだくようになっていることがうかがえます。



 一八九六(明治二九)年四月四日、マチアスは済物浦から長崎へ向かい、同月六日に到着しています。前回はわずか四八時間前後の長崎滞在でしたが、今回は四月一八日まで二週間近く停泊しています。実際に行ったかどうかは分かりませんが、唐津の井山憲太郎・キワ夫妻の家を訪ねる時間的余裕は十分にあったでしょう。
 長崎からいったん上海、芝罘へと戻ったマチアスは、五月二六日に、また日本へ向けて出航しました。今回は長崎ではなく、神戸と横浜を目指す旅でした。同月末に神戸に到着、半月余をここで過ごしています。一八九六(明治二九)年六月一七日、神戸を出航、翌一八日に横浜に到着しました。ちょうど一〇年前の一八八六年の暮、房太郎は初めてここ横浜からサンフランシスコへ向け出航したのでした。つまり、一〇年をかけ世界を一周したことになります。出発当時まだ一七歳だった少年は、今や二七歳の青年になっていました。実業の世界で成功するという夢は実現できずにいましたが、アメリカなど世界各地で労働組合運動が果たしている積極的な役割を故国の人びとに伝え、労働者の地位改善の事業に献身しようとの、新たな夢をいだいての帰国でした。
 マチアスは横浜に八月一日までとどまり、ふたたび済物浦へ向けて出航しました。この一ヵ月半ほどの横浜滞在中に、房太郎は、未払い賃金三二ドル三六セントを残しての脱艦したのでした。



【注】


*1 済物浦条約は、一八八二(明治一五)年七月におきた朝鮮軍の反乱(壬午事変)の後、同年八月三〇日、日本と朝鮮の間で締結された条約。公使館を焼き討ちされ、軍事教官らを殺害された日本が、首謀者の逮捕・処罰、賠償金のほか、公使館護衛のためソウルに軍隊を駐留させる権利を認めさせた。  






『高野房太郎とその時代』目次  続き(五五)

ページの先頭へ