二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(五五)

アドヴァタイザー翻訳記者

高野房太郎28歳、1897年4月、東京本郷にて撮影

 房太郎がいつ帰国したのか、より正確にいえば何時アメリカの軍艦から逃げ出したのか、はっきりした月日は分かっていません。ただ、いったん帰国を決意した以上、一刻も早く家に帰りたいと思うのが人情というものです。房太郎もおそらく一八九六(明治二九)年六月一八日のマチアス横浜到着からあまり日数がたたないうちに脱艦したとみてよいでしょう。未払い賃金三二ドル三六セントを残しての脱走であることも、こうした推測を裏付けています。三二ドル三六セントといえば当時の日本円で約六五円、大工など職人の半年分の稼ぎに相当する金額でした。おそらく賃金の支払いを受けた後だと、日本人水兵の脱走に対する警戒が強まることをおそれ、わざと支払日前に逃げ出したものでしょう。
 帰国直後にゴンパーズに宛てて出した手紙が『アメリカン・フェデレイショニスト』に掲載されています*1。この一八九六年七月五日付の手紙は、その当時の房太郎の心情をよく伝えています。

アメリカ合衆国・インディアナ州インディアナポリス
アメリカ労働総同盟 会長
サミュエル・ゴンパーズ様

拝啓
 二月一八日付および三月七日付のお便りたしかに拝受いたしました。ご同封くださった回状と雑誌も、オルグ更新辞令とともに落手いたしました。まことに有難うございます。
 『フェデレイショニスト』のための記事*2を同封いたします。これは少々長いものですが、現在の重要な局面のひとつを指摘しており、あなた方にとっても興味ある問題に違いないと考えます。
 ここで『フェデレイショニスト』についてひとこと申し上げずにはおられません。あなたが編集者に復帰されてから同誌はたいへん良くなり、とりわけ論説欄の改善はめざましいものがあります。主張は控えめですが、明敏な示唆に富んでおり、現実的で、実現可能な見解を述べておられます。とくに安価な組合に反対したあなたの議論は推賞に値します。このような高い能力を有する指導者をいただくアメリカの労働者に、お祝いを申し述べたいと存じます。
 一カ月前、私は日本人が発行している英文雑誌を一部お送りしました。無事お手元に届いていればよいがと思います。
 私は今なお良い稼ぎになる仕事を懸命に探しています。アメリカの高賃金に慣れてしまったため、満足できる仕事を探すのは容易ではありません。もう一度アメリカに戻る方が、私個人にとっては得策ではないかと思うこともしばしばですが、その度に私の人生の目的を考え、利己的な気持ちを抑えています。私が最終的に日本に落ち着き、労働者の地位改善の事業に全精力を捧げる時が、すぐに来ることを希望しています。
 この手紙の住所でお気づきかと思いますが、この度引っ越しました。雑誌は新住所宛てにお送りねがえれば幸甚です。
                           敬具
一八九六年七月五日

日本 東京市本郷区駒込 東片町一四三番地

     高野 房太郎

 この手紙にもあるように、帰国した房太郎がすぐに直面した問題は、稼ぎの良い働き口を探すことでした。二七歳の男が自立するのは当然であり、高野家の戸主として母の養育義務を果たすことも期待されていたのですから。しかし、なかなか思うような仕事は見つかりませんでした。その原因のひとつは、房太郎の望みが高かった反面、日本がすでに学歴社会へと一歩を踏み出していたところにあったと思われます。これについては、また改めてふれることにします。
 この手紙でもうひとつ目を惹くのは、すでにこの段階で房太郎が「労働者の地位改善の事業に全精力を捧げる」ことを「私の人生の目的」と明言している事実です。ゴンパーズに宛てた手紙なので、こうした強い発言になったものでしょう。しかし、その後の彼の行動は、これが単なる一時の思いつき的な発言ではなかったことを示しています。

 この手紙からあまり間をおかずに、房太郎はゴンパーズに帰国後の第二信を書き送っています。こちらは、大阪の紡績工場を視察した結果に基づいて、児童労働の現状について報告すると同時に、「マサチュウセッツ州労働法とフォール・リバー木綿紡績工労働組合規約を一部ずつ手に入れて欲しい」と依頼するものでした*3
 この二通の手紙に対し、インディアナポリスのゴンパーズから、すぐに返事がありました。一八九六年七月二八日の日付のある手紙です*4。七月二二日付の手紙への返信が七月二八日というのは、信じがたい早さです。横浜・サンフランシスコ間の郵便船が二週間はかかっていた当時、房太郎の第二信が一週間余で届いていることになります。とうぜん、どちらかの手紙に日付の誤記があるものと考えられます。房太郎第二信が七月二二日と記しながら、もっと早い時期に出されたか、ゴンパーズ書簡が八月を七月と書き間違えたか、どちらかでしょう。ゴンパーズ書簡は『フェデレイショニスト』八月号の締め切り前に書かれていますから、八月二八日とは考え難く、むしろ七月二二日付房太郎書簡の方が、日付よりずっと早く投函された可能性が高いと思われます。すでに述べたように、マチアス在艦中の房太郎はアメリカ宛の手紙をいったん東京に送り、転送させていました。そこで、転送に要する日数を計算にいれ、先付けの日を入れる習慣がついていたのではないでしょうか。そう考えなければ、この謎はとけないと思います。何はともあれ、ここでゴンパーズ書簡を見ておきましょう。

インディアナ州インディアナポリス市 アメリカ労働総同盟用箋
一八九六年七月二八日

日本・東京
高野房太郎様

拝啓
 今月五日と二二日付のお便り、ほとんど同時に拝受いたしました。この手紙でいっしょにご返事させていただきます。また、別便で『アメリカン・フェデレイショニスト』の五月号と最近発行した回状をお送りします。
 貴方の論稿をとても面白く拝読しました。もし八月号のスペースに掲載する余裕がない場合は、九月号に掲載するつもりでおります。
 貴方の第二信にはたいへん重要な情報が含まれていますので、この手紙を書き終えたら、直接関係する団体の役員に手紙を書いて知らせることにします。彼らはおそらく貴方に手紙を出すか、あるいは印刷物を送ることでしょう。得られる範囲で最善の情報が貴方のお手元に届くよう最善を尽くすつもりでおります。
 貴方が日本の同胞の間に留まり、貴方の力量を生かして、彼らの労働条件の改善に努力する強いお気持ちや願いをおもちであることは、私にも容易に理解できます。これが貴方に犠牲を強いるものであることは明らかです。アメリカでの高賃金と、それにともなう好条件や良い環境に慣れている貴方が、この事業を進めるためには、日本の賃金水準や労働条件のもとに帰らざるをえないわけですから。しかし、こうした先進例に学ぶのは充分に意義のあることで、感性的にも理性的にもきわめて高貴な考えといえましょう。
 『フェデレイショニスト』誌六月号、および七月号に関し、私の仕事に対し過分の評価をたまわったことに心から感謝申し上げます。私から申し上げられるのは、つねに仲間の労働者の利益を増進させるよう心にとめ、彼らの好意に価するよう努力しているということだけです。
 できる限りお便りをくださることを願いつつ。敬具
サミュエル・ゴンパーズ
『フェデレイショニスト』誌にも出来るだけご寄稿ください。
追伸 貴方がわざわざお送りくださった英文雑誌を拝受したことへのお礼を申し述べるのを忘れるところでした。『フェデレイショニスト』をご覧になれば、私が銀本位制問題について、同誌の一節を引用していることにお気づきになるでしょう。

 ゴンパーズは、このように、高野からの通信や手紙を積極的に機関誌に掲載すると同時に、房太郎の希望を叶えるため、関係者に働きかけていたのです。
 そうこうするうち八月か九月初めに、ようやく仕事が見つかりました。横浜の日刊英字新聞・デイリー・アドヴァタイザー社に翻訳記者として雇われたのです。残念ながら『ディリー・アドヴァタイザー』紙が一部も残っていないので、どのような新聞だったかはまったく分かりません。どこかに残っていないものかと、日本とアメリカであちこち調べて見ましたが、未だに手がかりすらつかめません。
 その意味で、むしろつぎの房太郎書簡は、この『ディリー・アドヴァタイザー』紙の実態を知る上で貴重な記録と言えましょう。

サミュエル・ゴンパーズ様

拝啓
 七月二八日付のお便り確かに拝受いたしました。また、その次の便で、紡績工組合のハワード氏からのお便りと、私が探し求めていた情報が収録されている貴重なパンフレット数冊も届きました。
 私は、現在、横浜で発行されている英字新聞に翻訳者として働いています。この手紙と同時にお送りするものをご覧いただければお分かりのように、この新聞はアメリカの新聞と比べると小さな地方紙にすぎませんが、しかし横浜では知られた新聞で、他のどの新聞よりも多く発行されています。当然、いったい何部出ているのかとお訊ねでしょう。たったの六〇〇部ですが、それでも他紙より一〇〇部は多いのです。給与も僅か(とは言え、日本の新聞社で同じような仕事をするよりずっと良いのですが)な上に、他の仕事をする時間的余裕がまったくなく、このところ続けている横浜の労働者の労働条件についての調査もしばらくは中断を余儀なくされている状態で、この社に長くいるつもりはありません。
 お送りした新聞でお気づきかと存じますが、この国でもストライキがしばしば起きており、働く人びとの不満が高まっていることが分かります。また、これまで起きたいずれのストライキも成功をおさめていますが、これも〔労働〕市場の状況を考えればとくに不思議ではありません。今ほど労働需要が盛んなことはこれまでなかったことで、もし力のある指導者に率いられて運動するなら、労働者はさしたる苦労なしに雇い主を屈服させることができると断言しても、それほど的外れではないと存じます。私自身が非力で、彼らになにか実質的な援助をできずにいることはまことに残念です。ストライキについての記事を新聞で見ると、私は実際、自分がその場にいて闘争計画について助言できれば良いのにと考えるのですが、それに必要な費用を考えていつも自制しています。しかし、これから先もずっとこのように何もせずにいるつもりはなく、いずれは労働者状態の改善のために私が実行したことをご報告できるようにしたいと思います。
 あなたと貴組織の成功を祈って。
                    敬 具
一八九六年一〇月一〇日

日本・横浜
『デイリー・アドヴァタイザー』編集室にて
         高野 房太郎

追伸 どうぞ、以前のように、私の東京の住所宛にお便りくださるようお願いいたします。

 この手紙で、この英字新聞の発行部数が六〇〇部であり、それでも同種の新聞よりは一〇〇部も多いことが分かります。また紙名からすると、この新聞は広告を主体とする日刊紙だったと推測されますが、同時に日本で起きている労働争議に関する記事なども掲載していたことが明らかで、新聞紙としての体裁を整えていたことも確かです。さらに、同社の所在地は、横浜市居留地四九番でした。これは、岩三郎から房太郎の許に転送されてきた手紙の封筒に記された転送先の宛名から分かります。アドヴァタイザー社住所入り封筒居留地が発行所になっているということは、外国人が経営する新聞社で、主として横浜・東京在住の外国人に向けて発行されていたものでしょう。なお、雑誌『太陽』は房太郎の肩書きを「神戸の英字新聞『アドバーダイザー』記者」と紹介しています*5。 しかしこれが横浜で出されたものであることは、上掲書簡などから明白です。おそらく、同誌に掲載された「日本における労働問題」の原稿が、マチアス神戸入港中に寄稿されたものであったことから、誤解したものと思われます。
 アドヴァタイザーの翻訳記者の仕事に房太郎は満足してはおらず、ほんの腰掛けのつもりで働いていたことも、上掲書簡から明らかです。






*1 一八九六年七月五日付のこの手紙は、同月二二日付の手紙とともに『アメリカン・フェデレイショニスト』第三巻第八号(一八九六年一〇月号)に掲載された。同書簡の原文は本著作集、Fusataro Takano Papersに収録済み。

*2 手紙と同時に送られた論稿は日本の雑誌『太陽』、『ガントン雑誌』にも掲載された「日本の労働問題」である。

*3 詳しくは一八九六年七月二二日付高野房太郎よりゴンパーズ宛書簡の原文参照。

*4 このゴンパーズ書簡の現物は残っておらず、フィリップ・フォーナー教授によってタイプされたコピーとしてのみ残っている。一八九六年七月二八日ゴンパーズより房太郎宛書簡原文参照。それによれば、書簡冒頭の日付は七月二三日である。しかし、七月二二日付書簡への返信が翌日に書かれることは不可能であるだけでなく、このゴンパーズ書簡への返信である一八九六年一〇月一〇日付の高野房太郎書簡の冒頭には「七月二八日付の手紙を拝受した」と明記されているので、ここでは二三日はフォーナー教授の読み違いと判断し、書簡執筆日付は七月二八日とした。
 しかし、これでもなお問題が残ることは本文に記した通りである。

*5 雑誌『太陽』二巻二一号(一八九六年一〇月)掲載の高野房太郎「北米合衆国における保護貿易主義」冒頭には、同誌記者による次のような「筆者紹介」がある。 

 記者曰く 高野君は方今神戸の英字新聞『アドバーダイザー』記者なり。久しく米国に留学し、最も英文を善くし、さきに「日本における労働問題」の英文一編を軍艦中より本誌に寄せられ、前号にこれを掲げしが〔後略〕。





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