二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(五八)

六 労働運動家時代

「社会政策学会ニ列シ遂ニ会員トナル」

高野房太郎日記、博文館当用日記

 一八九七(明治三〇)年一月二六日、房太郎は横浜戸部町の下宿を引き払い、東京に移り住みました。労働運動を始めるとなれば、やはり東京でないと、なにかと不都合だったからでしょう。同日の日記には「此日午前十時半河合氏ト共ニ出京ス。途ニ城、沢田両氏ヲ訪フ」と記されています*1。この城は言うまでもなく城常太郎であり、沢田は沢田半之助、ともにサンフランシスコ職工義友会の同志で、房太郎と相前後して帰国していたのでした。おそらくこの時に〈職工義友会〉再建の相談が始まったものでしょう。東京での新しい住所は本郷区駒込東片一四三番地*2、たぶん母が経営していた学生下宿の一室に落ち着いたものと思われます。

 引っ越しから一〇日ほどたった二月七日午后、房太郎は弟の岩三郎といっしょに、神田今川小路の玉川亭ぎょくせんていで開かれた社会政策学会の例会に出席しました。玉川亭はいわゆる〈貸席〉で、学生などの会合によく使われ「煎餅を囓り番茶を飲みながら談論」*3するような場所でした。社会政策学会の会場には、ほかにも新橋のカフェ・有楽軒、日比谷の甲午倶楽部、外神田の貸席・青柳亭、神田の学士会事務所なども使われましたが、玉川亭は一番よく利用された場所でした。
高野房太郎日記、1897年2月7日、「前日鈴木君来リ日耳曼関税目翻訳ヲ引受ク 此日午后九段坂下玉川亭ニ至り社会政策学会ニ列シ遂ニ会員トナル 夜大沢氏ヲ訪フ在ラズ」

 社会政策学会は、日本における社会科学系の学会では国家学会に次いで古い歴史をもつ団体で、一九一〇年代には日本の経済学界を代表する存在でした。ただその前身はごく小規模な研究会で、一八九六(明治二九)年四月に帝国大学法科大学で経済学を学ぶ少数の学徒によって結成されたばかりでした。創立の中心になったのは法学士・桑田熊蔵、同山崎覚次郎らで、高野岩三郎もその創立当初からのメンバーだったのです。この社会政策学会初参加のことを房太郎日記は次のように記録しています*4

 此日午后、九段坂下玉川亭〔正しくは玉泉亭……と記して来たが、これは誤り。日記の記述通り玉川亭が正しい(009.5.28)〕ニ至リ、社会政策学会ニ列シ、遂ニ会員トナル〔強調は引用者〕

 つまり、この日、房太郎は単に研究会への出席を認められただけでなく、学会の会員として正式に承認されたのでした。この「遂ニ会員トナル」という短い一句には、「万感胸に迫る」とでも言いたげな房太郎の胸中に生起したさまざまな思いが込められています。その感慨の主なものは、高等小学校卒業の学歴しかない自分が、帝国大学を卒業した学士や博士と肩を並べて議論を交わす場に正式に参加を認められたことの喜びだったことは、まず間違いのないところでしょう。それに、弟の岩三郎が学会の創立メンバーの一人であり、その推薦がものを言ったことにも、いささかの誇らしさや嬉しさを感じたものと思われます。岩三郎が帝国大学で学ぶことが出来たのは、房太郎の毎月の仕送りがあってのことでしたし、大学院で「労働問題を中心とする工業経済学」を専攻していたのは明らかに兄の影響でしたから。
 しかしそうした嬉しさの反面、次男であるため学業に専念できて〈学士〉の称号までかちとった弟への、いささかの妬ましさと劣等感の混じった、複雑な思いも湧いてきたのではないでしょうか。いずれにせよ「遂ニ会員トナル」という言葉には、房太郎が前々から社会政策学会の会員になりたいと切望していた事実がうかがえます。
 房太郎はかねてから、労働組合運動を日本に根付かせるには有識者の支援が不可欠だと考えていました。それには、何よりもまず労働問題に関心をいだく知識人と交流し、その協力を得る必要がありました。そのため、すでに五年も前にアメリカから「金井博士及び添田学士に呈す」と題する論稿を『国民新聞』に寄せ、「余は両君が日本帝国のために立って労働者結合の組織に尽力せられんことを切望す」と呼びかけていたのです*5。その房太郎にとって、金井延博士の弟子たちによって組織された社会政策学会への入会を認められたのは、日本における労働問題研究でのトップレベルの知識人と知り合い、労働問題について討議する場を得たことを意味しました。また、社会政策学会の会員になったことで、多くの開明的な知識人と知り合いになる機会も増したでしょう。
 もっとも、社会政策学会の会員の多くは、房太郎の主張をすぐには理解してくれなかったようです。例会直後の二月二〇日にゴンパーズに送った手紙で、房太郎は次のように述べているのです*6

 今の私には、海の向こうの友人からの激励が何よりの支えです。わが国では、〈労働者の友〉を自称する人びとからさえ、私の事業に協力はおろか、私の苦労への同情の声も期待できません。彼らは社会主義を論じ、工場法の必要性を語りますが、誰一人として労働組合の可能性について理解する者はおりません。この問題についていえば、彼らは労働運動の実際について初歩的なことさえ知らないのです。かくて私には、働く民衆だけでなく、いわゆる労働者の友人に対しても、組合の必要性を教えるための大仕事があるのです。〈労働者の友〉に対する教育について言えば、現在のところはほとんど何もなしえず、ただわれわれに敵対しないようにしている程度です。

 ところが、こうした悲観的な見通しを述べた直後、3月の社会政策学会例会で、房太郎は有力な支持者と出会いました。〈秀英舎〉舎長・佐久間貞一の知遇をえたのです*7
 佐久間貞一は嘉永元年五月(一八四八年六月)、佐久間甚右衛門の長子として下谷南稲荷町に生まれました。房太郎より二〇歳ほど年長ということになります。甚右衛門は江戸近郊の農民でしたが、幕府の〈御賄方〉の株を買って武士になった男です。貞一はその後を継いで幕臣になったのですが、あいにく徳川家の滅亡に際会します。「俄か侍」の御家人ながら、貞一は彰義隊に加わり、戊辰戦争で官軍に抵抗、維新後は徳川家達に従って静岡に移住するなど「最後の幕臣」としての意地を貫きます。武士としては志を得なかった佐久間ですが、実業界に転身してからは、その独自性と先見性で相次ぐ成功をおさめました。天草島民を率いての北海道開拓で成果をあげた後、ウィーン万博の帰途に名古屋城の金鯱などの出展品を満載して伊豆沖で沈没したフランス船ニール号の引き揚げに成功するなど、異色の「ベンチャー起業家」として注目されました。さらに一八七六(明治九)年一〇月、活版印刷業に乗り出し、ここで大きな成功を収めることになります。それが秀英舎、今日の大日本印刷の前身です。その後も、大日本図書会社、東京板紙会社などを創業、いずれも成果をあげました。一八八九(明治二二)年には東京市会議員に選ばれ、以後4回当選しています。また、活版印刷業組合、東京石版印刷業組合などの創立に参加し、両組合で頭取に就任、さらに東京商業会議所議員、同工業部長、農商務省の農商工高等会議員などに選ばれ、業界のリーダーとしても活躍しました。
 佐久間貞一は、実業家でありながら、早くから労働組合の役割を認識し、一八九二(明治二五)年には「職工組合の必要」と題する論稿を発表しています。この論文は、職工の賃金下落は資本の利益であるとの考えを批判し、労働者の生産者、消費者としての役割が経済を支える要因として重要であると主張しました。そして、「人為の圧制による賃金低下」を防ぐ手段として「職工組合=ツレード・ユニオン)の必要を説いたのです。これは、まさに房太郎のかねてからの主張と一致する考えでした。さらに佐久間は、単に理論面で労働組合の重要性を論じただけでなく、労働組合期成会の創立より一三年も前に、活版工組合結成の企てを支援した人でもあったのです。
 こうした経歴をもつ佐久間は、社会政策学会の場で出会った房太郎と意気投合し、彼の有力な後援者となります。詳しくは次回に譲りますが、とりあえず『房太郎日記』のなかから、両者の出会いに関わる記述を抜き書きしておきましょう。

三月六日(土)
「午后学士会ニ至ル。金井博士、佐久間貞一君ノアルアリ。佐久間君ノ労働ノ談甚タ面白カリシ。」

三月一〇日(水)
「此夜佐久間貞一氏ニ出状シ、十二日ニ面会ヲ求ム。」

三月一二日(金)
「午前九時佐久間貞一君ヲ訪フ。談一時余、去リテ城氏ヲ訪フ。」

三月二二日(月)
「此夜佐久間貞一君ヨリ四月六日工業協会惣会席上ニテノ演説ヲ依頼シ来ル。直ニ承諾ノ旨ヲ申送ル。」

三月二九日(月)
「午前九時佐久間氏ヲ訪ヒ趣意書ノ印刷ヲ依頼シ他ニ用談ヲナシ十時半帰宅ス。」

四月六日(火)
「午后一時ヨリ錦輝館ニ至リ工業協会惣会ニ列ス。竹内常太郎君勤倹貯蓄ヲ弁シ、我レ米国ニ於ケル職工ノ勢力ヲ弁シ、田島錦治君産業組合ヲ論ズ。」


*1 この「出京」が単なる一時的な上京でなかったことは、その前々日、前日と、猪飼、三堀、河合、角田、古谷といった講学会以来の友人たちと送別の宴を開いていること、前日二五日に下宿料五円を支払っていること、二八日に荷物運賃1円二三銭を支払っていること、さらにその後の足どりから、明らかである。

*2 一八九七年三月一三日付のジョージ・ガントンから高野房太郎への手紙の宛名は、この住所になっている。

*3 山崎覚次郎「〈社会政策学会〉及び〈経済学攻究会〉の濫觴」(山崎覚次郎『貨幣瑣話』一九三六年所収)。引用は『社会政策学会史料』(御茶の水書房、一九七八年)による。

*4 高野房太郎伝とは無関係な問題だが、社会政策学会史の上で注目されるのは、一八九七年二月の段階ですでに社会政策学会の名が使われている事実である。通説は、河合栄治郎『金井延の生涯と学績』の記述にしたがい、同年四月二四日の例会で協議の上、社会政策学会と定めたということになっている。
 『高野房太郎日記』の記述は、この正式決定に先立って「社会政策学会」の名がすでに広く用いられていたことを示している。

*5 高野房太郎著『明治日本労働通信──労働組合の誕生』(岩波文庫、一九九七年)二八九〜二九三ページ参照。

*6 この手紙の全文は、高野房太郎著『明治日本労働通信──労働組合の誕生』(岩波文庫、一九九七年)三八〜四〇ページ参照。

*7 佐久間貞一については、佐久間貞一著、矢作勝美編『佐久間貞一全集』(大日本図書、一九九九年)参照。





『高野房太郎とその時代』目次  続き(五九)

ページの先頭へ