職工義友会は、一八九七(明治三〇)年四月初旬に『職工諸君に寄す』を刊行し、労働者に向けて組合結成を呼びかけたのですが、すぐには次の活動に移りませんでした。『日記』を見る限り、房太郎はその後二ヵ月ほどは柔術の稽古をしたり、友人の大沢竜吉や鈴木純一郎と夜の巷を遊び歩いたりと、労働運動家としてはいささか悠長にすぎる日々を送っているのです。
ことによると『職工諸君に寄す』に対する労働者の反応が乏しく、意気消沈していたのかもしれない、とも考えました。しかしいろいろ調べて行くうちに、そう簡単には言いきれないことが分かって来ました。ごく限られた範囲とはいえ『職工諸君に寄す』の影響とみられる事実を発見したからです。
たとえば、房太郎『日記』五月二日の項には「此日午前小出吉之助氏来ル」と記されています。この小出吉之助は、まもなく労働組合期成会の常置委員・運動委員*1となる男で、秀英舎の欧文校正工でした。のちには厚信会や欧友会にも参加した小出が、この時期に自分からすすんで房太郎を訪ねているのは、『職工諸君に寄す』の反響のひとつであったと考えて、まず間違いないでしょう。
さらに注目されるのは、横浜の船大工と職工義友会との関係です。実は労働組合期成会が生まれる一ヵ月も前に、横浜および周辺二郡の船大工約四〇〇人は労働組合を結成し、賃上げを要求してストを決行するなど、活発な運動を展開していました。その模様は、房太郎が『アメリカン・フェデレイショニスト』への英文通信で報じています*2。かなり長い報告ですが、重要な出来事を詳しく、かつ明快に伝えていますので、まずこれを見ておきましょう。なお、この組合はいまの企業別組合とは違い地域別の同職組合です。当然のことながら、組合員は単一の企業に雇われていたわけではない点にご注意ください。
さる六月五日、わが国の有名な港・横浜とその周辺の二つの地域の船大工全員四〇〇人が集まり、「横浜船大工組合」という名称の組織をつくりました。この組合が最初に実行したのは、一日につき一七銭の賃上げ要求──これは約二二パーセントの昇給に等しい──を決議することでした。この決議は、満場一致、拍手で採択されました。そして彼らは、過去二年間に生活必需品の価格は四〇パーセントも上昇したのに、この間、船大工の賃金はまったく変わらなかったことを述べた嘆願書を作成し、二日後に、これを雇い主全員に提出しました。
数人の造船所所有者は──彼らは総計約一〇〇人の船大工を雇っているのですが──、この当然の要求をすぐに承認しました。しかし、日本郵船会社から強力に後押しされている頑強な相手の横浜船渠会社を先頭に、他の雇用主はこの要求をにべもなく拒絶しました。嘆願につぐ嘆願、物乞いと言ってもよいほどの賃上げ嘆願が行われましたが、無駄でした。雇い主たちはこの控えめな嘆願に耳を貸さなかったばかりか、なかにはストを挑発する者さえいました。横浜船渠会社の場合には、賃上げに固執する従業員の永久ブラックリストを作成すると脅迫さえしたのです。
目的遂行のためには他に方法がないと分かり、最初の嘆願から一〇日後の一七日、ついにストライキが宣言され、三〇〇人以上の大工が持ち場を離れました。こうして、この国の産業の歴史においてきわめて注目すべきストライキが始まったのです。注目すべきというのは、第一に、これまでこの国で起こった多くのストライキのように、罷業者側が早まったスト宣言をしなかったことです。スト宣言に踏み切るまでには、さまざまな形で控えめな嘆願が続けられました。彼らは、従来の他のストライキのように早々とスト宣言をし、十分に活動を展開しえないまま、つかの間の勝利で満足するようなことはありませんでした。スト参加者によく見られる無知を考えると、これはきわめて注目すべきことで、その思慮深い慎重な行動はいくら褒めても褒め足りないほどです。第二に、このストライキの注目すべき点は、罷業者たちの落ち着いた振舞いと秩序ある行動です。彼らは教育こそ受けていませんが、新たに結成された資金もない組合の支援のもとで、過激な行動や絶望的な手段に訴えないよう懸命に自制したのです。
スト参加者は、集会の場での飲酒や激論をいっさい禁止する、との指導部の指令を、忠実に守りました。その行動はまことに秩序正しく平和的だったので、いつもなら雇用者側につく警察当局でさえ、彼らに同情を寄せたほどです。
こうした状況が一〇日間続きました。この間彼らは、要求を認めた造船所主のもとで働く仲間が提供した寄付金──各人の日給の三分の一──で生計をたてていました。二七日、船渠会社をのぞくすべての雇主は、一日あたり七三銭(米貨で約三二セント)で妥協し、罷業者の半数は翌日から仕事に復帰しました。船渠会社に対するストライキはなお続けられましたが、スト参加者にとって幸いだったのは、全員が他の雇い主のところで仕事を得ることが出来たことでした。というのは、これまで船渠会社がやっていた仕事が他の造船場にまわってきて、大工仕事の必要性を増したからです。一方、船渠会社は、ほかの地域から大工を連れて来ようとしましたが、罷業者に先回りされていました。会社がそうした行動に出るずっと前に、ストライキの指導者たちは主要港の労働者仲間にストライキについて知らせ、大工たちがこの争議に関わらないよう申し入れてあったのです。この要望は快く受け入れられ、会社は多くの費用と労力を使ったあげく僅か一八人の大工しか確保できませんでした。
ストライキの指導者たちはこのように抜け目のない措置をとっただけでなく、スト破りの大工が横浜に着くと、すぐ造船所のまわりにピケをはりました。その結果、会社の厳重な警戒にもかかわらず、新たに連れてこられた大工のうち三人が説得されて罷業者の隊列に加わりました。そうした事実こそ、このストのもう一つの注目すべき特徴を示しており、いくつかの点で西欧諸国の賢明な指導者のもとで実行されたストライキに匹敵するものといえましょう。こうした的確なストライキ指導と参加者の平和的な行動とによって、会社はついに一〇日ほど前に降参し、罷業者たちは一日七三銭の賃金で妥協し、会社に戻りました。かくて、大工たちの目覚ましい勝利で、このきわめて注目すべきストライキは終わりを告げたのです。
この報道で、横浜船大工組合によるストライキの模様はかなり詳しく分かります。ただ、肝心な職工義友会と横浜の船大工との関係は、ここでは全くふれられていません。しかし実際には、ストライキを始める前から、横浜船大工組合が職工義友会の指導をあおいでいたことは、確かな事実です。房太郎はいま引用した報告書をまとめる一月近く前に、ゴンパーズ宛ての手紙で次のように述べているのです*3。
私は、横浜の船大工組合の指導者たちの相談に乗っています。彼らは、四週間ほど前、ストライキを実行するために組合を結成しました── もっとも、彼らは口ではそれを否定していますが。ストライキはまだ未解決ですが、最後の勝利を目指して、平和的かつ秩序正しく、続けられています。私はこの組合を強固な基盤のうえに築くよう努力し、指導者たちに東京、神戸、大阪の船大工たちと連合するよう強く勧めています。このストライキについては、つぎの手紙で詳しく書くことにいたしましょう。
つまり、横浜船大工組合が整然たるストを展開した背後には、房太郎らのアドバイスがあったのでした。この横浜船大工組合に対する指導・支援こそ、再建された職工義友会が日本国内で最初に関与した労働運動だったのです。この両者を結びつけたのは『職工諸君に寄す』であったと推測されます。それを裏付けているのは、房太郎『日記』の以下のような記述です。
六月一〇日(木)
此日城氏来ル。明日出濱ノコトヲ依頼サル。
六月一一日(金)
午前九時四十五分、城氏ト共ニ出濱ス。
横浜ニテ大沢君ニ面会シ、后四時気車ニテ帰京ス。
六月二〇日(日)
〔前略〕十一時十分気車ニテ出濱シ船渠会社ニ至リ、鉄工場ニ至リ大手川氏妻女ノ案内ニテ船大工事務所ヲ訪ヒ、罷工ノ模様ヲ問ヒ合セ、帰途三堀君ヲ訪ヒ、猪飼、角田両氏来リ会ス。后八時気車ニテ帰京ス。
六月二六日(土)
〔前略〕后七時気車ニテ出濱ス。
六月二七日(日)
此日午前船大工組合ヲ訪ヒ、宮田洗濯其他ヲ訪問ス。
七月一日(木)
此日午前八時家ヲ出テ沢田氏方ニ至リ、城氏、吉田其他ノ人々ト共ニ出濱シ、九十九番館ニ至リ帰途大工職事務所ヲ訪ヒ、五時気車ニテ帰京ス。
六月一〇日に城常太郎が房太郎に横浜行きを依頼したのは、おそらくその前日あたりに、横浜船大工組合の関係者が、城の家を訪ねて来たからでしょう。船大工組合の代表が彼を訪ねて来たのは、『職工諸君に寄す』の奥付に、職工義友会事務所として麹町区内幸町の城の住所が記載されているのを見たからだと思われます。すでに述べたように『職工諸君に寄す』の末尾には、次のように記されていたのです。「組合設立の運動方法、組合の規則、持続方法等詳細の事は本会について問はれなば丁寧に説明すべく、又時宜に依りては助力をも承諾すべし」。
この横浜船大工組合がどのような性格のものだったのか、詳しいことは分かっていません。ただ、一〇人、二〇人規模の小企業で働く組合員だけでなく、数百人を雇用していた横浜船渠会社の名が出てくるところを見ると、伝統的な和船職人としての「船大工」だけでなく、汽船でも船体が木造である場合や艤装を担当する「船舶木工」とでも呼ぶべき人びとも参加していたと推測されます。こうした新職種の労働者が、伝統的な和船建造に従事していた船大工から供給されたであろうことも、容易に予想されます。横浜港を中心とする海運業の発展にともない、この地域における木造船の需要は増加し、それにともなって、「船舶木工」はもちろん、艀や近海航路の小規模船を建造する船大工に対する需要も伸びていたものでしょう。おそらく、和船の船大工たちの間に存在していた太子講を母体に、横浜船大工組合は組織されたものと思われます。
労働組合期成会でも、またその「長子」として誕生した鉄工組合においても、さらには消費組合運動=共働店運動でも、横浜を中心とする神奈川県は東京とならぶ重要な組織基盤のひとつとなりました。そのきっかけをつくったのが、横浜船大工組合と職工義友会の出会いだったことは、容易に推測されます。
*1 小出吉之助が労働組合期成会の常置委員であったことは、片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』参照。なお、一般に広く用いられている岩波文庫本の『日本の労働運動』では、小出吉之助は「幹事」ともとれる位置に記されている。正確なところは、近代デジタルライブラリーの原本を参照のこと。当該箇所のURLはつぎのとおりである。
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40033291&VOL_NUM=00000&KOMA=12&ITYPE=0
岩波文庫本は、おそらく底本として『明治文化全集』第六巻を用いたため、結果的に記述に正確さを欠くものとなったと推測される。
なお、のちに日本印刷工組合信友会を創立し、無政府主義系労働運動の指導者となった水沼辰夫は、秀英舎の習業生時代に、当時、欧文校正工兼習業生の英語教師であった小出吉之助に学んだという(水沼辰夫『明治・大正期自立的労働運動の足跡──印刷工組合を軸として』JCA出版、一九七九年、一五ページ)。
*2 『アメリカン・フェデレイショニスト』第四巻第七号、一八九七年九月。日本語訳は、高野房太郎『明治日本労働通信』(岩波文庫、一九九七年)一三八〜一四一ページにある。
*3 高野房太郎よりサミュエル・ゴンパーズ宛て、一八九七年七月三日付書簡。日本語訳は、高野房太郎『明治日本労働通信』(岩波文庫、一九九七年)五一ページ。