今回は《番外編》、鈴木純一郎に関する調査結果の中間報告第二回です。鈴木純一郎は、房太郎が運動を始める前から個人的に親しくつき合い、運動面でも他の誰より頼りにしていた男でした。日本の労働組合運動が誕生したまさにその瞬間、片山潜以上に重要な役割を演じながら、忘れ去られているこの人物について、この機会にいくらかでも明らかにしておきたいと考えてのことです。すでに第六八回「鈴木純一郎のこと」で、房太郎と鈴木との関係、さらには期成会における鈴木の役割については触れました。その後の調査で、鈴木の経歴について、僅かながら新たに分かった事実があります。高野房太郎伝としてはやや横道に逸れる嫌いなしとしませんが、この際つけ加えておきましょう。
鈴木純一郎は、いまだに生年、没年ともに不詳です。もっとも、房太郎とほぼ同世代、おそらくはやや年長ですから、幕末の生まれとみてまず間違いないと思われます。また、一九一一(明治四四)年九月に東京高等工業学校の講師を退職したことが分かっています*1。いま分かっている限り、これが彼の生存が確認される最後のものです。その後、社会政策学会大会記録などに彼の名が出てこないところをみると、このころ病に倒れたか、亡くなった可能性があります。
本籍地だけは、あちこち調べまわった末、ようやく判明しました。岩手県胆沢郡古城村一八五番戸です*2。現在の住所でいうと、岩手県胆沢郡前沢町
しかし、肝心の学歴については、まったく分かっていません。ただ前回述べたように、社会政策学会および経済学攻究会の創立に参加し、後者では和田垣謙三とともに幹事をつとめていましたから*3、経済学研究者と認められるだけの学歴の持ち主だったと思われます。また一八九七(明治三〇)年三月二五日に和田垣謙三と連名で「経済学術語対照表」を発表しており、英語の本や論文も翻訳していますから、英語力はあったようです。
ただ鈴木は、肩書きに「学士」などの学位を使っていないので、社会政策学会や経済学攻究会の他の創立メンバーのように帝国大学の卒業生でないことは確かです*4。外国語学校、高等商業学校など、出ていそうな国内の高等教育機関の卒業生名簿も調べてみましたが、鈴木純一郎の名は見あたりません。あるいは海外の大学で学んだのかもしれませんが、『土佐日記釈義』という国文学書を校閲しているところを見ると、主たる教育は日本国内で受けたものと推測されます。なお、一部の研究書で、彼をエール大学とプリンストン大学大学院で学んだとしているものがありますが、これは史料の読み間違いによるミスだと思われます*5。
職歴の方は、学歴などより、ずっと確かなことが分かっています。彼が通常使っていた肩書きは「東京工業学校講師」、あるいは「東京高等工業学校講師」でした。つまり、最初に就任した学校は「東京工業学校」であり、これが一九〇一(明治三四)年五月に「東京高等工業学校」と改称されたのです。担当科目は「工業経済論」でした。ちなみに同校の創設時の名称は「東京職工学校」、現在は「東京工業大学」です。所在地は、この時期はまだ都心の浅草蔵前にありました。
鈴木が同校に在任していた期間は一八九五(明治二八)年九月から一八九八(明治三一)年六月、さらに一九〇〇(明治三三)年一一月から一九一一(明治四四)年九月まで、通算一四年ほどです。なお一八九八年から二年余の空白期間は海外留学によるものです。なお一九〇四(明治三七)年二月から一九〇五年一〇月まで、後に述べるような事情でアメリカに滞在していますが、この間「東京高等工業学校講師」の身分は確保されていました。
ところでこの「講師」のポストは専任職ではなく、これだけで生活が成り立つものではなかったと思われます。房太郎と行動をともにした一八九七(明治三〇)年ころ、彼の主たる職場は、農商務省の貿易品陳列館でした。そのことは、房太郎の日記で確かめることが出来ます。房太郎が鈴木を訪ねる時には、鈴木の自宅でなければ農商務省貿易品陳列館に赴いています。ただし、鈴木純一郎の名は、農商務省職員録には記載されていませんから、ここでも専任ではなかったと思われます。『東京工業学校一覧』での鈴木の肩書きの中に「農商務省貿易品陳列所事項、海外貿易事項調査嘱託」とするものがありますから、海外貿易に関する調査担当嘱託だったのでしょう。しかし嘱託としては異例の厚遇を受けており、「商業視察」を名目に、二年半もの間、農商務省から海外留学を命ぜられています。その事実を報じた『労働世界』第一四号(一八九八(明治三一)年六月一五日付)は次のように述べています。
●鈴木純一郎君の欧米漫遊 労働組合同盟期成会評議員にして労働世界の記者たる同君は本月一七日横浜を解纜し欧米漫遊の途に就かる。特に英国には二ヶ年以上滞在せらるゝ所定なり
記事の見出しが「欧米漫遊」となっているように、鈴木はアメリカに半年近く滞在したあと、イギリスに渡り、ここで経済学を学んでいます。「鈴木純一郎氏の帰朝」と題する『労働世界』第六八号(一九〇〇(明治三三)年一二月一日付)は、次のように伝えています。
今を去る三年前の事なりき。吾人が我敬友鈴木純一郎氏の海外渡航を送りたるは。氏は横浜より出帆し桑港 に上陸、北米を横断し紐育 府より英国に至り、龍動 府に滞在する事年余。亦世界有名のケンブリツジ大学に経済学及び工業史等を研究し、後全欧州を漫遊し至る処に工商業及労働者の実情を観察し、茲に無事帰朝せられたり。氏去る七日我社を訪問せられ、談数刻に移る。氏は暫らく自説を発表せずと記者の間に辞す。然れども氏は社会主義に同情ある事は慥かなり。然り自ら社会主義者なりと称す。氏は社会改良主義なる者あるを信ぜず。
帰国後の『東京高等工業学校一覧』では、鈴木の肩書きは「フェロー・オフ・ローヤル・スタティスティカル・ソサイチー(英国王立統計協会会員)」、「メンバー・オフ・ブリティシッ・エコノミック・アッソシエーション(英国経済学会会員)」となっていますから、在英中にこれらの学会に入会したものでしょう。また帰国直後の一九〇〇(明治三三)年一一月に開かれた社会政策学会の例会「巴里博覧会の社会経済部の状況について」報告しています*6から、イギリス滞在中にパリ万国博覧会を視察したことは明らかです。もっとも「商業視察」という外遊目的からすれば、パリ万博の視察こそ、農商務省から命令された本来の使命のひとつだったのでしょう。
ここで生ずる疑問は、一嘱託にすぎない鈴木が、なぜ「欧米漫遊」と称するほどのノンビリした、しかも長期の海外出張を認められたのか、ということです。時の農商務大臣は退任直前の金子堅太郎でした。どうやら鈴木は農商務次官、農商務大臣を歴任した金子堅太郎から、特別に目をかけられていたらしいのです。彼の勤務先である貿易品陳列館は、金子堅太郎が農商務次官時代に、金子の発案で設立された施設でした*7。また、金子堅太郎が一九〇二(明治三五)年一一月にその著書『経済政策』を大倉書店から出版した際、雑誌などに既発表の論文や講演記録を集め、これを編集したのも鈴木でした*8。さらに注目されるのは、金子堅太郎は、日露開戦に際して伊藤博文の懇請によって渡米し、ハーバード大学卒業の人脈を生かし、一年半にわたり対日世論を改善する宣伝工作に従事しています*9が、その際、鈴木純一郎は随員として、金子と終始行動をともにしています。これらの事実から推して、鈴木純一郎が金子堅太郎と個人的に密接な関係にあったことは、まず間違いないと思われます。
鈴木の研究業績のなかで、もっとも良く知られているのは、日本の労働問題研究の先駆的な作品ともいうべき「我国ニ於ケル同盟罷工ノ先例」と題する論文でしょう。一八九六(明治二九)年一〇月刊行の『国家学会雑誌』に発表されています。同じ頃『東洋経済新報』にも「職工誘奪予防方策」(一八九六年一一月)をはじめ、翻訳「クルップ鉄工場職工管理事情(一)〜(七)」(一八九七年四月〜九月)、「工場法制定に就いて」(一八九七年八月二五日)、「工場法制定の目的」(一八九七年九月二五日)、「所謂職工誘奪問題」(一八九七年一一月一五日)などを発表しています。さらに一八九九(明治三二)年一一月には、池部駒男との共訳で『銀行事務』と題する実務書を大倉書店から刊行しています。
また、一九〇三(明治三六)年二月『経済世界』臨時増刊号に「労働政策」を執筆。さらに、大隈重信編『開国五十年史』下巻(開国後十年史発行所、一九〇九年刊)に収められている「工業誌」を執筆しています。
以上のように見てくると、鈴木純一郎の専攻分野は労働問題を主とする経済政策であったことは明らかです。しかし実際には、この他にも、彼の著作として以下のようなものがあります。
☆『国民要意 内地雑居心得』(袋屋書店一八九四年五月)
☆『日清韓対戦実記』(東生書舘、一八九四年八月)
☆『日清戰争軍人名譽忠死列傳』(尚古堂 : 弘文舘、 一八九四年年一一月)
☆『帝国軍人文鑑』(辻本尚古堂、一八九五年四月)
見られるとおり上の三冊は時事的な著作であり、最後のものは軍人向けの実用的な文章読本です。以上の他にも館森鴻編『土佐日記釈義』(尚栄堂ほか、一八九六年四月)の校閲をしていることはすでに述べたとおりです。
こうした著作は「工業経済論」や労働問題研究者である鈴木の作品としては異質ですから、はじめは同名異人の作品であろうと考えていました。しかし、直接書物を見ると、いずれも「牛台鈴木純一郎」の作品であることが明記されています。「牛台」とは、ほかならぬ東京工業学校講師の鈴木純一郎の号でした。東京市牛込区北町〔現在の新宿区北町〕の高台に住んでいたことに由来する号でしょう。東京工業学校講師に就任する前は、鈴木は文筆家として、これら時事的なテーマについて執筆することで生活を立てていたようです。おそらく金子堅太郎は、鈴木のこうした文筆力と語学力を買っていたものでしょう。
*1 『東京高等工業學校四十年史 : 學制頒布五十年記念』(東京高等工業学校、一九二二年刊)八九ページ参照。
*2 外務省外交史料舘が所蔵している『海外旅券願書』第三巻の二に次のような記載がある。日露戦争の際、金子堅太郎の随員としてアメリカに渡った時のものである。
海外旅券第二〇二〇号 男爵 金子堅太郎
随行員
海外旅券二〇二一号 東京市小石川区竹早町三六番地
東京府士族 阪井 徳太郎
同
岩手県陸中国胆沢郡古城村一八五番戸
岩手県平民 東京市牛込区北山伏町二一番地 寄留
東京工業学校講師 鈴木純一郎
海外旅券二〇二二号
右官命ニ依リ今般米国ヘ赴クニ付外国旅券ヲ下付セリ
明治三十七年二月廿二日 通商局
*3 社会政策学会および経済学攻究会と鈴木純一郎の関わりについては、社会政策学会サイト中の『学会史料集』に収録されている山崎覚次郎「〈社会政策学会〉及び〈経済学攻究会〉の濫觴」参照。
*4 『東京高等工業一覧』などが、鈴木の肩書きについて記しているのは、「フェロー・ヲフ・ローヤル・スタチスティカル・ソサイチー、メンバー・ヲフ・ブリティシッ・エコノミック・アッソシエーション」である。つまりイギリスの王立統計協会会員、英国経済学会会員となっている。その他の場合は「東京工業学校講師」あるいは「東京高等工業学校講師」が使われている。法学士、あるいはバツチェラー・ヲブ・アーツといった肩書きが使われた例はないから、学士号を得る大学を卒業してはいないと思われる。
もし仮に、彼が学位をもっていたとすれば、『労働世界』や労働組合期成会の演説会ビラなどは必ずこれを使ったであろう。
*5 池田信『日本社会政策思想史』一〇四ページ。同書の注ではこのように記した根拠として『東京工業学校一覧』が挙げられている。しかし「バツチェラー・オブ・ロース(北米合衆国エール大学)、マスター・オブ・アーツ(北米合衆国プリンストン大学院)」の学歴を有しているのは、名簿で隣り合わせている同僚の英語講師、外務省翻訳官の小松緑である。これについては、国会図書館の《近代デジタルライブラリー》に収められている『東京工業学校一覧 従明治二十九年至三十年』の一〇ページで容易に確認できる。国会図書館の《近代デジタルライブラリー》に収められており、ここをクリックすれば当該ページを見ることが出来る。
*6 社会政策学会年譜参照。
*7 高瀬暢彦編『金子堅太郎著作集』第一集(日本大学精神文化研究所、一九九五年刊)二六五ページ参照。
*8 同書の金子堅太郎による「序文」の末尾には次のように記されている。
本書の編輯に就ては鈴木純一郎君の労を煩はす茲に其厚情を深謝す
国会図書館の《近代デジタルライブラリー》で当該箇所を見ることが出来る。
*9 この金子堅太郎のアメリカにおける活動の詳細については、松村正義『日露戦争と金子堅太郎──広報外交の研究 増補改訂版』(新有堂、一九八七年)参照。
*1 『労働世界』第四〇号(一八九九年)
*2 一八九四年三月九日付、サミュエル・ゴンパーズから高野房太郎宛書簡。同書簡英語原文
*3 『労働世界』第四六号(一八九九年一〇月一五日付)〔復刻版四四四〜四四五ページ〕。
*4 『労働世界』第五〇号(一八九九年一二月一日付)〔復刻版四六八ページ〕。