高野房太郎とその時代 (68)6. 労働運動家時代鈴木純一郎のこと今回は、鈴木純一郎のことを取り上げたいと思います。彼は、房太郎が労働運動を始めた時期に、親しくつき合い、また頼りにした男でした。鈴木については、これまでも何回か言及して来ましたが、いずれも断片的にふれただけでした。彼の経歴には不明の部分が多く、数種の自伝や数多くの研究がある片山潜のように、詳しく述べることが出来ないからでした。しかし、日本の労働組合運動の生成期に重要な役割を果たし、かつ房太郎の生涯にとっても深い関わりがある人物ですから、この機会にできるだけこの人物について調べておきたいと考えています。とはいえ、高野房太郎伝としては横道に入るわけですし、史料的な制約もあるので、さしあたりは、これまで探索した結果についての中間報告にとどまりますが。
房太郎と鈴木純一郎が相知る契機をつくったのが、高野岩三郎であったことは、まず間違いありません。岩三郎と鈴木はともに1896年4月に発足した社会政策学会の創立会員であり、毎月の研究会で顔を合わせる仲でした*1。また、鈴木は東京工業学校の講師として「工業経済」を講じていましたが、岩三郎も大学院で「工業経済論」を専攻しており、同じ分野の数少ない研究者仲間だったのです。現に鈴木が1898年に留学した際は、岩三郎がピンチヒッターとして、東京工業学校で「工業経済」を担当したのでした*2。 さらに鈴木は、横浜アドヴァタイザー社を辞め定収を失った後の房太郎の生活を気遣い、さまざまな配慮をしています。いろいろな文書の翻訳を依頼したり、「仕事の口」を世話しようとまでしています。もっとも、仕事の方は日給1円の「商品陳列舘補助」であったため、房太郎はいささか自尊心を傷つけられたとみえ、「余リ面白キ口ニアラズ」とすぐ断ってしまいましたが*4。また、房太郎が編纂した『和英辞典』や『実用英和商業会話』の刊行について、出版社の大倉書店との間を仲介してくれたのも鈴木純一郎でした。これについては、第56回「和英辞典と英会話本」で詳しく述べたので繰り返しません。鈴木は、すでに何冊もの著書や編著書、校閲書などを出した実績があり、出版社間に顔がきいたのでしょう。いずれにせよ、1897年の前半期、鈴木の支援がなければ、房太郎の生活が成り立ちえなかったことは確かです。 鈴木はまた、房太郎の親しい飲み友達、遊び友達でもあったようです。房太郎『日記』には、二人がしばしば一緒に飲んだことが記録されています。 3月31日(水) ちなみに、房太郎が東京工業協会の総会で演説し、『職工諸君に寄す』を配布したのは、2晩つづけて日本橋相模屋で飲み、夜12時に帰宅した翌日、4月6日のことでした。 こうした私生活の面だけでなく、公的な側面、つまり労働運動の分野においても、鈴木純一郎は佐久間貞一とならんで、房太郎の有力な後援者であり、同志でした。房太郎が執筆したあの歴史的な文書『職工諸君に寄す』には、明らかに鈴木の影響が認められます。その影響とは、文書の冒頭で「内地雑居問題」を論じている点です。 実は、房太郎自身はそれまで、ゴンパーズへの書簡、あるいは日本語論文や英文通信を問わずいかなる論稿でも「内地雑居問題」についてふれていません。労働運動家となる決意を固めた際も、労働争議の頻発などを運動開始の好機と捉えてはいましたが、内地雑居問題を考慮に入れた様子はありません。そんな房太郎が『職工諸君に寄す』を、内地雑居問題から説き起こしたのは、この文書の執筆に鈴木が関与していた可能性を伺わせます。仮にそうでないとしても、房太郎が鈴木の著書『国民要意 内地雑居心得』*5を読んでおり、その影響を受けていたことは、まず間違いないと思われます。
また「労働組合期成会の創立者は誰か?」でも見たとおり、労働組合期成会発足の際、房太郎が誰よりも身近な相談相手として頼ったのは鈴木純一郎でした。また、期成会発起会の費用の6割を負担し、会合でただひとり演説したのも鈴木だったのです。1897年8月1日の第1回月例会で、鈴木は佐久間貞一とともに「評議員」に選ばれています。しかも、鈴木は名前だけの評議員ではなく、しばしば月次会にも出席し、発言しているのです*6。
もうひとつつけ加えると、鈴木純一郎は日本最初の労働歌の作詞者でした。1898(明治31)年4月10日、労働組合期成会が奠都30年祭を利用して日本最初のデモ行進をおこなったのですが、その際に歌った「進行歌」を作詞したのが、ほかならぬ鈴木だったのです。この歌詞が最初に掲載された『労働世界』第9号には作詞者の名は記されていませんが、片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』には、鈴木純一郎の名が記されています*8。 天に聳える富士の山も 一 お分かりになりましたか? 実は、何の曲を使ったかを、記録した史料は見つかっていません。したがって「正解」は不明です。しかし、私はこの歌詞とぴったり合い、しかも、行進向きの曲といえば、「敵は幾万ありとても」の歌い出しで知られた「敵は幾万」*9であったに相違ないと考えています。いかがでしょうか。
このように見てくると、鈴木純一郎が日本の労働組合運動の生成期において、無視しえない役割を果たした人物だったことは明らかです。にもかかわらず、これまでの日本労働運動史では、鈴木純一郎はほとんど無視されてきました。労働組合期成会について述べた論稿でも、高野房太郎、片山潜、佐久間貞一、城常太郎、沢田半之助らについては必ずふれているのに、鈴木純一郎の名をあげるものはごく限られています。その意味で画期的だったのは、1978年に刊行された池田信『日本社会政策思想史論』(東洋経済新報社)でした。池田氏は同書第4章「工場法論」のなかで鈴木純一郎についてとりあげ、彼が労働組合期成会において果した積極的な役割について的確な評価をくだされています。 【注】
*1 社会政策学会は、1896年4月に桑田熊蔵、8人の研究者によってつくられた小さな研究会です。誕生当時は正式の名称はなく「社会政策学会」と名乗るようになったのは、翌年のことでした。「社会政策学会」創立の経緯については、社会政策学会史料集成別巻『社会政策学会史料』(御茶の水書房、1978年)、とりわけ同書に収録されている高野岩三郎「〈社会政策学会〉創立のころ」参照。 *2 高野岩三郎は東大の大学院で「工業経済論」を専攻していたことは、大島清『高野岩三郎伝』参照。また、鈴木純一郎が東京工業学校で「工業経済」を講じていたこと、また鈴木が留学中高野岩三郎がピンチヒッターをつとめていたことは『東京工業学校一覧』各年参照。 *3 経済学攻究会と鈴木純一郎の関わりについては、山崎覚次郎「〈社会政策学会〉及び〈経済学攻究会〉の濫觴」(山崎覚次郎『貨幣瑣話』1936年所収、上掲『社会政策学会史料』に再録)。 *4 高野房太郎『日記』1897(明治30)年に、次のような記述がある。 3月16日(火) *5 牛台鈴木純一郎著『国民要意 内地雑居心得』(袋屋書店)。同書の奥付には次のように記されている。 明治廿七年五月廿三日 印刷 「牛台」の号は、おそらく牛込区の高台に居を構えていたからつけたものであろう。 *6 「労働組合期成会成立及発達の歴史」、『労働世界』各号参照。 *7 『労働世界』第14号(1898年6月15日)、復刻版138ページには、つぎのような記事が掲載されている。 ●鈴木純一郎君の欧米漫遊 労働組合同盟期成会評議員にして労働世界の記者たる同君は本月十七日横浜を解纜し欧米漫遊の途に就かる。特に英国には二ヶ年以上滞在せらるゝ所定なり。 *8 国会図書館の近代デジタルライブラリーの該当ページ。参照。26ページ、後ろから2行目。
*9 「敵は幾万」は、1891(明治24)年に発表された。作詞山田美妙、作曲小山作之助。第二次大戦中まで日本人の愛唱歌のひとつであった。若い読者に馴染みはないであろうが、つぎのサイトで歌詞とともにメロディを聞くことができる。 http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/tekiha.html |
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