しばらく鉄工組合ばかり取り上げて来ましたが、「労働運動家時代」を閉じる前に、労働組合期成会をめぐるいくつかの問題について検討を加えておこうと思います。房太郎の主な活動の場は、鉄工組合だけでなく、労働組合期成会でもありましたから。対外的な活動舞台という点では、むしろ期成会の方が大きな役割を果たしていました。東京市内や横浜、横須賀、大宮などで開いた数多くの演説会、東北遊説や工場法制定運動、日本最初のメーデー集会を意図した「大運動会計画」などは、いずれも期成会の企画でした。さらにつけ加えれば、鉄工組合の組織や活動はすべて海外の運動体験に学んだものでしたが、労働組合期成会の構想、すなわち知識人が主導する労働組合運動についての宣伝教育機関を組合に先立って設立するという構想は、房太郎が自分の頭で考え、ゴンパーズをも説得して採用したものだったのです*1。
あらためて言うまでもなく「労働組合期成会」は日本に労働組合運動を広げようとする人びとの集まりでした。そのメンバーであることが参加者個人の利益になる、といった性質の組織ではありません。その点は、組合員に実際的な利益をもたらすことをセールスポイントとした鉄工組合との大きな違いです。だからこそ、房太郎は知識人に大きな期待を寄せていたのです。その際、彼が想定していたのは、社会政策学会の会員のような労働問題についての研究者だったと推測されます*2。しかし、学会員で期成会に直接協力を惜しまなかったのは弟の岩三郎と鈴木純一郎だけでした。金井延や桑田熊蔵、田島錦治らも労働組合の理解者でしたから、期成会に参加する可能性はあったと思われますが、実現しませんでした。しかし、全体的にみれば、かなりの数の知識人が房太郎らの呼びかけに応え、さまざまな形で期成会の活動に協力しています。
知識人の間でもっとも積極的な活動家となったのは片山潜でした。彼は『労働世界』創刊後はその編集長として毎号のように論説を書くなどして運動内での影響力を増し、ついには房太郎をしのぐ力を発揮するに至ります。片山は、日本の社会運動史上、機関紙を掌握することの重要さを最初に認識した運動家でした。『労働世界』の発行所である労働新聞社が財政難に陥った時、片山はすすんで『労働世界』の経営を引き受けたのです。もともと労働新聞社は、労働組合期成会の会員だけを出資社員として創立された企業です。しかし『労働世界』の継続刊行が困難になるや、片山は単独でその経営を引き受けることを決断し、一900(明治三三)年一0月一日号から片山潜の個人責任で発行する新聞としたのでした。同紙はその後、日刊の『内外新報』、雑誌版『労働世界』、『社会主義』、『渡米雑誌』、『週刊社会新聞』などと改題を繰り返しつつ、明治社会主義運動の機関紙誌の主要な一系列として、一9一一(明治四四)年まで、片山潜の活動拠点であり続けたのです。
片山潜はまた、東京砲兵工廠に近い三崎町にキングスレー館という社会運動の本拠となる施設を所有しており、これも片山潜の影響力を広げる上で大きな力を発揮しました。キングスレー館には数十人規模の集会場となる部屋があり、ここで開かれた職工教育会や市民夜学校などは、労働者教育の場として、片山の協力者を増やして行ったのです。
片山潜は、見かけが無骨で文章力もないため、一般にきわめて不器用な男というイメージをもたれています。確かに頑固で見栄を張らず、金に細かい無粋な人物でしたが、同時に明治社会主義者の間では、抜群の事業家的センスの持ち主でした。『労働世界』の刊行継続のためには、新聞の一面を広告で埋めたり、思い切って広告ページを増やすなどして、定期刊行を維持しました。
また、生計を立てると同時にキングスレー館の経費をまかなうため、種々の新事業を創設し、多面的な活動を展開しています。「三崎町幼稚園」をはじめ「大学普及講演」「青年倶楽部」「日曜の楽しみ」「職工教育会」「夜学会」などは社会事業であると同時に、施設を時間的に無駄なく生かし、その維持費をまかなう上でも役立つものでした。さらに『渡米案内』のように「四五日かかって書生に筆記させて発行したところ大当たりで、一週間に二千部も売れるといった風で、彼の傲慢な東京堂でさえも現金で五百部とか七百部とか買いに来た」*3といった「ベストセラー」を自ら刊行したほか、人を雇ってさまざまな収益事業も経営しています。「会話翻訳専修会」、「帝国交詢社」、「万国郵便切手販売交換」、青少年の投稿雑誌の「筆戦社」、さらには「渡米協会」といった諸組織をつくって収益をあげ、同時に同じ志をもつ若者に職をあたえる場ともしていたのです*4。「帝国交詢社」は、名前だけでは何をする機関か分かりませんが、その事業内容は職業周旋、海外渡航周旋、地方の子弟に対する入学周旋などでした。渡米協会は、アメリカ留学を希望する貧乏学生の援助を目的とした組織ですが、これも「帝国交詢社」の活動から始まったものです。治安警察法下の逆境でも片山が運動を継続し得たのは、単なる頑固さや社会主義に対する信念だけではなかったのです。
労働組合期成会について検討すると言いながら、少し横道にそれてしまいました。ただ、片山潜という、房太郎の協力者であると同時にライバルともなった男について見ておくことは、高野房太郎について知る上でも役に立つでしょう。房太郎に欠けていたのは、片山のような生活態度、つまり見栄を張らず、自らの生活の安定を重視することだったように思われます。
ここで話をもう一度、労働組合期成会に戻しましょう。片山潜のほかに、期成会の活動に加わった知識人には、つぎのような人びとがいました。
★期成会「評議員」……佐久間貞一、鈴木純一郎、島田三郎、日野資秀、村井知至、安部磯雄。
★演説会弁士……佐久間貞一、島田三郎、高野岩三郎、鈴木純一郎、三好退蔵、松村介石、金子堅太郎。
★労働世界』編集者……植松考昭、西川光二郎。
★『労働世界』寄稿家……横山源之助、チャールス・ガルスト(単税太郎)、村井知至、安部磯雄、植松考昭(平民城)、内田不知庵(魯庵)、高野岩三郎、幸徳秋水、河上清。
このうち、村井知至、安部磯雄、西川光二郎、ガルスト、河上清らはキリスト教社会主義者、松村介石、三好退蔵、島田三郎らはクリスチャンで、多くは直接間接に片山との繋がりで運動に協力した人びとでした。房太郎との結びつきから加わったといえるのは佐久間貞一、鈴木純一郎、高野岩三郎、それに佐久間が紹介した島田三郎だけです。
いずれにせよ、日本ではまだほとんど知られていなかった労働組合運動の応援団として、これだけの協力者が現れたことは、房太郎の構想がそれなりの成果をあげたものと見て良いでしょう。ただ当然のことながら知識人だけでは労働組合期成会は成立せず、維持することも出来ませんでした。何より、彼らの数は限られており、財政面で会を支える力はなかったからです。
なにしろ、期成会は金食い虫でした。『労働世界』の刊行には一号あたり三0円ほどかかりました*5。さらに、演説会を開くにせよ、地方遊説をおこなうにせよ、先立つものは金でした。錦輝館や横浜蔦座などを使った大演説会を一回開くとなれば、席料だけで一五円、下足係の日当、宣伝ビラの印刷費などの諸経費を含めれば二0円から三0円近くかかったのです。比較的高賃金の大工や石工でさえ一日五0銭前後、印刷工などは四0銭に満たない頃のことでした。要するに、演説会を一回開くためには労働者一人の一ヵ月から二ヵ月分の稼ぎに相当するお金を必要としたのです。小規模な集会でも7、8円はかかりました*6。さらに地方遊説ともなれば汽車賃や宿代なども馬鹿になりませんでした。こうした経費は、当初のうちは寄附金でまかなわれていましたが、それでは持続的に活動することは困難でした。
実際に財政面で大きく貢献したのは労働者、とりわけ鉄工労働者でした。これは房太郎はじめ職工義友会の面々の予想をはるかに上回るものだったに違いありません。もともと房太郎は、日本の労働者は自ら労働運動を始めることが出来ないほど「無知」であると考え、だからこそ、労働組合期成会のような宣伝啓蒙団体が必要だと考えたのでした。しかし実際には、期成会に率先して参加してきた先進的な労働者は、一般の知識人などよりはるかに良く房太郎らの訴えを理解したのでした。彼らの知的レベルについて、房太郎はあまりにも「無知」だったというべきでしょう。
もっとも『労働世界』がしばしば「堕落職工問題」を取り上げたように、彼の認識がまったくの誤りだったわけではありません。ただ先進的な労働者の多くはいわゆる「上等職工」で、仕事の上で他の労働者を指導する立場でしたから、彼らの熱意は一般労働者をも動かしたのでした。こうした先進的な労働者が積極的に運動に加わってきたことで労働組合期成会は発展し、持続的に活動することが出来たのです。鉄工組合が労働組合期成会においてどれほどの重みを持っていたかは、次に掲げる「期成会々費納入状況一覧」*7を見れば一目瞭然です。
年月 | 会費 | 内鉄工 組合分 |
---|---|---|
1897年12月 | 90円20銭 | 50円00銭 |
1898年 1月 | 12円30銭 | 0銭 |
1898年 2月 | 64円50銭 | 59円40銭 |
1898年 3月 | 98円15銭 | 83円75銭 |
1898年 4月 | 90円00銭 | 79円20銭 |
1898年 5月 | 63円05銭 | 60円00銭 |
1898年 6月 | 110円25銭 | 101円40銭 |
1898年 7月 | 84円85銭 | 80円00銭 |
1898年 8月 | 95円55銭 | 89円55銭 |
1898年 9月 | 121円60銭 | 112円00銭 |
1898年10月 | 91円90銭 | 90円00銭 |
1898年11月 | 103円90銭 | 90円00銭 |
1898年12月 | 66円28銭 | 55円80銭 |
1899年 1月 | 107円70銭 | 96円70銭 |
1899年 2月 | 118円75銭 | 107円95銭 |
1899年 3月 | -円-銭 | -円-銭 |
1899年 4月 | 140円10銭 | 132円40銭 |
年月 | 会費 | 内鉄工 組合分 |
---|---|---|
1899年 5月 | 115円05銭 | 106円85銭 |
1899年 6月 | 21円20銭 | 9円60銭 |
1899年 7月 | 36円50銭 | 29円50銭 |
1899年 8月 | 252円65銭 | 227円75銭 |
1899年 9月 | 5円30銭 | 00銭 |
1899年10月 | 164円70銭 | 150円00銭 |
1899年11月 | 23円55銭 | 17円00銭 |
1899年12月 | 103円60銭 | 139円30銭 |
1900年 1月 | 7円10銭 | 4円50銭 |
1900年 2月 | -円-銭 | -円-銭 |
1900年 3月 | -円-銭 | -円-銭 |
1900年 4月 | -円-銭 | -円-銭 |
1900年 5月 | 9円20銭 | 00銭 |
1900年 6月 | 1円38銭 | 00銭 |
1900年7-8月 | 30銭 | 00銭 |
1900年 9月 | 40銭 | 00銭 |
1900年10月 | 10円21銭 | 00銭 |
1900年11月 | 2円41銭 | 00銭 |
なお、期成会の会費は一人毎月一〇銭でしたが、鉄工組合の組合員の場合は半額の一人あたり五銭で、これを毎月の組合費二〇銭のなかから組合が一括して期成会へ納入していました。したがって、鉄工組合の期成会費納入状況を見れば、鉄工組合の組合員数も判明します。つまり一八九八(明治三一)年中に鉄工組合が納入した期成会の会費は一ヵ月平均七五円〇九銭、これは一五〇二人分になります。翌一八九九(明治三二)年は、一ヵ月平均八四円七五銭、一六九五人分になります。これに対し、一九〇〇(明治三三)年になると、鉄工組合からの会費納入額は激減しています。二月〜四月はデータが欠如しているので正確なことは分かりませんが、五月以降は完全にゼロになっています。これはおそらく一九〇〇年六月九日決定の「鉄工組合刷新策」で組合費の使途をつぎのように決めたことと関わっていると考えられます。
三、 組合之経費支途を改正して
(イ)本部費及死亡救済金拾銭、
(ロ)支部費弐銭、
(ハ)新聞一回之代金弐銭、
(ニ)積立金を六銭とする事
前々回、この「刷新策」を見たときには触れませんでしたが、鉄工組合の支出項目に「労働組合期成会々費」がまったく計上されていません。もともとは組合員一人につき五銭を期成会費として納め、その対価的な意味合いで『労働世界』を月二回、組合員には無料で配布していたのですが、この「刷新策」では、期成会費を納める代わりに「新聞一回之代金弐銭」が計上されたのでした。つまり期成会への会費納入をやめ、月一回の『労働世界』代金として労働新聞社へ二銭を支払うことを決定した形です。
鉄工組合からの会費納入がなくなったことは、期成会にとって、また房太郎にとって、手足をもがれたに等しいことでした。鉄工組合以外の会員からの会費も、一九〇〇年五月から一一月にかけての七ヵ月間で二三円九〇銭、つまり月平均三円四一銭です。鉄工の力で発展してきた労働組合期成会は鉄工組合と運命をともにしたのです。というより、鉄工組合の壊滅に先だって、労働組合期成会は壊滅状態に追い込まれていたと見るべきでしょう。
*1 高野房太郎『明治日本労働通信』(岩波文庫)一八〜一九ページ参照。
*2 房太郎は、ゴンパーズに面会する前に、アメリカ労働総同盟機関誌『アメリカン・フェデレイショニスト』に寄稿した論文で以下のように述べています。
日本に労働運動が存在しないことの原因が無知にあることはよく知られていますが、その治療法も同じく周知のことです。すなわち、人びとを奮い立たせ、組織し、教育することです。〔中略〕日本で労働運動を創始するには、この方策、つまり人びとを奮い立たせ、組織し、教育することしかなく、私は何のためらいもなく、これを推奨します。しかし、この方法には慎重な配慮を要する他の側面、実際的な側面があります。
それは、労働者が運動への参加呼びかけを待ち望むことさえ不可能な状況なのに、どうすれば彼らを奮起させることができるか、ということです。働く人びとの側に運動参加への意欲が欠けているところでは、いかに強力な呼びかけを行っても、それだけで彼らの大多数を翻意させ、労働者自身の力で労働条件を改善する事業に着手させることは困難です。実際問題としては、人びとを労働運動に参加させる原動力となり刺激の源泉となる人を、どこか別のところに見いださねばなりません。〔中略〕
では、われわれは、この運動参加の動因の供給者を誰に期待したらよいのでしょうか。活動の創始者となる人びとをどこに求めたらよいのでしょうか。この国の有識者の他にはありえません。彼らはこの国を現在の文明の段階にみちびいた先達であり、一滴の血も流さずに代議政体を導入するうえで重要な貢献をした人びとです。〔中略〕そこでわれわれは彼らに期待したのですが、失望させられました。まったく、ひどく失望させられたのです! なぜなら、労働運動についての彼らの無知は、労働者の知性の欠如よりいっそうひどいからです。たしかに彼らは労働問題の理論はいくらか知っていますが、そのうち何人が労働問題の現実的な意義を理解しているでしょうか。彼らが現実の労働問題の本質について知るところがいかに少ないか、まったく驚くばかりです。私は、工場法制定の必要性を説いているすぐれた学者を知っていますが、その彼でさえ労働組合組織のもつ大きな利点を考えたこともないのですから、一般の有識者が労働組合についてどのように考えているかは推して知るべしです。
この国において、唯ひとつ労働運動を始めうる立場にある有識者がこのような状況ですから、労働運動を創始しようとする企てはまさに絶望的です。しかし、私のみるところ、有識者に彼らの活動の必要性を理解させるのは、労働者に組織的運動の必要を理解させ行動に立ち上がらせるのに比べれば難かしくはないと思われます。少数の先駆者にとって、労働者を教育し運動の必要性を理解させることは、不可能ではないまでも、困難な仕事です。だがやがて、われわれは成功するでしょう。
房太郎が「工場法制定の必要性を説いているすぐれた学者」と述べたとき、念頭にあったのは金井延、添田寿一らであったに違いない。「金井博士及び添田学士に呈す」〔高野房太郎『明治日本労働通信』(岩波文庫)二八九〜二九三ページ〕参照。なお、上に引用した論稿全文も同書八三〜九七ページに収めてある。
*3 片山潜『わが回想(上)』(徳間書店、一九六七年)二四九ページ。
*4 『労働世界』各号の広告欄参照。『労働世界』は運動の機関紙であっただけでなく、片山個人の事業の宣伝にも大いに活用されたのであった。
*5 「鉄工組合本部臨時本部委員総会議事録」につぎのように記されている。
▲武田君 千人くらいの人にやる新聞は僅かの金ならん。
▲議長 三十円くらい入用なり。二回にすれば期成会へ五銭ずつ払わねばならぬ。
『労働世界』第五五号(一九〇〇年二月一五日付付録、復刻版五一七ページ)。
*6 演説会を開くための費用明細は『労働組合期成会寄附・演説会費・出版物控』(法政大学大原社会問題研究所所蔵)に記されている。
*7 この表は『労働世界』各号に掲載された「労働組合期成会会計報告」の収入欄のうち繰越金を除いて集計したものである。鉄工組合からの会費納入はしばしば遅れ、複数月分を一括納入している場合がある。ここではすべて実際に納入された月分として計上している。なお、一八九九年一二月は、繰越金を除いた収入総額一〇三円六〇銭に対し、鉄工組合分は一三九円三〇銭と矛盾した数値が掲げられている。おそらくどちらか、あるいは両者とも誤っている可能性があると考えるが、それを判断しうる材料がないので、そのままにした。