二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(九四)

運動からの離脱

1900(明治33)年9月1日付『労働世界』第65号掲載の記事。

 一九〇〇(明治三三)年八月二四日、房太郎は片山潜、安部磯雄らとともに、埼玉県大宮町に行き、末吉座での労働問題演説会に出演しました。大宮は、当時は国鉄を上回る日本最大の鉄道だった「日本鉄道会社」の主要工場があった町で、多数の鉄工労働者が住んでいたのです。この工場には鉄工組合最強の第二支部がありましたが、同年三月の待遇改善運動を境に、活動家は解雇され、残る組合員も経営側の圧迫によって脱退に追い込まれ、組合は壊滅状態に陥っていたことはすでに見たとおりです。
 房太郎のこの日の演説について『労働世界』はつぎのように報じています*1

 高野氏は工場が組合に反対するの非を指摘して、また欧米の実例を列挙して以て職工組合に同情を有するは独り職工の利益のみならず結局は工場の利益なるを説き、暗に大宮工場の組合撲滅策の愚昧なるを痛論し去って余す所なく拍手喝采の中に結論し〔後略〕。

 この演説は、高野房太郎の日本への別れの挨拶でした。この演説を最後に、房太郎は労働運動から離れ、また日本からも離れてしまったのです。演説は日本の労働者に向けての別れの言葉であると同時に、経営者や政府に対して労働組合排斥の愚を説くもので、これは終始一貫変わらない彼の持論でした。
 一八八九(明治二二)年にジョージ・マクニールの『労働運動──今日の問題』を読んで労働運動に開眼してから数えれば一一年の後、房太郎は二〇歳から三一歳の多感な青年時代のすべてを賭けて自らに課してきた使命の追求を断念したのでした。その事実は、演説会の記事を掲載した『労働世界』の同じ号に載せられた短信から判明します*2

 ◎高野房太郎氏  は愈清国へ渡航せらるるよし。氏や其共営店に尽瘁し我組合振起策に熱心にして今や渡清以て大いになすあらんとす。吾人は氏の健全無事其志望を達して帰朝されんとことを待つ。
1900(明治33)年9月1日付『労働世界』第65号英文欄掲載の記事。

 この記事では、房太郎が何のために離日したのか、また広い中国の何処へ行ったのかも分かりません。しかし同号の英文欄には、写真のような短い記事が掲載されています*3。日本語にすれば次のようになるでしょう。

 F.タカノ氏はこの度、天津に向けて出発した。同地で、旧友の城常太郎と一緒に商店を開くとのことである。彼らが大成功をおさめますように!

 この英文短信から、房太郎の目的地が天津であったこと、そこで旧友の城常太郎とともに商店を開く計画をもっていたことが分かります。また日本語欄では、まだ出発前であるようにも読めますが、英文記事では、すでに日本を離れていることが分かります。つまり房太郎らは八月中に離日しているのです。

 ここで、房太郎の労働運動からの離脱の理由について考えて見たいと思います。
 この問題に関しては、一時期、とくに戦前からの研究者の間では、房太郎が何らかの個人的スキャンダルのため運動からの離脱を余儀なくされたのではないか、と考える方がいました。私自身、そうした意見を耳にしたことがあります。もっとも、そうした臆測を活字にしている方はあまりおられません。ただ社会・労働運動史研究の大先達である田中惣五郎氏は、その著書『幸徳秋水』のなかで、つぎのように記されています*4

 〔高野房太郎の運動からの離脱には〕個人的事情もあるらしく、弟高野岩三郎博士は生前ついにこれを説明することを避けられた。〔中略〕高野岩三郎氏をNHKの会長室におとずれた時、氏はこの問題に対し苦渋の色をあらわされ、少し弁解じみたことを申された後、この問題については私が書くと言われて、その翌年かになくなられ、筆者は今でも残念に思っている。

 田中氏がこうした考えを抱かれたのは、つぎのような事実認識があったからでしょう。すなわち、高野房太郎が運動から離れた時期は、鉄工組合がまさにその最盛期に達した時であったというのです。前掲書のなかで、氏はつぎのように述べておられます*5

 鉄工組合についていえば、明治三十二年において四十支部に拡大し、三十三年九月には浦賀石川島分工場の第四十二支部にいたって入会者総数五千四百余名に達した。これが組織の最頂点であった。

 しかし、これは完全な事実誤認です。一九〇〇(明治三三)年9月に石川島浦賀分工場に第四二支部が出来たことは事実ですが、「五四〇〇余名」という数字は鉄工組合創立以来の加入者延べ人数であることは、田中氏が依拠された『日本の労働運動』の記述から明らかです。一九〇〇年9月は「組織の最頂点」などではなく、すでに鉄工組合も期成会も消滅状態でした。同書のなかで、片山潜自身が衰運を認めています。ただ『日本の労働運動』の叙述には、こうした事実誤認を誘うところがあります。同書は一九〇一(明治三四)年五月の刊行なのですが、その「労働組合期成会」に関する項目の結びの見出しは「再び活動を始む」であり、鉄工組合は「復活の兆し現はる」となっているのです。さらに期成会の機関紙的存在であった『労働世界』が一九〇一(明治三四)年末まで刊行され、その後日刊新聞に引き継がれた事実も、期成会や鉄工組合の組織が、房太郎の離脱後も維持されていると考える研究者が少なくなかった理由です。
 仮に、鉄工組合が「組織の最頂点」に達した時点で運動から離れたとなれば、その離脱を「転向」的なものと見て、なにか特別の原因があったのではないかと考える人がいても不思議ではありません。しかし、実際には、期成会も鉄工組合も、房太郎が中国に向かった時には、すでに消滅状態になっていたことは、これまで具体的に検証してきたところです。房太郎の運動からの離脱を、なんらかのスキャンダルに起因すると見るのは、まったく根拠がないと思われます。もしも運動から手を引かざるを得ないようなスキャンダルがあったとすれば、そうした男に、しかも離日直前に、演説会の弁士を依頼することなど、とても考えられないでしょう。

 いずれにせよ、房太郎自身は、労働運動をあきらめて日本を離れた理由についてなにも書き残していませんから、確かなことは不明です。ただ、彼の身近にいた二人が、この問題を推測させる手がかりを書き残しています。
 ひとつは弟の岩三郎が書いた『大日本人名辞書』の記述です*6

「然るに期成会ならびに共営社の事業共に漸く衰運に向ひしかば、三十三年日本を去って北清に渡航し、転々流浪」

 ここから明らかになるのは、期成会や鉄工組合の衰退と同時に、彼の家計を支えていた共営社も「衰運」に向かっていた事実です。共働店の経営で生活が成り立たないとなれば、なんらかの打開策を考えざるをえなかったことは当然です。
 もうひとつの手がかりは、同志であり友人であった横山源之助が、房太郎の死後『毎日新聞』に寄せた追悼の辞です。横山は、この文章のなかで、つぎのように述べているのです*7

 騎虎の勢を以て増進したりし労働運動も、一二年にして頓挫を示し、君が心血を注ぎたる消費組合も、亦失敗に終り、遂に君をして再び実業の人と為るの已むを得ざるに至らしめたり。当時余、痾を養ふて故郷に在り、君、一書を送りて余に其の衷情を語り、「今十年隠忍して、徐ろに労働者の為に尽す」べきを約して去れるなり。

 この横山の証言は、房太郎の離脱の原因が労働運動の「頓挫」と消費組合の「失敗」にあったこと、しかし彼は労働運動をあきらめたわけではなく、一〇年ほど堪え忍んで、ふたたび労働者のために働きたいという決心をしていた事実を教えてくれます。もっとも、房太郎は横山への手紙を書いてから三年半余り後にはこの世を去ってしまったので、この決意が実現することは遂になかったのですが。 
 この二人の証言から明らかになるのは、房太郎が運動から手を引いたのは、まさに「刀折れ矢尽きた」と感じたからだったに違いないということです。彼が運動からの離脱を決意したのは、労働組合期成会や鉄工組合が、名前こそ残っていても、すでに大衆運動組織としての実質を失い、しかも治安警察法のもとで、その再建のみとおしはきわめて暗いものだったからでした。しかも運動の最後の拠り所であった共営社の経営にも行き詰まっていたのです。
 片山潜の場合は、治安警察法の公布を機に、「経済運動」から「政治運動」に活路を求めるといったコース転換を図っていましたし、『労働世界』という活動舞台を個人的に所有していました。そうしたコースの転換は房太郎には考えられませんでした。しかも、彼自身の家計を支えていた共営社の経営が立ち行かないとなれば、否応なしに、労働運動から離脱し、他の道を選ぶしかなかったでしょう。その時、かつてアメリカ海軍の水兵として各地を訪ねたことのある中国で、実業の道を選ぶという選択は、ごく自然になされたものと思われます。

 房太郎の運動離脱の理由については、この他にも、立川健治氏が以下のような独特の意見を述べています。他の研究とは異なる、生活史からのアプローチとして興味深い見解です*8

 わたしは、高野の一八九七年から一九〇〇年の足跡をみていくと、その過程で「運動は運動だが、オレは商売もやってみたい」と思う気持ちが、段々強まっているように思う。運動の退潮が、そのような気持ちを強まらせたことはいうまでもないにしても、それと同じ程度に、一八九九年前半ころに結婚し翌年子供が生まれたという事情、つまり家庭をもったことが働いていたように思う。〔中略〕おそらく運動からの離脱の直接的な理由も、〈義和団事件〉の勃発をみて、在米時からの親友で職工義友会の仲間でもあった城常太郎と、中国で商売を始めることにあったと思われるのである。家庭をもったことが契機となって〈商売気〉が頭をもたげてきたことが、運動からの離脱の大きな要因となった、という考えをわたしはとりたいと思う。

 房太郎が労働運動への情熱と同時に、実業への意欲をもち続けていたであろうことは、おそらくその通りだろうと、私も考えます。ただ私は、彼が共働店を始めた理由、さらには運動から離脱するにいたった原因は、実業への意欲という以上に、彼の生計上の問題が大きかったに違いないと考えています。
 「〈義和団事件〉の勃発をみて……中国で商売を始め」たいと思う「〈商売気〉が頭をもたげ」たといった積極的な動機より、共営社の経営不振から転身を図らざるをえなくなったという消極的なものだったのではないか、と考えるのです。仮に、共営社の経営状態が良ければ、房太郎はもう少し日本国内で頑張ることが出来たのではないかと思うのです。
 



*1 『労働世界』第六五号、一九〇〇(明治三三)年九月一日付、復刻版五九八ページ。

*2 『労働世界』第六五号、一九〇〇(明治三三)年九月一日付、復刻版六〇二ページ。

*3 『労働世界』第六五号、一九〇〇(明治三三)年九月一日付、復刻版六〇四ページ。

*4  田中惣五郎『幸徳秋水』(三一書房版、一九七一年刊)一四九ページおよび一六二ページ。

*5 田中惣五郎『幸徳秋水』(三一書房版、一九七一年刊)一四五ページ。

*6 『大日本人名辞書』(講談社学術文庫版、第二分冊、一四九三〜一四九四ページ)。なお、鈴木鴻一郎編、高野岩三郎著『かっぱの屁』(法政大学出版局刊、一九六一年)にも再録されている(二九一〜二九二ページ)。田中惣五郎『幸徳秋水』(三一書房版、一九七一年刊)一四九ページおよび一六二ページ。なお、岩三郎個人は、一八九九(明治三二)年六月に離日し、一九〇三(明治三六)年四月に帰国するまで、ドイツ留学中であった。

*7 横山源之助「労働運動率先者の死(下)」(『毎日新聞』明治三七年五月九日付)。

*8 立川健治「高野房太郎──在米経験を中心として」(『史林』一九八二年五月号)。なお文中に「一八九九年前半ころに結婚し翌年子供が生まれたという事情」とあるのは、元号と西暦の換算違いと思われる。子供が生まれたのは一八九九(明治三二)年三月四日のことであり、結婚は一八九八年前半以前である。








『高野房太郎とその時代』目次 第九五回



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