房太郎が移住した当時の清朝中国は、貪欲なシャチの群れの襲撃を受けて、傷つき衰えた「老鯨」といった様相を呈していました。世界の列強は競って中国に進出し、戦略上の重要拠点を「租借」の名のもとに実質的な領土としたほか、鉄道敷設・鉱山開発など種々の利権獲得を、虎視眈々と狙っていたのです。これに対し、摂政・西太后と光緒帝を中心とする清朝は、なす術もなく譲歩を重ねていました。実のところ、阿片戦争、アロー号戦争、清仏戦争、日清戦争と相次ぐ戦争に敗れた清国には、こうした列強の進出に有効な手だてをとる力は残っていなかったのでした。
一八九七年一一月、ドイツは自国の宣教師が殺害されたのを好機に膠州湾を占領し、同湾の要衝である青島砲台を占拠しました。その結果、翌年三月、ドイツは膠州湾の租借権設定に成功しています。これに対抗する形でロシアも旅順港に艦隊を強行派遣し、大連・旅順の租借権と南満鉄道敷設権などを獲得していました。イギリスも山東半島北東端の威海衛〔地図にある煙台(かつての芝罘)の東にあたる〕を占領してこれを租借し、半世紀も前に確保していた香港に加え九龍半島も租借、フランスは広州湾を占領して租借権を獲得、イタリアも三門湾の租借を要求するなど、帝国主義列強による中国分割競争は激しさを増していました。
こうした諸外国の動きに中国民衆の不満は爆発し、「義和団」を先頭とする排外運動、反キリスト教運動がいっきに燃え上がりました。正義と平和を意味する「義和団」は、一八九八年ごろ山東省で生まれた組織で、〈仇教〉すなわちキリスト教の排撃、それに〈滅洋〉つまり西洋人の撲滅を目標に掲げていました。「義和拳」と称する武術を修練し、呪文を唱えたり護符を飲むなどすれば超能力を獲得し、刀で斬られ大砲で撃たれても無事であると信じ、その力で宣教師やそれに従う中国人キリスト教徒を追放することを目指したカルト的な武術集団です。教会襲撃やキリスト教徒への暴行、さらには鉄道諸施設の破壊へとその行動は激化し、中国東北部を中心にその勢力は急速に拡大して行きました。最盛期には北京だけで二〇万人もの団員を擁する大組織となり、ついには清朝上層部にも影響力を及ぼし、国家公認の存在となったのでした。
一九〇〇年六月、列強の北京公使館地域は義和団と清朝軍の包囲攻撃を受け、そこに立てこもった外国人や中国人キリスト教徒四〇〇〇人への食料補給も途絶えました。そこで、日本軍とロシア軍を中心とする「英米独仏露伊墺日」の8ヵ国連合軍が救援のため、天津から北京に向けて進攻を開始しました。これに対し、六月二一日、清国は8ヵ国に宣戦を布告するにいたったのでした。結局この戦争は短期間で連合国軍の勝利となり、8月中旬に北京は陥落しました。
房太郎が渡清したのは、まさにこの「北清戦争」終結直後の時期でした。移住地の天津は、戦争で最初の主戦場で、戦火の跡もなまなましい状態だったことでしょう。
ところで、一九〇〇(明治三三)年八月末に中国に渡り、三年半後に客死するまでの間、房太郎の動静はごく断片的な事実しか分かっていません。『労働世界』に時おり掲載された短信が、辛うじて彼の動きを伝えているだけなのです。ともあれ、それらの断片的な情報を確認することから始めましょう。
房太郎が最初に落ち着いた土地が天津であったことは、すでに前回見たとおりです。義和団事件の直後に天津を選んだことには、房太郎なりの思惑があったものでしょう。その後、同年一〇月五日、いったん日本に戻って「北清貿易会社」を設立し、すぐにとって返したことが分かっています。『労働世界』第六七号が次のように報じているのです*1。
高野房太郎氏は去る五日天津より帰り、直ちに北清貿易会社を設立し、再び渡清せしよし。
土地不案内な海外にいきなり家族を同伴したとは考え難いので、おそらくこの一時帰国は、キクと美代を連れて行くことを主目的としたものだったのでしょう。なお、すでに紹介した英文通信では、「he will start a store with his old chum Jo Tsunetaro.」と報じられていました。これを前回は「旧友の城常太郎と一緒に商店を開くとのことである」と訳したのですが、「a store」は「商店」ではなく「商館」か「商会」を意味していたようです。設立した会社の名「北清貿易会社」から推して、日中貿易を企てていたことは明らかですから。ただ、城常太郎が天津に渡ったのは一九〇一(明治三四)年二月のことで、二人が共同で事業を始めることはなかったようです*2。北清貿易会社の経営はすぐに行き詰まったらしく、開業後二、三ヵ月しか経たない同年暮に、房太郎は北京に移住しています。『労働世界』第六九号英文欄は、つぎのような短信を載せています*3。
Mr. F. Takano has moved from Tensing to Peking where he will start a store.(F.タカノ氏は天津から北京に移住した。同地で商売を始めるようである。)
ただし、この記事のうち、北京移住の目的についての報道は不正確で、北京に移ると同時に、房太郎は貿易業とは無関係な仕事についています。『労働世界』第七〇号英文欄には、以下のような消息が掲載されているのです*4。
Mr. F. Takano has returned to Bakan on business and sent to us a happy new year. He will be in Peking after few days stay at Bakan. He is in a German army.
(F. タカノ氏は業務で馬関に戻り、同地から新年の挨拶を送って来られた。数日間馬関に滞在した後、北京に戻られるとのことである。彼はいまドイツ軍にいる。)
ここで問題となるのは、この「ドイツ軍にいる」という言葉の意味です。当時北京は、義和団事件鎮圧のために進攻した列国連合軍の占領下にありました。なかでもドイツ軍は、事件鎮圧後に到着した二万四〇〇〇人という連合軍中最大の兵力を有し、連合軍の総司令官も出していました。房太郎が加わったのが、この北京駐留中のドイツ軍であったことは、まず間違いのないところです。ただこのように多数の兵を擁していたドイツ軍が、房太郎を単なる一兵士として雇う必要がなかったことは明瞭です。仮に必要があったとしても、三〇歳を過ぎた小兵の房太郎を兵隊として雇おうと考える軍隊などないでしょう。
房太郎がドイツ軍のために役立つことがあったとすれば、それは彼の英語力、とりわけ英文作成能力を生かした情報収集活動だったのではないでしょうか。ただ情報収集活動と言っても、軍事スパイ的な任務ではなかったでしょう。アメリカ海軍の砲艦で給仕をつとめたのが房太郎の軍事体験のすべてですから。おそらく、日本語や中国語の新聞雑誌記事で得られる情報を英訳するという、一般的な情報収集活動に従事したものでしょう。馬関(下関)に一時帰国したのも、日本語新聞など必要な資料を収集するためだったと推測されます。
それ以降、彼がドイツ軍と行動をともにしていたことは、本稿冒頭に掲げた写真の裏に記されていた文字からも覗うことが出来ます。
明治三十四年六月廿七日北京退去前四日
前門外王広斜街水松 照相館にて写す
この時期、ドイツ軍をはじめ列国連合軍は、まだ北京に留まっていました。清国政府と責任者の処罰と賠償金の支払い等について交渉中だったからです。交渉がほぼまとまり、連合軍が北京から撤退を開始したのは同年七月のことでした。一方、房太郎が北京を去ったのは一九〇一年七月一日のことなのです。さらに、房太郎が北京を去って赴いた青島は、言うまでもなくドイツの租借地である膠州湾の拠点都市で、ドイツ軍はここに常駐していました。
青島で房太郎が何をしていたのか、正確なことは分かっていません。一説には、在米時代からの友人である竹川藤太郎とともに貿易業に従事していたと言います。この説を述べているのは、中村忠行稿「『重慶日報』の創始者竹川藤太郎」です*5。つぎが関係箇所の全文です。
この従軍行〔新聞『日本』の特派員として義和団事件の報道に従事〕は、彼〔竹川藤太郎〕の後半生を決定的なものとした。すなはち、彼は戦塵も収まらぬ裡に、はやくも近衛篤麿の斡旋によって、天津に同利洋行を設立し、卅四年には大連に転じて、露国経営の桟橋建設事業に従ひ、更に青島に移って、在米当時からの友人高野房太郎と共に、貿易を営む様になったのである。けれども、これらの事業は、何れも失敗に終った。殊に、この方面に於ける邦人の進出を好まぬ独露両国の圧迫は意外にも強く、卅五年には、九州唐津から青島に廻送した汽船の積荷石炭一千噸を、独逸官憲の為に押へられ、揚陸を阻止される様な事態が発生した。幸ひ、この時は、ドイツ国籍にあった日本女性矢島ハルの助言によって、辛うじて事無きを得たが、この時よりして竹川は、北清の知に見切りをつけ、同年のうちに、次弟昌信その他を従へて、上海に移った。
竹川藤太郎が房太郎のサンフランシスコ時代からの知己であることは、すでに第四一回で見たとおりです。房太郎も寄稿している『遠征』の編集者でした。中村忠行氏が上記のような説を述べる上で根拠としたのは、主として『東亜先覚志士記伝』および『対支回顧録』*6に収められた竹川藤太郎の経歴だと思われます。ただ、前者では「在米時代の友人高野房太郎等と画策する所あつた」と記されているだけなのです。ただし『対支回顧録』にある「九州唐津から」石炭を輸入した事実は、房太郎の関与を推測させます。ほかならぬ姉キワと義兄・井山憲太郎が住んでいたのは、九州唐津だったからです。
私は、房太郎は貿易業に従事しながらも、同時にドイツ軍のために働くという関係は保持されていたのではないかと考えています。彼が病に倒れたとき入院したのが独逸病院であったことは、こうした関係の持続を裏書きしています。
いずれにせよ青島における二年半余は、それまで「転々流浪」を続けた房太郎の生涯のなかで、比較的落ち着いた日々だったのではないでしょうか。アメリカ時代はもとより、日本に帰ってからも、房太郎は単に忙しいと言うだけでなく、たえず引っ越しを繰り返す、何とも慌ただしい暮らしぶりでした。ことによると、青島でも何回か転居しているかもしれませんが、運動から離れ、生まれて初めてのんびりと落ち着いた生活を楽しんでいたと想像されます。海に面し、ドイツ風の建築が建ち並ぶ青島の風景は、サンフランシスコでの青春時代を思いおこさせたことでしょう。もっとも、青島はまだ都市建設が始まったばかりでしたから、サンフランシスコよりはタコマを想起したかもしれません。
青島時代の大きな出来事は、一九〇三(明治三六)年一月一八日に次女のふみ(富美)が生まれたことでした。この出産の際は、日本から母のマスが呼び寄せられています。異境での出産にキクが不安を訴えたからでしょう。長女の美代も房太郎の実家で生まれており、こうした折には経験豊かなマスが誰より頼りになったのでした。右の写真は、マスが日本に帰える前日の二月二五日に青島で撮影された記念写真です。この写真からは、一家が、豊かな生活を送っているとまでは言えないまでも、相応の暮らしぶりであることがうかがえます。貿易業が大成功とは言えなくても、ドイツ軍からの報酬とあわせれば、生活を支えるには十分な収入があったものと推測されます。
しかし落ち着いた生活は長続きしませんでした。この年の後半には、房太郎の健康状態に問題が生じているのです。おそらく彼の命取りとなった肝臓膿腫が発症したものと思われます。この事実が判明するのは、一九〇三(明治三六)年一一月二三日付で、片山潜から高野マス宛てに手紙が届いているからです。手紙の主たる用件は、片山がマスに〈ばーや〉の紹介を依頼した件について、返事を求めているのですが、手紙の最後に「なほ御子息様のご病気のご様子も此間御伺申候」とあるのです。肝臓は沈黙の臓器と言われるほど症状が現れにくいことで知られていますが、それが発症しているとなれば、すでに病状は相当進んでいたに相違ありません。
*1 『労働世界』第六七号(一九〇〇年一一月一日付)、復刻版六一六ページ。
*2 牧民雄著『ミスター労働運動──労働運動のパイオニア・城常太郎の生涯』(未刊の稿本)による。
*3 『労働世界』第六九号(一九〇〇年一月一日付)、復刻版六四四ページ。
*4 『労働世界』第七〇号(一九〇一年一月一五日付)、復刻版六五二ページ。
*5 中村忠行稿「『重慶日報』の創始者竹川藤太郎」(一)『天理大学学報』四〇輯、一九六三年三月、一八ページ。
*6 国龍会編『東亜先覚志士記伝』(下)三〇一〜三〇二ページ。原書房《明治百年史叢書》復刻版(一九六六年刊行)による。
東亜同文会編『対支回顧録』(下)九九五〜九九六ページ。原書房《明治百年史叢書》復刻版(一九六八年刊行)による。