二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(九七)

  七  終章

1897(明治30)年の高野房太郎の日記。

拾遺(一) 日記から読み解く房太郎の日常

これまで、公的な活動を中心に房太郎の足跡を追って来ました。しかし人ひとりの生涯を明らかにするとなれば、公的な側面だけでなく、どのような日常生活を送っていたのかについても知りたいと思います。いや、知らねばならないでしょう。ただ、一般にそうした日常生活に関する情報は残りにくいものです。肉親や周囲の人びとの思い出でもあれば良いのですが、房太郎に関する岩三郎の回想は、私生活についてはまったくふれていません。伝記小説なら、むしろこうした情報の欠如はイマジネーションをふくらませるのに好都合なこともあるでしょうが*1、歴史研究の場合には困ります。史料的な裏付けなしにものを言うことは出来ませんから。

1897(明治30)年2月7日の高野房太郎の日記。

房太郎については、幸いなことに本人の日記が一冊だけ残されています。博文館発行の『明治三十年当用日記』です。日記欄のほかに「訪問・来訪」「金銭受入・金銭支払」といった欄があり、一日分を一ページに記すようになっています。明治三〇年は西暦でいえば一八九七年、房太郎が労働運動の開始を決断した年であり、また労働組合期成会や鉄工組合が誕生した年です。高野房太郎がその生涯を通じて、もっとも輝きをはなった時期でした。それだけに、この日記の史料的価値は高いものがあります。ただ毎日記入されているわけではなく、内容もメモ的な簡単な記述が主で、個人的な感懐などはほとんど述べられていません。そうしたいささか無味乾燥な記録から、どれだけ彼の日常を読み解くことが出来るか、まさに歴史研究者の力量が試されるところです。論証しながらの叙述ですから、どうしても回りくどい説明が多くなりますが、しばらくお付き合いください。

ちなみにこの年、房太郎は二回転居しています。一月下旬まで横浜に住み、神奈川県久良岐郡戸部町の下河辺家に下宿していました。下宿料が五円だったことも、支出欄から分かります。その後も横浜へ赴いた折には、しばしばこの下河辺家に泊まっています。横浜には二人の伯父が始めた高野屋、糸屋という二軒の宿屋があり、房太郎の従兄弟の代でも繁昌していた様子ですが、そこに立ち寄った形跡はありません。どうやら、伯父たちが亡くなった後、横浜の親戚とはやや疎遠になっていたようです。
 一月二六日に横浜を引き払い上京していますが、その後の支出費目に「家賃」や「下宿料」といった項目はありませんから、母のところに同居していたに相違ありません。移転先の住所は本郷区駒込東片一四三番地です。しかし、ここにはごく短期間住んだだけで、五月八日に本郷区追分町三一番地へ転居しています。高野家の住所はしばしば変わっていますが、すべて東大周辺に集中しているのは、母マスが学生下宿で暮らしをたてていたこと、それに岩三郎が東大へ通っていたからでしょう。

もう一度、日記に戻りましょう。毎日の記述はごく簡単なものばかりですが、日々の行動を記しており、これによって初めて分かる事実がいくつかあります。その中でちょっと面白いのは、彼が職工義友会を再組織する直前、夜間に「柔術」を習っていることです。先ずは関連した記述を抜き書きして見ましょう。

三月一五日(月) 此日ヨリ八木原先生ニ付柔術ヲ学ブ。
三月一七日(水) 夜ノ柔術少シク利目ヲ感ジ身体何処トナク痛シ。
四月三日(土) 〔前略〕日本橋ニ至リ嵩山堂ニ至リテ千石氏ノ注文柔術書ヲ求メ、帰宅ノ上直ニ郵便ニ投ズ。
四月一三日(火) 此夜前夜森氏トノ仕合ニテ胴占ヲ受ケタル左胴骨ノ辺非常ニ痛シ。先生ノ療治ヲ受ク。
五月一九日(水) 此夜ヨリ再ビ柔術ヲ始ム。
六月二三日(水) 此夜ヨリ柔術ヲ始メ再ビ傷ク。
七月二〇日(火) 此夜ヨリ柔術ヲ始ム。

なぜ柔術を習おうなどと考えたのかは、分かりません。労働運動を始めるとなれば、なんらかの暴力沙汰に出会うおそれがあり、それに備えるためだったのかもしれません。ただ、中断しては再開するの繰り返しで、あまり熱心に練習している様子はありません。
 なお、四月三日の記述にある「千石氏」とはニューヨーク在住の横浜正金銀行勤務の銀行員で、サンフランシスコ時代からの旧知です。海外にいる日本人は「ジュウジュツ」について聞かれることが多く、千石の依頼で解説書を買い求めて送ったものでしょう。房太郎も、あるいはそんな体験があり、帰国したら柔術を習おうと考えていたものでしょうか。ちなみに柔術の月謝は二〇銭だったことが、三月一九日の記載から分かります。
 柔道を習っていたくらいですから、この年、房太郎は概して健康だったに相違ありません。ただ虫歯に苦しんでいたらしく、一月二二日には「歯痛薬」を買っています。また短期間ですが腹痛や腫れ物に悩んでいたことも、以下のような記述から判明します。

八月一四日「午后四時沢田氏方ニ至リ后八時帰宅ス。此夜非常ニ腹痛シテ遂ニ眠ラズ」
八月一五日「午前十一時ヨリ沢田氏方ヘ至リ、直ニ三田ユニテリアン教会ニ至リ、演説会ヲ開キ午后七時帰宅ス。前夜来ノ腹痛尚止マズ」
一二月九日「腰間ノ腫物ノ為メ医師ノ診断ヲ受ク」

 この六、七年後には肝臓を患って夭折しますが、この時の腹痛は、これとは無関係でしょう。二日ほどで治まっていますし、「肝臓膿瘍」という病気は急性のもののようですから。

ところで、いま引用した箇所で、もうひとつ目につくのは「沢田氏方ニ至リ」です。これは、この時だけでなく、六月下旬以降頻出します。それ以前には「城氏ヲ訪ヒ」が良く出て来ますが、六月二一日を境に消え、以後「沢田氏方ニ至リ」がこれに代わります。初めは「職工義友会の三人組」の関係に何か変化があったのかと疑ったのですが、どうやらそうではなく、事務所が城常太郎の家から沢田半之助の店に移ったことによると思われます。房太郎は、職工義友会ただ一人の専従活動家であり、また労働組合期成会の幹事長として、しばしば事務所に詰めていたことが分かります。
 すでに見たことですが、翌年、つまり一八九八(明治三一)年一月の『労働世界』に、次のような広告が掲載されています*2

 本会事務所ヘ幹事長出張ノ時間左ノ通リ改正致候間此段御通知申上候也
  一 日月火水木の五曜日 自午後一時半至六時半
  一 金土両曜日       自午後一時至五時

  一月十日   労働組合期成会
          事務所 日本橋区呉服町壱番地

会員諸君

この時には、期成会の事務所はすでに沢田洋服調進所から、貸席・柳屋に移っていましたが、房太郎の勤務はなんと一週間七日、つまり年中無休です。ところで、この「出勤」の際はいつも人力車に乗り、その都度二〇銭前後の「車代」が支出されています。片道一〇銭ということでしょう。ごくたまに馬車も利用しています。馬車代は四銭程度ですから、これは「乗合馬車」でしょう。これらの記録から、この時期には、まだ自転車を使っていなかったことが分かります。路面電車開通前のことですから、人力車を使うことがとりたてて贅沢というわけではありません。ただ少し歩けば馬車鉄道を利用するルートもあったはずですが、そうはしていません。
 また、事務所へ出る時間はほとんど午后です。午前中は家で英文通信などを書いていたのでしょうか。子供の頃から朝寝坊だったことが母への手紙に記されています*3が、その癖が抜けきれていなかったのかもしれません。

 日記のなかで貴重な情報源は収支欄です。そこからは、他の記録からは知り得ない房太郎の日常生活をかいま見ることが出来ます。
 まず目につくのは(たばこ)です。三銭、四銭と頻繁に買い求めており、かなりのヘビースモーカーだったことが分かります。菓子、煎餅など間食代も目立ちますが、一〇銭、二〇銭という金額から推すと、自分で食べるためだけではなく、友人らが集まる際の茶菓子として買っていたのではないかと思われます。近親者の回想に、彼が社交的だったという言葉がありますが、それを裏付ける事実です。
 房太郎の社交性については、彼が横浜から東京に移り住んで間もない二月一四日の記述が目を惹きます。

 此日午前十一時上野ニ至リ、三堀、河合、猪飼、角田ニ面会シ、岩三郎ノ来ルヲ待チ、一同相携ヘテ春陽楼ニ至リ昼食ヲナシ、終リテ鉄道馬車ニテ浅草ニ至リ公園内写真ニテ撮影シ、更ニ歩ヲ推シテ亀戸ニ至リ□□ヲ見ル。帰途、舟ニテ隅田川ヲ下リ、両国橋際ニ着シ、歩シテ木挽町萬安ニ至リ入浴后飲食ス。

ここに名があがっている三堀〔為吉〕、河合〔順三郎〕、猪飼〔熊三郎〕、角田〔虎之助〕は、いずれも横浜在住の人びとで、講学会時代からの友人です。横浜を離れる際に送別会を開いてくれた旧友を、上野・浅草に招いて、房太郎がお返しをした形です。この日の支出欄には「西洋料理五円四銭、萬安五円四三銭」と記されており、金額から見て、この日の会食はすべて房太郎の「奢り」だったと思われます。
 さらに一一月三日には「遊米人懇親会」なる会合に出席しています。出席は加藤、沢田〔半之助〕、小松、中村、竹川〔藤太郎〕、竹沢、奥田といった顔ぶれで、ほかの時にもよく行っている木挽町万安で会食しています。のちに沢田半之助は「米友協会」と称する「日米友好協会」の前身を設立していますが、おそらく「遊米人懇親会」はそのさらに前身とも言うべき組織でしょう。
  このほか、房太郎は社会政策学会の例会にも欠かさず出席しています。これは単なる社交の場ではありませんが、彼がさまざまな分野の人びとと付き合うことに喜びを感じていた一例と言えるでしょう。

この時期房太郎は定職をもたず、収入も決して多くはなかったのですが、先ほどみた横浜時代の友人を招いた例のように、金遣いは派手です。外出の際にはよく人力車を使っていますし、庶民はまず口にしなかったコーヒーとミルクに六一銭、ビスケットに二〇銭といった、当時としては極めて高価な食品を買っています。タバコも二五銭のシガー、つまり葉巻を買っています。いずれもいわゆる「舶来品」に違いありません。アメリカでの生活を思い出すよすがといったところでしょうか。
 少しでも懐が暖かい時は、かなり思い切った贅沢をしています。とりわけ目立つのは、友人の大沢竜吉や鈴木純一郎としばしば夜の巷に繰り出していることでしょう。もっとも足繁く通っている四月第一週の行動を見ると、以下のとおりです。

四月一日(木) 「此日后六時半大沢君来ル。共ニ携ヘテ中金ニテ飲ミ、直ニ車デ千住ニ向フ。世界楼ト云ヘル家ニ至リテ宿ス。」

四月二日(金)「大沢氏ト帰途、料理やニテ朝食シ、別レテ家ニ帰ル。」

四月四日(日)「此日午后鈴木君来ル。相伴フテ塩田真氏ノ家ニ至リ后五時頃新橋ニ至リ花月ニ遊ビ、転ジテ日本橋相模やニ至リ、夜十二時帰宅ス」

四月五日(月)「前十一時農商務省ニ至リ、翻訳料ヲ受取リ、所々ヲ散歩シ、午后五時鈴木氏ト携ヘテ日本橋菊屋ニ至リ、后転ジテ日本橋相模やニ至ル。十二時帰宅ス」。

四月六日(火)「午后一時ヨリ錦輝館ニ至リ、工業協会惣会ニ列ス。竹内常太郎君勤倹貯蓄ヲ弁ジ、我レ米国ニ於ケル職工ノ勢力ヲ弁ジ、田島錦治君産業組合ヲ論ズ。五時ヨリ宴席ニ移リ、后七時半仝所ヲ出デゝ大沢君ヲ訪フ。アラズ直ニn.q.ニ至ル。

大沢竜吉は下谷区山伏町に住んでいた友人で、房太郎の遊び仲間です。彼も恐らくアメリカ帰りでしょう。鈴木純一郎は東京工業学校の講師であり、農商務省の嘱託として房太郎に翻訳の仕事を発注したり、辞書の出版に際し書店を紹介するなど、公私両面で有力な支援者でした。
 四月五日の収支欄を見ると、農商務省から受け取った翻訳料は一八円四五銭、一方、菊屋と相模やで支払ったのは一一円です。この金額からみて、房太郎が鈴木に翻訳発注などの「お礼」をしたものと思われます。いずれにせよ稼ぎ高に比べ、使いっぷりの良さが目立ちます。
 なお、最後の四月六日は他ならぬ『職工諸君に寄す』を会場で配布した、日本労働運動史上で記念すべき演説会の日です。会合の後に出かけた先の「n.q.」は、northern quarterの略で、吉原を指す隠語と推測され、房太郎日記独特の用語です*4

母ますと房太郎・岩三郎兄弟、1880年代前半に撮影されたもの。

こうした派手な金の使い方は、房太郎が長年のあいだの一人暮らしで、気ままに過ごした間に身につけた習慣という側面があるに相違ありません。しかしそれと同時に、あるいはそれ以上に、お祭りが好きで、「着倒れの町」として知られた長崎の商家が培ってきた贅沢な生活文化を、房太郎も受けついでいたからではないかと思われます。右の写真をご覧ください。父を失った後なのに、房太郎・岩三郎の兄弟は、その頃の子供としてはきわめて異例なことに、高価な洋服と靴を身につけさせられているのです。しかも高野家は少し前まで、和服の仕立てを家業とする家だったのです。

北京へ赴く前に撮影された旅装、1901(明治34)年2月4日撮影。

身だしなみに金を惜しまない生活感覚が、房太郎の育った家にあったことは明らかです。房太郎がいつもおしゃれに気を使っていたことは、残された何枚かの写真から十分にうかがえます。どれをとっても、その場所にふさわしい、いつもTPOを考えた服装をしているのです。
 一方、これと対照的なのは片山潜の場合です。都会育ちだった房太郎と異なり、片山は中国地方の山村の生まれでした。それと、同じように、アメリカ暮らしが長かったとは言え、二人の環境はまったく違っていました。片山の場合は、大学のキャンパス内で学僕をしながら学び、夏休みには学費を稼ぐアルバイト生活を続けていましたから、倹約はごく普通のことでした。
 片山潜が金銭に関して細かく、収入の少ない若い同志に対してさえ奢ることをせず、遊説の旅費なども「割り勘」にしたことは、有名というより、同志間で著しい悪評をかっていました。それなりの収入がある年配者なのだから、とうぜん貧しい若者の面倒をみてくれるだろうと期待していたのに、片山はこれを無視したのです。おそらくこれは、片山潜が在米時代、とりわけその後半期は日本人社会と接触する機会がなく、アメリカ人とだけつき合っていたため、一般の日本人とは著しく異なる社会慣行を身につけてしまったからでしょう。一方房太郎の場合は、アメリカ暮らしは長くても、日本料理店で働いたり、仕事の外でも在米日本人仲間との接触は濃厚に維持されていましたから、ずっと日本的な価値観を維持し続けていたようです。
 また片山は、自身の暮らしぶりもきわめて質素で、貧乏には慣れっこな社会主義者の同志をも驚かせたほどでした。『日刊平民新聞』の廃刊後、片山潜、西川光二郎によって創刊された『社会新聞』の同人のひとりで、発行所である神田三崎町の片山宅に詰めていた経験がある吉川守圀は、片山家の生活をつぎのように描いています*5

 ついでまでに片山のことを云ふと、彼の洋服姿といふものはついぞ筆者は見た事がないといつていゝ程で、彼は何時も短い紺飛白に駒下駄の格好で、ビラと墨汁入れのブリキ缶と筆とを提げて、渋い顔をして朝家を出てまた渋い顔をして夜も遅くなつてから帰つて来る。そして黙りこくつたまゝで挽割飯へ水道の水をジャブジャブ注ぎ掛け、生味噌か沢庵でいつも食事を済ませてゐる」

こうした粗末な衣服、粗末な食事は、片山家の経済状態が逼迫していたから、やむを得ずしていたと言うわけではありません。片山は家賃を払う必要のない家を持っており、米問屋をしていた亡妻の兄がときどきは米俵を差し入れてくれていたとのことです。質素な暮らしぶりは、貧しさのためというより、長年のあいだに彼の身についた生活習慣によるものでしょう。

話はいつの間にか片山潜の日常に逸れてしまいましたが、もう一度房太郎の方に戻りましょう。つぎは房太郎の収入源についてです。
 日記の収入欄に記されている限りで、収入面でいちばん大きく寄与しているのは、アメリカから送られてきた原稿料です。『ガントン雑誌』へ寄稿した論説、『ファイアメンズ・マガジン』や『アメリカン・フェデレイショニスト』への英文通信の原稿料として、総計一〇七円四四銭が送られて来ています。それに次ぐのは、大倉書店からの『和英辞書』および『商業英会話』の原稿料や校正料でした。辞書の原稿料は前年中にも一部が支払われていたのかも知れませんが、分かっている限りでは、三月に辞書の原稿料として二五円、六月に会話篇の原稿料五〇円、一〇月に校正料一五円、合計九〇円が入っています。残りは農商務省からの翻訳料で、記載があるのは、すでに見た四月五日の一八円四五銭だけです。翻訳した文献の点数から見ると、これ以外にも翻訳料を受け取っていた可能性があります。さらに年末には、二週間ほど常盤英語講習会で教えて、一五円を得ています。
 その他、これは収入なのか借金か不明ですが、一月八日に「東京より一〇円」、一月二三日に「岩三郎より三〇円」、二月一一日「浪花町より一五円」といった金額があります。「東京より一〇円」は、母からの借金の可能性が高いのですが、あるいは水兵時代の稼ぎを母に預けていた可能性もあります*6
 以上を合計すると二八五円八九銭、一ヵ月平均二三円八二銭ということになります。それほど多い金額ではありませんが、親の家に同居しての一人暮らしですから、普通に暮らすには十分な金額です。
 しかし、不安定な収入である上に、無駄な出費も多かったので、しょっちゅう金には困っていたようです。以上の収入合計に算入した金のほかに、日記の収入欄には、「母より」という記載が年の前半を中心に一五回も出て来ます。金額は一円、二円のことが多いのですが、五円、一〇円といった額の時もあります。
 あと「岩三郎より」が二回、こちらは収入に入れた三〇円のほかにも、一〇円受け取っています。これは、岩三郎にすれば、大学を卒業するまでずっと学資を送ってもらったお礼といった意味合いがあるのでしょう。
 九月以降は「会より」、つまり労働組合期成会からの借り入れが急増し、同年中だけでも一九回に達しています。一回の金額は五円程度です。ことによると、これは期成会から手当が出ていたのではないかと疑いましたが、一二月三日にゴンパーズから英文通信の原稿料三五円余が送られて来た時、三〇円を「会へ返却」していますから、一時的な借り入れだったことが判明します。

 いずれにせよ、無報酬で労働運動を続けることは容易ではありませんでした。安定した収入の基盤がないこと、これが房太郎の最大の泣き所だったと言えるでしょう。しかもいったん有給役員になったのに、会の財政が困難と分かるとすぐに手当を返上しています。こうした姿勢は、爽やかではありますが、専従活動家としては無理がありました。金銭面できわめて現実的であった片山潜にくらべ、房太郎の方は、いささか非現実的で夢想家的な性格だったことは否定できないように思われます。もっとも、だからこそ単なる啓蒙家ではなく実践家になりえたとも言えるのですが。



 *1 ショートショートの名手として知られた星新一は、父や祖父についての伝記作者でもあった。その彼が『祖父・小金井良精の記』のなかで、つぎのような感懐を洩らしている。

 祖父のことを書く気になった時、私は気楽に考えていた。断片的な資料をできうる限り集め、あとの空白部分を想像で埋め、私のいだいている祖父の人物像を再現すればいいと思っていた。空白部分を埋める作業には、パズルを解くような面白さもある。〔中略〕
〔日記が見つかったとき〕私はいささか複雑な気分になつた。これで、より正確になるわけだが、想像力を働かせ、小説風にする余地がそれだけへることにもなる。

 歴史家からすると、ずいぶん贅沢な悩みだと思うが、作家としては当然の思いなのであろう。

*2 『労働世界』第四号(一八九八年一月一五日付、復刻版四一ページ)。

*3 一八八七年七月三一日付の高野房太郎より高野ます・同岩三郎宛書簡に、「此頃ニテハ日本ニ居リシ時の之如ク決シテ寝坊ニテハ無之候」と記されている。

*4 「n.q.」のほか「北ニ至ル」と記されていることもある。北が吉原を指しているであろうことは、日本橋辺を起点とした地理的関係からも推測されるが、六月一日の項に「此夜大沢君来ル。相伴フテ北ニ至ル、河内楼。」と記しているので、確認できる。また「サウス」と記されている日もあるが、これは新橋か品川であろう。

*5 吉川守圀『荊逆星霜史──日本社会主義運動裏面史』(青木文庫、一九五七年)一六〇ページ。

*6 六月二一日、大倉書店から商業英会話の原稿料が五〇円入った時には、それまでの母からの借金一〇円を返すと同時に二〇円を預けている。手許にまとまった金をもっていては、すぐ使ってしまう性癖をマスが懸念し、本人も自覚していたからであろう。







『高野房太郎とその時代』目次 第九九回



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