この本は、1979年9月に結成された労働争議史研究会のメンバー9人による10年余の研究成果の集大成です。戦後動乱期、高度成長期、石油危機以降という3つの時期に分け、戦後動乱期は3本、高度成長期は4本、石油危機以降は2本の論稿を収めています。
いずれも戦後日本の労資関係史を画した大争議を研究対象とする論文です。もっとも青木正久「国鉄労働運動」と上田修「三菱長船組合分裂」の2本は、必ずしも労働争議研究の枠に収まるものではありませんが。これに加え、編者の山本潔氏が序論と東大社研が所蔵する戦後労働争議に関する資料解題を書いています。
ひとつひとつの論文は、研究会が10年間積み重ねてきた研究蓄積を反映した、質の高い実証研究です。いずれも争議研究が労働問題研究において重要な貢献をなしうることを明らかにしています。私も、もう20年も昔になりましたが、労働争議研究の意義を強調したことがあり、労働争議研究の共同研究チームがつくられ、その成果が本になったことはたいへん意義あることだと思います。
ただ、労働争議史研究会の会員の方々は、本書に執筆しなかった人もふくめ、収録論文以外にすでにいくつもの争議史に関する研究論文を発表しています。できれば、そうした論文一覧と、各論文の概要も本書に収録しておいてほしかったと思います。
本来なら、この本だけでなく、井上雅雄さんや、上井喜彦さん、河西宏祐さんなど労働争議史研究会会員で、すでに単独の著書をまとめられている方の業績もふくめ、研究会そのものの成果と問題点を検討しておく必要があるでしょう。
そうは言っても、この本の書評だけでもかなりたいへんです。正直のところ、今日の報告を引き受けはしたものの、読み通すだけでかなりくたびれました。そのように感じさせるひとつの理由は、それぞれの論文の密度の高さです。限られた紙幅に、10年の研究の成果を詰め込んでいますから。
ただそれと同時に、この本全体を貫く統一性がかならずしも明らかでないことも、読みにくいひとつの理由のように感じます。個々の論文は、水準の高い実証研究であり、その課題も結論も比較的明瞭なのですが、序論で示されている課題や方法に、それぞれの章の筆者がそれほど忠実ではない。そこで、本書全体として何が明らかになったかとなると、すぐには分からないのです。このことは、すでに本書を書評されている栗田健、兵藤サ(つとむ)の両氏が一致して指摘しておられるところです。
栗田健書評(『社会科学研究』)
「共同研究の論評に不可欠な、各論文の論旨に共通する視点を探り当てることができなかったからである。筆者の見るところでは、序論で述べられた方法は必ずしも各論文の方法として採用されておらず、比較的にこの方法に準拠していると思われた鉄鋼、三池については上述したようにそれらの争議のもっとも重要な論点の解明に成功しているとは思えなかった。」
兵藤サ(つとむ)『大原社会問題研究所雑誌』第397号(1991年12月)
「しかし、一つの戦後史たりえているかという視点から眺めてみると、研究代表者による方法論的序論が付されているとはいえ、それぞれの作品は、方法的にも、史観においても、執筆者の個性に応じた分散を示しており、歴史を貫く赤い糸をたどることは必ずしも容易ではない。」
私も同じような印象をもちました。もっとも、編者が序論で提起している主体、争点、戦術、組織を分析用具とする方法が、まったく無視されているわけではありません。たとえば多くの論文は争議の主体、とりわけ経営側の分析に力をいれており、三池争議のように、みかけ上の争点と区別される〈真の争点〉を基軸に検討を加えるなど、山本氏の提唱はたしかに生かされています。これについては、また後でふれたいと思いますが、全体的にみると、多くは山本方法論のつまみ食い的利用になっているように思われます。
何故このようになったのかについては、できれば、あとで労働争議史研究会のメンバーから説明をうけたいと思いますが、察するに、もともとこの本が、戦後の大争議を研究するという点では一定していても、それ以上の共通の課題をもってとりくむことを初めから避けたからではないかと思われます。それは、この本の〈はしがき〉で「方法的にも各執筆者ごとの多様性を持つことになっている」ことを認めているところに、さらには、序論の注1(p.33)で「いうまでもないことではあるが、この序論は執筆者の考え方を記したものであって、共同研究者達の意見を代表するものではない。ただ、折りにふれて、以下の如き構想を議論の対象としていただいた」と述べているところからも明かです。
そうなると、私には、この本を分かりにくくした責任のかなりの部分は〈序論〉にあるのではないかと思えてくるのです。やはり〈序論〉では、研究会全体の、あるいは本書の筆者全員が一致した課題と方法を提起すべきだったのではないでしょうか。そうでなく、山本氏個人の課題と労働争議の研究方法についての提起に終わっていることが、この本を分かり難くさせている最大の原因ではないかと思うのです。〈序論〉では、なによりも労働争議研究によるアプローチは、何を明らかにすることができるのか、労働運動史研究に何をつけ加え得るのか、それについてのできれば共通の認識を示すべきだったのではないでしょうか。
たぶん、こうした注文はないものねだりというべきで、そうしたことは不可能だったのでしょう。そうであれば、つまり課題や研究方法について執筆者が一致していないのであれば、課題・方法をめぐる議論は各筆者にまかせてしまい、研究会の経過だけでよかったのではないでしょうか。あるいは、せめて山本氏の方法的提唱に各筆者がどのような意見をもっているのかを論じてくれれば、もっとわかりやすく、今後の研究の参考にもなったのではないかと感じました。
また、何よりもそうした「序論」に対応する、本書全体としての「結論」が欲しかったと思うのです。それがないことが、個々的にはすぐれた研究の集まりであるこの本を読み難くしたのではないかと思います。べつの言い方をすれば、せっかくの共同研究の意味がはっきりしない結果になっている、と思います。
もし、紙幅面で制約があり、そうした結論を加えることが難しかったのであれば、資料解題は省いてもよかったと思います。あるいは、参加者の意見が多様で、まとめることが困難であったのなら、藤田若雄・塩田庄兵衛編『戦後日本の労働争議』(御茶の水書房、1963年)のように、執筆者座談会でもよかったのではないでしょうか。
今日は時間も限られていますから、山本氏の序論を検討し、そのあとで、かりに私がこの本の編者であったら、どのような結論を書いたかを考えてみることで、問題提起の責めをはたしたい。10年も共同研究をやられた当事者が出来なかったことを、部外者の私に出来るわけがないことを承知の上で、独断と偏見を述べてみます。
【山本序論の問題点】
山本氏は序論で、「労働争議の分析は、当該の時点における資本主義の矛盾の集中的表現として、その断面図のなかにおいてとらえること」を主張され、さらに「〈労働争議を通じてみたる資本主義発達史〉という形での問題設定が必要なように思われる」と述べています。そして「〈労働争議を通じてみたる資本主義発達史〉研究は如何なる認識の地平をひらきうるか」と自問され、これによって「〈歴史における選択の可能性〉にかかわる問題を視野に入れうるようになる。」といわれます。
「資本主義発達史を労働者の側からみるということの枢要点は、労働力商品の担い手たる労働者の、歴史の主体としての役割を如何に考えるかという問題にかかわっている。日本資本主義の歴史の節々において、如何なる選択の可能性がありえたのかという視点、〈歴史の可能性〉、〈歴史のイフの問題〉に深くかかわっている。」というのです。
争議研究が「歴史の可能性にかかわる問題を視野に入れうる」ことにはそのとおりだろうと思います。ただ「歴史の可能性」は、労働者の側から見るか、政府・資本家・経営者の側から見るかに関わらないことではないでしょうか。また、歴史における選択可能性を問うという課題設定が、われわれの歴史理解を深めることは確かだと思いますが、これも別に被支配者の側から見るか支配者の側から見るかには関わらないことではないでしょうか。
どちらかといえば、自ら意志決定をおこないうる立場にある、支配階級の側をとりあげる時の方が、多様な選択可能性をもつことが多いのではないでしょうか。もっとも別のところでは、山本氏は経営者、政府などの主体の性格を分析すべきことを強調していますから、これはおそらく「労働争議史は労働者側からみた資本主義発達史」という自らの規定に引きずられた、いわば舌足らずな表現なのかもしれませんが。ただ、山本氏が「歴史の選択可能性」を問題にするとき、主として〈路線〉問題を考えておられるようなのは、はたして有効でしょうか。
また、これとつづいて、つぎのように主張されています。(p.4)
「日本の労働運動にかかわる歴史的考察は、まずなによりも日本資本主義の歴史の節々において、労働者階級が如何なる歴史の選択をせまったのかを明らかにすることでなければならない。つまり、歴史の節々における重要な労働争議をとりあげ、それが日本資本主義の当該の局面において何を突き出し解決をせまっていたのか、そしてその解決が歴史に何を残したのか、を分析することから始められなければならないのである。」
これはいかにも山本さんらしい問題設定だと思います。またそうした問題設定による研究の意義も理解できます。しかし、労働争議研究一般を、こうした労働争議だけに限る必要はないと思われます。この点はまた後でふれたいと思います。
この研究対象の選択の問題に関連して、山本氏は、戸塚氏が『日本の労働争議』の総括座談会の報告で言われていた点を批判しています(p.5)。それは、戸塚氏が、「労働争議という労資関係における異常な局面を研究することによって、正常な労資関係の理解を深めていく」という主旨の発言をされたのに対するもので、山本氏はつぎのように主張します。
「このような視点は、特定の労資関係が再生産されていくメカニズムを明らかにするという観点にたっており、労働争議という異常事態の研究は正常な労資関係の研究のための単なる手段にすぎなくなっている。歴史を単なる年代記ではなく、特定の社会構造から他のそれへの移行の歴史としてとらえようとするかぎり、かかる正常な労資関係の理解深化の手段としての労働争議研究の限界は明かであろう。」
おそらく、こうした批判は、戸塚氏が〈正常な労使関係=ユージュアルな労使関係〉という価値評価的含意のある言葉を使っておられたことが引き起こしたものだろうと思います。しかし、私には、この批判は正当だとは思えません。
私は、やはり、労働争議研究のメリットは、日常的な情況、あるいは平常の労使関係では背後に隠れている問題点が、労働争議という非日常的な情況のなかで表面化することが少なくないから、争議を分析することで労資関係の性格をより深く理解できる。さらにその争議の結果生まれた労使関係の新たな特質を把握できるところにある、と考えています。
私が労働争議研究を提唱したときには、それは主として「一般に労働争議においては、労働組合の日常活動の記録からは容易にうかがえないさまざまな矛盾が顕在化するのであり、争議を研究することによって組合の日常活動も動態的に分析することができるのである。とりわけ、文書による記録を残すことがまれな活動家や一般組合員、あるいは組合にも参加しない労働者の意識、思想をさぐる手だてとしては、彼らの行動そのものを手がかりにする他はない。」つまり争議という非日常を通じて労働者の日常の意識をさぐることが可能であることを考えていました。とくに、そこでは当事者の意識、あるいは価値観、行動様式などを分析することが可能になるであろうことを期待していました。また事実、この本もふくめ、多くの争議研究は、なによりもこの面で成果をあげたと思うのです。
こうした山本氏の主張は、歴史研究の目的を、ひとつの社会構造から別の社会構造への移行を追究するところに焦点をあてていることから来ています。
「構造Aから構造Bへの移行が、何故、如何に行われたかが明らかにされることが重要であろう。この場合、構造Aから構造Bへの変化がなだらかに進行したとは考えられないのであって、質的な転換を示す紛争・争議Cという深刻な異常事態が存在するはずである。かくて異常事態としての争議の異常性そのもののなかに、社会構造上の移行問題をとく重要なカギを見出そうとする観点が生まれてくるのである。」
しかし、労働争議研究は、資本主義の社会構造の変化をまねいたような大争議だけをあつかうところに意味があるのでしょうか。もちろんそうした大争議の研究は重要なテーマです。しかし、大部分の労働争議は、それによってただちに資本主義の社会構造を変化させるようなものではないでしょう。もちろん個々の労働争議に、資本主義の構造変化が反映することは少なくないでしょう。しかし、山本氏がイメージされている労働争議は、資本主義の根幹を揺るがすような大争議が主であるように感じられます。しかし、これは労働争議の過大評価ではないでしょうか。
私は、争議研究は、構造変化を追究するだけでなく、多くの変化の底に持続される要因を発見するためにも有力な手段であると考えています。たとえば、この本のなかの多くの論文は、時期をこえて日本の労働者の〈従業員性〉を発見している。これは構造の変化というより歴史の「通奏低音」を発見しているものではないでしょうか。
その意味では、山本氏が個々の争議の意義を長期的、空間的な広がりのなかでとらえることを指摘して、例をあげられている(p.6-7)のは、重要だと思う。こうした点こそ、このような例示ではなく、労働争議史研究の成果として明らかにしてほしかった点です。
次は、序論が提示している研究方法について考えたいと思います。これについて山本氏は、皆さんよくご存知の「主体、争点、戦術、組織」というキータームを分析用具として開発されました。
〔主体〕
この主体の重視、とくに経営側について分析することの強調は、これまでの争議研究ではきわめて不十分だった点で、これは労働争議史研究会の貢献であるといってよいでしょう。この点が強調されたことで、本書では、これまでに明らかではなかった数多くの重要な事実を解明するのに成功しました。
たとえば、労働者側が〈従業員意識〉にとらわれていたのとは対照的に、経営者側は〈階級意識〉が鮮明であった事実が、松崎義氏の「鉄鋼争議」で明らかにされています。
「大手5社なかんずく、先発3社の団結がきわめて強固であった。企業は製品市場、設備投資では激しく競争しつつも、こと労資関係については企業の団結がきわめて強固であったこと、少なくともその時点での問題の核心が労資関係上の主導権にあることと団結の必要性を認識し、大手3社を結束させるリーダーシップを発揮した経営者が存在したことを裏付ける。」
東宝争議の事例もこうしたことを明らかにしています。
ただし、山本氏が想定している〈諸主体〉は、労働争議研究においては、いささか抽象度が高すぎるのではないかとも感じます。資本主義の歴史は「資本と賃労働の対抗以外の何ものでもない」と言ってしまっては、労働争議研究で諸主体の具体像を追究する意味は失われてしまうのではないか。「主体が歴史被制約的なものであり……一定の生産関係のなかに組み込まれている存在として……自らの経済的利害から自由ではありえない」というだけでは、労働争議研究によって主体の性格を追究する意味が失われはしないか。
私自身の問題関心からすると、労働者階級一般より日本の労働者の特質に関心があります。こうしたことを明らかにするには、もっと国際比較の視点が要求されるように思います。こうした点は、主体の分析の用具として〈路線〉が強調されているところにも示されています。「諸主体の性格を、当該主体がいかなる〈路線〉の担い手であったのかという観点から分析することが必要なのである。」というわけです。これは私にはよく理解できない点です。また、どうもこの研究会のメンバーにもあまり受け入れられなかった点ではないでしょうか。
私には、主体を分析するには、もっと争議の過程で使われた言葉、たとえば三菱争議で出てきた〈誠実〉といった言葉の意味を探り、さらには、労働争議のなかで各主体がとった行動そのものを検討すべきであると考えます。
さらにいえば、労働争議の分析の方法は、決して一様ではない。各人の課題設定とかかわり、個々の労働争議の性格、あるいは利用可能な資料にもよる。だから方法はもっと柔軟で多様性があって良い。実際、この本に収められている各論文は、そうなっている。
〔争点〕
争点、とくに真の争点という概念は、山本争議論のポイントのひとつです。労働争議研究であることから当たり前といえば当たり前ですが、この概念はどの章でも使われ、成果をあげています。なかでも、平井陽一「三井三池争議」は、争議の〈真の争点〉という概念を基軸に争議分析をおこなっている。
つまり、当事者が理解した争点は「職場活動家の不当解雇の撤回」だったのですが、〈真の争点〉は、「積年の職場闘争によって形成した労働者的職場秩序を、三池労組が維持しうるのか、それとも企業側がそれを切り崩し、職場の末端にいたるまで経営権を確立しうるのかにあった」とするのです。
ただ、こうした〈真の争点〉については、栗田、兵藤両氏が疑問を呈しています。
栗田氏の疑問はつぎのようなものです。
「争議というすぐれて主体的な行動を詳細に実証しながら、その結果得られる認識が、主体の意識と関わりのない客観的な必然性の理解であるというこの研究方法には、何か釈然としない違和感がある」。
兵藤氏の疑問は以下のとおりです。
「いまひとつ気になる問題は、争点の確定における経済決定論的な観点である。争点は、山本のいうがごとく争議分析の核をなすものといってよいが、『争点は研究者によって、客観的分析の結果として提示されるもの』という提言にはひっかかりを感ぜざるをえない。山本は、研究者の抱く仮説と当事者たちの要求を対置し、そこにソゴがある場合、『当事者たちの方が、〈争点〉をただしくふまえて〈要求〉として自覚化することができなかったこともありうる』と述べている。……こういう当事者たちの行動の軌跡を前にして、研究者が真の争点は何かということを客体的な枠組みに照らして云々することはいかなる意味をもつであろうか」
私は当事者が意識しなかった争点、あるいは意識的にそれを表面化させるのを避けた争点があるのではないかと感じますので、この〈真の争点〉を提起したところは積極的な意味があるように考えます。また〈争点〉については、三宅氏が「実際の争議の過程では、〈争点〉は推移するのが常で、それを静止しているみることは不可能である。ところが山本氏の分析では、複数の争点が存在する場合が認められているとはいえ、争点自体は固定され、ここから現実の労資の抗争に意味が付与されているのである。戦術についても同じことがいえる」(山本潔『東芝争議』書評、『社会科学研究』1983年12月)。 こうした疑問に、山本氏はどう答えられるのでしょうか。
最後に、この本全体としての成果を考えてみたいと思います。もちろん、この本は、労働争議の事例研究の集成ですから、主として評価すべきは、個々の論文が解明した事実ですが、そうは言っても、各論文をひとつひとつを取り上げる時間はとてもありませんから。
〔主体の性格の解明〕
この本によって明らかになったのは、山本氏が序論で主張したような、日本資本主義の構造変化ではなく、むしろ日本資本主義を担ってきた主体の個性、というか性格の解明にあったと思われます。それは、労働者の側についていえば、冒頭の東芝や東宝をはじめ多くの章で、その〈従業員性〉が指摘されている点に示されています。生産の主体となり、企業の構成員としての平等を求める姿です。
一方、こうした〈従業員意識〉にとらわれていた労働者とは対照的に、経営者側はかなり鮮明な〈階級意識〉をもって労働争議に立ち向かっていた姿が、先ほど引用した鉄鋼争議の研究で明らかにされ、また東条由紀彦「東宝争議」でも明らかにされています。
もっとも、戦後日本の労働者をただ企業意識にとらわれた〈従業員性〉だけで見るのは不十分であることも、この本は教えてくれます。それは三池や三菱長船の労働者の事例です。強固な労働者的職場秩序をうちたてた三池の労働者、強固な職場慣行、組合規制をつくりあげ、全労働者の先頭にたって戦う代表選手と自らを位置づけた三菱長船の労働者などです。これまで、日本の企業別労働組合というと、その弱さだけが強調されてきましたが、1950年代の労働組合は、予想以上に強い職場規制力をもちえていたことを明らかにしたのは、本書の成果のひとつでしょう。
こうした姿をさらに良くみると、すくなからぬ争議が、経営への介入(とりわけ人事への介入)と「経営権の確立」をめぐる争いであったこと、栗田氏の表現を借りれば「経営のイニシアティヴの争奪をめぐる争い」であったことが、この一連の争議研究によって実証的に明らかになりました。
ただ、こうした〈労働者的職場秩序〉の確立が可能だったのは、それぞれの産業の最も優良事業所であったことも、同時に明らかになったのではないでしょうか。国鉄、三菱長崎造船所、三池、王子製紙など、同業他社にくらべ、あるいは同じ企業内でも優位な経営条件をもっていた事業所で、こうした労働者的職場秩序が可能だったように思われます。
ところで、なぜ労働者は、経営への発言に固執したのでしょうか? 三宅明正「東芝争議」は、これを従業員性によって説明し、青木正久「国鉄労働運動」は仲間の間での競争制限の欠如に求め、東條由紀彦「東宝争議」は〈生産復興〉をキータームにして、この問題に迫っています。いずれも、日本の労働者の価値観、行動様式にかかわっている。
労働争議研究の重要な意義のひとつは、文書記録を残さない一般労働者の価値観が、その行動によって明らかになる点にある。これは、私がかつて労働争議研究の意義を主張したときに強調したところです。山本労働争議研究は、〈主体〉の分析を強調したところに、私の考えと共通する方法を構想されていると思ってきました。しかし、今回の本の序論では、こうした視点は弱いように感じました。
もうひとつ指摘したいのは、せっかくの共同研究だったのだから、そこに共通する問題を探る努力がなさるべきだったのではないか、ということです。たとえば、次のような点です。
1. 争議が各産業のトップ企業の主力事業所でおきていることの意味。東芝堀川町工場、王子製紙、三井三池、三菱長船など。めぐまれた条件をもった事業所であった故にかち取れていた労働条件が、企業間競争によって是正を迫られたこと。
2. 労働者が経営への介入にこだわった理由。
3. 三池労働者の相互の競争制限が三池に留まった理由。
4. ブルーカラー、ホワイトカラーの関係。あるいは、ブルーカラーのなかでも、職制と平職工といった労働者の具体的な在りようを探ること。そうしたことなしには、労働争議分析は不可能でしょう。
5. 資本家・経営者側についても、これを一括して論ずるのではなく、資本の所有者としての資本家と、経営管理の専門家としてその権限を行使する経営者とでは異なる行動様式をしめすことがあるのではないか。
以上のような諸点を、結論なり、総括座談会で論じて欲しかったと思ったことでした。
労働争議史研究会編『日本の労働争議;1945〜80年』東京大学出版会 1991年、A5判452+15頁、本体価格9200円、ISBN4-13-056036-0
1991年12月21日 労働問題研究会の同書合評会における報告原稿、97年9月一部訂正
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