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二村 一夫

賢兄愚弟──大原社研の昔と今




 大原社会問題研究所は、1919(大正8)年に創立され、1949(昭和24)年、法政大学と合併した。従って、この2月には創立70周年、7月には法政大学大原社会問題研究所となっての40周年を迎える。この機会に、大原社研の歴史と現状について理解いただき、いっそうのご指導ご援助を願いたい。
 大原社会問題研究所が設立された当時、自然科学研究の分野では、すでに伝染病研究所(1892年創立)や北里研究所(1915年創立)、理化学研究所(1916年創立)などが存在していた。しかし、社会科学系の研究所は一つもなく、大原社研が日本最初であった。 所名に大原とあるのは、岡山県倉敷市の大原美術館と同じで、創立者が倉敷紡績社長の大原孫三郎であったことによる。彼は私財を投じて研究所をつくり、20年近くこれを独力で維持したのである。彼が出した資金の総額は、当時の金で約185万円。大原の援助が打ち切られた後でも、研究所は、孫三郎が購入あるいは建築した大阪天王寺の土地・建物などを処分した金を基金とし、その利子で運営されたから、大原研究所は、法政と合併するまでの30年間は、大原家の財政的支援によって存続したわけである。
 孫三郎は1880(明治13)年、岡山県倉敷の富豪・大原孝四郎の次男として生まれた。彼は岡山孤児院の創立者・石井十次の影響でキリスト教徒となり、石井の死後はその遺志を縫いで岡山孤児院の院長に就任するなど、社会事業に力をつくした。注目されるのは、孫三郎がその時々に取り組んでいる問題について、実際的な解決策を考え実行しただけでなく、より根本的、学問的な研究の重要性を認識していたことである。たとえば、彼は大地主でもあった大原家の当主として、小作俵米品評会を開いて産米の品質向上を企て、また技術員を雇って小作人に対する農業技術の指導に当たらせたが、それに加えて1914(大正3)年には農業研究所を設立しているのである。同じことは社会事業についてもみられ、大原社研の創立より2年以上も前に社会事業研究に着手している。1916(大正5)年11月29日設立の財団法人石井記念愛染園のなかに置かれた救済事業研究室がそれである。孫三郎はこのセツルメントの開園式で、この研究室について「将来或る時期に於て一層之を拡張し、愛染園の事業より独立せしめ、以て斯業の進歩発達に資する所あらんとするの希望を有する」と挨拶している。彼がこの時すでに独立の社会事業研究所、あるいは社会問題研究所を構想していたことは明らかで、この救済事業研究室こそ大原社会問題研究所の前身である。
 ところで孫三郎は、岡山孤児院院長としての経験から、しだいに社会事業に限界を感じるようになっていた。貧乏を無くすには社会問題を科学的に研究してその解決策を明らかにする必要があると考えるにいたったのである。そこには、岡山孤児院院長としての苦い体験と同時に、小学校の同級生であった山川均の間接的な影響、河上肇『貧乏物語』の直接的な影響があったと思われる。

 大原社研の専任研究員には初代所長の高野岩三郎をはじめ、暉峻義等、櫛田民蔵、権田保之助、森戸辰男、久留間鮫造、戸田貞三、笠信太郎、研究嘱託としては大内兵衞、長谷川如是閑、北沢新次郎、また助手には宇野弘蔵、林要など錚々たるメンバーが顔を揃えた。といっても、今の方にはなじみのない名前が多いであろうから、専任研究員だけ簡単に紹介しておこう。
 高野岩三郎は東京帝国大学教授で祉会統計学の草分け、東大に日本最初の経済学部を設立する運動の中心となり、それを成就した人物である。今では日本中の大学に経済学部と名のつくものは100前後もあるが、いくらかこじつけて言えば、それら全ての生みの親というわけである。戦後はNHKの初代会長にもなった。高野は法政大学ともかかわりが深く、27歳の時から和仏法律学校講師として財政学を教え、1898(明治31)年に和仏法律学校が財団法人になった時には、今の評議員会にあたる維持員会のメンバーとなっている。また大内兵衞、有沢広巳という歴代総長の先生であり、戦後は法政大学顧問として、大学の再建に協力された。
 暉峻義等は医学者で、日本の労働科学の創始者で、大原社研から分かれた労働科学研究所の所長を二十数年も務め、その業績に対し朝日賞が贈られている。
 櫛田民蔵はマルクス経済学者で、河上肇の弟子であるが、マルクス主義理解では河上の先を行き、論文「社会主義は闇に面するか光に面するか」で師を批判し、河上がその批判を受け容れてマルクス研究の新たな出直しを決意したことはよく知られている。
 権田保之助は娯楽研究の先駆者で、戦後はNHK常務理事として高野岩三郎を助けた。近年、余暇研究の先覚として再評価され『権田保之助研究』という雑誌まで出ていろ。
 森戸辰男は戦後、片山内閣の文部大臣となり、後には中央教育審議会の会長を務めるなど、どちらかといえば保守的な人物とみられている。しかし、戦前は東大経済学部の機関誌に「クロポトキンの社会思想の研究」を発表したことで、大内兵衞とともに起訴され(いわゆる森戸事件)、東大を辞めて大原研究所に入った経歴の持ち主である。
 久留間鮫造は戦後20年近く大原社研の所長を務め、同時に本学経済学部教授として経済学史を講じたから、白髪長身痩躯、いかにも碩学と呼ぶにふさわしい風貌を記憶されている方も多いと思う。マルクス研究に生涯を捧げ、その責任編集にかかる『マルクス経済学レキシコン』全15巻は、国際的にも高く評価されている。
 戸田貞三は後に東大の社会学教授となり、日本社会学会の初代会長に就任した。今も研究所の代表的事業で、来年刊行分で第60巻になる『日本労働年鑑』第1集の編者である。
 笠信太郎は後の朝日新聞社論説主幹、ベストセラー『ものの見方について』『花見酒の経済』の著者としても有名である。
 久留間鮫造博士の他にも、大原の研究貞や助手を経て法政大学教授となった方は何人もおられる。名前だけ挙げれば、戦前の研究所に在籍された方では山村喬、竹内謙二、亀島泰治、宇野弘蔵の諸先生。戦後の大原研究所から学部に移られた方は上杉捨彦、舟橋尚道、田沼肇、原薫、中林賢二郎、.小林謙一、佐藤博樹の諸先生である。

 ところで、このように傑出した人びとを先輩に持つことは、われわれ後輩にとって名誉であると同時に、いささか迷惑な点もないではない。偉すぎる親父を持った子供か、賢い兄を持った弟のような立場に立たされるからである。何かにつけて、昔の大原社会問題研究所は立派だったという話になる。もっとはっきり「今の大原はいったい何をしておるのか」と批判される方もあり、そんな時はいたし方ないので、いつも次のような言い訳をしている。
 「昔々、大原研究所ができたころ、日本中に大学は数えるはどしかありませんでした。しかも社会問題研究となると大学ではほとんどやっていませんでしたから、大原社研の所員は何を研究しても、それぞれの分野で先駆者であり第一人者になれたのです。もちろんそれだけに皆さんいろいろご苦労も多かったのですが、敗戦後はそうした分野で実績を持つ人が少なかったので、各方面から引っ張りだこの形となり、長年の蓄積が一気に花開きました。それにくらべ今の日本には数百の大学があり、社会問題研究もいたるところで進められています。研究所と名のつくところは数え切れないほどあり、中には大原社研の十倍余りの専任研究員を擁しているところもあります。そんな中に混じって、限られた予算と限られたスタッフで、世間一般に認められる研究所であり続けるのは容易なことじやありません。あまり無理は言わないで下さい」。
 しかしいかに愚弟でも、いつもこんな泣き言で済ますわけにはいかないので、大原社研でなければできない独自の役割を探り、小さいなりに個性的な研究所をつくろうと努力している。成果は十分とはいえないが、認められはじめていると自負している。
 その新しい方向の一つは、研究員が各自の研究を進めるだけでなく、学内学外の専門家を集め、研究組織者として活動することである。第二に、研究所を専門図書館・資料館として充実すること、第三に研究所を研究情報センターとすること。第四は研究所を国際交流の場とすること、などである。
 第一の点は、法政大学には、どの学部にも優れた労働問題の研究者がおられる利点を生かし、「高齢化社会研究」「QWL研究」「労働組合の組織と交渉力研究」など、いくつかのプロジェクトチームとして結実し、その成果はすでに6冊の研究叢書として刊行されている。また研究所の月刊の機関誌『大原社会問題研究所雑誌』を単なる一研究所の紀要にとどめず、日本の労働問題研究の専門誌をめざし、内容の充実に努めている。研究叢書も『大原社会問題研究所雑誌』もできるだけ多くの人の手にとどくよう市販している。
 第二の専門図書舘・資料館としての機能は高く評価されており、国内はもちろん、世界中から日本の労働問題を研究しようとする人々が集まっている。図書18万冊、新聞雑誌3000タイトル、資料数百万点の内容については、とてもここでは説明しきれない。2月に『大原社会問題研究所雑誌』で創立七十周年記念特集号を出して紹介するので、詳しくはそれをご覧いただきたいと思う。なお、所蔵資料のうち利用度の高いものは法政大学出版局から《日本社会運動史料》として復刻し、まもなく200冊に達する。今年は創立70周年の記念事業として《戦後社会労働運動資料》の刊行を始める予定である。
 第三の情報センターの点でも、研究所は30年以上前から、毎月、「労働関係文献月録」という研究文献情報を編集し専門誌に発表してきた。現在は「日本労働協会雑誌」に連載している。また昨年からこれをコンピュータに入れ、データベース化する作業を開始した。これが完成すると、労働問題の研究者や実務家が必要とする情報を電話回線を通じて提供することができるようになり、研究所は文字どおり日本の労働問題研究のセンターとなるであろう。
 第四の国際化については、大原が日本最大の労働問題専門図書飴であることもあって、この十数年で急速に進展した。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、カナダ、ソ連、オーストラリアなビ世界中から多数の学者が来所し、研究所の図書や資料を利用して研究をおこない、成果を挙げている。ここ数年は、毎年数十人の人々が研究所を訪れ、うち三、四人を客員研究員として受け入れていろ。外国人研究者の受け入れだけでなく、大原社研の所員が海外の共同研究に参加し、あるいは講義を依頼される機会も増えた。かつて客員研究員であった教授の強い希望で、アメリカのデューク大学と法政の間で学生の相互交流協定が結ばれるなど、大学全体の国際化の上でも研究所の果たす役割は増しており、今後はいっそう大きくなるであろう。
 今年の秋には、いま大きな社会問題になっている「外国人労働者問題」についての国際シンポジウムを開く予定で、これにはぜひ多数の皆様に参加していただきたいと願っている。


初出は『法政』1989年1月号







Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
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