戦後の大原社研





爽やかな笑顔──中林賢二郎さんのこと

中林賢二郎氏

 〔1986年〕1月10日午後9時、奥様からの電話で中林さんの容体が急変し、意識が混濁されたことを知らされた。病気が重いことはうすうす察していたが、それほど悪いとは思っていなかっただけに愕然とした。病院に駆けつける間、何とか意識を回復してほしい、なんとかもう一度元気になって欲しいと祈る気持ちと同時に、暮れのうちに見舞いに行くべきだったと悔やまれてならなかった。
 10時過ぎ昭和大学病院に着くと、中林さんは鼻から酸素吸入の細い管を入れ、全身の力をふりしぼって呼吸し、死と闘っていた。奥様が呼びかけられ、私も中林さん!中林さん!と2、3回声をかけたが答えはなかった。顔は思ったほどやつれてはいなかったが、強い黄疸症状が現れていた。そのうち指が異様に太いのに気付き、やつれていないように見えたのは、むくみのためと分かった。だが肩を震わせ、胸を激しく上下させての荒々しい息づかいは、中林さんにまだかなりの体力が残っていることを感じさせた。これなら何とか回復のチャンスがあるのではないかと考えてみたりした。だがそんな希望的観測は、すぐに吹きとんでしまった。中林夫人の弟さん・松本清昭和大学医学部助教授の説明でわかったのは、病気は癌、それも右肺と肝臓に大きく広がり、さらに全身に転移があって治癒の望みはなく、死は時間の問題であることであった。
その説明を聞いて2時間と経たないうちに、中林さんの心臓は動きを止めた。1986年1月11日午前0時48分であった。

 翌朝の病理解剖の結果、癌の初発は右肺上部にあり、前年12月上旬にレントゲン写真で発見された右肺門部の腫瘍はそこから転移したものであることが判った。転移は肺だけでなく全身に広がり、なかでも肝臓には大きな癌が数カ所、小さな転移は無数にあり、全体の60〜70%がすでに癌化していた。ほかにはすい臓、顎下腺付近のリンパ腺、胃の外壁、背骨など各所に広がっていた。 「こんなに早く成長した癌をこれまで見たことがない」とは主治医の言葉である。直接の死因は肺に水がたまり、そのための呼吸不全である。これほどの病状にもかかわらず、あまり強い痛みがなかったのがせめてもであった。

 中林さんと最初に会ったのは、1957年5月11日のことである。労働運動史研究会が、といっても正式発足直前の準備会時代だが、明治大学大学院の会議室で開いた全国研究者懇談会の席上であった。中林さんは前年ヨーロッパや中国を回って来られたばかりで、主に中国における労働運動史研究の現状について紹介された。私はまだ大学院生で、自分の研究やボランティアとして整理に当たっていた大原社会問題研究所の資料のことを説明した。研究会の正式発会後は二人とも事務局員となり、よく顔を会わせるようになった。外国史の専門家であると同時に現代日本について研究する人は今でこそ少なくはないが、当時では希有の存在だった。中林さんの学風の特徴は、一貫して労働運動・社会主義運動発展の法則性を追究される点あったといってよいだろう。それまでの日本労働運動史研究が、ともすれば論理を欠いたものであることに中林さんは批判的であった。
 研究会での中林さんの発言は、明快かつ理路整然とした点できわだち、マルクス・レーニン主義についての深い理解をもとにじゅんじゅんと説かれるところには強い説得力があった。ちょっと議論に行き詰まると皆中林さんの方を向いてその意見を求め、たちまち会の指導的存在となった。労働運動史研究会は、その後盛んになった統一戦線史研究、戦後労働運動史研究、とくに占領期研究ではその先鞭をつけたといってよいが、その研究動向を主導した一人は中林さんだった。研究の組織者・編集者としても抜きん出た力量の持ち主で、機関誌の『労働運動史研究』を単行本形式に改め、いっきょにその立て直しに成功された。もちろん中林さんは単なる研究者ではなかった。教育者であり、実践家でもあった。しかし、それについて語るのは私の任ではないように思う。
1965年、中林さんは法政大学大原社会問題研究所に兼任研究員として入所され、翌年には専任研究員になられた。私も1年ずつ後れ66年に兼任研究員、67年に専任研究員となって、二人は一緒に仕事をするようになった。研究所での中林さんは、当時刊行継続が困難になっていた『日本労働年鑑』の編集責任者として、その立て直しに全力を傾けられた。新しく年鑑の出版を引き受けてくれた労働旬報社の努力もあって、その成果は目に見えてあがった。
  もう一つ中林さんが努力されたのは研究所の「民主化」であった。大原社会問題研究所は中林さんと同年、1919年に誕生した研究所で、長い歴史をもつだけに、古くからの慣行もあって、実際に仕事をする者が研究所の運営についてあまり発言権をもっていなかった。
そうした事態を改革する上で、中林さんが果たした役割は大きい。それによって、その後どれほど研究所内の風通しが良くなり、活動が活発になったか分からない。同時に中林さんは自分に対しても厳しく、それまで「勝手気まま」と言えなくもなかった研究員の勤務状態を率先して改められた。

 思い出のなかの中林さんは、いつも爽やかな笑顔である。明朗、快活で、いっしょにいるのが楽しい人であった。何しろ物知りで、人生経験も格段に豊富だった。会話のなかに、他人の噂話がめったに出ないことも快かった。そうした日々の思い出は尽きない。
 大原研究所の所蔵図書目録作成のため冬のさなかに暖房もない柏木の土蔵に通った日々、暑い夏に『日本労働年鑑』の編集で合宿した夜、とりわけ鹿児島大学での学会の後に、二人で回った指宿の旅は忘れがたい。戦中に学生だった中林さんにとって、同年の仲間が発進していった特攻隊の基地跡は、印象深いものがあると見受けられた。

 1971年2月、中林さんは、アムステルダムの社会史国際研究所に留学された。帰国すると同時に社会学部教授に就任され、大原研究所の方は兼任となった。正直のところ、これは私には大ショックであった。それまで何をするにも中林さんを頼っていたからである。いささか遣り場のない思いで「貴方は我々を見捨てるのか」という趣旨の詰問をした。いろいろ釈明されたことを理解はしたが、納得は出来なかった。
 当時中林さんは堀江正規氏との対話を機に、かなり深刻に考えられていたことがあった。そのことは後に中林さん自身が『現代労働組合組織論』のあとがきで次のように記されている。

 「七〇年の一月初め、前年の暮から葉山の大森海岸で仕事をしていた筆者をはげますために堀江正規氏がわざわざ旅館を訪ねて下さったことがあるが、その日の氏の言葉はいまも私の耳についてはなれない。うらうらと晴れ渡った三浦半島の海はすでに春を感じさせたが、お茶を飲みつつ氏がふともらされたのは、自分に残されている研究時間にはもう限りがある、せいぜい二つか三つの仕事しかできないだろうという意味の言葉であった。私は、愕然としたが、しかし現実はそれ以上にきびしかった。氏はその二つないし三つの仕事をまとめるいとまもなく、この世を去られることになった」。

 ここでの堀江氏の言葉は、そのまま中林賢二郎の気持ちであった。研究者としての出発が遅かっただけに、残されている時間を絶えず意識せずにはいられなかったのである。
「そろそろ自分を人間関係のこまごまと、煩わしい問題から解放して欲しい。残された時間はもう少ないのだから」。
これが堀江氏との会話について語った後、中林さんが私に言った言葉である。今となってようやくその言葉の重みが分かるように思う。中林さんと私とは15歳違い、彼がこの言葉を発したのはちょうど15年前のことであった。







初出は『労働法律旬報』1986年3月上旬号、1997年10月2日一部加筆、1998年5月7日画像追加







Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
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