新人会機関誌の執筆者名調査
二 村 一 夫
1 はじめに
〔1969年〕2月9日は、わが大原社会問題研究所が創立されてからちょうど50周年にあたっている。当研究所では、これを記念していくつかの事業を計画しているが、そのひとつに覆刻シリーズ「日本社会運動史料」の刊行がある。この「日本社会運動史料」は、大原社会問題研究所が半世紀の歳月をかけて集めてきた日本の労働運動、農民運動、無産政党運動などの機関紙・誌、原資料などを系統的に整理、編集し、機関誌については写真製版により、原資料については活版印刷によって覆刻、刊行しようとするものである。
これまでも当研究所は毎年1冊の割合いで労働運動資料、農民運動資料などをタイプ印刷で刊行してきた。しかし、このやり方では収録する資料の分量に著しく限りがある。たとえば、日本労働組合評議会資料は、1957年以来12年間に11冊を出したにもかかわらず、まだ完結していない。今までのテンポでは、完結にはなお10年近くを要するものと思われる。しかも当研究所が所蔵する戦前の労農運動の原資料のなかで、評議会資料の占める割合いは、おそらく1パーセント以下でしかないのである。結局、今のやり方を続ける限り、戦前の労働・農民運動の原資料を誰にも利用しうる形にするには2000年から3000年はかかる計算になる。
一方、運動関係の機関紙誌はようやく整理が一段落し、約1300種が一応利用可能な状態になった。また、このほど「所蔵文献目録(戦前の部)」を刊行したので所外の方が所蔵図書、機関紙誌を検索することも著しく容易になった。とは云っても書庫が3ヵ所に離れて存在し、閲覧室もなく、専任の出納係が1人もいない、まして複写設備など全くないといった研究所の現状では、これを利用しうる範囲は極めて限られたものにならざるを得ない。また、機関紙のなかには痛みがはなはだしく、止むを得ず閲覧を停止せざるを得ないものも出ている。しかも利用度の高いものほど痛みがひどく閲覧を停止するといった問題がおこっている。
このような問題を解決するには、どうしても機関紙誌についても覆刻をおこなわなければならない。また、原資料の覆刻の分量とその刊行のテンポを一挙にあげるほかはない。このたびの覆刻シリーズ「日本社会運動資料」の刊行は、こうした要請に少しでもこたえることをめざして企てられたのである。
原資料については、整理が比較的進んでいる無産政党史料から刊行することとし、現在その第1回配本分である「政治研究会、無産政党組織準備委員会資料」が4月刊行をめざして準備が進められている。これによれば、今までのタイプ印刷の10冊分が1回で収録できる。さしあたっては、年2回の割合いで刊行の予定である。
一方、機関紙誌については、労働組合、農民組合、無産政党の全国組織のものを中心に第1期刊行分約30種をえらび、目下着々と準備が進んでいる。既にその第1回配本として、新人会(前期)機関誌『デモクラシイ』『先駆』『同胞』『ナロオド』の4誌が刊行されたところである。
前置きが長くなったが、こゝでは、今回覆刻刊行した新人会機関誌のペンネームおよび無署名論文の執筆者について調査結果を報告したい。調査の結果は、後掲の「新人会機関誌総目次」にまとめてある。ごらんの通り、主要なペンネームは3、4のものを除いてほぼ判明し、「村人語欄」についても3分の2は復元した。また、無署名論文についてもかなりのものが明らかになった。しかし、実際はこれらのペンネーム復元の信頼度というか、正確さについては、いくつかの段階がある。あるものは全く疑う余地がなく、あるものはほぼ確実であり、あるものは多少の可能性はあるといったように。覆刻版では、これらのちがいを表示するのは技術的に困難があるため、ほぼ確実と考えられるものだけを復元し、そのなかで疑問の残るものについて、?を付すにとどめた。
そこで本稿では、それぞれのペンネームについて復元の根拠を明らかにしておきたい。まだ判明していないペンネームについても、多少なりとも可能性があればそれを示して、今後の検討のたたき台としたいと考える。
今回の調査は、新人会機関誌に執筆されたことが明らかな方々に、総目次を同封してアンケートを求めることからはじめた。しかし、このやり方ではあまり成果があがらなかったため、結局執筆者に機関誌を見ていただいて御教示を得るという方法をとることにした。時間の制約があり、また経済上の問題もあって、東京および近県に在住されている方々に重点を置かざるを得なかった。できれば関係者の全員にお会いして雑誌に目を通していただきたかったのだが、病中の方もあり御多忙の方もあって果たせなかった。しかし、新明正道氏には3回にわたって4誌を見ていただいたほか、宮崎竜介氏には『デモクラシイ』と『先駆』について2回、目を通していただいた。また、波多野鼎、平貞蔵、林要、門田武雄、山崎一雄、干葉雄次郎、荘原達の各氏には、数時間にわたって関係された雑誌について見ていただき御教示をえた。また、松沢兼人、河西太一郎、河野密、黒田寿男、河田賢治の諸氏には、それぞれ執筆されたと思われる号について直接見ていたゞいた。また河村又介、松方三郎、細迫兼光の諸氏には執筆された可能性があると思われる部分のコピーを郵送して回答をいただいた。病床の嘉治隆一氏には、東京大学新聞研究所の殿木圭一教授を通じて、主として嘉治氏御自身のペンネームについて確認していただいた。このほか、棚橋小虎、野坂参三、岩井寿郎、伊藤武雄、金俊淵、山村喬、蝋山政道、住谷悦治、風早八十二、田中九一、宮崎豊子の諸氏から執筆の有無、ペンネーム使用の有無その他について御教示を得た。御多忙のなかを長時間にわたって雑誌に目を通して下さり、執拗な質問にこころよく答えて下さった各位に心から御礼を申上げる。お蔭をもって、はじめに予想したより数多くのペンネームを復元することができた。しかしまだ不明のものも少なくなく、おそらくは誤った推定を下しているものもあると考える。今後一層の御教示をお願いしたい。
なお、以下の文中では敬称をいっさい略させていただいた。失礼をお許し願いたい。
2 本名が明らかなもの
ペンネームのなかで疑問の余地が全くないものがいくつかある。その一つの型は、そのペンネーがかなり長期間にわたって使われていたためひろく知られるにいたったものである。野坂参三のペンネームの野坂鉄、岡上守道のペンネーム黒田礼二(クロポトキンとレーニンをもじったもの)などがこれにあたる。
本名 ペンネーム
平貞蔵 一路[ ]、一路、はるか
松方三郎 後藤信夫
嘉治隆一 RK生
などは新人会OBの機関紙『社会思想』でも継続して使われており、これまた周知のものである。
第2の型は物的証拠のあるもので、
村上堯 げふ、河北清八
佐野学 片島新、高岡幹夫
永倉(林)てる 柏木敏子
がそれにあたる。村上堯のものは、平貞蔵らが編集した「村上堯遺稿」(1920年)にそのことが明記されており、柏木敏子「旧人への訣別」(『先駆』3月号)は「林てる子遺稿集・小さき命」(1925年)に収録されている。「プレスコウスカヤ女史」(『デモクラシイ』第4号)の筆者、高岡幹夫は、関係者からの聞きとりではほとんどの方が岡上守道であるとされていたが、佐野学の「社会制度の諸研究」(同人社、1920年)に収録されていることがわかった。また片島新が佐野学であることについては多くの方の証言があるが、同時に片島新の名で『デモクラシイ』に連載されたシュルツエ・ゲーヴァニッツ「マルクスかカントか」が、佐野学訳述として大鐙閣から単行本で出されている(1920年)。その訳者序には附記として、「此翻訳の前半は新人会の機関誌『先駆』の前身『デモクラシー』数号に載った」と明記されており、疑問の余地はない。なお、片島新と月島新が同一人であることは『デモクラシイ』1号・2号に連載された「無資産階級解放の道」がこの両方の名を使っており、まず問題はないだろう。
これと多少性質はちがうが、『ナロオド』2月号「二月革命後のバクーニン」の筆者藪水映が山村喬のペンネームであることは、本人の確認があるほかに、同じ号の巻末目次にその筆者が山村と記されていることからも明らかである。ついでに言えば『デモクラシイ』最終号の一周年記念歌「黎明を仰ぐ新人」の作者およびギッシング「若き日の思い出」の訳者が誰であるか、本文だけではわからないが、表紙目次にはそれぞれ赤松克麿、林要であることが明記されている。
もう一つ、疑問の余地がほとんどないものは、ペンネームを使った本人のはっきりとした確認が得られた場合である。次がそれである。
嘉治隆一 和田元、多和田元、元、隆、杉並隆夫、RK生
門田武雄 赫明、赫明子、嚇明、武
河田賢治 河田透、河田生
河西太一郎 河西一郎、真夫
新明正道 秋関直二
平貞蔵 中野吾一
波多野鼎 波多野謙、小田穣
林要 山野秋人、要、笹川暢、暢
松沢兼人 鐘生、南健、健
宮崎竜介 血潮子
山崎一雄 友成与三吉、与三吉、大島三郎
なお参考までに、機関誌で用いられたペンネームではないが、当時新人会叢書その他の単行本で使用されたペンネームで本人の確認のあるものを掲げておこう。
風早八十二 風間徹二 アルノウド「ニヒリスム研究」(大鐙閣、1922)
黒田寿男 若山健二 エルツバッヘル「無政府主義論」(聚英閣、1921)
新明正道 蔭田三郎 エンリコ・フェルリ「近世科学と社会主義」(大鐙閣、1921)
波多野鼎 榎本謙輔 プレハノフ「近代唯物論史」(同人社、1927)
すでに亡くなられた方についても、今回の聞きとりを通じて多くの方の証言がほとんど一致したものがいくつかある。すなわち、
赤松克麿 観風子、植田四郎、黒川四郎、四郎
石渡春雄 隅田春雄
佐野学 岳人
がそれである
もっとも、前述の如く、佐野学のペンネームの一つ高岡幹夫について多くの方が岡上守道であろうと述べ、「チェルノフの社会思想『デモクラシイ』第6号)の筆者河北清八(村上堯)についてこれまたほとんどの方が在学生ではなく卒業生、それもおそらくは満鉄東亜経済調査局にいた佐野学あるいは岡上守道であろうと、推定されていた例もあるので、多数の一致した証言というだけでは100パーセント確実とは言えない。
しかし、植田四郎が赤松克麿であることは、大正9年9月末現在の東京帝国大学大学院法学部の在籍者名簿に、政治哲学専攻・植田克麿の名があり、また彼が赤松照憧の四男であったことを考えるとまず間違いないと思われる。まだ確認していないが、植田姓は赤松の母方の姓であったのではないだろうか。また『デモクラシイ」の「発刊の辞」を書いている観風子が赤松であることは、宮崎竜介・新明正道ら多くの証言によるが、これもまず確実であろう。当時「発刊の辞」を書く立場にあったのは赤松の他には宮崎竜介、麻生久くらいだが、この2人は「発刊の辞」のすぐ後に「宣伝」と「評論」を書いている。また「発刊の辞」の趣旨や用語は、赤松の署名論文、たとえば『デモクラシイ』第5号の「解放運動の真精神」、同7号の「国際平和運動と大和民族」と一致している。なお、この「発刊の辞」は新人会綱領の解説ともいうべき内容をもっている。「発刊の辞」の筆者と新人会綱領の作成者は同一人物とみてよいのではないか。
「リープクネヒトの軍国主義観」「人物評伝カール・マルクス」を書いている隅田春雄が石渡春雄のペンネームであることも、名前が同一であり、彼が隅田川のほとりの浅草の生まれであったことからまず間違いないものと思われる。
『デモクランイ』第6号「短草録」の筆者・岳人が佐野学であることは、学と岳の音が共通するという他に、「短草録」の内容がレーニンの「国家と革命」、メーリングの「カール・マルクス」をはじめ、カウツキー、シュモーラー、ローザ・ルクセンブルグなどの著書の紹介であることによってもほゞ確実だと思われる。この時点でこれだけの読書力をもっていたのは佐野学の他には岡上守道だけだが、佐野がドイツに関心をもっていたのに対し、岡上は主としてロシアに目を向けていたという。
3 推定可能なペンネーム
今回のように、50年も前に使われたペンネームを復元するとなると、どうしても関係者の記憶だけにたよってはいられらない。とくに『デモクラシイ』の台町私語、村人語、『同胞』の同人私語といった同人が一筆ずつ寄せ書きした欄では、その場限りのペンネームが使われることが多いため、どうしても推理による部分が多くなる。
普通、ペンネームが用いられるのは雅号を別とすれば、本名を一般に知られたくない場合が多い。もちろん新人会の機関誌でもこうした必要からペンネームが使われている。とくに弾圧がはげしくなる一方、会員のなかに社会人の比重が増した『ナロオド』でのペンネームにはこうした性格のものが多くなっている。しかし『デモクラシイ』と『先駆』の場合は、むしろ雑誌が少数の筆者で作られているという印象を避けるためにペンネームが使われているように思われる。このため、ペンネームを決めるときに、全く無意味な名をえらばずに、本人と何らかの関連をもった名をつけていることが多い。そこで一定のルールによってペンネームを検討してみると、ある程度の推定が可能である。たとえば本名を一部だけ変えたり、もじったりというのが一つの型である。厳密にはペンネームとはいえないが、本名あるいはペンネームの姓だけ、あるいは名だけのもの、本名のイニシアルも一応この型に入れてよかろう。2番目の型は出身地や居住地の地名に関係したペンネームである。もう一つの型は縁故者の名をそのまま、あるいは一部をかえて使うなどである。
まず第1の型だが、氏名の一部を変えただけのものは、本人もまた周囲の人の記憶も明瞭であることが多く、ほとんど推測の必要がなかった。波多野鼎のペンネーム波多野謙、河西太一郎の河西一郎、河田賢治の河田透などがそれである。また、本名あるいはペンネームの名前だけのもの、たとえば二郎は早坂二郎であり、正治は河合正治であり、景勝は小沢景勝、新は片島新の佐野学であることも推定は容易であった。
ただ『デモクラシイ』第5号の村人語で使われている「けん」については、はじめ波多野謙というペンネームを使っていた波多野鼎であろうと考えていたが、同氏の確認をえることができなかった。もう一人は、南健のペンネームを持つ松沢兼人であるが、これまた承認をえられなかった。
『先駆』5月号の「落英集」の筆者・元坊主はもと坊主と読んでいたため僧侶を父にもつ赤松克麿かと考えていたが、和田元の元坊主ではないかとの2、3の方の御意見で、嘉治隆一とした。ただし、本人の確認はまだ得ていない。なお、宮崎竜介の日記に「落英集」という名のものがあったことが『先駆』創刊号の「血潮録の後に」に記されているので、元坊主=宮崎の可能性も考えた。しかし同氏はこれを否定し、またこの文章が同氏除名後のものであることからも、これは問題にならない。
また、同一の姓について2人以上の該当者がある場合も多少の検討が必要となる。たとえば『デモクラシイ』第6号に短い詩を寄せている丹星董については、新人会広島支部の中心人物丹悦太と東京支部の世話人の一人丹沈平の2人が考えられる。これを丹悦太と推定したのは、丹沈平の名が機関誌に見えるものはもっと後の時期であること、星董の肩書きに機械工とあるが、これに丹悦太が該当していることによった。なお、丹沈平については、同じ東京支部の世話人であった岩内善作にも全く記憶がないとのことである。
イニシャルについても同じようなことがある。問題となるのは、A生、MS生、S生、K生、KH生、KK生、TYなどがあるが次のように推定した。
KK生 来間恭
TY 高木与一
MS生・S生 新明正道
KH生 細辺兼光
『ナロオド』11月号の「雑記帳から」の筆者KK生が来間恭であることは、会員でKKにあたる者は彼以外にいないので推定は容易であり、『同胞』1月号の「火鉢を囲んで」欄の某聯隊、TYが金沢聯隊の高木与一であることも、同3月号の「家宅捜索」などからほゞ確実である。
『同胞』3月号のMS生に該当する会員は佐野学、新明正道の2人がいる。しかしこの時期には佐野学の執筆がほとんどないのに対し、新明は同号の編集人であること、また形式もうめ草的なものであるので佐野の執筆はほとんど考えられないなどから新明と決定した。『デモクラシイ』第8号の「交通労働組合の新生」のS生が新明であることは、内容についての本人の確認によった。次に『ナロオド』1月号の巻頭言の筆者KH生であるが、これに該当するのは波多野鼎、林要、細迫兼光の3人がいる。しかし、波多野、林の2人はともに1920年に卒業しており、新人会が学内団体に再編された後の機関誌に巻頭言を書く立場にはなかったと考えられるのでKH生=細迫兼光と推定した。なお同氏もこれを認めた。A生については後に検討する。
本名のもじりと考えて推定したものに、台町私語、村人語欄の子葉および四葉の高島志容、越間生の児島健爾、多北楼の信定滝太郎がある。『同胞』四月号、同人語欄の黒ダリアは黒田寿男ではないかと思うが、まだ同氏に確認を求めていない。
第2の型である地名に関連したペンネームとしては、月島に住んでいた佐野学の月島新、杉並にいた嘉治隆一の杉並隆夫、大久保の柏木にあった東京女子大に通っていた永倉てるの柏木敏子などがある。石川沢二を新明正道と推定したのも石川県金沢市に縁のある名と考えたからであり、これについては同氏の確認が得られた。もう一つ、関係者の間で意見がわかれたのは、那珂川徹が三輪寿壮のペンネームであるかどうかについてであった。否定論は『先駆』四月号の「或る雨の夜」といった創作を三輪寿壮が書いたとは考えられないというのである。しかし三輪にこのような内容の創作があったことについては、林要のはっきりとした記憶があり、新明、嘉治も那珂川が三輪だと述べていることから、那珂川徹=三輪寿壮と決定した。これについてのもう一つの根拠は那珂川が三輪の出身地の福岡県の川の名であることである。栃木、茨城両県にまたがる那珂川もあるが、この時期の会員にはこの両県の関係者はいない。
第3の型。縁故者と関連のある名を使った例には、山崎一雄の与三吉、村上堯の河北清八などがある。与三吉は山崎の祖父の名を少し変えたものであり、村上堯には河北平八という名の曾祖父があった(「村上堯遺稿」78ぺージ)。『デモクラシイ』第4号の村人語の辰夫生を細野三千雄としたのは、彼の父の名が辰三郎であること、また彼が自分の子に達也と名付けていることからの推定である。
ペンネーム復元の最後の手がかりは、書かれた文章そのものである。執筆者や編集者にはペンネームについてはっきりした記憶がない場合でも、その文章を見れば筆者を推定しうることが多い。その内容、文体、用語など手がかりはいくつもある。「本人によって確認されたペンネーム」として既にあげたなかにも、ペンネームについての起憶だけではなく、こうして確認されたものがいくつかある。たとえば南健を松沢兼人のペンネームと断定したのは、「帰京の前後」に書かれた内容についての確認によっている。
最終的な確認にはいたらなかったが、文章の内容などから自身が使った可能性を認められたペンネームとしてつぎのものがある。
波多野鼎 載天、東籬、与平
新明正道 黒人形、木霊子、霊木、白雀生、
林要 森の人
山崎一雄 青山敬三、敬三、樹下哲人、前山清
河西太一郎 丘本三郎
「貨幣なき島」の筆者青山敬三は、はじめ「貨幣なき社会」という著書のある林要を予想していたが、これは本人によって完全に否定された。ところでこの青山敬三の手がかりとして他に「敬三」という署名の短文が2つある。一つは『先駆』6月号の編集後記にあたる「新緑の葉蔭から」であり、いま一つは同8月号の「富士紡罷業所感」である。『先駆』の編集担当者で労働争議にも関心が強いとなると、やはり山崎の線が最も強い。なお山崎は『先駆』8月号の編集後記「熱風の中で」(与三吉の署名)でも富士紡罷業にふれている。この推定については同氏の一応の承認が得られた。一方、『ナロオド』9月号「神戸の大労働争議について」の前山清が山崎一雄であるかどうかについては、本人にも明瞭な記憶がないとのことであった。が、新人会員で川崎争議に関係した者は赤松克麿、山崎一雄の両名である。この文章を赤松の書いた「足尾事件を顧みて」などと比べてみると、同一人のものとは思えない。むしろ山崎署名のいくつかのものと近いことから、前山清=山崎一雄と推定した。
丘本三郎というペンネームは誰にもはっきりした記憶がないもののひとつであった。しかし、この同じペンネームが『社会思想』の第6巻(1927年)でしばしば使われていることがわかり、その内容(農業問題とくに農業綱領について論じている)、文章から河西太一郎と推定した。これについては同氏に『社会思想』の論文も見ていただいたが、可能性を認められたのみで、最終的な確認は得られなかった。
つぎのペンネームも主として文章及びその内容から推定したものである。
細野三千雄 南嶺生(波多野鼎による)
高島志容 民(右仝)
赤松克麿 閑太(門田武雄による)
永倉てる 藤木常子(宮崎豊子、林要による)
なお、藤木常子については、赤松克麿の妹、赤松常子の可能性を指摘された方もあった。しかし当時彼女はまだ17才の少女で郷里の徳山にいた時期であることなどから一応別人であると考え、文の内容は永倉のものに近いとのことで、このように推定した。ただし、それならばこの文章がなぜ遺稿集に収められなかったのか、疑問は残る。
4 本名不明のもの
以上約70のペンネームを一応復元した、残るのは36であるが、そのうち24は台町私語、村人語、同人私語などの欄に用いられたペンネームで、その時限りに使われたものが多く、ある程度の推定は可能だが決め手を欠いている。が、ともかく聞きとりでの各氏の意見を紹介して若干の検討をおこなっておきたい。
『デモクラシイ』第2号の台町私語のペンネームで不明のものは蘇水、たすく、超俗生の3つである。蘇水は山崎一雄、たすくは林要、超俗生は河西太一郎あるいは嘉治隆一または佐々弘雄と推定された方があったが、林、河西、嘉治はまだこの時には新人会に入っていない。結局、いまのところこの3つのペンネームを使った可能性があるのは、当時会員だったことがはっきりしている山崎一雄、佐々弘雄、早坂二郎、松沢兼人、新明正道、佐野学、麻生久らであるという以上の推定は困難である。
『デモクラシイ』第4号の村人語では、蘇人ただひとつが不明である。内容からすると、高田村の本部に住んでいたものとみるのが自然であろう。とすると可能性があるのは、麻生久、波多野鼎、山崎一雄、新明正道らである。しかし、波多野は4月に名古屋で開いた演説会(同号「中京と西京」参照)が遇然後見人の目にふれ、しばらく帰京を許されなかったので「村人語」に書いていることはないと云う。また新明も夏休み前には全く書いていないと思うと述べている。また、山崎一雄は蘇人、蘇水のどちらも自分ではないと述べている。残るのは麻生だが、この可能性はかなり強い。何故なら、これが書かれた5月末まで麻生は高田村の合宿にあって新人会の中心的存在であったし、この号にも宣伝と小説を各1本書いている。その麻生が村人語に全く執筆していないとは考えられないからである。とすれば、第2号の蘇水もあるいは麻生であるかも知れない。 『デモクラシイ』第5号の村人語で判明していない筆名は恬烽生と「けん」である。恬烽生についてけ山崎一雄説が多かったが、本人の確認はえられなかった。また「けん」は前述のように波多野謙の波多野鼎か、南健の松沢兼人と考えるのが自然だが、2人ともこれを否定した。
第6号の村人語では白夢生、司、「おむさ」の3つがまだわかっていない。この時期に村人語に執筆した可能性のあるのは河西太一郎、嘉治隆一、門田武雄、林要、波多野鼎、早坂二郎、三輪寿壮などであろう。白夢生を嘉治ではないかと述べた方が何人かあった。その他、白夢生=林、司=早坂、おむさ=門田あるいは嘉治説があった。
7号の村人語で不明のものは、公木、閑難、村の青年である。可能性のあるのは門田武雄、河西太一郎、林要、波多野鼎、三輸寿壮などであろう。宮崎竜介も考えられなくはないが、この号には全く執筆していないし血潮子以外のペンネームを使ったとも思えないので除外してよかろう。この号に2本書いている林要の可能性はとくに強い。なお、村の青年=麻生と推定した方が2人あった。
第8号村人語のペンネームは、他の号と共通するものが全くなく手がかりにとぼしい。あえて推定すれば次のようになる。
吉三 山崎一雄(与三吉からの連想)
閑太 赤松克麿(内容から。当時労働運動に関心が強かった)
一助 河西太一郎(河西一郎)か平貞蔵(一路)
九兵衛 宮崎竜介(十兵衛というペンネームを使ったことがある)
難明 新明正道か門田武雄(赫明)
代八は推定困難だが、以上あげたほかに執筆の可能性のあるのは林要、嘉治隆一、三輪寿壮などである。
最後は『同胞』3月号の同人語欄の筆名であるが、元の嘉治隆一、大島三郎の山崎一雄、景勝の小沢景勝がわかっているだけで、残りの7つは不明である。可能性があるのは赤松克麿、新明正道、門田武雄、荘原達、来間恭、小岩井浄、細迫兼光、干葉雄次郎、風早八十二、黒田寿男などである。黒ダリア=黒田寿男、帰去来=来間恭あたりまで推測しうるが、他は一寸わからない。
村人語、同人語以外でまだ判明しないペンネームはつぎの12のものである。
村岡生、A生、アイヌの子、CGT生、水上清、飛弾生、W、長田三郎、中川実、刈田民雄、ドクロ生、松川亮一。
以下、これについて若干の検討をおこなってみよう。
村岡生、A生はともに『デモクラシイ』第1号の海外時評の筆者である。その内容からみて新聞社の外信部の記者ではないだろうか。第2号の無署名の海外時評に東京日日新聞巴里特電によるものがあることを考えあわせると、当時麻生久の勤めていた東京日日の記者ではないかと考えられる。A生は麻生自身とみてよいのではないか。村岡生については岸井寿郎の可能性を指摘された方があった。しかしこれは本人によって否定された。彼は当時東京日日に入社前で入営中であったし、新人会機関誌には執筆していないとのことであった。
『先駆』4月号「白昼猿語」の筆者「アイヌの子」については、河西太一郎説が有力であった。ある人は「アイヌの子」というペンネームから、またある人はその文の内容からこれを指摘されたが、本人の確認はえられなかった。
『先駆』5月号「新刊書寸言」のC・G・T生については佐野学とする意見が多かった。
次は『先駆』6月号の「過激派真相問答」の水上清である。ききとりの中で出た名は佐野学、嘉治隆一、新明正道などであったが、文中に「早稲田文学」の名が見えること、佐野が筆者の1人であった「過激派」(民友社、1919年)の最終章が「過激派と芸術」であることなどを考えあわせると、水上清も佐野学であるとしてよいのではないか。
『同胞』はほとんどが無署名なので、問題になるペンネームは、同人語以外では、3月号「家宅捜索」の筆者飛弾生と、5月号雑感の筆者Wの2つだけである。飛弾生の方は内容からみて本部にいたものにちがいない。なかでも小岩井浄、新明正道などの可能性が強い。Wの方はよくわからない。強いて推測すれば、黒田寿男のペンネーム若山の頭文字をとったものと考えられないことはない。
『ナロオド』ではまだ5つのペンネームがわかっていない。まず問題になるのは、創刊号に「資本主義下の専制と混乱状態」、9月号にレーニンの「農業税の意義」について書いている長田三郎であ−る。これと丘本三郎についてはその名の共通性から松方三郎ではないかとの指摘があり、同氏に該当の部分のコピーを送って見ていただいたのだが、後藤信夫以外のペンネームは使っていないと思うとのことであった。だいたい三郎という名は本名、筆名を問わずかなり多い。山崎一雄の大島三郎、河西太一郎の丘本三郎のほか、新明正道も1922年に蔭田三郎の名でエンリコ・フェルリの「近世科学と社会主義」を訳している。この他満鉄東亜経済調査局にはロシア語に通じた島野三郎がおり、佐野学、波多野鼎、新明正道とともにウエルズの「世界文化史大系」を訳した一人に北川三郎がある。このなかでぱ蔭田三郎が長田三郎に最も近い名でもあり、右の2文章は新明執筆の可能性が強いと考えたのだが、残念ながら同氏の確認を得られなかった。
中川実は『同胞』に「二種のデモクラシイ」(9月号)、「『過激派の苦境』と其対策」(10月号)の2本を書いている。しかしこの筆者が誰であるかは遂にわからなかった。内容からすれば嘉治隆一、千葉雄次郎などの可能性がある。『ナロオド』9月号の「上富士前だより」には、予定の原稿が集まらなかったので、「居残りの本部員一同が大車輪で執筆して漸く期日に間に合せる事が出来た」とあり、この点からも、長田三郎、中川実は新明、嘉治、千葉のうちにいるものと思われる。
11月号の「1868年におけるマルクスとバクーニン」の刈田民男は、あるいは黒田寿男ではないかと考えたが、同氏の承認は得られなかった。次の号のドクロ生は投稿とあるところから会員外であろう。それ以上にはわからない。最後は最終号に「労農ロシヤの新経済政策について」を書いている松川亮一であるが、これまた何の手がかりもなかった。佐野学にはこれと全く同名の「労農露西亜の新経済政策について」という論稿がある(『闘争によりて解放へ』早稲田泰文社、1923年所収)が、内容は異なっている。
5 無署名論文の筆者
無署名論文や無署名記事の筆者を確定することは、ペンネームの復元より決め手に乏しいだけに一層困難である。それでも、大小とりまぜ約50篇、全体の3分の1強の執筆者が一応判明した。
このうち最も信頼度の高いものは、執筆者自身によって確認された約40篇であるが、実際にはその中にも当人の記憶の鮮明なものと、内容などから執筆の可能性を指摘して承認を求めたものまで、信頼度には多少の巾がある。
その論文自体について、執筆者本人の明瞭な記憶があったのは、つぎのものである。なお、掲載誌名、巻号などは覆刻版に付した執筆者索引によって見ていただきたい。
河村又介 「新共産党宣言の一節」
新明正道 「何といふ怯懦だ!」「麺麭の道徳」「小作人の立場」「冬の夜話」「イロハがるたの話」
千葉雄次郎 「三角同盟に就て」「未来は民家の手に」「新人会三週年」
宮崎竜介 「生命と其絶対性」「太陽の光を浴びよ」「朝鮮の統治者に与ふ」
つぎの筆者のものは、主としてその内容から執筆した可能性が大であることを自身で認められたものである。論文名は覆刻版の執筆者索引を参照ねがいたい。
黒田寿男、荘原達、平貞蔵、波多野鼎、林要、宮崎竜介。
筆者自身の確認がない場合でも、内容、文体などから執筆したことがほぼ確かなものはこれを明記した。赤松克麿、佐野学、三輪寿壮のものがこれである。たとえば、『同胞』11月の「足尾紀行」を三輪と推定したのは、この時足尾に行ったのが麻生久と三輪の2人だけであること、麻生も同じ「足尾紀行」の題で『鉱山労働者』(全日本鉱夫総聯合会機関誌)に短文を書いているが、内容は全く異なっていること、文章に三輪の特徴がよく出ているとの証言があったことなどによっている。
書きもらしたが、無署名の文章で筆者が一番確実なものは、『デモクラシイ』第1号の「詩 眠り」および「小説 ネヅダーノフ」である。この2篇とも、近世西洋文芸叢書第5冊、相馬御風訳、ツルゲーネフ「処女地」(博文館、1914年)の1節をそのまゝ抜き出している。
以上は覆刻版において筆者名を明記したものである。しかし、この他にもある程度の推定が可能なものが少くないので以下、号を追って述べておこう。
『デモクラシイ』第1号でまず問題となるのは、巻頭の主張「ネオ・ヒューマニズム」である。これについて平貞蔵は「三輪寿壮の生涯」のなかで「麻生が執筆し、赤松、宮崎、石渡が賛成した」と明記しており、ききとりでも、これは自身の明瞭な記憶によることを述べられた。一方、宮崎竜介は文章を一読した上で自身の執筆の可能性を示唆された。また他の何人かの方は「今や若きネオ・ヒューマニストの一群は……」と云った表現は赤松克麿以外ではないと思うと主張された。当事者の記憶の鮮明さという点では麻生説が有力であり、またその内容も麻生が『解放』の創刊号に執筆した「人類解放の諸精神」などと合致しているようにも思われる。あるいは、麻生が原文を執筆し、赤松、宮崎らが加筆したとみるのがよいかも知れない。
同号の「露西亜のニヒリズム」は岡上守道との説が有力であった。その根拠は、この時期にロシアについて詳しいのは岡上であるという点にあった。しかし、この文章をあえて岡上のものと断定しなかったのは、他に麻生久、佐野学の可能性を考えたためである。たしかにこの時期においては、ロシアについて最も深い学識をもっていたのはよく知られているように岡上であった。しかし、この文が発表された僅か3カ月後には、麻山改介(麻生久)、黒田礼二、片島新の共著「過激派」が民友社から刊行されており、麻生にしても、佐野にしてもこの程度の文章を書くのには充分な知識をもっていたとみられる。ついでにいえば、『デモクラシイ』各号のコラム「赤鉛筆」はそのほとんどが佐野学の執筆であることは多くの方の一致した証言がある。なかでも6号のものは新の署名があり、佐野学に間違いない。しかし4号の赤鉛筆はロシアに関係した内容であるから岡上であろうと指摘された方があった。いまのべた理由から、これだけでは佐野学の可能性をすてきれないので、一応筆者不明のままとした。
1号の「普通選挙要望の檄」は山崎一雄の可能性を指摘された方が多く、本人もこれを認められた。確定をさけたのは、村上堯がちょうどこの時期に「選挙権拡張の方法−漸進と急進(普通選挙を実施せよ)」を書いていること(村上堯遺稿)が気になったためである。また、山崎一雄署名の「普通選挙と新興文化」(「先駆」創刊号)とこの檄文とはその論旨にかなりの相違がある。もちろんこの間には1年近い時日の経過があるので、この論旨の相違だけで山崎の可能性を否定するわけではないが。
つぎに『デモクラシイ』の無署名記事で問題になるのは、時評欄の筆者である。これについては佐野学とする見解が比較的多かった。しかし内容を見ると1号から4号までと、5号以降は別の人物が書いていると考えた方が自然である。すなわち、4号以前は「海外時評」として外電の紹介が主であるのに対し、5号以降は単に「時評」となり、外電の紹介より論評に比重がかかり、国内問題についても筆が及んでいる。あえて推定すれば、4号以前は麻生久、5号以降は佐野学ではないか。その根拠は、麻生は東京日日記者として外電を得やすい立場にあったこと、5号以降の時評を書きうる力をもっていたのは佐野学の他にはあまりなかったとの多くの人の一致した証言である。また、ちょうど第4号を発行した直後に麻生が高田村の合宿を出て、代って佐野が合宿入りをしていることもこの推定の一つの論拠となっている。
『デモクラシイ』第4号では「新人会記事」と「中京と西京」が無署名である。どちらも赤松克麿とする意見があった。「新人会記事」は赤松、宮崎あたりと考えられるが、「中京と西京」を赤松とするのは疑問が残る。文中、遊説参加者の氏名の筆頭に赤松の名があるからである。もっとも、学年順に名をあげているのでただ一人の3年生である赤松執筆の可能性も皆無とはいえない。
第5号では、ホイットマンの「草の葉」の1篇「おゝ先駆者よ!」の訳者と「総同盟農業の記録」の筆者が不明である。
ホイットマンの詩は他の号でも2回ほど埋め草として使われているが、いずれも訳者は富田砕花であろうと考えていた。富田は会員ではないが、新人会の講演会にはしばしば出演しており、また、ちょうどこの年に大鐙閣から訳詩集「草の葉」を出していたからである。しかし、同書を照合した結果、この予想は完全にくつがえされた。富田訳では、これは「ああ開拓者よ!」と題され、口語調で書かれている。富田砕花の外にも、ホイットマンの訳者、あるいは研究者としては有島武郎、内村鑑三、夏目漱石などがいる。なかでも有島は新人会第2回学術講演会で「ホイットマンの生活及作品の研究」について講じている。そこで、この講演会の記録『新社会への諸思想』(聚英閣、1921)および『叛逆者』(新潮社、1918)を調べてみたが、一致する作品はなかった。他はまだ未調査である。
「総同盟罷業の記録」は、満鉄東亜経済調査局にいた岡上、佐野の仕事であろう。他の者ではこれだけ調べる材料をもっていなかったとの意見があった。
『デモクラシイ』第6号では、巻頭に掲げられた詩「混沌」の作者がわかっていない。あるいは富田砕花ではないかとの説もあったが、彼は同人ではなかったし、この時期の彼の全作品を収録した詩集「時代の手」にもこの詩は入っていない。
第7号では「労働者と智識階級」という短文、「青年文化同盟の成立」「高野博士に就て」などの記事が無署名である。「労働者と智識階級」は平貞蔵の可能性ありとのことで、御本人に見ていただいたが否定された。文章の趣旨は「先駆」創刊号の赤松克麿「労働運動と知識階級の問題」と完全に一致しており赤松執筆の可能性がこい。「青年文化同盟の成立」は山崎一雄か門田武雄、「高野博士に就て」は麻生久か赤松克麿あたりではないかと思われる。
『デモクラシイ』第8号では、「自由と強制」の1篇だけが無署名である。ロシア憲法についてふれている所から河村又介の可能性が指摘されたので本人の確認を求めたが、この時点ではまだ関心がなかったとのことで否定された。むしろ、佐野学執筆の線が強い。
なお『デモクラシイ』の編輯後記は1号から5号までが宮崎竜介、6号が平貞蔵であることはほぼ確実だが、7号、8号がはっきりしていない。しかし8号の編輯名義人が新明正道であることからすれば、少くとも8号は彼が書いたとみてよいのではないか。
『先駆』では無署名論文は全くなく、ただ各号の巻頭の新人会記事と巻末の編集後記だけが無署名である。これらのほとんどは編輯人の山崎一雄が書いたものである。これについては本人の明瞭な確認があった。ただ、このなかにいくつかは林要執筆のものがふくまれているのではないか。たとえば、3月号の「新人会記事」の内容は林要の回想記「新人会のころ」と合致するところが多い。また5月号の編輯後記「地下室より」は林要執筆にほぼ間違いないことが本人によって確認された。
問題は『同胞』である。他の3誌とちがって『同胞』の場合は論文・記事の大半−74篇−が無署名であり、そのうち筆者自身の確認や関係者の証言などによって執筆者を一応確定しえたのは24篇でしかない。残りの50篇がまだ筆者不明である。この50篇全部の筆者を確定することは、今となってはほとんど不可能であろう。しかし、まだ検討の余地は少なからずある。ただ、何分にも本数が多いので、一篇一篇についての詳細な検討は省略せざるを得ない。
そこで、まず執筆者の範囲を限定しておこう。『同胞』が発行されたのは、1920年10月から翌年5月までであるが、この時期に中心的に活動し、執筆したのは3年生では新明正道、山崎一雄、門田武雄らであり、2年生では小岩井浄、千葉雄次郎、来間恭、細迫兼光、1年生では荘原達、黒田寿男らである。卒業生では最初の2号の編集名義人である赤松克麿のほかに、満鉄東亜経済調査局に勤めていた嘉治隆一、波多野鼎がよく書いている。河村又介、三輪寿壮、平貞蔵らも寄稿してはいるが数は多くない。『デモクラシイ』『先駆』の執筆陣のうち、野坂参三、岡上守道は外遊中で執筆の可能性はほとんどない。また、河西太一郎、林要は卒業して大阪に移ったため執筆の機会は減ったものと思われる。松沢兼人、河野密、住谷悦治、風早八十二らもこの時期の学生会員だが、あまり執筆していないように思うと述べている。蝋山政道は匿名で書いたことはないと思うと述べているが『同胞』の場合は本人に匿名の意思がなくても、編者が無署名にしたことは充分に考えられる。
つぎに、論説や記事の内容の面から筆者を限定してみよう。『同胞』で目につくのは労農ロシアについて論じたものが多いことである。このテーマに関心が強かったのが、嘉治隆一、波多野鼎、千葉雄次郎などであることは『ナロオド』の総目次を見ればわかる。労働組合、労働運動に関する紹介記事、論評も毎号見られる。この筆者は赤松克麿、山崎一雄、新明正道、三輪寿壮などであろう。なかでも当時大崎の労働者街に東京鉄工組合の組合員と共同生活をしていた山崎一雄は数多く執筆しているものと思われる。門田武雄も労働運動に熱心で各地に出かけているが、機関誌に書いたことはあまりないという。
筆者の範囲を限定しやすいのは、「上富士前町から」「新人会記事」などと題されている編集後記である。執筆した可能性が一番強いのは各号の編集発行人、すなわち創刊号と11月号は赤松克麿、12月号から4月号までが新明正道、5月号は千葉雄次郎である。もちろん、他の人が書いたことも充分考えられるが、その場合でも小岩井浄、荘原達、黒田寿男らの新人会本部員以外ではないだろう。
執筆者の範囲について以上のような限定をおこなった上で、かなり大胆に無署名論文の筆者を推定してみた。後掲の総目次に?を附して記したものがそれである。なかには当て推量に近いものもふくまれているが、関係者の記憶をよびさますきっかけになりうると思うので、あえて発表した。推定の材料は関係者の御意見のほかには、主として『先駆』『ナロオド』での署名論文・記事の内容や文章の特徴などである。また、新人会叢書などの単行本を手がかりにしたものもある。一例をあげれば、3月号の「私有財産に就て」の筆者を貴島克己と推定したのは、彼が大鐙閣からレヴィンスキー「財産起源論」を出していること、文章の末尾に(寄稿)と記されているので筆者は新人会員ではないと考えたためである。12月号の「虚無主義」を風早八十二としたこと、3月号の「クロポトキンの言葉」を黒田寿男としたことはいずれも彼らの訳書を手がかりにした当て推量である。なお、創刊号の「労農露西亜の国家的構造」については河村又介であろうとの示唆があり、同氏に見ていただいたがこの時期にはまだ労農ロシアについて書いてはいないと思うとの御返事であった。
『ナロオド』では巻頭言と編集後記だけが無署名である。このうち8月、9月、1月および2月の各号の巻頭言の筆者が不明である。考えうるのは赤松克麿、新明正道、小岩井浄、来間恭、千葉雄次郎、細迫兼光、黒田寿男などである。8月号の文章は赤松克麿の文章のひとつのタイプであるように思われる。編集後記は各号の編集発行人とみてよいのではないか。この点について黒田寿男が編集人である2月号と4月号についてはご本人の一応の承認を得たが、千葉雄次郎は他の者の可能性もあるとして確認をさけられた。
初出は法政大学大原社会問題研究所『資料室報』第148号(1969年2月)。
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