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雑誌『マルクス主義』の執筆者名調査

二村 一夫

目  次
 1.はじめに 2.本名が明らかなもの
 3.本名不明のもの
 4.無署名のもの
 5.発行状況など
 補正




1. はじめに

 法政大学大原社会問題研究所では、1969年以降、『覆刻シリーズ、日本社会運動史料』の名のもとに、戦前の社会運動の史料の覆刻をおこなっている。これ迄のところは各団体の機関誌が主で、新人会の機関誌『デモクラシイ』『先駆』『同胞』『ナロオド』の4誌、建設者同盟の機関誌『青年運動』『無産階級』『無産農民』、山川均を中心に刊行された社会主義評論雑誌『前衛』の前半、それに、総同盟五十年史刊行委員会との共編で友愛会の機関誌『労働及産業』(1)(2)(3)を覆刻刊行した。建設者同盟の最初の機関誌『建設者』は、完全な底本を揃えることが容易でなかったため刊行が遅れたが、近刊の予定である。〔本稿が発表されたのは1971年11月である。〕
 ところで、これらの覆刻に当っては、単に原本を復製するだけでなく、解題、詳細目次、索引を付すと同時に、そこで用いられたペンネームを復元し、無署名論文の筆者を明らかにすることに努めている。ペンネームの復元については、幸い各誌の関係者各位の御協力によって、かなりの成果をあげている。これについては、さきに本誌の第148号に「新人会機関誌の執筆者名調査」として、その一部を発表したが、本号では、近く覆刻刊行を開始する予定の雑誌『マルクス主義』について、その執筆者名調査の中間報告をおこない、今後の調査にあたって各位の御教示を得る上での参考に供したい。
 この、執筆者名調査に当っては次の諸氏から種々御教示を得た。厚く感謝の意を表するとともに、今後一層の御援助をたまわりたい。なお、以下の文中では、いっさい敬称を略させていただいた。失礼を御許し願いたい。
 青木恵一郎、石堂清倫、市川義雄、稲村隆一、奥谷松治、久津見房子、小林輝次、志賀義雄、鈴木安蔵、関根悦郎、丹野セツ、永田周作、中野尚夫、西田長寿、野坂参三、羽原正一、平井直、福本和夫、守屋典郎、山川菊栄、山辺健太郎(五十音順)。



2. 本名が明らかなもの

 ペンネームのなかには、その本名について疑問の余地がほとんどないものがある。その第1は、同一のペンネームが長期にわたってくり返し用いられたため一般に広く知れわたったものである。次がそれであるか、後藤寿夫の林房雄のように、本名よりペンネームの方がはるかによく知れられているものもある。
   本名     ペンネーム
  後藤寿夫    林房雄
  福本和夫    北条一雄
  村山藤四郎   和田叡三
  三田村四郎   小泉保太郎 野村襄二

 なお、念のためにつけ加えれば、北条一雄が福本和夫であることは、彼の回顧録『革命は楽しからずや』(1952年、教育書林)に、北条はその生地である鳥取県東伯郡下北条村の村名に由来するとの解説とともに述べられている。ちなみに、郷里や現住所など、地名にゆかりのある名は、特別に秘匿する必要のない場合に用いられることが多く、ペンネームをおこす場合の重要な手がかかりの一つである。同人雑誌的性格の強い、新人会の機関誌『デモクラシイ』や『先駆』では、石渡春雄の隅田春雄、三輪寿壮の那珂川徹、佐野学の月島新、新明正道の石川沢二、永倉てるの柏木敏子、嘉治隆一の杉並隆夫、山崎一雄の大島三郎など(本誌第148号参照)があり、建設者同盟の機関誌『建設者』でも、岐阜県恵那郡出身の三宅正一の恵那里庵、八戸中学出身の武内五郎の八戸梧楼、北海道余市町山田村出身の川俣清音の山田久造など、その例は多い。しかし、『マルクス主義』の場合には、匿名としての性格が強いため、北条のほかにはこうしたケースは見られないようである。
 和田叡三が村山藤四郎であることは、福本和夫の聴取書(『現代史資料・社会主義運動(7)』1968年、みすず書房)で述べられている。また、小泉保太郎、野村襄二が三田村四郎であることも、久津見房子の証言がある。
 本名が明らかなものの第2は、『マルクス主義』ではぺンネームが用いられていても、単行書にまとめられた時に、本名で発表されたものである。
   本名     ペンネーム
  鍋山貞親   石橋庸吾、須田麟造、川崎武吉、会津多作、矢代確三郎、島崎孝次、豊崎伍一、松木銀三
  高橋貞樹   大村喜助、永田幸之助、内田隆吉、大畑徹、小関敏
  市川正一   阿部平智、向山明、川北武二、梅村英一
  渡辺政之輔  山名正照
  難波英夫   熊谷丑太
 鍋山貞親のものは、『社会民主主義との闘争』1931年、希望閣)、高橋貞樹のものは『日本プロレタリアートの問題』(1931年、希望閣)市川正一のものは『「階級的大衆的単一政党」とは何か』(1952年希望閣)渡辺政之輔のものは『戦略問題の要項』(1952年希望閣)、難波英夫のものは『救援運動物語』(1966年、日本国民救援会)にそれぞれ収録されている。このうち、市川、渡辺の両者は、筆者の死後にまとめられたものではあるが、市川の実弟であり『マルクス主義』の発行実務にたずさわっていた希望閣主人、市川義雄らによって編まれたものであるので、信頼するに足ると思われる。
 第3は、本人の直接の確認が得られたもので、関係者も一致してこれを認めているものである。
   本名     ペンネーム
  志賀義雄   村田省造、松村徹也
  平井直    豊田正
  中野尚夫   杉道夫
  市川義雄   Y・I
  青木恵一郎  下川俊一
  鈴木安蔵   大山良雄
 以上は、その信頼度が極めて高く、疑問の余地がほとんどないものであるが、この他にも本名が確かめ得たものがいくつかある。次がそれである。
   本名    ペンネーム
  浅野晃     浜田徹造
  稲村順三   村上進
  鍋山貞親   林巳之吉 大川権三
  相馬一郎   秋田三平
  是枝恭二   秋山次郎、河辺俊吉
  佐野文夫   大木陽一郎
  石田英一郎  伊吹英一
  水野成夫   剣持平太
  河合悦三   船橋肇
  仁科雄一   葉多茂 三地栄
 右のうち、浜田徹造が浅野晃であることは三田村四郎第十九回予審訊問調書に、林巳之吉が鍋山貞親であることは鍋山自身の第八回訊問調書に記録されている。なお、鍋山貞親第八回および第十一回訊問調書には、鍋山のペンネームとして先にあげた石橋庸吾、会津多作、島崎孝次、松木銀三、川崎武吉、矢代確三郎の名も記されているほか、山名正照が渡辺政之輔のペンネームであることも明らかにされている。また、国領五一郎の第十八回訊問調書にも、山名正照が渡辺政之輔であること、志賀義雄第二十回訊問調書には阿部平智が市川正一の,野村襄二が三田村四郎、和田叡三が村山藤四郎、浜田徹造が浅野晃、松村徹也が志賀義雄のそれぞれのぺンネームであるとの記述がある。おそらく、三・一五事件や四・一六事件などの予審に調書をさらにくわしく調べれば、まだ明らかになるものがあると思われる。

 なおつけ加えれば、予審調書は、単にペンネームが記録されているだけでなく、いくつかの論文については、その掲載にいたる経緯が述べられているなど参考になる点が多い。
 たとえば、鍋山貞親第十一回訊問調書には次のような記述がある。

「六問 被告が上海滞在中雑誌マルクス主義ニ投稿シタ事ガアルカ。
 答 私ガ投稿シタノデハアリマセヌガ、私ガ右太平洋労働組合会議委員会ノ開カレル前後頃、組合ノ活動方針等ニツイテ心覚エノ為メ集メタ材料ヲノートニ控ヘテ置イタノデスガ、其ノートヲローニ托シテ私ハ上海ヲ去リマシタ。処ガ昭和四年二月号ノマルクス主義ニ資本ノ攻勢ト左翼組合ノ当面ノ任務ト題スル論文(正しくは「社会民主主義の裏切と左翼組合当面の任務」―引用者註)ガ川崎武吉ノ名ヲ以テ、社会民主主義者ノ戦線統一ト我等ノ立場ト題スル論文(「社会民主主義の戦線統一論と吾々の立場」が正しい―引用者)ガ矢代確三郎ノ名ヲ以テ掲載サレマシタ。
右論文ハ多少手ハ加ヘテアリマスガ、右私ノノートニ記載サレテアツタモノト同様ノモノデアリマシタガ、多分ローガ其ノートヲ日本ニ送ツタモノト考へマス」(『現代史資料、社会主義運動(6)」53ぺージ)

 また、志賀義雄第七回および第九回訊問調書には日本共産党の五色大会で採択された政治テーゼと労働組合テーゼについて、次のように記されている。

 「昭和二年一月ニナツテカラテアツタト記憶シマスカ私ハ日本共産党カラ呼出ヲ受ケテ東京小石川ノ門屋博方テ
   渡辺政之輔  福本和夫
ノ二人ト会合シタ事カアリマシタガ其ノ時テアツタト記憶致シマス 其ノ二人ハ日本プロレタリア運動ノ現状ニチシテ私ニ説明シ日本共産党ノ政策ヲ詳細ニ述ヘマシタ
 ソシテ其ノ要領ヲ書キ留メテソレヲ私ニ纒メ上ケル様ニ命シママシタ
 私ハソレヲ書上ケテ提出シマシタカ更ニ福本和夫カラ詳細ナ批評ヲ受ケテ再度指示サレタ如ク纒メマシタ
 私ハ後ニソレカ日本共産党ノ大会ニ於テ採用サレタテーゼヲ雑誌ニ合法的ニ発表シ得ル形態ニ改メル為メニ私ニ執筆サセタモノテアルコトヲ知リマシタ」
 「然ルニ労働組合テーゼガ雑誌労働者二月号ニ発表サレ乍ラ既ニ一度ハ刷上ケタノニ政治テーゼヲ雑誌マルクス主義三月号ニ発表シタノハ 前ニモ申シマシタ様ニ福本和夫カラ代表達カ日本ヲ離レタ後ニシテ呉レトノ懇望カアツタノテ吾々ハソレヲ容レタ為メテアリマシタ 労働組合テーゼハ内田広、政治テーゼハ村田省造名義ノ論文ニナツテ居リマスカソレハ同志三田村四郎ト私カソレソレ勝手ニ名付親ニナツタノテアリマス
 ソレタカラ村田省造名義論文ノ末尾ニ「一九二七、二、一八」ト普通論文ノ脱稿ノ日時ヲ示ス様ナ数字ヲ書イテアリマスカソレハ決シテ其ノ日ニ此ノテーゼカ出来上ツタノテハナク私カ好イ加減ニクツツケタモノデアツテ既ニ論文ノ形トシテモ一月ニハ出来上ツテ居タノデアリマス」

 このように『マルクス主義』には個人の論文の形式をとってはいても、実質的には日本共産党中央常任委員会などの方針としての性格をもったものが少なくないと思われる。志賀義雄第十五回〜第二十回訊問調書によれば、次の諸論文は、市川正一、三田村四郎、志賀義雄らのいわゆる「留守中央常任委員会」の方針を個人名で発表したものであるという。

○第36号(1927年4月) 河辺俊吉「支那国民革命とわが無産階級の任務」
○第38、39号(1927年6・7月) 阿部平智「労働農民党及び請願運動に就いて」
○第40号(1927年8月) 松村徹也「我が無産階級運動の当面の闘争過程」、佐野学「政治的自由の獲得」
○第41号(1927年9月) 松村徹也「労働者大衆への全無産階級意識滲透の当面の過程」
○第42号(1927年1○月) 阿部平智「『無条件合同論』の反動的役割」 「労働政党の合同運動について」
○第44号(1927年12月) 阿部平智「労働政党の合同運動について」

 次の秋田三平が相馬一郎であるとするまでには若干問題があった。というのは、細川嘉六監修、渡辺義通、塩田庄兵衛編『日本社会主義文献解説』(1958年、大月書店)では、秋田三平は村山藤四郎であるとされていたからである。しかし、村山は1928年の6月に検挙されているのに、秋田三平名の論文は同年8月号に掲載されている点、若干疑問が残った。ところで、相馬一郎のクートペにおける名が秋田であったことは、福本和夫の第九回訊問調書など各所に記述があった。さらに昭和3年の『社会運動の状況」を見たところ、相馬のクートペにおける氏名が秋田三平であることが記されていた。なお、鍋山貞親第八回調書には、三・一五検挙のあと「相馬ハ渡辺(政之輔)ト同居シテ居ルト云フ事デシタ 同人ハ主トシテマルクス主義ノ編輯ニ従事シテ居リマシタ」とあり、また、相馬一郎に対する予審終結決定書(『現代史資料・社会主義運動(3)』みすゞ書房)では、1928年7月・相馬が『マルクス主義』の原稿を市川義雄に渡したと記されている。これは、秋田三平名義の3本の論文が掲載されている時期と合致しており、以上から秋田三平は村山藤四郎ではなく、相馬一郎であると決定した。
 村上進が稲村順三であること、秋山次郎が是枝恭二であることは、東大新人会五十周年記念行事発起人会編『東大新人会会員名簿』によった。また、河辺俊吉であることについては、当時の編輯者であった志賀義雄の証言によった。なお、この河辺俊吉名の論文が書かれた経緯を志賀義雄は第十九回調書で「同年三月中日本共産党中央常任委員会テ支那革命ニ干スル論文ヲ雑誌マルクス主義ニ掲才(ママ)シナケレバナラヌト云フ事カ問題ニナリ…… ソコテ中央常任委員会ノ委嘱ヲ私ト二人ノ党員トカ共同シテ大綱ヲ作成シタモノヲ中央常任委員会ニ報告シテ承認ヲ得タ上テ改メテ其二人ノ中一人ノ同志ニ執筆サセタモノガアノ論文デアリマス」と述べている。予審では志賀は二人の党員の名を明らかにすることを拒否しているが、このような経緯で作成された論文であったとすれば、河辺が是枝であることについての志賀の証言の確度は高いと見てよい。以上の他、志賀義雄の証言によって明らかになったものに、石田英一郎の伊吹英一、水野成夫の剣持平太、河合悦三の舟橋肇、鍋山貞親の大川権三がある。このうち、石田英一郎の伊吹英一は名前が共通しているだけでなく、伊吹姓は、英一郎の祖父、石田英吉が海援隊時代に使用した変名だという記憶と結びついているだけに、ほぼ確実と思われる。なお、大川権三は、『マルクス主義講座第10巻』(1928年、上野書店)に収録されている「労働組合論」の筆者である。
 大木陽一郎が佐野文夫のペンネームであることは、守屋典郎『日本マルクス主義理論の形成と発展」(1967年、青木書店)に拠った。葉多茂、三地栄が仁科雄一であることについては、仁科と一緒に活動していた羽原正一の証言によった。



3. 本名不明のもの

 以上で、周知のものも含めて44のペンネームが明らかになったが、まだ、次の26のものが不明である。( )内は執筆誌の号数である。
 松崎嗣郎(3)、森井正(4)、竹村静夫(8)、岡上進馬(7)、エヌ・エヌ(10)、村上保(18)、石川茂(21)、緒方潔あるいは緒方清(25・28)佃信夫(31)山路英(31)、三島耕二(31・33)、柳芳彦(34)、松浦兼夫(36)、若林亮(37・41・42)、藤村正(43)、松原清吾(48)、山糸子(48)、田島捨多(49)、高景欽(50)、山形三郎(51)、村岡進(51)、谷村博(54)、林先烈(55・56)、森五郎(56)、菊田清(56)、木戸源次郎(56)。
 右のうち、多少なりとも手がかりのあるものについて記しておこう。
 第10号のエヌ・エヌは、エム・エヌの誤植の可能性がある。エム・エヌとすれば、西雅雄であろう。
 18号に「独乙社会民主党小史」を書いている村上保は、後に村上進のペンネームを用いた稲村順三ではなかろうか。保から進に名を改めることは充分あり得るように思われる。石川茂は「本邦初期社会主義文献」の筆者である。ここですぐ思い浮かべるのは、大原社会問題研究所編『日本社会主義文献』(1929年、同人社)である。この本の序には、「本書の最初の原稿はひと先づ大正十五年に出来上り……」とある。「本邦初期社会主義文献」を掲載したのは1926年の1月号である。大原研究所の『日本社会主義文献』の作成者、内藤赴夫と雑誌『マルクス主義』との直接の結びつきは一寸考えられないが、大原研究所の出版部とも云うべき同人社の永田周作と希望閣主人、市川義雄が大へん親しく、市川の入獄中は永田が市川に代って『マルクス主義』の発行実務にたずさわっていたことなどを考えると、石川茂が内藤である可能性も皆無とはいえない。あるいは、大原研究所の研究員であった細川嘉六らの線も考えられないことはない。その次号の「本邦婦人問題文献」の作者、藤田徳松ははじめペンネームかと考えていたが、本名であることを山辺健太郎、西田長寿の教示によって知った。
 これに対し、緒方清は、奥谷松治編『日本消費組合年表』(1934年、協同組合研究所)の序言に「日本消費組合史研究の諸先輩」の一人としてあげられている故緒方清と同一人物と考えていた。しかし、編者に問合わせたところ、消費組合史研究史の緒方清は、東京高商の教授で本名であるが、『マルクス主義』への執筆は全く考えられないとのことであった。もう1つの手がかりは、第25号の緒方清「高島氏の唯物史観批評を論ず」の続稿が第26号村上進「社会的色盲より見たるマルクス」であることである。緒方清=村上進=稲村順三ではないだろうか。なお、『マルクス主義』の緒方は、ローザ・ルクセンブルク『改良主義論』(1926年、希望閣)を沼田光一郎と共訳している。
 第31号には、佃信夫、山路英、三島耕二という3つのペンネームが不明である。中野尚夫によれば「いずれも自分の身近にいた人のように記憶する」とのことであり、新人会出身者の線が強い。ペンネームを使用するのは単に匿名のためだけでなく、同一の筆者が複数の論文を掲載するときに、いわば編輯上の配慮から用いる場合が少なくない。とくに第31号は論文の数が10本と他の号より多いことから見てこの可能性は高い。とすればこの3人は同じ第31号の他の筆者、すなわち水野成夫、浅野晃、村山藤四郎らのなかにいるのではなかろうか。なお、福本和夫によれば、三島耕二はヘーゲルの研究者であった大野正道のように思われる、とのことであった。ここで、テーマや文体、用語などを手がかりにあえて推定すれば、佃信夫は浅野晃、山路英は村山藤四郎、三島耕二は是枝恭二ではないか。
 次は、第37号に「『大衆』は何をなさんとするか?」、第41、42号に「新中間派の生誕」を書いている若林亮である。ここで注目されるのは、第37号、41号、42号の3号を通じて本名で執筆しているのは第37号の佐野学があるだけで、他の筆者はすべてペンネームを用いていることである。第31号とはちがって、単に編輯上の必要というより秘匿的な性格が強いとも見られるからである。もっとも、第37号では村山藤四郎が和田叡三名で2本、第41号では志賀義雄が松村徹也名で2本書いているから、もし若林亮がこの2人のどちらかであれば、別名を使うことも考えられる。だが、志賀の場合第37号には他に1本も書いていないのであるから、ここであえて松村徹也以外の名を用いることはなかったと考えられる。若林が志賀である可能性は少ないのではないか。一方、村山の場合は、この3号のすべてに執筆しており、若林=村山の可能性は高い。村山と同じく3号を通じて執筆している浜田徹造の浅野晃の可能性も考えられる。しかし文体などからすると浅野の他の文章とは若干異なっており、むしろ文章だけ見れば、水野茂夫に最も近いように思われる。しかし、水野茂夫は1927年2月から5月まで上海のコミンテルン極東事務局に行っており(水野茂夫第3回訊問調書)、同年5月に発行された第37号に執筆した可能性はほとんどないと見られる。もちろん、上海から寄稿することも不可能ではなく、その例もあるが、第37号の論文では『大衆』の4月号を批判の対象としており、時間的に見て日本にいた者でなければ無理ではないかと思われる。
 第34号の柳芳彦、第36号の松浦兼夫はともに日本労農党に対する批判論文であるが、筆者はわからない。柳論文は『社会思想』1927年1月号の河野密の論文に対する批判を主とし、松浦論文は柳論文および和田叡三の一連の論文に対する批判である。第43号の藤村正は「社会民衆党の本質並にこれに対する統一戦線戦術」について論じたものである。内容から見て、また巻頭論文であることから見ていわゆる「留守中央常任委員会」の方針ではなかろうか。市川正一か志賀義雄が執筆した可能性が濃い。
 第48号には松原清吾、山糸子の2名が不明である。松原のものはわずか2ページの時評である。筆致から見て鍋山貞親あたりではないかと思われるが、彼の論文集には入っていない。
 第50号の高景欽は「朝鮮の一プロレタリアート」による、労農派とりわけ猪俣津南雄批判である。本名かペンネームかも不明である。第51号の、山形三郎「日本に於ける労働組合統一の進路」の最後には「サンフランシスコに於て」と記されている。なお、鍋山貞親『社会民主主義との闘争』の附録として収められている汎太平洋労働組合書記局の声明の一つには、黄平、アール・ブローダーと並んでK・山形の名がある。同号の村岡進は稲村順三のぺンネームである村上進と1字ちがいである。しかし、この時点で稲村が『マルクス主義』に執筆したことは考えられない。おそらく別人であろう。
 第54号「政治的自由獲得労農同盟とその方向」の筆者谷村博も全く不明である。この論文には、小泉保太郎名で三田村四郎が「まえがき」を書いている。第55号「台湾に於ける労働組合統一運動と左翼当面の任務」の筆者、林先烈は山辺健太郎によれば本名であるという。しかし、一方ではこの号の編輯に当っていた小林輝次は「自分が勝手につけた名前だと記憶する」と述べている。最終号の第56号では片山潜の「日本における清算派的傾向」の訳者、森五郎「農村消費組合の組織とその任務」の筆者、菊田清と「レーニン主義労働者教育の方法」の木戸源次郎が不明である。森五郎は「岡山県聯にて」と記している。菊田清は、「一農民として」、杉山元治郎の「農民運動と協同組合」と題する論文を批判したものである。かなり独自なテーマであるから、筆者について御記憶の方があるのではないかと思う。最後の木戸源次郎は、内容や筆致からすれば高橋貞樹ではないかと思われる。をお、国領五一郎が1928年3月のプロフィンテルン大会で中野源次郎という同名を用いているが、国領は同年10月に検挙されており、執筆の可能性はほとんどないように思われる。



4. 無署名のもの

 『マルクス主義』では無署名の文章は翻訳で訳者名が省略されている場合を除けば、編輯後記、新刊紹介、希望閣便りが大部分で、完全に無署名の文章は次の3つだけである。第13号の「マルクス・エンゲルス研究所の事業」、第24号の「時評」、第47号の巻頭論文「総選挙戦の教訓と総選挙後における闘争」がそれである。このうち最も重要なものは、第47号の巻頭論文であるが、これは、次のようなコメントとともに、市川正一「『階級的大衆的単一政党』とは何か?」(1952年、希望閣)に収められている。
 「本論文は無署名であり、『マルクス主義』の『主張』と見るべきであるが、その筆致より見て市川正一氏のものと思われる。(後略)」
 次に第24号の「時評」であるが、これについては同号の「編輯後記」に「前号予告の通り、6号から編輯の形式に若干の改善を加へました。時事に関する論文を巻頭に出し、時評と題する編輯者のペ−ジを加へたことがこれであります」(傍点引用者)と記されている。この筆者は西雅雄と見られる。第13号のものは手がかりがない。あえて推論すれば、これも編輯者の西雅雄か、編輯の手伝いをしていた林房雄あたりであろうか。
 翻訳者の名が記されていない事例はかなり多い。これらのうち、いくつかは、後に訳者の名を明記して単行書にまとめられており、それによって確認することができた。次がそれである。

 ○オイゲン・ヴァルガ「資本主義の没落時代」(1)〜(5)(第2号〜第6号)−西雅雄訳『資本主義経済の没落』(1924年、白楊社)
 ○レーニン「社会主義の分裂と帝国主義」(第4号、第5号)−青野季吉訳『資本主義最後の段階としての帝国主義』(1924年、希望閣)
 ○エンゲルス「フォイエルバッハ論(1)〜(5)」(第9号〜第13号)−佐野文夫訳『フォイエルバッハ論』(1925年、同人社)
 ○レーニン「マルクス主義の旗の下に」(第12号)−デボーリン、志賀義雄訳『レーニン主義の哲学 附録レーニン・マルクス主義の旗の下に』(1925年、希望閣)
 ○デボーリン「レーニニズムの世界観」第19号−志賀義雄訳『レーニン主義の哲学』(1925年、希望閣)

 以上のように、雑誌と単行書とを比較して、匿名の訳者を推定するというやり方にも問題がない訳ではない。次のような事例があるからである。第16号のレーニン「理論的闘争の意義」と第17号のレーニン「大衆の自然生長性と社会民主主義の目的意識性」は、ともに『何をなすべきか』の1節である。
 ところで、『何をなすべきか』は1926年に白楊社から青野季吉の名でその全訳が出ている。雑誌と白楊社本の訳文はほぼ同一である。そこで、一旦は雑誌の方の訳者も青野季吉としたのであるが、気になったのは青野がその訳書に付した例言の左の一句であった。
 「なお訳書第二編の一部は、雑誌「マルクス主義」に掲載されたものを同誌の編輯者西雅雄君に乞ふて拝借し、些少の改更を加へたものである。」
 雑誌の記者が青野であるなら、「拝借」といった言葉を使うであろうか。この疑問は、福本和夫『革命運動裸像』(1962年、三一書房)の一節によってどうやら解くことが出来たように思われる。
 「その前後(1925年暮から1926年はじめ−引用者)のことであった。雑誌、『マルクス主義』の巻頭に、理論闘争に関するエンゲルスの言葉を訳した文章が無署名で掲載された。あとで西雅雄君にたずねると、これは上海で佐野学君が訳しておくってきたので、のせたのだということであった」(同書39ページ)
 福本はエンゲルスと書いているが、おそらくこれは記憶ちがいで第16号の巻頭論文、レーニン「理論的闘争の意義」のことであろう。
 このように見てくると、実際には訳者の名が明記されていても問題はおこりうる。実際の訳者と名義上の訳者が異なる場合が少なくないからである。林房雄もその回想のなかで、『マルクス主義』の編輯手伝いをしていた当時のことを次のように記している。
 「私は西雅雄から月々十円から十五円の月給をもらった。もらへない月もあった。私は佐野学の名前でレーニンやブハーリンの翻訳をして、生活費の不足を補った。」(「文学的回想(1)−狂信の時代−」『新潮』1953年10月号)
 しかし、こうしたものは訳者本人の証言をまつ他はない。
 以上のほかにも、訳書を丹念に洗っていけば訳者名を確定しうると思われる。たとえば、第11号のマルクス「労働価値説に関する一書簡」などは、林房雄訳『クーゲルマンヘの手紙』(1926年、希望閣)と照合すれば明らかになると思われるが、時間的にその余裕がないので今回は翻訳についてはこの程度にとどめたい。
 残るのは編輯後記と希望閣便りである。このうち、希望閣便りが市川義雄であることは本人の確認がある。ただし、市川義雄はいわゆる「第一次共産党事件」で有罪となり、1926年7月から6ヵ月の禁錮刑を受けている(便りのなかで「洋行」と称しているのがそれである)。このため、第29号から第33号までの「希望閣便り」は別人である。市川義雄によれば、この間の発行実務については当時同人社にいた永田周作の援助を得ていたとのことであったが永田によれば、彼が『マルクス主義』に関係したのはもっと後の時期であったという。
 編輯後記については、第26号までは編輯名義人の西雅雄執筆と推定して間違いないであろう。第1号、2号、8号、21号、22号の場合は西の署名があり、その前後の編輯後記も、これらと文体が共通しており、内容的にも西以外の寄稿家についてのみ敬称をつけている点からも、この推定はかなり確実だと考える。なお、西雅雄もまた市川義雄と同様に「第1次共産党事件」のため禁錮8ヵ月の刑が確定し、1926年8月に下獄している。このため、第27号は、編輯名義人は依然として西雅雄であるが、「編輯後記」の末尾には「編輯者に代りて」と記されている。第28号から第30号は編輯名義人が佐野文夫になっている。第27号から第30号までの編輯後記は佐野文夫執筆と見てよいのではないか。
 続いて第31号から第33号の3号は、水野成夫が編輯名義人になっている。これについて、水野は第六回訊問調書で「被告ガ雑誌マルクス主義ノ編輯人ニ為ツタ事情如何」と問われて、次のように答えている。

 「私ノ前任編輯人ハ佐野文夫テアリマシタカ同人ハ病気デアリマシタカラ恐ラクソノ為メニ編輯ノ仕事カ出来ヌ処カラ私ヲ推薦シ其ノ結果私ガ編輯人ト為ツタモノテアラウト思ツテ居リマス」

 水野が名義だけでなく実際に編輯の任に当っていたことは確かであり、この部分の編輯後記は水野成夫が書いたと見るのが自然であろう。このあと第34号以降、編輯名義人は4人目の志賀義雄にかわった。これ以後、志賀が三・一五事件で検挙されるまでの編輯後記の筆者が志賀であることについては、本人の確認がある。三・一五事件のあと、第48号から第51号までの編輯後記はすべてY・Iと署名されている。既に述べたようにこれが市川義雄であることについては本人の確認がある。最後は第55号の編輯後記と第56号の希望閣月報である。これについては、なかなかわからなかったが、昭和4年の『社会運動の状況』に「雑誌マルクス主義ニ対スル指導状況」の項目があり、次のように記されていたことが手がかりになった。

 「雑誌マルクス主義ハ昭和三年三月ノ検挙ニ著シキ打撃ヲ豪リ、同年後半ノ如キハ殆ンド其ノ発行不能ニ陥リ、休刊シ居リシカ市川正一帰国スルヤ嚢ニロシヤニ於テ決定シタル再組織方針ニ従ヒ党宣伝ノ機関トシテ速ニ復活セシムベク、砂間一良政治部ヲ担当スルヤ同人ヲシテ発行ニ関スル調査ヲ為サシメタル結果、元同志社大学小林輝二(ママ)(新人会ノ先輩)ヲ之カ責任者トシテ依頼スルニ決シ、難波英夫ヲ通シテ引受方交渉シタルニ、単ニ発行ノ事務ノミ引受クルコトトナリタルヲ以テ市川ヨリ資金ヲ出シ原稿モ総テ同人ノ手ニ於テ取纏メ砂間ノ手ヲ通シテ発行担当者小林輝二ニ引渡シ、同年十二月末、十二月一月合併号ヨリ復活スルニ至リタルモノニシテ、之カ記事ノ執筆者ハ殆ント党ノ中心活動分子タル市川、三田村、鍋山、高橋貞樹ラヲ以テ占メラレ居タルノ状況ナリ」

 この記事について小林は「いくつかの点で誤りがあるが、『マルクス主義』の最後の4号の編輯実務にたずさわったことは事実であり、編輯後記も書いている」とのことで、この部分の筆者が小林輝次であることが明らかになった。



5. 『マルクス主義』の発行状況など

 以上で執筆者名についての中間報告を終えるが、この機会に『マルクス主義』の発行状況について、これまで誤って解説されている点を正しておきたい。
 その一つは、渡部義通、塩田庄兵衛編『日本社会主義文献解説』(1958年、大月書店)であり、もう一つは、小山弘健「日本マルクス主義の形成」(『講座日本社会思想史3 昭和の反体制思想』所収、1967年、芳賀書店)の解説である。
 問題は、1928年の三・一五事件以後の発行状況である。
 『日本社会主義文献解説』は、次のように記している。

 「その後、三・一五事件の打撃によって昭和三年五・六月合併号(四九・五〇号)を発行し、同年九、一〇、一一月は休刊し、一二・一月合併号(五三号)を発行したが、昭和四年四月を最後として休刊した。」

 小山弘健「日本マルクス主義の形成」は左の通りである。

 「……つづいて、第四七号(一九二八年三月)から第五六号(一九二九年四月)までは、全部発売禁止の処分をうけ、第四九号(一九二八年五・六月)が二カ月合併号、第五二号が没収となって、一九二八年九・1一・一一月の三カ月を休刊、第五三号(一九二八年一二月・一九二九年一月)が二カ月合併号であった。」

 誤りは、傍点を付した部分である。すなわち『文献解説』では、「昭和三年五・六月合併号」を「四九・五〇号」としているが、正しくは第49号である。第50号は1928年7月に別個に発行されている。
 「日本マルクス主義の形成」では、「第四七号から第五六号まで全部発売禁止の処分をうけ」と「第五二号が没収となって」の部分が誤りである。第46号は発禁であるが、第47号、第49号、第52号は禁止されてはいない。そして、第52号は没収ではなく、実質的には発行されていないのである。
 最後に、この点を明らかにする資料を紹介しておこう。それは内務省警保局が「事務ノ参考ニ供スル」ために出していた『出版警察報』第16号(昭和5年1月)に掲載されている「雑誌『マルクス主義』の変遷」と題する論稿である。この論稿は、一『マルクス主義』の創刊、二『マルクス主義』創刊当時の無産運動状況、三『マルクス主義』論調の変遷、四『マルクス主義』発行状況、五『マルクス主義』取締状況の5節から成っている。このうち、一〜三は、当時の出版警察の担当官が雑誌『マルクス主義』や共産主義運動をどのように見ていたかを知るという限りでは参考になるが、内容的には新らしいものがない、というより誤りに満ちている。これに対し、四、五はこれまで発行されたか否かも不明だった第52号のこと、発売禁止だけでなく、注意処分を受けた号とその事由を明らかにしている。紙幅の関係もあるので、以下に四、五の部分だけを紹介しよう。なお、『出版警察報』の利用については同志社大学人文科学研究所キリスト教社会問題研究会の諸氏の御好意によるところが大であった。記して感謝の意を表する次第である。

 「マルクス主義」発行状況
 大正十三年五月一日第一号創刊より昭和二年五月第三十七号までは毎月規則正しく一回づつ発行していたが昭和二年六、七月号を一冊にして三十八、九号とし七月一日に発行し其後また昭和三年四月まで毎月正確に一回づゝ発行したが昭和三年五、六月号を一冊にし四十九号として発行したのは、三・一六事件(ママ)の影響によるものであらう。次に同年八月第五十一号まではまだ月一回づゝ発行したが其後発行を中絶し第五十二号は届出の失効処分を免れる為めに謄写版印刷一枚の雑誌を納本し五十三号を同年十二月二十五日、五十四号を昭和四年二月一日に、五十五号を同三月一日に、第五十六号最終刊を同四月一日に出して四・一六事件の為め発行不能に陥り爾来無届にて発行を中止し同一月二十一日失効処分に附せられたのである。
因みに発行編輯兼印刷人たる西雅雄、佐野文雄、水野成夫、志賀義雄は何れも日本共産党事件で起訴されたものである。尚雑誌の体裁は四六版で平均八十頁内外であるが昭和二年以後平均十頁位増加し昭和三年後半よりは平均二十頁近く増している。表紙の体裁は大正十三年中は白地に黒インク刷りそれ以後草色地に黒インキ刷りの模様入らずで最終刊の表紙は矢張り草色地に黒インキ刷り模様無しであるが表題の字が少しく異っている。因みに発行人、発行所等の変更は次表の如くである。

 「マルクス主義」発行状況調    (昭和五年一月現在)

 号数     発行年月日      発行編輯兼印刷人    発行所    印刷所    発売所
 一号ヨリ 大正十三年五月一日 十七号マデ 大正十四年九月一日 西雅雄 東京マルクス協会 不記 不記
 十八号ヨリ 大正十四年十月一日 二十八号マデ 大正十五年八月一日 西雅雄 東京マルクス協会 文雅堂 希望閣
 二十九号ヨリ 大正十五年九月一日 三十号マデ 大正十五年十月一日 佐野文夫 東京マルクス協会 文雅堂 希望閣
 三十一号ヨリ 大正十五年十一月十三日 三十二号マデ 大正十五年十二月一日 水野成夫 東京マルクス協会 文雅堂 希望閣
 三十三号 昭和二年一月十三日 水野成夫 東京マルクス協会 不記 希望閣
 三十四号ヨリ 昭和二年二月十一日 三十七号マデ 昭和二年五月十五日 志賀義雄 東京マルクス協会 不記 希望閣
 三十八・九号ヨリ 昭和二年七月一日 五十六号マデ 昭和四年四月一日 志賀義雄 希望閣 不記 不記

 「マルクス主義」取締状況
「マルクス主義」は次表示すが如く大正十三年、同十四年、同十五年までは夫れ夫れ年2回づつの禁止を受け昭和二年度には一回の禁止も受けなかった程であったが昭和三年に入るや急に殆んど隔号毎に禁止処分に附せられ(五十号と五十1号とは連続して)るに至った。これは、第二次日本共産党組織が確立し、その運動が漸く活動的となり、本誌を通じて右運動が露骨に現はれ始めた事を物語るものである。昭和四年度に入っては全部禁止処分に附せられた。因みに司法処分はない。

 「マルクス主義」行政処分調   (昭和五年一月現在)

 発行年月日及号数      処分種類      施行日     備考
 大正十三年六月一日発行 第二号 禁止 大正十三年五月三十日 革命宣伝、議会否認、経済的直接行動主張其他不穏記事アルニ依ル
 大正十三年十二月一日発行 第八号 禁止 大正十三年十二月三日 「独立労働階級教育」「労働組合運動の戦術」ト題スル記事
 大正十四年六月一日発行 第十四号 禁止 大正十四年六月九日 社会革命肯定、革命精神煽動鼓吹記事
 大正十四年十二月一日発行 第二十号 禁止 大正十四年十2月八日 「無産政党と共同戦線」ト題スル記事
 大正十五年一月一日発行 第二十一号 注意 大正十五年一月十一日 「労農政党ト労働組合」「大正維新ノ標語ニ就テ」「本邦初期社会主義文献」ノ記事
 大正十五年三月一日発行 第二十三号 禁止 大正十五年三月四日 「プロレタリアートと科学」ト題シ共産主義的世界革命ノ原理並ニ革命戦術ノ宣伝記事ヲ掲載シタルニ因ル
 大正十五年七月一日発行 第二十七号 禁止 大正十五年七月十八日 革命戦術宣伝紹介記事
 大正十五年八月一日発行 第二十八号 注意 大正十五年八月七日 「無産階級の方向転換」「クーゲルマンへの手紙」広告
 大正十五年十月一日発行 第三十号 注意 大正十五年十月十四日 「左翼小児病」ト題スル広告
 昭和二年四月十五日発行 第三十六号 注意 昭和二年四月三十日 「支那国民と我が無産階級の任務」「議会解散請願運動に就て」ノ記事
 昭和三年二月一日発行 第四十六号 禁止 昭和三年二月十四日 革命運動(「労働者と農民の同盟」其他)
 昭和三年四月一日発行 第四十八号 禁止 昭和三年四月十二日 革命的暴動肯定ノ議会否認(社会民主々義者ノ進出ニ面シテ」其他
 昭和三年六月十五日発行 第五十号 禁止 昭和三年六月十三日 直接行動煽動
 昭和三年八月五日発行 第五十一号 禁止 昭和三年八月八日 コミンテルンノテーゼ掲載
 昭和三年十二月二十五日発行 第五十三号 禁止 昭和三年十二月二十七日 安寧
 昭和四年二月一日発行 第五十四号 禁止 昭和四年二月一日 共産党支持−礼讃
 昭和四年三月一日発行 第五十五号 禁止 昭和四年二月二十七日 共産主義革命ノ肯定ト運動戦術詳述
 昭和四年四月一日発行 第五十六号 禁止 昭和四年三月二十六日 全篇

〔追記〕本稿脱稿後、大木陽一郎訳、レーニン『資本主義展開期における農村問題』(1924年、希望閣)に若干の改訂をほどこしたものが、佐野文夫訳、レーニン『ロシア農村問題』(1927年、希望閣)として刊行されていることを発見した。大木陽一郎が佐野文夫であることは確実である。
 また、葉多茂、三地栄が仁科雄一であることも本人の確認を得た。



雑誌『マルクス主義』の執筆者名調査補正

 第177号に「雑誌『マルクス主義』の執筆者名調査」を発表した際、70のペンネームのうち、26のものが不明であることをのべた。その後の調査でつぎの7つが判明し、1つが誤りであることがわかった。この機会に補正しておきたい。
1.岡上進馬(7号) 坂本彦太郎
2.緒方潔(25号) 緒方清(28号) 岡田宗司
3.三島耕二(31・33号) 河野正通
4.山糸子(48号) 市川正一
5.高景欽(50号) 本名
6.森五郎(56号) 本名、旧姓佐藤五郎
7.菊田清(56号) 菊田一雄こと金台郁
 1、2、3については、それぞれ御本人の確認を得た。4は山辺健太郎、6は守屋典郎、7は青木恵一郎の諸氏の教示による。
 5については、徐大粛著、金進訳『朝鮮共産主義運動史』(コリア評論社、1970年)167〜171ページ参照。
 なお、覆刻版刊行の時点で判明していたものは、目次に示しておいたが、そのうち金台郁を金台育と誤記している。また河辺俊吉(36号)を是枝恭二としたのであるが、浅野晃であることが御本人の教示によって判明したので、ともにお詫びして訂正したい。
 また、無署名の訳者についても、第10号ボクダーノフ「科学と労働階級」が志賀義雄、第51号山形三郎「日本における労働組合統一の進路」の訳者が栗原佑であることが判明した。前者は御本人の確認により、後者は、予審終結決定(『現代史資料』16、187ページ)による。
 『マルクス主義』で使われたペンネームではないが第177号でふれた緒方潔とローザ・ルクセンブルグ『社会改良論』(1926年、希望閣)を共訳している沼田光一郎は高山洋吉であった。岡田宗司氏の教示による。
 最後に、第177号で紹介した『出版警察報』第16号の「『マルクス主義』の変遷」のうち「『マルクス主義』取締状況」の部分に誤りがあるのに気づかず、そのまま引用し、本文でもこれにもとづいて誤った記述をしているので訂正しておきたい。
 『出版警察報』の誤りは、14ぺ一ジの「マルクス主義取締状況」の項の上段4行目、「殆んど隔号毎に禁止処分に附せられ(50号と51号とは連続して)」とある部分である。これは「(48号と49号とは連続して)」が正しい。また、15ぺージ最終行の「第50号」は「第49号」が正しい。
 したがって、12ぺージ下段9行目で、「第47号、第49号、第52号は禁止されていない」と書いた部分は正しくは「第47号、第50号、第52号は禁止されていない」とすべきであった。
以上


【追記】
 「マルクス主義」第50号(労働組合統一運動に於ける左翼当面の活動方針)……大川権蔵
上記の著者、大川権蔵を鍋山貞親としたが、これは鈴木安蔵であった。これは『鈴木安蔵還暦記念論文集・憲法調査会総批判』所収の文献目録に明記されている。なお、これについては森英樹氏の教示を得た。






第8巻 『社会運動機関紙誌の書誌的研究』目次  雑誌『マルクス主義』の5年間(1)  同(2)  同(3)  同(4) 


 初出は法政大学大原社会問題研究所『資料室報』177号(1971年11月)。
ただし末尾に収めた「補正」は、同『資料室報』215号(1975年7月)の「雑誌『マルクス主義』の5年間」(2)の末尾に掲載したものである。