誕生の地・長崎銀屋町
高野房太郎は、「明治」が誕生したまさにその年、つまり明治元年、長崎は
しかし、彼の生まれた場所はすぐ分かります。かの有名な眼鏡橋──長崎市の中心を流れる
下の写真は、銀屋町ではありませんが、明治初年の長崎の町筋です。これを撮影したベアトは、この町を「寺町(Temple Street)」と記していますが、寺町は風頭山の麓をめぐる形で続いている道なので、こうした位置に山は見えないはずです。後ろにみえる寺は興福寺、背後の山は
ここで、インターネット上の地図で場所を確かめてみましょう。つぎの MapFan Webのアイコン を押すと、銀屋町の位置を確かめることができます。是真会病院の向かい側の十字のマークがあるあたりが高野兄弟の生家だったところです。
ところで銀屋町は戸数わずかに百数十前後の小さな町でしたが、高野家だけでなく、もうひとり日本の労働研究の歴史に重要な足跡を残した人物の祖先の町としても記憶されるべきところです。それは他ならぬ上野家です。上野家でもっとも有名な人物は、日本写真史の巻頭を飾る上野彦馬(一八三八〜一九〇四)でしょう。日本のプロ写真家第一号で、長崎で〈上野撮影局〉を開業しました。彦馬の名を知らない人でも、彼が撮った坂本龍馬の写真は目にされていると思います。高い台に右肘をつき、その手をふところに入れ、袴に靴を履いた例の写真です。彦馬のおかげで数多くの幕末・明治の人物や風景、あるいは西南戦争なども、画像データとして残ったのです。
彦馬の父が上野俊之丞(一七九一〜一八五一)です。蘭学者であり、硝石の製造を試みた化学者であり、また長崎奉行所の御用時計師であり、先祖代々肖像画の絵師でもあったというマルチ・タレントの異才でした。六月一日は〈写真の日〉ですが、これは俊之丞が天保十二(一八四一)年のこの日、日本人としてはじめて写真を撮ったことに由来するそうです。ちなみに、その被写体は島津斉彬でした。彦馬の弟・
実は、この幸馬の長男がほかならぬ〈日本のテーラー〉上野陽一(一八八三〜一九五七)です。東大の心理学科を卒業し、日本で最初に産業能率の問題に着目し、一九二二年には協調会内に設けられた産業能率研究所の所長となるなど、日本の労務管理研究の草分けです。つまり、この小さな町は高野房太郎・岩三郎兄弟と上野陽一という、日本における労働問題研究のパイオニアたちのルーツとも言うべき土地なのです。
【注】
(1) 高野の生家の現住所については、長崎県労働組合評議会発行『長崎県労働組合運動史』につぎのように記されている。
「生誕地の銀屋町一八番地とは、今日の長崎市古川町三番二四号、銀屋町教会の前高田酒店付近とされているが、町の古老の話によると、本当の十八番地は古川町八番三十三号付近がそこだと証言されていることもある。」
はじめ本稿では、この本にしたがって高野家の所在地を「古川町三番二四号」として記述していた。しかしその後、ご実家の住所が「古川町三番二十四号」の高田祐治氏からメールで、同地の旧住所は「銀屋町三十三番」であったとご連絡をいただいた。インターネットが思いがけない読者を得ることをあらためて知ると同時に、わざわざご指摘くださった高田祐治氏にお礼を申し述べたい。いずれきちんと史料にあたって確認する作業をおこなうつもりであるが、とりあえずここでは房太郎の生家の現住所は「古川町八番三十三号」の可能性が高いとしておきたい。〔二〇〇〇年一〇月二六日追記〕
【補訂】
二〇〇七年二月、長崎へ赴いて調査した結果、高野房太郎の生家があった旧「銀屋町一八番」は、「古川町八番三一号」であったことを確認した。また、二〇〇七年一月に「銀屋町」という旧町名が復活した結果、高野家の所在地の現住所は「長崎市銀屋町三番一五号」となった。高野家の現住所調査に関する詳細は《編集雑記》一六の「高野房太郎の旧跡探訪(その一〇)──長崎編(一) 生家の所在地」を参照されたい。
〔二〇〇七年五月五日付記〕
(2)
福岡大学総合研究所『長崎町方史料』(三)三四〇─三四二ページ。