高野房太郎とその時代 (8)長崎から東京へ
房太郎が長崎で小学生時代を送っていたちょうどその頃、九州一帯はただならぬ空気に包まれていました。明治7年の「佐賀の乱」、明治9年の熊本「神風連の乱」や福岡「秋月の乱」など〈不平士族〉があいついで反乱をおこしたのです。これら一連の事件の頂点が西南戦争でした。明治10年2月15日、西郷隆盛は「政府に訊問の筋がある」として兵を率いて鹿児島を発ち、九州各地の不平士族はこれに呼応する動きをみせました。主戦場となったのは熊本で、後年、房太郎の親友となる城常太郎の生家も、この時の戦火に遭って焼失しています。 この年に高野一家が長崎を離れたのも、どうやらこの西南戦争と無関係ではなかったようです。再三引用している「兄高野房太郎を語る」で、岩三郎はつぎのように述べています*2。 「この父この母の下で育ったが、十歳の時、一家をあげて東京に転住した。何故東京へ移ったかと云ふと、丁度明治十年戦役のあった年ではあるし、不景気で仕事がやりにくゝなったらしい。丁度横浜に汽船問屋をしてゐる叔父がゐて、呼びよせたので、東京の神田に移り住むことになった。」
長崎の不景気は西南戦争の影響だけではありません。もともと日本中で長崎だけが海外貿易を許されていたことが、長崎の繁栄の基礎にありました。開国によってその特権的な地位を失ったため、国際商業都市・長崎の経済は地盤沈下してしまったのです。横浜が開港した安政6(1859)年には、早くも貿易総額のうち長崎の占める比率は56.5%と半減していますが、その6年後の慶応元(1865)年になると僅かに7.2%へと落ち込んでしまいました。代わって新たに貿易の中心地となったのが横浜です。安政6年横浜の貿易シェアは36.8%でしたが、慶応元年では実に91.0%と完全に長崎を圧倒し、ほとんど独占的と言ってもよいほどの地位を確立しました*3。これは長崎貿易が減少したためというより、横浜の輸出入が激増したためにおきたことでした。家業を捨て横浜に新天地を求めた仙吉の兄たち、亀右衛門と弥三郎の決断は正解でした。それにもともと高野家のお得意先は武士でした。維新後はだれも裃などつくるわけもなく、高野家への注文は激減していたに相違ありません。亀右衛門らの横浜移住は、まさに先見の明があったと言うべきでしょう。 【注】*1 市制百年長崎年表編さん委員会『市制百年長崎年表』105〜106ページ。 *2 高野岩三郎「兄高野房太郎を語る」(法政大学大原社会問題研究所『資料室報』No.145、1968年10月)、16ページ。 *3 藤野精一郎・新川登亀男・佐伯弘次・五野井隆史・小木代良『長崎県の歴史』(山川出版社、1998年)276ページ。 *4 川路聖謨『長崎日記・下田日記』(平凡社 東洋文庫、1968年)。 *5 広岡治哉編『近代日本交通史』(1987年、法政大学出版局)28〜31ページ。 |
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