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《編集雑記》2 (2000年4月〜2000年8月)

色はいろいろ
    ──本サイトの作成経過(3)

 新年度なのでデザインを少し変えてみました。またこれまでの「新規掲載一覧」を「更新履歴」として独立させ、「新規掲載」(What's New)は今年の2月(のち3月)以降に限りました。「謝辞」も別ファイルにするなど、要するにトップページを小さ目にするよう心がけたのです。
 私はもともとホームページを見ればそのサイトの全容が分かるのがベストだと考えてきました。ですから開設当初はトップページに《刊行の辞》から各種目次、さらには著者紹介まで詰め込んで縦にながーーいファイルを作っていました。採録論文以外はほとんどすべてホームページに入れていたのです。画像を使わずテキストだけなら、いくら大きなファイルにしても前から順序よく出て来ますから、上を眺めている間に下の方が読み込まれる。だから縦長のファイルでも差し支えない、と考えていました。しかし掲載論文の数が増えるにつれ、そんなことを言ってもいられなくなり、何回かトップページを分割してきました。小さな手直しは何回になるか覚えていませんが、大分割は、たしかこれで3回目です。
 もっともこうした全体的な構成については、あまり悩みませんでした。もともとデザインに凝る方ではなく、簡単明瞭を旨としてきましたので。しかし色彩についてはあれこれ思い悩むことが多く、今回も苦労しました。自他共に認める〈へそ曲がり〉ですから、他の人が使っている色はなるべく使いたくないと考え、文字どおりの「独自色」を出すのに試行錯誤を繰り返しています。基調色に緑と茶を使って来たのも、他のサイトで比較的使われることが少ない色だったからです。白状すると、私はスーツやジャケットも茶系やグリーン系が多いのです。ジャケットはともかくグリーンのスーツを着ている人はあまり見かけませんよね。
 しかし問題は、自分では良い色だと思って選んでも、相手がこちらの思った通りの色で見ているとは限らないことです。ブラウザーによっても色の出方は違いますが、モニターによっても同じ色名がまったく別の色に見えます。今もそばにノートパソコンを置いて比べながら色をチェックしているのですが、バックライトの違いもあってかどうも同じに見えません。最近は液晶モニターが増えていますが、これは角度によって見え方がずいぶん異なります。ですからいろいろ苦労して思い通りの色が出たと思っても、ほかのモニターで見るとまったく別の色になっていてガッカリすることが少なくありません。このサイトをご覧になって「ひどい色だ」とお感じになる方も少なくないと思いますが、それはブラウザーやモニターのせいですからご容赦ください。ちなみに私は数週間前、CRTから液晶モニターに変えました。デザイン変更を思い立ったのも、これまでCRTで見ていたものとずいぶん違うと感じたからです。
 もうひとつ、スタイルシートを使うようになって1年近く経ちます。行間の調節がきくこと、スタイルシートを変えるだけで同じスタイルシートを使っているファイルを一斉に変えることができるなど利点が多いと思います。ただ先ごろWindows98にヴァージョンアップしてからはInternet Explorerばかり使いNetscapeをあまり使わなかったので、両者の差をそれほど意識しませんでした。しかし、どうもNetscapeはスタイルシート未対応の点が多いようです。それに両者の間でスタイルシートの解釈にかなりの違いがあるのも悩みの種です。スタイルシートについては言い出すときりがないので、今回はこれまで。
〔2000.4.1記〕


第6巻『日本労働運動史研究案内』刊行完了

 3月25日に刊行を開始した第6巻『日本労働運動史研究案内』は、本日掲載した「日本労働組合評議会史関係文献目録および解説」を最後に、掲載予定の論稿をすべて載せることが出来ました。3週間たらずで出せたのは、古い出版物からテキストファイルを作成する作業をリブロ電子工房の皆さんにお願いした結果です。
 実のところ「研究案内」と銘打つには少々時間が経ちすぎている論文ばかりで、せめて改訂増補してから完結とすべきだったのですが、それは後日のこととさせていただきます。リブロ電子工房の皆さんに感謝!
〔2000.4.14記〕




ようやく東京へ

 オンラインで連載している『高野房太郎とその時代』がようやく長崎時代を終え、次回から舞台を東京に移します。これほど長崎時代が長くなるとは、実は私も予想していませんでした。本文でも再三書きましたが、房太郎の少年時代については弟の回想がごく簡単に触れているだけで、ほかにあまり史料がありません。大島清『高野岩三郎伝』(岩波書店、1968年)も長崎時代については僅か2ページです。これはとくに高野兄弟だけのことではないと思います。自伝を残した人、あるいは夭折した著名人で伝記執筆時にまだ友人たちが健在であった場合を別にして、だれの伝記でも一般に少年時代についての記述は簡単です。
 今回は、こうした本人に関する記録の少なさを周囲の史料で補い、どこまで説得力のある叙述が可能かを試みました。歴史家としての力量が問われるこの作業で、どれほど成果をあげえたか、はなはだ心許ない次第ですが、読者の皆さまのご意見をうかがうことができればまことに幸いです。書きながら読者各位のご批判を受け、その都度手直しできるのはオンライン出版の利点です。よろしくお願いいたします。
 舞台が東京に移っても、史料が限られた状態はしばらく続きます。早く房太郎を渡米させてしまうと岩三郎宛ての手紙が使えるようになるのですが、まだ当分の間は周辺の材料だけで彼の少年時代を再現するほかありません。これはこれで筆者にとってはけっこう楽しい作業ですが、読者の皆さまには「隔靴掻痒」ともいうべきもどかしさを感じられるのではないかと危惧します。気長におつきあいいただければ幸いです。
〔2000.4.19記〕




高野房太郎の旧跡探検(その1)

 昨5月4日、連休を利用して高野家の東京の〈旧跡〉を探検して来ました。オンラインで連載中の『高野房太郎とその時代』がいよいよ舞台を東京に移したので、その下調べのためです。私の身辺の事情を良くご存知の皆さまからすると、「暇なお前さんがなんで〈連休を利用して〉なんだ」と疑問をもたれることでしょう。実は高野房太郎・岩三郎兄弟が小学生時代に住んでいたのは神田・日本橋界隈でした。とうぜん平日だと道路は渋滞するし、まして駐車スペースを見つけるのは難しい、と考えたからです。これは正解でした。浅草橋の問屋街の真ん中でもすいすい走れ、らくらく駐車できました。ただ残念だったのは、あちこちで有名無名の、江戸のなごりを残す味の老舗を見かけたのに、どこも閉店だったことでした。
 さて今回の探索の目的地は3箇所で、いずれも高野家が東京で営業していた旅館兼回漕店〈長崎屋〉の跡です。千代田区東神田1-15-12
 まず最初に探したのは、明治10年に一家が東京に出てきて最初に居を構えた橋本町3丁目8番地です。何度も区画整理があり町名も変わっているので、あらかじめ中央区教育委員会編 『中央区沿革図集 日本橋編』で調べておきました。この地図集は江戸時代から戦後までそれぞれの時代の地図を集めた〈優れもの〉で、これがなければ何処がどこやらさっぱり分からないところでした。あれこれチェックした結果、どうやら現在地は〈神田東一郵便局〉近辺だろうと推定しました。地図上でも番地までなら見当がつくのですが、戸番が分かりませんでした。現地を見た結果、東神田一局の住居表示は千代田区東神田1丁目15番地の12と判明しました。ただ長崎屋の敷地は195坪だったのですが、この郵便局の敷地はどう見ても10坪そこそこです。どうやら隣の〈エトワール海渡プラザ館〉も高野家跡地を取り込んでいるようです。海渡プラザ館の戸番は15ですから、おそらく欠番の13、14あたりまでが高野家跡だったのだと思われます。
   ここで、WWW上の地図でこの場所の現在地を確かめておきましょう。つぎのMapFan Webのアイコン

を押してみてください。  この場所は『高野房太郎とその時代』(9)でも書いたように、神田川の畔といっても良いほどの位置です。もっとも今では、震災後に出来た〈靖国通り〉で隔てられてしまい、ちょっと遠く感じますが。また神田川もコンクリートで固められ、隅田川に注ぐ川口周辺の柳橋界隈もマンション街と化して、昔の面影を偲ぶよすがは、そこかしこに浮かぶ屋形船だけでした。 日本橋小網町郵便局
 目的地の第2は、橋本町の家が火事で焼けた後、半年余り仮住まいをした日本橋小網町4丁目2番地の家の跡です。これも『中央区沿革図集』で調べ、現在は中央区日本橋小網町11であろうと推測していましたが、なんとここも郵便局でした。
 3番目は日本橋浪花町8です。ここは元吉原、つまり浅草に移る前の吉原遊郭があった町です。現住所は中央区日本橋人形町2-25-13。当時は家の前に水路があり橋が架かっていました。明治40年の地図では、その久松橋を渡った左手に明治座があります。ただし、今の明治座のある場所からは僅かながら離れています。その水路は、今では暗渠になったか埋め立てられたかして公園にかわっていました。このあたりは旧跡の多いところで、例のお富さんと切られ与三郎の〈玄冶店〉の跡もあるそうです。あまり詳しく書いてしまうと、連載で使う材料の鮮度を落とすおそれがあるので旧跡探検の記はここまで。
〔2000.5.5記〕



全巻刊行開始

 先月25日に、第7巻の『労働関連統計の再吟味』第10巻『新資料発掘』の刊行を開始しました。これで、1997年9月の本サイト開設時に計画したすべての巻が既刊あるいは刊行中ということになりました。このテンポで作業をすすめれば、本年中には既発表論文のうち主要なものはほとんど掲載できるのではないかと思います。
 ところで、本著作集の刊行開始当初は活字本の形式にこだわって編集計画をたてたため、ひとつの論文はひとつの巻に収めるという方式を採用しました。しかし電子図書のあり方についてあれこれ考えた末、今回、一部の巻の構成を手直しいたしました。
 すでに第7巻『労働関連統計の再吟味』をご覧いただいた方はお気づきかと思いますが、この巻では、すでに掲載済みの論文の一部を収録しています。といっても、該当個所にアンカーをいれ、そこに直接とべるようにしただけですが。つまり新たに本巻に再録した「第2次大戦直後の労働組合統計の吟味」は独立論文ではなく、実は第1巻に収録した「戦後社会の起点における労働組合運動」の冒頭部分なのです。同じく「農商務省『工場統計表』の集計洩れについて」も同じく第1巻の「第一次大戦前後の労働運動と労使関係」の一部にリンクを張っただけのものです。このように、同一の論稿を同一著作集の二つの巻に二重に掲載することは、もしこれが活字本であったらとうてい許されないことでしょう。しかし、電子図書の場合は、ひとつの論文でも、さまざまな読み方が可能であるものについては、その入り口を複数にすることは、読者の便を増すことになるのではないかと考え、このようにした次第です。
(2000.6.14)




親バカ情報

 「編集雑記」欄なので、著作集と無関係なことはあまり書かずに来ましたが、禁を破ってひとこと。ちょうど3ヵ月前の3月30日に娘の宮地陽子がホームページを開設しました。Yoko's Locker Room Talkと称しています。彼女はシカゴ在住のスポーツライターでこの10年余、アメリカのプロバスケットボール関係の記事を『月刊バスケットボール』『HOOP』『Number』など日本の雑誌に寄稿しています。サイト名は、主な取材場所が選手のロッカールームであることからつけたものでしょう。一言つけ加えると、ロッカールームですから当然裸の男がいるわけで、女性にはかなり入りにくい場所です。もちろん選手の側でも、女性記者がロッカールームに入ってくるのに抵抗感をもつ人もいるようですが。
 今のところ目玉は取材ノートの公開とBBS(bulletin board system つまり書き込み自由の掲示板)のようで、掲示板には1日平均7〜8人の方が書き込まれています。開設間もないというのにすでにアクセス数は1万5000に達しており、あと1月もすれば開設後3年近いこのサイトを追い越すでしょう。あたりまえのことですが、学問より趣味の世界の方が多くの方が関心をもつものだと、改めて感心しています。御用とお急ぎでない方は、いちど覗いてみてやってください。
URLはhttp://homepage1.nifty.com/yokomiyaji/index.htmlです。
〔2000.6.30記〕



高野房太郎の旧跡探検(その2──横浜)

 『高野房太郎とその時代』は7月末の「二人の伯父」から舞台を横浜へ移しました。横浜時代はこれまでの高野研究ではあまり注目されて来ませんでしたが、房太郎の生涯を考える上ではかなり重要な時期だと思っています。まだ国会図書館や横浜開港資料館など、あちこちで材料集めを続けながら見切り発車的に書き始めたばかりですが、それでもいくつか新発見がありました。それについてはおいおい本文で書いて行くつもりですから、ぜひご一読ください。ここでは、史料探しに横浜に出た折に試みた、高野一族の旧跡探検についてご報告しておきたいと思います。
 今回旧跡探索の手がかりに使ったのは、1884(明治17)年7月に出版された『横浜全図』です。ちょうど房太郎が横浜に住んでいた時期に出た地図ですが、市川澂・真木千代藏編纂、最上幸吉校訂、菰田顕令製図と作成者が明記されている縮尺3000分の1の地図で、各番地ごとの敷地面積まで出ている詳細なものです。これを国土地理院1万分の1地形図「関内」(1984年編集、1994年修正)と照らし合わせながら歩き回りました。カンカン照りの日だったので草臥れ果て、途中でいささか脱水症状を呈し、塩をかけられたナメクジのようになってしまいました。冷房のなかで毎日を過ごしていたつけがきたと言うべきでしょう。
 さて今回の横浜探訪で分かったのは、開港当初に開かれた関内地区は古い通りの名や町名の多くがいまなお使われていることでした。先ごろ東京神田・日本橋界隈の高野家旧跡を探し回った時には、新しい道路によって街区が姿を変えていたり、住居表示がまったく変わっていたため、場所を確定するのに苦労しました。それに比べると、今回はずっと楽に発見することができました。番地こそ変わっていても、道路名や町名はそのままというケースがほとんどだったからです。古いとはいっても百数十年前に計画的に作られた都市だからでしょうか。
 もっとも例外がありました。ほかならぬ房太郎が最初に横浜時代を送った場所、つまり境町です。この町の1丁目26番地で伯父高野弥三郎が汽船問屋兼旅館・糸屋を営んでいたのですがこの「境町」という町名は1928年に廃止され「日本大通り」に変わっています。そればかりか境町の1丁目の真ん中を通っていた道はつぶされ、なんと境町1丁目から2丁目にかけての2つの街区が完全に地上げされ、ひとつの大きな建物に占拠されていました。高層ビル群のなかに周囲を緑に包まれた平屋建て、しかもウイークデーというのに全く人影はありませんでした。「日本大通り」という横浜のとびきりの一等地にずいぶん贅沢なものだなあと思いながら近づいてみると、はたしてあの有名な金融機関でした。どこだかお分かりになりますか? 答はつぎの写真でお教えします。
日銀横浜支店裏側・港大通り側日銀横浜支店正面、日本大通り側

 はいその通り、正解は日本銀行横浜支店です。人っ子ひとりいないこともあって、周辺は遺跡か霊園の雰囲気をただよわせていました。背の低いピラミッドというところです。かつて横浜貿易が日本経済を左右した時期には、この支店も大きな力をもっていたのでしょうが、今や完全にその重みが失われていることを、敷地や建物そのものが象徴しているようでした。
 もとの境町1丁目26番地はこの広い敷地の裏手中央、太田町の通りが突き当たった箇所の少し中に入ったあたりになります。右上の写真はそのあたりを写したものです。
より正確にはインターネット上の地図でご覧ください。つぎの MapFan Webのアイコン 

を押して出る地図で十字のマークがある箇所が旧境町1丁目26番地の糸屋があったところです。

 つぎに探したのは、住吉町6丁目80番地でした。明治18年の末か19年初めに弥三郎は、境町からここに移っているのです。「住み込み店員の日々」で〈駅前旅館〉と書いたところです。房太郎の母ますも、ごく短期間ですがここに移り住んでいました。 横浜市中区住吉町6-78横浜市中区住吉町6-78

 ここは、いまはパーキングビルになっていました。左側の写真です。ただし桜木町駅との間には大岡川があり、駅まではかなり距離があります。〈駅前旅館〉と呼ぶにはちょっと離れすぎているように感じました。昔の錦絵ですと、横浜駅はもっと大岡川に近い位置にあったように見えます。ことによると駅舎の位置が動いたのかもしれません。もっとも錦絵は、特長のある風景をひとつの画面に取り込もうとして写実性を犠牲にすることがあるので、あまり当てにはなりません。しかし明治10年の横浜分見地図でも駅舎の位置は今よりずっと川に近い位置にあるように見えますが、いかがでしょうか。
ここもインターネット上の地図で場所を確かめておきましょう。つぎの MapFan Webのアイコン 

を押すしてみてください。十字のマークがあるところが旧住吉町6丁目80番地の位置です。

 もうひとりの伯父・高野亀右衛門が経営していた旅館兼汽船問屋の高野屋は、はじめ弁天通2丁目41番地にありました。今の住居表示ですと横浜市中区弁天通2丁目29番地、弁天通りと関内桜通りの角にあたります。当時は横浜きっての繁華街だったそうですが、今ではその面影はありません。現在その場所にはビルが建ち、その1階にCafe COLORADOがあります。上の右側の写真中央の黄色い部分がそのCafe COLORADOの看板です。とても美味しいコーヒーを飲ませる店でした。どこかで見たことがあると思ったら、吉祥寺にも同じ名の喫茶店があることに気づきました。姉妹店か、チェーン店なのでしょう。

横浜開港記念館横浜第二合同庁舎より帝蚕倉庫を望む

 最後は高野家の旧跡というわけではありませんが、房太郎が学んだ横浜商法学校に関連した場所の探索です。ひとつは創立時に仮校舎が設けられていた「横浜町会所跡」、もうひとつは北仲通6丁目68番地の商法学校跡です。横浜町会所は、明治7年に時計台つきの3階建ての建物が建てられ、当時の横浜のランドマークとして錦絵の題材ともなった場所です。ここはすぐ分かりました。1917(大正6)年に、横浜開港記念会館が建てられたからです。残念ながら目下修復工事中で中を見ることは出来ませんでしたが、横浜が生糸貿易で栄えたころの記念碑的建築物です。左上の写真が現在の開港記念館です。
 もうひとつ房太郎が学んだ横浜商法学校の跡地は、ぜひ探し出したかった場所ですが、残念ながら正確な位置を確認することは出来ませんでした。北仲通6丁目一帯は広い公共用地ばかりだったところで、もともとの位置が良く分からない上に道路も昔とは違っていたからです。おそらく右上の写真で合同庁舎の駐車場部分か隣接する帝蚕倉庫のあたりではないかと思われます。なお右後ろ遠景の建物は〈みなとみらい〉にあるランドマーク・タワーです。

 これだけの数の旧跡探検が半日ですんだのは、関係箇所が「関内」、それも日本大通りの西側に限られていたからです。ちなみに「関内」というのは、関所の内側というくらいの意味です。外国人居留地と日本人貿易商らの居住地域を、ちょうど長崎の出島のように川と運河で囲んでいたのです。高野一族の旧跡はすべて関内の西半分、つまり元日本人居住区のなかにあります。これも、高野亀右衛門・弥三郎兄弟が、開港直後から横浜に移り住んでいたことによるものです。
〔2000.8.26記〕







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Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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