高野房太郎とその時代 (14)越境入学 ─ 江東学校へ
千代田学校を卒業した房太郎は、本所回向院の境内を使って明治8年秋に設立されていた公立小学 実は、教育環境という点からみると江東学校はけっして良い場所にはありませんでした。むしろ最悪だったかもしれないのです。ご承知のように回向院を有名にしたのは境内で開かれた勧進相撲です。文政10(1827)年からこの寺の境内で年2回の大相撲の本場所が開かれていました。下の左側の絵は明治32年当時の回向院です。創立当時の江東学校はこの絵の手前右、門を入ってすぐ右手の464坪を占めていました。回向院はまた、全国各地の寺のご本尊のご開帳でも有名でした。ご開帳の際は秘仏だけでなく「みせもの」と称して宝物や種々の飾り物などが展示され、行列やら山車やら宣伝的な催しもありました。ご開帳は宗教行事であるだけでなく、見せ物的要素も小さくなかったのです。その点では、回向院は浅草の浅草寺と似た性格の寺でした。 さらに、学校の行き帰りには隅田川にかかる両国橋を渡らねばなりませんでしたが、この橋の両側の袂には火除け地が設けられており、徳川時代にはその空き地を利用して見せ物小屋や矢場などいかがわしい店が建ち並ぶ盛り場でした。明治6年には人気の的だった見せ物小屋が禁止されましたが、それでも子供が毎日行き来するのに相応しい場所ではありませんでした。 では、なぜ高野兄弟は江東学校を選んだのでしょうか? もちろん今となっては、こうした問いにはっきりした答を出すすべはありません。推測するしかないのですが、ひとつの答は、江東学校が周囲の学校にくらべ教育水準の高さで評判だったのではないか、ということです。『本所区史』は、江東尋常小学校の沿革のなかで次のように記しているのです*4。 「明治十九年十一月成績優良校の一として、畏くも、皇太子嘉仁親王殿下(大正天皇)の御台臨を辱ふした」(強調は引用者)
もうひとつの傍証は、右の絵です。これは明治10年の刊行、東京の教育界で活躍中の人びと16人を描いた錦絵の部分です。
左下の立っている人物には「江東学校 山川利済」とその名が記されていますが、彼は同校二代目の校長でした。その背後の人物は文部大輔の田中不二麿、その右隣が女子教育の跡見花渓、ほかにも洋学の福沢諭吉や工部大学校の設置母体責任者として工部卿伊藤博文らの名があります。つまり江東学校の校長は当時の教育界における新進気鋭の人材と目されていたのです。
「今一軒僅かに半年在籍した小学校は男女共学であつて、私のクラスは男が私一人でアトが尽く女であつたには弱らされた。小学校といひ条今の高等で、其頃は女は小学校を卒業すれば、或は卒業しなくても良い縁談があれば嫁入りしようといふ年頃であつたから大人びてゐて、年少の私などは児供扱ひして丸で対手にしなかつた。学課は碌々出来ないでも若い教師はチヤホヤして成績で一番の私は却てノケ者にされて小さくなってゐた。此の不愉快な学校を罷めて本の学校へ戻つて古い教師や同級生と一緒になつた時はノウノウとした」*5。 以上はあくまでも推測ですから、はたして当たっているかどうか分かりません。ただ私は、高野兄弟が近くの学校に行かずわざわざ遠い江東学校へ通ったのは、それなりの理由があったに違いないと考えています。さらに言えば、そこに母マスの意思が働いていたことを感ずるのです。 長崎屋には、東京大学医学部学生など立身出世の野望にもえる若者が何人も止宿していました。マスは、そうした学生たちを目の当たりにして、学問が人生の展望を変える力をもっていることを肌で感じていたことでしょう。父親代わりもしなければならない立場の彼女とすれば、兄弟により良い教育を受けさせようと考えたに違いないと思うのです。 明治14年、房太郎は江東学校を卒業しました。このことは岩三郎が「兄を語る」のなかでつぎのように述べていることから明らかです。 「兄は浅草橋の千代田小学校から、つぎに江東小学校に転校し、十四年に高等小学を卒業した。同窓生(ママ)は五、六人であった。」
岩三郎も数年後に同じ学校を卒業していますから、この兄の卒業年次についての記憶は確かだと思われます。また『要用簿』には、明治14年11月から12月にかけ、長崎の所有地の名義人や回漕業者としての名義が、仙吉から房太郎に書き換える手続きがとられたことが記録されています。これも、房太郎がこの頃、高等小学校を卒業したことを裏書きしていると思われます*6。
なお、岩三郎が回想で、同窓生といっているのは、おそらく同期の卒業生でしょう。高等小学校の卒業生が一時に6人もいたとなると、それ自体、江東学校の教育水準の高さを示す証拠になります。それというのも、当時、高等小学を卒業するのは、現在われわれが想像する以上に大変なことだったからです。前に「文明開化の子」のところでちょっと触れましたが、当時の小学校は半年ごとに試験を課し合格者だけが進級する仕組みでした。さらに下等小学、高等小学のそれぞれを卒業する際は、卒業試験(大試験)が課せられました。ですから高等小学を卒業するには、実に18回もの試験に合格しなければならなかったのです。しかもその進級試験もきわめて厳格なものでした。文部省は「学制着手順序」のなかで「生徒階級を踏む極めて厳ならしむ……毫も姑息の進級をせしむべからず」との原則を各府県に指示していました。 【注】
*1 墨田区教育委員会編集発行の『隅田区教育史』(1986年、1065ページ)によれば、創立時の名称は公立小学江東(こうとう)学校であった。大正3年3月31日に呼び方を変え、江東(えひがし)尋常小学校となった。理由は述べられていないが「こうとう」では高等小学校と紛らわしいからであろう。 *2 これは房太郎が明治7年に下等小学へ入学したと仮定しての進学年次である。明治6年末の入学だったとすると10年の進学ということになるが、それでは東京移住の年とかさなってしまい、千代田学校へほとんど通わなかったことになり、岩三郎の回想と矛盾する。なお大島清氏は、江東学校へ進学したのは長崎屋が火事で焼け、小網町へ移ったからだと述べておられる(『高野岩三郎伝』岩波書店、1968年、5ページ)。この通りだとすると高等小学まで千代田学校で学んでいたことになるが、千代田学校には高等小学の課程はなかった。 *3 なお高野岩三郎は、後年、江東小学校の校友会長をつとめている。江東校友会の実務を担当していた佐竹建造氏からの手紙、はがき各1通が残されており、はがきには次の一節がある。 江東校友会は当日遺族よりのお招きにより小生僭越ながら校友会を代表して列席いたしました。而して先生の御名によりまして弔詞を霊前へ呈しました。弔詞の全文は次の如くであります。
ちなみに作家の斎藤緑雨、芥川龍之介も江東学校の生徒であった。緑雨は土屋学校からの転校で卒業前に東京府立一中へ進学しているが、龍之介は明治30(1897)年に江東学校付属幼稚園に入り、翌年江東小学校へ入学、38(1905)年に高等科2年を修了し東京府立第三中学へ入学するまで8年間この学校で学んでいる。そのこともあって、芥川の作品にはしばしば回向院や隅田川(大川)が出てくる。 僕は当時回向院の境内にいろいろの見世物を見たものである。風船乗り、大蛇、鬼の首、何とかいう西洋人が非常に高い竿の上からとんぼを切って落ちて見せるもの、──数えたてていれば際限はない。しかし一番面白かったのはダアク一座の操り人形である。その中でも又面白かったのは道化た西洋の無頼漢が二人、化けもの屋敷に泊まる場面である。彼らの一人は相手の名をいつもカリフラと称していた。僕は未だに花キャベツを食う度に必ずこの「カリフラ」を思い出すのである。 また「或精神的風景画」という副題をもつ「大導寺信輔の半生」の冒頭は、回向院の近辺をつぎのように描いている。 大導寺信輔の生まれたのは本所の回向院の近所だった。彼の記憶に残っているものに美しい町は一つもなかった。美しい家も一つもなかった。殊に彼の家のまわりは穴蔵大工だの駄菓子屋だの古道具屋だのばかりだった。それ等の家々に面した道も泥濘の絶えたことは一度もなかった。おまけに又その道の突き当たりはお竹倉の大溝だった。南京藻の浮かんだ大溝はいつも悪臭を放っていた。 なお、芥川龍之介関係の文献では江東小学校に「えひがし」とルビをふっているものが多い。だが注1でふれたように江東(こうとう)小学校がが江東(えひがし)尋常小学校へと呼称を変えたのは1914(大正3)年3月のことである。芥川龍之介が同校の付属幼稚園に入った1897(明治30)年はもちろん、高等科2年を修了した1905(明治38)年でも江東(こうとう)小学校であった。 *4 『本所区史』(本所区編集発行、1931年)140ページ。 *5 内田魯庵「明治十年前後の小学校」(野村喬編『内田魯庵全集』第3巻、1983年、ゆまに書房、110ページ)。
*6 ただし、私が『明治日本労働通信』の解説として書いた「高野房太郎小伝」で卒業月を3月としたのは誤りで、11月か12月だった可能性が高いと思われる。 *7 斉藤利彦『試験と競争の学校史』(平凡社、1995年)116〜117ページ。 *8 前掲書、第3章「試験制度の実際」75〜109ページ。 *9 仲新監修『学校の歴史 第2巻 小学校の歴史』(第一法規出版株式会社、1979年、73ページ)。なお、国立教育研究所編集発行『日本近代教育百年史』第3巻(1974年)539ページも参照。 |
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Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』 The Writings of Kazuo Nimura E-mail: nk@oisr.org |
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