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高野房太郎とその時代 (16)




3. 社会人一年生 ─ 横浜時代(2)

住み込み店員の日々

三代広重画「横浜海岸通之真景」(部分)明治5年、横田洋一編『横浜浮世絵』有隣堂刊より、原画は神奈川県立博物館所蔵」

 これまで発表された高野房太郎研究で、横浜時代を論じたものはありません。しかし彼の生涯を考える上で横浜時代はたいへん重要だと思います。年齢でいえば満13歳から18歳の5年間でした。一般に、この夢多い多感な年ごろを、いかなる時代に、何処で、どのような人びとと一緒に過ごすかは、その後の人生に重要な意味をもちます。もっとも少子高学歴社会の現代では、二十代に入っても親がかりのまま「自分探し」が許されている人も多いので、十代が人生にもつ重みは減っています。しかし明治初年の日本では、十代の若者のほとんどは社会人でしたから、いやでも自分の現在・未来を真剣に考えざるをえない立場におかれていたのです。
 この房太郎の横浜時代について、岩三郎は「兄を語る」のなかで次のように述べています*1。短い文章ですが、この回想は房太郎の横浜時代の生活をよく伝えているだけでなく、夜学の商業学校へ通った事実や友人の氏名など、さらに探索をすすめる上で役に立つ大事な手がかりをいくつも残してくれています。

「兄は小学校を卒業した十四歳から十九歳までを横浜の叔父の家で育った。と云ふのは、兄は戸主だから、何か商売を覚えておかねばならぬので、前にも述べたが回漕問屋をやってゐた叔父の店で事務見習いを先ずさせられた。叔父は厳格な人で、兄は算盤で頭を殴られる事もたびたびであったし、他の店員とおなじやうに扱はれ、苦労な少年時代であったのである。
 その頃の横浜は、唯一の開港場であったので、毎日外国汽船を見てゐるし、外国人とも接しる折が多いので、横浜にゐる青年は、皆米国へ渡る夢を抱いていた。兄もその一人で、何時かは米国へ行って勉強したい希望を持っていた。
 横浜での兄の勉強は、昼間働いて、夜は商業学校へ通ってゐた。第一に勉強ずきの兄は、せっせと夜学に通った。或時学校で講演会を開こうと計画して、早稲田大学の高田早苗、天野など云ふ人達を呼んでゐる。兄の相棒に富田源太郎、伊藤仁太郎(今の伊藤痴遊氏であらうと思ふ)氏などと云ふ人がゐて、盛んに講演会を開いて向上につとめてゐた。かうして勉強方面では、朗らかに愉快な生活がつづいたやうである。」

 房太郎がなぜ横浜の伯父の店に住み込んだのかといえば、彼は高野家の「戸主」で「何か商売を覚えておかねばならぬ」立場だったからでした。戸主としては母や弟を養育するのはもちろん、かつて東京一の繁栄を誇った長崎屋を再興することが当然の責務でした。周囲の人びとはみな房太郎にそれを期待し、彼自身もその期待に応える決意でした。もっとも、母と姉が日本橋浪花町で旅館を経営して日々の生活は安定していましたから、戸主の責任といっても差し迫ったものではありませんでした。まず大事なことは将来に備えて汽船問屋の仕事のやり方を覚えることで、それには同業の大先輩である伯父の店で働くのが最適だ、と本人はじめ誰もが考えたに違いありません。
 生まれてはじめて親元を離れるのですから、多少の心細さはあったでしょう。しかし、当時の世間的な基準からすれば、巣立ちとしては遅すぎたくらいで、心細いなどとはおくびにも出せるものではありませんでした。また房太郎にとっても、横浜で暮らすことへの期待の方がはるかに大きかったと思われます。毎日毎日、海外へ出かける人の世話をするのが仕事でした。「横浜にいる青年は、皆米国へ渡る夢を抱いて」いたと岩三郎は述べていますが、房太郎の場合はとくに渡米する人びとと日夜接していましたから、いつの日か自分もと思っていたに違いありません。

 伯父の家で、房太郎はどのような毎日を送っていたのでしょうか? この節のタイトルを「住み込み店員の日々」としましたが、ここはむしろ当時の言葉を使って「丁稚(でっち)小僧の日々」とでもすべきだったかもしれません。汽船問屋兼旅館の〈でっち〉の生活がどのようなものだったか確かなことは分かりませんが、あれこれ想像してその一日を再現してみましょう。
 旅館の下働きの一日は朝暗いうちから始まります。早立ちの客がいますから〈でっち〉も当然早く起きなければなりません。繁盛した長崎屋の長男として、大勢の使用人に囲まれ甘やかされて育った房太郎には、けっこう辛い経験だったでしょう。店の内外の掃除、各部屋で使われた石油ランプのホヤ磨きなどが朝飯前の仕事でした。
 岩三郎の回想では「事務見習い」だけが仕事だったように書かれていますが、肉体労働もかなりの比重だったはずです。なかでも船から降りた客を波止場まで出迎え、乗船する客を波止場まで案内すること、客の荷物を、宿と波止場、宿と汽車の停車場の間を、手押し車で運ぶことも、汽船問屋兼旅館の丁稚小僧のだいじな仕事でした。客と荷物を(はしけ)に乗せてしまえばおそらく彼の仕事は終わったことでしょうが、女客や老人などは港内に停泊している船上まで案内する必要もあったかもしれません。
 念のために言えば、当時の日本にはまだ汽船を桟橋に横付けできる施設はありませんでした。旅客も荷物も、港の内外に停泊している「沖懸かりの船」まで艀で運ばれ、揺れる〈はしけ〉から揺れる汽船の船腹にかけられたタラップにとび移り、これをつたって乗り込んだのです。横浜港に繋船岸壁が完成し、客船が桟橋に横付けできるようになったのは、それから36年も後の1917(大正6)年末のことでした。

 汽船の便数は時期によって違いましたが、明治18年9月末に三菱会社と共同運輸が激しい競争で共倒れになる寸前で合併し、新たに発足した日本郵船会社の場合、横浜港を発着する定期航路の時刻表は次の通りです*2


日本郵船 横浜港出発便一覧
行先出発日時到着日時備考
四日市毎日正午翌日正午 
四日市毎日午後4時翌日午後4時 
神 戸日曜正午月曜午後 
函 館月曜正午水曜午前6時始発は神戸、萩の濱経由
神 戸火曜午後4時木曜未明始発は函館
上 海水曜夕翌週木曜神戸・下関・長崎経由
神 戸木曜正午金曜午後 
函 館木曜正午日曜午前6時始発は神戸、萩の濱経由
神 戸金曜午後4時日曜未明始発は函館


日本郵船 横浜港到着便一覧
出発港到着日時出航日時備考
四日市毎日正午前日正午 
四日市毎日午後4時毎日午後4時 
神戸日曜未明金曜午後6時萩の濱経由函館行き
神戸月曜午後日曜正午 
萩の濱月曜午後5時日曜午後3時函館始発
神戸水曜未明月曜午後6時萩の濱経由函館行き
神戸木曜朝火曜夕上海始発、長崎・下関経由
神戸木曜午後水曜正午 
萩の濱木曜午後5時水曜午後3時 

 つまり、毎日2便が四日市に向かい、出航は正午と午後4時でした。このほか神戸行きが週4便、しかし上海行きも神戸経由でしたから実質上5便でした。函館行きは週2便でともに正午発でした。つまり出発便が1日平均3本、到着便も3本でした。このほか、当時の新聞広告を見ると八戸や半田、石浜行きの船便もあります*3。これはおそらく不定期便でしょう。外国航路も4社で香港経由のヨーロッパ便、サンフランシスコ便が週2便ほどありました。
三代広重「横浜鉄道蒸気車之図」(部分)、明治5年、横田洋一編『横浜浮世絵』有隣堂刊より、原画は神奈川県立博物館所蔵

 また、汽車で東京へ出るには、現在の桜木町駅の位置にあった〈ステンション〉=横浜停車場で乗車し、神奈川、鶴見、川崎、品川の各駅を経由して、新橋停車場に所要時間53分で着きました。
 もっとも所要時間53分は開設当初の記録で、明治16年には45分に短縮されています。列車の本数も時期によって違いますが、明治19年はじめで1日13本、午前7時から午後10時40分まで、毎時ほぼ1本のわりあいで出発しています。

 ところで前回「彌三郎は1886(明治19)年1月以前に住吉町6丁目80番地に」移転したとだけ書きましたが、実はこの引っ越しで、絲屋は停車場の真ん前に場所を移しているのです*4 新しい場所は59.61坪で境町より2倍以上の広さになりました。それ以上に重要なことは、これによって彼は日本最初の「駅前旅館」の経営者になったのです、と言いたいところですが「日本最初の駅前旅館」であったことについての確証はありません。ただ、日本でもっとも早い時期の「駅前旅館」のひとつだったことは確かです。汽車の普及を見越しての移転であったと推測され、ここでも高野彌三郎の先見性と決断力がうかがえます。ちなみに、この「駅前旅館」の糸屋には、森鴎外がそのドイツ人の恋人エリーゼとともに宿泊しています。すなわち1888(明治21)年10月、帰国することになったエリーゼを見送るため、出発前夜、鴎外は糸屋に滞在しているのです。もっとも、鴎外と同宿したのはエリーゼだけでなく、弟の森篤二郎、年長の義弟小金井良精も一緒だったのですが*5
 いずれにせよ、汽船や汽車に乗り降りする客の見送りや出迎え、荷物の運搬だけでも、汽船問屋の丁稚小僧はかなり忙しかったに違いありません。

 もちろん汽船問屋を経営できるようになるには「事務見習い」としての仕事も重要でした。おそらく事務量として比較的多かったのは、旅客に乗船切符を発行すると同時にそれにともなう経理処理をおこなうことだったでしょう。乗船切符の発行が汽船問屋の業務だったことは、明治19年1月5日付けの『時事新報』はじめ各紙に「日本郵船会社横浜船客取次問屋」名で、これまでは汽船が錨をあげるまで発券していたけれど、今後は出帆1時間前で発券を締めきることになったので、2時間前までには汽船問屋に来るようにとの広告が掲載されていることから明らかです。ちなみに、料金は横浜神戸間の上等が16円、下等が4円、横浜長崎間は上等が30円、下等が7円50銭でした。

 しかし前回紹介したように、高野彌三郎店は『日本三府五港豪商資産家一覧』の貿易商の部に汽船問屋として全国でただ一店掲載されていました。それを考えると、絲屋はただ旅客に乗船切符を発行したり小口の船荷を扱うだけの店ではなく、輸出入品の運送に関与していたことはまず間違いのないところです。となると、彌三郎店は三菱会社やその後身の日本郵船の代理店だっただけでなく、外国の汽船会社の代理店でもあったに違いありません。この頃、日本郵船は外国航路は中国などの近距離航路だけで、アメリカ、ヨーロッパなどの遠洋航路は英米仏露など外国の船会社に完全に握られていたのですから。
 当時日本に進出していた外国の船会社としては、アメリカの太平洋郵船(パシフック・メール)、イギリスのP & O汽船会社(Peninsular and Oriental Steams Navigation Co.)、あるいは東西汽船会社=O. & O.(Occidental and Oriental Steamship Co.)などがありました。これらの会社すべてと代理店契約を結んでいたか否かは分かりませんが、そのいくつかと関わりがあったことは確実だと思われます。絲屋がさまざまな輸出関連の業務──傭船契約、海上保険、関税、さらには船荷証券の作成などなど──のうち、どれをどこまで担当していたのかは分かりません。しかし、これらの書類を自ら作成しない場合でも、船会社の支店や代理店、保険会社、税関などの関係先と折衝するにはかなり高度な知識と経験を必要としたと思われます。荷主と輸出先との間で、また荷主と船会社や保険会社の間に交わされる多様な文書を直接作成しないまでも、最低限その内容を理解するだけの知識は不可欠でした。もちろん外国の船会社や保険会社を相手にする場合には、日本語だけでなく英語もできなければならなかったでしょう。房太郎は「算盤で頭を殴られ」ながら日常の経理事務をこなし、さらに各種の輸出関連書類を作成する訓練を受けたものと推測されます。


【注】

*1 高野岩三郎「兄高野房太郎を語る」(『明日』1937年10月号)。引用は法政大学大原社会問題研究所『資料室報』145号高野房太郎生誕100年記念号(1968年10月)への再録による。同誌17ページ。

*2 本一覧表は、佐々木茂市編・刊『日本絵入商人録』明治19年6月によって作成した。

*3 『時事新報』明治19年1月6日付、3面の「日本郵船会社汽船横浜発」広告には、浦門丸 半田行 一月六日正午十二時、敦賀丸 八ノ戸行 一月七日午後四時などとある。

*4 つぎは、(14)「二人の伯父」の冒頭にも掲げた尾崎富五郎作成の「横浜分見地図」の部分です。右下の広い敷地が「鉄道寮御用地」でステーション=横浜停車場、住吉町は公園の下端から右に出ている道の両側にあたります。住吉町6丁目80番地は大岡川をはさんで停車場に面していることがお分かりいただけるでしょう。

横浜分見地図(部分) 明治10年

*5 これについては、鴎外の妹喜美子の夫、小金井良精の日記、1889(明治22)年10月16日、17日の項につぎのように記されている。関連して星新一『祖父・小金井良精の記(上)』(河出文庫、2004年刊、240〜241ページ)参照。

「後二時築地西洋軒ニ到ル林子〔林太郎=鴎外〕来リ居ル。二時四十五分発汽車ヲ以テ三人同行ス。 横浜糸屋ニ投ス。篤子〔森篤二郎〕待チ受ケタリ。晩食後、馬車道太田町弁天通ヲ遊歩ス。」
「午前五時起ク。七時半艀舟ヲ以テ発シ、本船General Werder迄見送ル。九時本船出帆ス、九時四十五分ノ汽車ヲ以テ帰京、十一時半帰宅。」

  午前9時出航の便に間に合うためには、午前7時半には艀に乗っている必要があったのです。出航前日には横浜まで来て、一泊せざるを得なかったでしょう。汽船問屋が宿屋を兼ねるというのも当然でした。
 詳しくは林尚孝「森鴎外と一八八八年秋の横浜 ─ エリーゼと過ごした糸屋の一夜 ─」参照。




法政大学大原社会問題研究所        社会政策学会

編集雑記             著者紹介


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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