二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(二八)

日本物産店──夢の実現と破綻


高野房太郎、1888年5月13日サンフランシスコにおいて撮影。井山憲太郎・きわ夫妻に送った写真

 アメリカに戻った房太郎は、すぐ日本物産店オープンの準備にとりかかりました。日本から送った荷物の通関手続きをはじめ、商品の仕入れルートの確保、店を開く場所を探して家屋の貸借契約を結んだり、広告の文案を考えるなど、未経験のことがらを、つぎからつぎへと片づけなければなりませんでした。いくら英語ができるといっても正規の教育を受けたわけではなく、アメリカ生活も一年余でしかない二十歳の若者が、法律や慣行の異なる外国で、このように込み入った問題を処理するのは、容易なことではなかったでしょう。
 その間には、競争相手の店を調査したり、マーケットリサーチを兼ねた行商をするなど、大忙しの毎日でした。とはいえ、長年の夢が実現するわけで、希望にみち、充実したひとときであったに違いありません。

 ところで、それ以前に解決しておかなければならない大問題がありました。ほかならぬ資金の確保です。つまり、彼が日本からもちかえった金額では、サンフランシスコ市内に店舗を構えることなどとういてい不可能だったのです。房太郎はその創業費を約三〇〇ドルと試算しています。日本円なら四〇〇円を超える額です。それには、出資者か共同経営者を募るほかありませんでした。いつごろ、どのような経緯で、またどのような条件で約束したのか分かりませんが、最終的に房太郎は U・ナカガワ商会の共同経営者として実業界にのりだしました*1。共同経営者といっても店名にタカノの文字がないところをみれば、主たる出資者はジェシー街五二一番地に住んでいたナカガワ某氏*2だったのでしょう。サンフランシスコ・ストークトン街10番地店舗はストクトン街一〇番地(10 Stockton)におかれました。これは、サンフランシスコの中心部を横切る大通りのマーケット通り(Market Street)とストクトン通りが交差する角地に近い場所です。市内随一の広場ユニオン・スクエアにも近く、立地面では文句なしの一等地でした。販売した商品は、ハンカチなどの絹製品、陶磁器、漆器、鼈甲べっこう細工、象牙細工、絵はがき、扇子・団扇・日傘など竹細工類でした*3

 開店したのが何時だったか、確かなことは分かっていません。ただ私は、一八八八(明治二一)年の五月中旬であったのではないかと推測しています。それは、房太郎が一八八八年五月一三日にサンフランシスコ市内で写真を撮影し、これを井山憲太郎・きわ夫妻に送っている事実があるからです*4。冒頭に掲げた写真がそれですが、これは、少年時代からの夢であった高野家再興の第一歩を踏み出したことを記念すると同時に、故国の親族への手紙に添えるために撮ったに違いないと思われます。眉をあげて、遠くを見ているような、いかにも希望にみちた若者の凛々しい顔だちですが、どことなしか当時の二十歳の青年にしては幼さを感じさせます。

 しかし、房太郎の夢はいとも簡単に消え去りました。〈中川商会〉は、開店後わずか七、八ヵ月で破綻してしまったのです。この事実が分かるのは、岩三郎が「兄高野房太郎を語る」のなかでつぎのように述べているからです。

「始めマーケットストリートに日本品の商店を出し、バザーなどをやったが美事に失敗して店をたヽんだ*5。」

 もうひとつ、破綻の時期が推定できる、より直接的な証拠があります。それは開店から一年もたたない一八八九年三月三〇日付の房太郎宛の手紙です。横浜正金銀行サンフランシスコ出張所の今西兼二が書いたものですが、その宛先の住所は、サンフランシスコではなく、メンドシーノ郡ポイント・アリーナのガルシア製材所気付なのです。スクールボーイ時代に働いたことのある、あのガルシア製材所です。内容は、音信不通になっている房太郎を友人たちが心配していることを伝えると同時に、書籍と洋服の月賦支払いの立て替え金の返済を求めています。なお、この貸し金は銀行の債権ではなく、今西が個人的に高野に用立てたもののようです。彼は房太郎が発起人となって創立した同攻会横浜支会の会員でしたから、二人はいわば旧知の間柄でした。また、友人のなかに中川の名があるところを見ると、事業に失敗はしても、共同経営者と不仲になってはいないことがうかがえます。
 この手紙からみて、房太郎は遅くとも三月初め、おそらく二月中にはサンフランシスコを出発したものと思われます。一部に判読不明の箇所がありますが、この今西書簡は、房太郎が日本物産店の経営に失敗し、夜逃げ同様にサンフランシスコを離れた様子を伝えている貴重な記録なので、全文を引用しておきましょう。 

 明治廿二年三月三十日
 高野房太郎様              今西 兼二拝
 拝啓 益々御清遠奉賀候
陳ハのぶれば貴下御出発後貴下ヨリ其地ヘ御到着の報知ニモ接セス、又小生ヨリモ年働多忙かたがた御無音ノミ打過ギ居タル処、両三日前中川深沢ノ諸氏ニ面会イタシ貴下之事ニ付仝氏等ニ相□□
 同氏等ニ於テモ甚ダ心配イタシ居候。如何トナレバ貴下当港御出発後ハ余人ノ処ヘモ貴下ヨリ御音信無之ノミナラズ、深沢氏ヨリハ尓来じらい日本ヨリ到着之新聞紙并手紙トモ総テ貴下ノ名宛ノモノハ貴下ヘ宛テ差出シ未ダ御落手否モ判然不仕。旁々かたがた貴下身上ニ於テ何カ「アクシデント」デモ有之哉これあるやトヨリヨリ之噂イタシ居候間、何卒此手紙御落掌之上ハ大至急御返書願上奉候。
 小生義此度本店之命令ニ依テ紐育ニューヨーク出張所詰被申付もうしつけられ已ニ小生ノ代リ員モ当港ヘ到着イタシ(代リ員ハ貴下御承知ノ巽孝之丞氏ニ御座候)。
付テハ来ル四月中旬ニ当港出発之心得ニ御座候。陳ハ貴下御出発之際御依頼相成リ至居ル月賦払ヒノ書籍并ニ着物代等ハ如何相成候哉いかがあいなりそうろうや。尤モ書籍代ハ已ニ払ヒ済之 □□着物代総高四拾弗之内最初拾弗ハ貴下ヨリ払込相成、残金参拾弗小生ヨリ払ヒ込ミ其残高拾五弗ハ来月ヨリ向フ三ヶ月間ニ払ヒ込ノ都合ニ相成居候。右ハ貴下ノ差図ヲ経テ夫々取計ノ事ニ致居候。
 御承知ノ通リ小生モ借金ダラケニ付何卒是迄払ヒ込ミ高、則チ貴下ヘ貸シト相成リ居候其分ハ御繰合セ御送付相成托度、御願仕候。其高ハ左ニ
  書籍代  壱金  参弗也
  着物代  壱金  拾五弗也   但其内金五弗ハ御出発ノ際入金  残金壱拾参弗也。
右ノ通リニ御座候也。
当手紙御落手之上ハ大至急御答書願候
                    草々

 では、なぜ、房太郎の事業は、このようにすぐ破綻してしまったのでしょうか? その理由をつぎに考えてみたいと思います。ただ長くなりますので、これについては回を改めて見ることにしましょう。




*1 サンフランシスコで店舗を開設する場合の創業費が三〇〇ドルに達することは、「米国桑港通信」第二回1参照。
 また、房太郎が、日本商品店の共同経営者となったことを確実に裏付ける史料は、Langley's San Francisco directory for the year commencing May1889 (1889, San Francisco: Francis, Valentine & Co.) の九八三ページにある次のような記述です。

NAKAGAWA U.(U. NAKAGAWA & Co.) r. 521 Jessie
NAKAGAWA U. & Co.(U. NAKAGAWA and O. F. TAKANO) Japanese goods, 10 Stockton

 実際には、この住所録が出た時には、すでに U. NAKAGAWA & Co.は破綻していたのでしたが。

*2 なお、共同経営者の一人「NAKAGAWA U.」は、新潟県三島郡大野村出身で、後にタコマ市のパシフィック通りに住んでいた中川宇三郎の可能性が高い。この時期にアメリカに在住していた日本人はまだ少数で、姓ばかりでなく名のイニシャルまで一致している人物がほかにいたとは考えにくい。なおこの名は、外交資料館文書『在米本邦人ノ状況並渡米者取締関係雑件』中にある藤田書記官巡回復命書附属文書「Tacoma在住日本人」(明治二四年、一八九一年現在)に記録されたことで残されたものである。その前年まで、高野房太郎もタコマに在住し、パシフィック通りのレストランで働いていた。これも、間接的にではあるが、NAKAGAWA U.が中川宇三郎と同一人物である可能性を示すものであろう。

*3 「米国桑港通信」第1回2〔『読売新聞』明治二〇年一二月二四日付掲載〕の海関税の内訳参照。なお、かつて房太郎に英語を教えたことのあるキングスランド夫人からの礼状(一八八八年一二月二七日付)で、彼が同夫人へのクリスマスプレゼントとしてハンカチとScreen(布張りの衝立か、屏風であろう)を贈っていることが判明する。これらも、おそらく店で扱っていた商品のなかから選んだものであろう。

*4 この写真の裏には次のように記されていた。ハイマン・カブリン編著『明治労働運動の一齣』冒頭の入交好脩氏による「口絵写真解説」参照。

「西暦千八百八十八年五月十三日写之
                       在米桑港
                            高野房太郎
呈井上兄上様
  同姉上様」


*5 「兄高野房太郎を語る」の初出は、『明日』一九三七年一〇月号。なお、法政大学大原社会問題研究所『資料室報』一四五号、一九六八年一〇月に再録されている。なお、岩三郎が、「バザーなどをやった」と書いているが、おそらくこれは、日本商品の販売店を英語で、'Jpanese Bazar' と呼んだことを誤解したためと思われる。なお、房太郎は、中川商会での日本物産の販売だけでなく、煙草を日本に輸出することを計画し、一八八八年一〇月にノースカロライナの W.Duke, Sons & Co.、ニューヨークのW. S. Kimball & Coなど数社に、輸出価格を照会する手紙を出している。



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