高野房太郎とその時代 (30)4. アメリカ時代(8)労働運動への開眼せっかく意気込んで始めた事業でしたが、日本物産店は1年ともたずに閉店に追い込まれてしまい、房太郎は逃げるようにサンフランシスコを離れました。日本人が数多く住み、故国からも旧知・未知の人びとがつぎつぎと訪れて来るこの都会にとどまり、失敗者として後ろ指を指されるのは、この誇り高い若者にはなんとも耐え難かったのでしょう。さりとて、帰国することなど思いもおよばぬ話でした。息子を信用して土地の売却を認めてくれた母や、慎重に行動するよう忠告してくれた義兄らに合わせる顔がないという思いもありましたが、何よりあちこちに作ってしまった借金を返すには、この国で働くほか道はなかったのです。
そこで彼が向かったのは、太平洋岸沿いを200キロほど北に行った小さな町、ポイント・アリーナでした。2年前アメリカに着いて間もなく、主家ブレイトン家の息子アルバートとエドワードの兄弟と、まるで夏休みのような楽しい日々を過ごしたあの懐かしい土地です。この海辺の町の自然も、旧知の人びとも、失意の彼を暖かく迎えてくれました。 「私が1889年にカリフォルニアの製材工場にいたときのことです。幸運にも『労働運動──今日の問題』と題する一冊の本に出会いました。その本を熟読したことで労働運動に対する私の関心はめざめ、また日本の労働者が耐え忍んできた不当な境遇について、私の認識は研ぎすまされたのです。」 つまり、実業の世界での失敗が、房太郎を「日本労働組合運動の父」への道を進ませる結果になったわけです。冒頭に掲げた写真は高野房太郎が所蔵していた『The Labor Movement:The Problem of To-Day』です*2。ボストンの印刷工出身の労働運動家で、マサチュウセッツ州の初代労働統計局次長にもなったジョージ・E・マクニールの編集で、1887年に刊行されたばかりでした。
同書は、まず最初にアメリカとヨーロッパの労働運動・労働法制の歴史と現状を概観し、ついで、印刷・靴製造・繊維・鉄・石炭・鉄道などの産業別の労働問題と労働運動を描き、さらに、労働時間・ストライキ調停・協同組合・農業問題・土地問題、中国人移民労働者など、当時のアメリカが直面するさまざまな労働・社会問題を論じていました。付録もふくめ実質25章、600ページ余もある、アメリカ労働運動に関する百科事典ともいうべき書物です。
では、房太郎はいつ、どこで労働運動の存在を知り、なぜそれに関心をいだいたのでしょうか? この疑問は、高野房太郎はいかにして日本最初の労働組合組織者となったのかという、まさに本書の中心テーマと関わる問題ですから、もう少し考えてみたいと思います。 房太郎が労働運動に関心を抱いたのは、なにも出稼労働者としての自分たちの労働条件の向上を目指したからではありませんでした。彼がアメリカ労働総同盟の機関誌に送った〈英文通信〉は、労働運動の目的について次のように述べているのです*5。 「私が労働運動の必要性を主張するのは、労働者の状態が哀れで、その環境が彼らに著しく不利だからではありません。また、人道的な感情から主張するわけでもありません。私がそれを主張するのは、この国〔日本〕の繁栄がまさにそれを要求しているからであり、また文明の未来がそれを必要としているからです。なぜなら、労働運動は彼らの状態を改善する一手段であり、労働者状態の改善は彼らの生活様式の向上をもたらし、生活様式の向上は消費を増加し、消費の増加は生産の増加となり、そして生産の増加は国の繁栄の基礎だからです。このように、労働者状態の改善のためのあらゆる努力は、国にとって死活の重要性をもっているのです。」 この発言をはじめ彼の一連の論稿は、一労働者としてではなく、すべて「有識者」の立場から、日本の労働者の組織化の必要性を主張しています。房太郎が第一に考えたのは日本の繁栄であり、そのためには、日本の労働者の賃金水準の引き上げが重要であり、それには労働組合が不可欠だと考えていたのでした。 実は、そのころ在米日本人のなかには、馬場小三郎のように「日本人労働者組合」の結成を提唱する人がおり、現にその計画もすすんでいました*6。しかし、房太郎がその運動に関心を示した様子はありません。さらに言えば、高野房太郎は、その生涯でただの一度たりとも、自分自身を労働者階級の一員だと考えたことはないと思います。彼は、労働者出身の労働運動のリーダーであるゴンパーズに会った時でさえ、自分が一介の出稼労働者であることを恥じ、それを隠そうとしていたのです。この問題は、いずれまた後で触れることになるでしょう。
では、房太郎は何時どこで労働運動のことを知ったのでしょうか? いずれにせよ、マクニールの本を手に入れた1889年以前であることは確かです。遅くとも1888年の秋から冬にかけて、日本雑貨店を経営していた頃にはその存在に気づいていたのではないか、と私は推測しています。その根拠は、終生の親友となり同志ともなった靴工・城常太郎との出会いがあったからです。城は、日本人靴工の新たな職場をアメリカに求め、先遣隊として1888(明治22)年秋、サンフランシスコに渡って来ました。そのころアメリカ太平洋岸、とりわけサンフランシスコで中国人排斥運動の中心勢力だったのは労働組合でした。
なかでも白人靴工労働同盟(The Boot and Shoe Makers' White Labor League)は、靴産業から中国人労働者の排斥を主要目標とする組織で、組合員が製造した靴ににだけ〈ユニオン・ラベル〉を貼り、非組合員製造品のボイコットを呼びかける戦術を採用したことでも知られています。
ところで、城がアメリカでえた最初の仕事は、〈コスモポリタン・ホテル〉の皿洗いでした。房太郎が、このホテルの客引きをしていたことを考えると、この職場を世話したのは房太郎だった可能性が高いと想像されます。二人の間で、白人靴工労働同盟のことが話題にならなかったら不思議です。 もうひとつ、房太郎が労働組合員と直接接触した可能性が高い場所があります。それは、他ならぬポイントアリーナのガルシア製材所です。この地域の製材労働者の間には労働騎士団の支部が組織されていました*8。房太郎が『労働運動──今日の問題』について知ったのは、その労働騎士団のメンバーを介してであったのではないでしょうか。編者のマクニールは一時期労働騎士団の役員でしたし、なによりポイント・アリーナの町は人口わずか500人たらず、とてもこのような専門的な本を置いている店がある場所ではなかったのです。 では、房太郎はなぜ労働運動に関心を抱いたのでしょうか? その理由については、彼がゴンパーズに最初に書き送った手紙の冒頭で、次のように記しています*9。 私は数年前、この国にまいりましたが、到着以来ずっとアメリカの労働者の豊かさに強い印象を受ける一方、それに比べ日本の労働者が社会的・物質的に哀れな状態にあることを思い、帰国した暁には彼らの境遇の改善に努めたいと決心するようになりました。 つまり、房太郎が労働運動に関心をもつようになったきっかけは、アメリカの豊かさだったというわけです。それも、エレベーターやケーブルカーに象徴される機械文明の高さ、あるいはノブヒルに立ち並ぶ大邸宅やパレスホテルでかいま見た大富豪らの桁外れな贅沢な生活であるより、庶民生活の豊かさに房太郎は強い印象を受けたわけです。故国の民衆の生活と、この国のふつうの人びとの生活の間には想像していた以上に大きな違いがありました。なぜこれほどにも違うのか、房太郎は疑問をもったのでしょう。 アメリカ合衆国の政治史をみる度に、私たちは、労働者がこの国の政治に大きな力を及ぼしている事実に気づきます。中国人排斥法は、労働者のこの大きな影響力によって成立しました。この労働者の力によって、民主党の自由貿易主義は破られ、契約労働者の移住も禁止されました。また、共和・民主の二大政党は、この労働者の圧力を受けてそれぞれ党綱領の改正を迫られ、上院もまたこの力を無視し得ず、労働時間制限法案を上程しました。また、連邦の諸州も、州法でさまざまな労働者保護法を設けるにいたっています。 この論稿「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」は、房太郎の労働組合論の原点を考える上で重要ですから、いずれ回をあらためて検討することにしましょう。 【注】*1 1897年12月17日付、高野房太郎よりサミュエル・ゴンパーズ宛書簡。(岩波文庫『明治日本労働通信』64〜65ページ参照)。 *2 George McNeil The Labor Movement:The Problem of Today, Boston and New York, 1887.とりわけ労働騎士団について大きく扱い、巻頭には労働騎士団の創立者スティヴンスの肖像が掲げられ、その歴史や基本政策がテレンス・パウダリーらによって記されています。 *3 Stephen E. Marsland The Birth of the Japanese Labor Movement;Takano Fusataro and the Rodo Kumiai Kiseikai, University Hawaii Press, 1989.なお、筆者による同書の書評も参照。 *4 高野岩三郎がこうした発言をした背景には、房太郎の事績が軽視されていることに反論する意味合いが込められていました。「兄高野房太郎を語る」の冒頭でつぎのように述べているのです。 ただ資本家側に於ける進歩的人物佐久間貞一氏と、労働組合側における片山潜氏に関しては、比較的詳かに伝へられておるが、独り高野房太郎に関しては、甚だしく貧弱であって、其の結果高野の経歴について誤り伝へらるヽ所あり、又は彼の初期労働組合運動に占むる地位が幾分歪曲されておるの感なきでない。例へば犀利なる社会評論家平野義太郎君の如きは、高野を目して低調なる労資協調論者のやうに看倣しておる。私をもって見れば、これは少なくとも高野の生立、少年、青壮年時代の経歴を熟知せざる所に起因すると云へるやうである。 *5 「日本における労働運動」『アメリカン・フェデレイショニスト』第1巻第8号、1894年10月(岩波文庫『明治日本労働通信』88ページ)。強調は引用者による。 *6 『遠征』第4号(1891年8月15日)「在米日本人」、馬場小三郎「在米労働者大会設立の必要」(『遠征』第5号、1891年9月1日所収)、『遠征』第20号(1892年11月15日)「在米日本人労働組合」など参照。もっとも、この組合は農業労働に従事する日本人を組織しようとしたものらしい。
*7 Ira B. Cross A History of the Labor Movement in California, University of California Press, Berkley, Los Angels and London, 1935 *8 Jonathan Garlock. Guide to the local assemblies of the Knights of Labor, Greenwood Press, Westport, Conn. 1982
*9 1894年3月6日付、高野房太郎よりサミュエル・ゴンパーズ宛書簡(岩波文庫『明治日本労働通信』17ページ)。
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