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高野房太郎とその時代 (29)




4. アメリカ時代(7)

破綻の原因

サンフランシスコのチャイナタウン

 実は、破綻の原因については、ほかならぬ房太郎自身が答えを出しています。なんと店を始める前に『読売新聞』に寄稿した「米国桑港通信」のなかで、日本人がアメリカで日本雑貨の販売店を経営することの難しさを強調しているのです*1。本文を読んでいただければ詳しくわかりますが、1世紀以上昔の文章で、あまり読みやすいとは言えないので、その論点をここでまとめておきましょう。
 一連の通信で、彼が指摘しているのは、日本品の販売で、中国人経営の商店がきわめて強い競争力をもっている事実でした。それを端的に示しているのは店の数で、サンフランシスコ市内で日本製品を販売している中国人経営の店70軒に対し、日本人の経営は5軒、白人経営の店3軒であると記しています*2
 当時、アメリカ西部、とくにサンフランシスコなどの都会で差別され迫害されていた中国人の店が、なぜそのような強い競争力を発揮できたのでしょうか? 価格が安く、また品揃えも豊富だからだ、これが房太郎の結論でした。
 売値が安いのは何故かといえば、なによりも仕入れが巧みだからでした。中国人商人は、横浜で、欧米人商人が買い取りを拒否するような〈ペケ物〉=〈傷物〉を積極的に仕入れていました。また売り込み商を通さず、製造業者から直接買い付けることで、仕入れ値を低くおさえ、そのために必要なら、製造業者に前貸しする資本力もありました。さらに、商館の使用人を抱き込んで荷物を横流しさせたり、輸入時に関税を逃れるといった脱法行為さえ辞さなかったといいます。しかも彼らは、アメリカでも本国同様の低い生活水準に耐え、休日でも休まず働いている。これら一連の要因が、中国人経営の店の低価格を可能にしている、これが房太郎の判断でした。

 いったい何故、房太郎はそうした状況を知りながら、あえて日本物産店の経営に乗り出したのでしょうか?
 第一の理由は、彼が育った家庭環境と彼をとりまく時代の影響にあったと、私は考えています。幼くして父を失った房太郎は、母〈ます〉や伯父弥三郎、姉〈きわ〉らによって、高野家の跡継ぎとして育てられてきました。彼らが房太郎に託した願いは、高野家の再興でした。一時期は東京の宿屋番付のトップに位置したこともある長崎屋の再興にありました。房太郎の適性からすれば、弟と同じ学究の道に進んだ方が幸せだったのではないかと、私個人は考えていますが、周囲が房太郎に期待したのは、実業界での成功でした。
 一方、貿易港・横浜で多感な少年時代を過ごした若者たちは、日本経済の成長を支えつつ自らも豊かな生活を享受している貿易商人を目の当たりにし、自分たちの将来像と彼らの姿とを二重写しに思い描いていました。房太郎にとっても、実業界、なかでも日本物産をアメリカで販売する事業での成功をめざすことはごく自然な選択だったと思われます。さらに、明治初年の日本に生きた若者としては、国のために力をつくすことも当然の責務でした。しかも長崎屋の再興と日本経済の発展に貢献することは、両立可能な、というよりほとんど同一の課題だったのです。

 それと同時に、彼があえて困難な道を選んだ背景には、自己の能力に対する過信があったのではないか、と思います。房太郎は、この時まで挫折を知らない人生を送ってきました。学校時代は一貫して優等生でしたし、横浜の若者たちの間でも目立った存在で、彼らの多くが望んでいた渡米も実現させました。また在米日本人の間でも、英語が達者で、アメリカ社会へもスムースに適応できた点で、例外的といってもよい存在でした。他の人には困難な課題でも、自分なら成功しうる、房太郎がそう考えていたとしても不思議ではありません。

 房太郎の決断をささえたもうひとつの条件は、彼が、コスモポリタンホテルの客引きという、割の良い仕事をもっていたことでした*3。コスモポリタンホテルは、前にも見たように、日本人客の誘致に積極的なホテルで、客引きとして英語の出来る日本人を雇っていました。給料は出ませんでしたが、ホテル内に一室を与えられ、食事も保障されていました。一方、仕事は日本からの汽船が入港した時だけでしたから、ごく短時間ですみ、日本物産店との両立も可能でした。生活費の高いサンフランシスコで、住まいと食事の心配をしなくて済むことは、きわめて有利な条件であったことは確かです。

 しかし、結局のところ、中川商会は半年余で行き詰まってしまいました。これは、房太郎が述べているように中国人の店との競争にやぶれたからでしょう。しかし、それだけでなく、もともと彼の経営方針に問題があったことも、また明かです。『読売新聞』への寄稿文を読むと、彼は事前に日本物産の販売がかなりの困難をともなうことを予測し、また中国人経営の商店と価格競争を企てても、勝利する見通しはないとして、次のように述べていました*4。    

 然らば吾人は如何にして此競争者を圧倒し、其商業の盛栄を求むべきか。余は千思万考するも之を圧倒するの方策なきに苦しむなり。余は断念せり。支那商人を圧倒するは、到底我々の為し能はざる所なりと断念せり。此無益なる競争の外に立ち、以て其商業の盛栄を図るの優れることを考定せり。

 そこで、彼が出している結論は、つぎのようなものでした。

 思ふに、現今在留の日本商人、若くは将来来りて業を起さんとするの人が採るべき方策は、唯此無益なる競争を試むることを為さずして、其利益の許るす限り其値を廉にし、内には其基礎を堅固にし、永遠持続の方を計り、外には専ら顧客の信用を収攬し、以て其商業の盛栄を求るより外あらざる也。  当港マーケット街にジョージ、マーシと云へる一洋人あり。数年来日本の商品を売買し来りしが、其設立の当初は種々の妨害に遇ひ、其困難少なからざりしが、遂に之を持続して、今日に至りては其顧客の信用は非常に厚く、其日々の売上高の如きは実に偉大の者にして、日本商人の常に羨望する所の者なり。而して、其売価を問へば、多くは吾々が売捌くよりも二三倍の高きを為せり。然るも、尚此の如く繁栄を為すは、唯一に彼信用なる者が其働きを為すに過ぎざるなり。今や支那人放逐論の気焔は日に益々盛にして、米人中支那人を悪まざる者なき有様なれば、此際日本商人にして巧に其信用を収攬するを得ば、此信用は意外の点に迄其働きを顕し、以て其商業をして盛栄ならしむべきなり。商業家諸君以て如何となす。

 つまり、房太郎らは、中国人商人と価格面で競争するのはやめ、品質の高さで信用を得て、経営の安定をはかろうとしたのです。サンフランシスコの一等地に店を構えたのも、そのためだったと思われます。こうした方策は、彼の見識を示してはいますが、成果をあげるには時間がかかります。少なくとも2年か3年は、経営を維持できなければ無理でしょう。 NAKAGAWA U. & Co にそれだけの資金力がなかったことは明かです。

 中川商会にとっていちばん重荷となったのは、高額の家賃だったと推測されます。市の中心であるユニオン・スクエアに近く、繁華な商店街であるマーケット通りに近い一等地の店舗を借りるには、どうやら月150ドルから200ドルはかかったようです*5。これを支払えるだけの売れ行きがなければ、破綻は時間の問題でした。折しも1880年代末から90年代初めのアメリカは不況で、奢侈品中心の日本雑貨の売れ行きが悪いのは当然でした。不景気にぶつかったのは不運というほかありませんが、そんな時期にあえて開店に踏み切った房太郎らの判断の甘さも否定できません。さらに言えば、資金面で余裕がなく、すこしでも節約できるところは節約すべき開店時に、房太郎は40ドルもかけて洋服を作っています*6。店の信用を高める方策のひとつだったのかも知れませんが、そこには、房太郎のお坊ちゃん的な甘さ、いささか見栄坊的な側面をうかがうことができる、と言っては酷にすぎるでしょうか。

 このような判断の甘さの背景として見落とせないのは、房太郎がそれまで物品販売の体験をもたず、セールスのノウハウを知らなかったことがあります。彼が経験した実務といえば、回漕業だけでした。関税支払いなど輸入の事務処理についての知識はあったでしょうが、商品販売で利益をあげるには、どのような問題があり、いかなる配慮が必要かといった肝心な点についての知識や経験を欠いていました。たしかに綿密な調査の上にたって始めた事業ではありましたが、こうした実際的な知識・経験の欠如が、経営破綻につながったことは否定できません。



【注】

*1 O. F. T.生 「米国桑港通信」第1回(2)の「桑港に於ける日本物品の景況」、および「米国桑港通信」第3回(1)「桑港に於ける支那人の日本商店」の2つで詳論している。前者の執筆日時は1887(明治20)年11月29日、『読売新聞』に掲載されたのは、同年12月24日である。また後者の執筆日時は記されていないが、掲載は1888(明治21)年5月22日付で、中川商会開店の直前に書かれたものと推測される。
 この時に限らず、房太郎はなにか新らしい事業を始める前には、かならず仔細な調査を実施している。その調査の結果は事業の成功につながってはいないが、彼の綿密な性格をうかがうことができる。

*2 なお、Langley's San Francisco directory for the year commencing May1889に収録されている商店で、日本・中国物産を扱うもの(Japanese & Chinese Goods)は12軒である。うち、日系とみられる店舗は中川商会と西村商会の2軒だけで、あとはすべて欧米系の店名である。ただし、Japanese Tree Importing Co. は日系の可能性があるが、この店の取り扱い品目は、雑貨ではなく植木であろう。このなかに中国人経営とみられる店がひとつもないのは中国人排斥運動の影響で、これを無視したものかもしれない。房太郎があげている数値は、日本製品をあつかっている店を実地に調べたもので、より実際に近いと思われる。

*3  Langley's San Francisco directory for the year commencing May1889 p.1257 には次のような記述がある。

TAKANO O. T.(U.NAKAGAWA & Co.) r.100 Fifth

 r.はresidence(住所)の略、100 Fifth(五番街、100番地) は Cosmopolitan Hotel の所在地である。経費のかかるホテル住まいをしていたとは考えられないから、1891年7月17日付の弟・岩三郎宛ての手紙で述べている、同ホテルの客引きの仕事をしていたものと推測して間違いないであろう。同書簡の関連部分をつぎに引用しておこう。

乍去当「コスモポリタン・ホテル」ヘ相勤居候。当家ハ一ヶ月三回日本ヨリ汽船着ノ時波止場ヘ出張当家ヘ来ル客ヲ連レ来ル事ニテ何ノ造作モナキ仕事ニ有之候。食住ハ当ガヒ呉レ候。尤モ無給ニ有之候。

*4 O. F. T.生 「米国桑港通信」第3回(2)参照。

*5 家賃について房太郎は「米国桑港通信」第2回で、つぎのように述べている。

今桑港中屈指の市街なるマーケット街(Market St.)若くはカーネー街(Kearny St.)の最良の場所に於て一の商店を借んとせば、一ヶ月米金百五十弗以上五百弗以下の家賃を払はざるべからず。然るも尚、其空店なきに苦しまずんばあらず。思〔う〕に、日本商品の小売店に適するが如き空店は、一年の月日を費やすも恐らくは見出し難かるべし。今試みにマーケット街の最良の場所にて、尤も〔もっとも〕日本品の小売店に適すべき商店の家賃を記さんに、間口一間半奥行五間余の大さにて、其家賃は百四五十弗、間口四間奥行八間位の大さにて三百二三十弗を要することなり。又他の市街に於て日本品の小売店を開くに最良の場所とは云ふべからざるも(マーケット街の中第四街及び第五街の間 Market St. between 4th and 5th Sts. 及びカーネー街の中マーケット街に近〔き〕場所(Kearny St. near Marketを以て最良の場所とす)、先相当の家を借るには六十弗以上百五十弗以下の家賃を要すべし。去り乍ら、一ヶ月百弗の家賃を支払ふ覚悟なれば、随分立派なる商店を借ることを得べし。

*6 前回引用した、今西書簡参照。





Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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