二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(三三)

「材木伐出場」起業計画

高野房太郎から高野岩三郎宛て1890年10月9日付書簡の冒頭部分、高野岩三郎殿、十月九日、在桑港 房太郎拝 前略然者小生義ハ去ル九月三十日「タコマ」表出立仕リ、去ル三日当地ヘ着致候。定メテ妙ナ運動ト思所モ有之候ハンガ、実ハ明年末ニハ御地ヘ一寸帰朝致シ、先般来心掛居候材木伐出場設立ノ義ニ付充分取調致度、極々熟考ノ末「タコマ」ヲ去リテ当地ヘ来リタル義ニ御座候。是迄小生ノ友人ノ内ニテ、内地ヘ帰朝シタル者ニテ、一人ニテモ御地ニテ是ゾト申ス事業ヲ致シ居ル者ハ、無之様ニ思ハレ候

 一八九〇年九月末、房太郎はタコマを離れました。九月三〇日に出発し、一〇月三日に目的地のサンフランシスコへ到着しています。鉄道を使えばニューヨーク・サンフランシスコ間の五六〇〇キロでさえ五日半で着いた時代に*1、同じ太平洋沿岸の都市間一二〇〇キロ余の旅に、三日をかけています。あちこち途中下車でもしながら、列車の旅を楽しんだものでしょうか。もっとも、タコマ・サンフランシスコ間は、東京と北海道北端の稚内間とほぼ等距離ですから、足の遅い船便を利用したとすれば、このくらいはかかったのかもしれません。

 それにしても、房太郎はいったい何を考えて、サンフランシスコに舞い戻ったのでしょうか? ブームに沸く町タコマの目抜き通りにレストランをオープンし、経営も順調だったのに、開業後三ヵ月も経たないうちにやめてしまうとは、ちょっと理解しがたい行動です。
 何故こうした動きをしたのか、実は、房太郎自身が弟への手紙で詳しく説明しています。これまでいつも史料の乏しさを嘆いて来たのですが、この時期については多少事情が異なります。一八九〇(明治二三)年八月から一八九二(明治二五)年九月にかけて二年余の間に弟に宛てて書いた手紙や葉書が二六通残っているのです*2。平均するとほぼ月一通になります。肉親に宛てた私信であるだけに、なかにはその心のうちを率直に述べた、いわばその肉声が聞こえてくるものも含まれています。房太郎の文章は一般に自分を抑えた、どちらかというとやや無味乾燥なところがあるのですが、この書簡群はその例外と言ってよいでしょう。この時期については、これまでのような周辺記録をもとに推測をまじえた足跡の探索ではなく、かなり詳細な史実が判明します。それも、何処で何をしていたといった表面的な事実にとどまらず、房太郎が自らのおかれている状況をどのように考えていたのか、また将来にどのような希望をもっていたのか、などについても知ることが出来るのです。ですから、この機会に房太郎書簡をなるべく詳しく紹介しておきたいと考えます。ただ、いずれも古風な候文なので、いささか難解であることは否めません。そこで、ここでは読みやすさを優先し、現代語訳を使うことにします。その代わり、原文を忠実に翻字したテキストを別ファイルにして掲載しますので、そちらもぜひご参照ください。
  それではまず、サンフランシスコへの移住を伝えた一〇月九日付書簡の全文を見てみましょう。

 高野岩三郎 殿

                  在サンフランシスコ
  十月九日               房太郎拝

  前略 さて小生は去る九月三〇日にタコマを出発し、三日にここサンフランシスコに到着しました。さぞかし、おかしな行動をとるものだとお考えになることでしょうが、実は来年暮に日本に一時帰国し、かねてから考えている「材木伐出場」設立に関して詳しい調査をしたいと思い、いろいろ熟慮の上でタコマを離れ、こちらに来た次第です。
  これまで日本に帰った小生の友人のなかで、これはと思う事業を営んでいる者は一人としていないようです。なぜ、みな日本に帰ると、あのように為すところなく過ごすのだろうと、その理由をいつも考えているのですが、とくにこれという原因は思い当たりません。日本における事業の成り立ちが、帰朝者の創業を困難にしている原因のひとつかも知れないと思います。だとすれば、小生が来年帰国したとしても、やはり同様な困難に出逢い、目的を達成できないおそれなしとしません。そこで、そうした際の準備として、アメリカにいる間に、いくらかでも学問をしておく必要があるのではないか、と考えた次第です。もちろん、小生は高度に専門的な科学を学ぼうとしているわけではありません。ただ、日本に帰った時に、「あの人はアメリカ帰りなのに、外国人と話も出来ない」などと言われないよう、普通の学問をしておきたいのです。そのために役にたつ学校はタコマにはないので、サンフランシスコに来た次第です。勤め口が見つかればすぐ、サンフランシスコ商業学校(無月謝です)に通学するつもりです。この学校に四、五ヵ月も通学すれば英会話などは大いに熟達し、どこへ行こうと談話に差し支えないようになると考えています。
  タコマからここに来た時に、諸雑費を引いた上で二五ドルほど残しています。これに毎月「スクール・ボーイ」をして貰う給料を足して、これから学校へ通う間に、そちらへの仕送りに当てるつもりです。もし、この考え通りに行かず、この準備金がなくなってしまった時は、学校をやめるつもりです。
  今のところ通学するのは四、五ヵ月間と思っています。ことによると二、三ヵ月でやめざるをえない場合もありえますが、今はそうならないことを祈るだけです。
  われわれが働ける仕事のなかでは料理人が最も多額の給料が得られる職業ですが、小生は料理が不得意なので、これまで料理人の仕事をしたことはありません。そこで「スクール・ボーイ」として働くこの機会を利用し、アメリカ料理について勉強し、給料を多く稼げるよう心掛けるつもりです。まだ働き先も見つかっていませんから、詳しいことは申し述べられませんので、以上、当地に来た理由についてだけ簡単にお知らせしておきます。早々
 なお手紙はつぎの住所に宛てて送ってください。
    サンフランシスコ市 五番街一〇〇番地
    コスモポリタン・ホテル気付
    O. F. タカノ


【上掲書簡の原文テキスト】【同原文画像データ】

 要するに、房太郎がサンフランシスコに戻ったのは、商業学校で英語を本格的に勉強するためでした。その動機が、帰国して事業に失敗した時に「彼はアメリカ帰りなのに、外国人と話もできない」と批判されないようにと言うのは、ずいぶん先の先まで考えて行動するものだと思う一方で、いささか世間の目を気にしすぎている印象も否めません。いずれお話しする他のエピソードからも推測できるのですが、房太郎はどうも、かなりの〈見栄っ張り〉だったようです。もっとも、何にもまして名を惜しむのは〈日本男子〉の一般的な傾向でしたが。

 この手紙は故郷の家族・親族を驚愕させたものと思われます。それは、彼が商業学校へ入ろうとしているからだけでなく、日本で「材木伐出場」の創業を計画していることを知ったからでした。日本物産店の経営に失敗し、借金までこしらえて間もないのに、今度はもっと多額の資金を必要とする大きな計画をたてていることに、岩三郎や義兄の井山憲太郎は、ショックを受けたのでした。
  この頃、東京の高野家の家計は逼迫していました*3。房太郎が日本物産店の事業で資産を使い果たした上に、岩三郎が第一高等中学校へ通うための諸費用も必要だったからです。マスが営んでいた学生下宿の収入では、学費まではとてもまかない切れませんでした。房太郎からの月一〇ドルの仕送りが高野家の家計の大きな支えだったのです。
 その房太郎が、高収入が得られていたレストラン・ビジネスを離れ、学校に通うなどと言い出したことも、もちろん不安を感じた一因だったに違いありません。それに、ポイント・アリーナ、シアトル、タコマそしてまたサンフランシスコと、短期間であちこち動き回り、いっこうに腰が落ち着かないことも気になったのでしょう。

 それはそうと、房太郎は何故こうした、すぐには実現不可能であることが明らかな計画をたてたのでしょうか。しかも、この房太郎の起業計画、日本で「材木伐出場」*4を設立するプランは、けっして一時の思いつきではなく、熟慮を重ねた末にたてた大真面目なものでした。その本気のほどを示しているのが、つぎに掲げる一八九〇年一一月一一日付の手紙です。

 岩三郎 殿
  一一月一一日夜
            在サンフランシスコ  房太郎

  前略ごめん下さい。その後なぜかタコマから手紙が回送されて来ませんので、貴弟の手紙もまだ入手できておらず、御地の様子もいっこうに分かりません。しかし、別にお変わりなくお過ごしのことと存じます。小生も無事に働いておりますのでご安心ください。さて、お忙しいところを恐縮ですが、次のことを調べてくださいませんか。実は、小生、先頃から日本に帰国して材木伐出場を設立したいと考えており、最近はもっぱら設立に必要な機械の価格などを調べております。もちろんアメリカにいては、はっきりした計画をたてることも出来ませんので、いろいろ考えた末、必要な旅費が出来たなら、まず日本に帰り全国各地を巡ってこの計画の実現性を確かめ、もし出来れば会社を起し、もしそれが無理なら、十分にこの計画について確かめた上でアメリカへ引き返し、必要な資金を得る手段を検討しようと決めています。そのためにも学校で学ぶ必要を感じ、また日本人の仕事のなかでは最も多額の収入を得ることができる料理人の仕事を身につける必要があると考え、タコマを去って勉強する便宜のあるここに来ました。そして在米四年間に一度も考えたこともなかったこの地における学校に入学する決心をし、同時に料理の勉強もし、来年五月か六月には学校をやめてどこかで働き、帰国後に先の計画についての調査に必要な金額を蓄え始めるつもりです。以上のような次第ですので、小生が貴弟にお願いしたいことはたいへん広汎で、簡単には分からない点もあろうかと思いますが、できる限りお調らべくださり、すぐご返事願います。もっとも第一から第四までは統計年鑑などで調べれば分かるものではないかと思います。もし最近発行の統計年鑑などを図書館で借りてお調べいただければ幸いです。あるいは、その他にもいろいろ調べたいことがありますので統計年鑑一部を買い求めてお送り下さればさらに好都合です。代金は次の便で仕送りといっしょに送ります。
 第一 日本における官有山林地の所在、その広さ及び価格
 第二 同じく日本における民有山林地のうち、伐木に適する山林の所在地及びその価格
 第三 同じく日本における一年間の材木需要高およびその平均価格
 第四 同伐木者の平均給料
 第五 東京から山陰・山陽道を経て九州に渡り、さらに四国に行き、そこから東京に引き返し、ふたたび関東各地を巡り歩くのに必要な旅費はどれほどになるか。ただし旅行先はもっぱら山林の所在地で、旅行中はできる限り出費を省き節約につとめる
  そちらからのお便りが届けば、それにお答えすべきこともあると思いますが、まだ入手していないので、とりあえずはお願いだけにとどめます。
【上掲書簡の原文テキスト】

 この手紙と入れ違いに、岩三郎は「材木伐出場」計画への疑問や批判を記した手紙を書き送って来ました。これを読んだ房太郎は、一二月一六日夜、いささか興奮して、これに反論する長文の手紙を書いて、弟の理解を求めています。この手紙は、普段はあまり自分の気持ちを素直に表に出す文章を書くことがなかった房太郎が、その内面をさらけ出し、率直にその心情を告白したものです。房太郎が書いたさまざまな文書のなかでも、人間高野房太郎を理解する上の貴重な史料ですから、やや長文ですが、ぜひ全文を紹介しておこうと思います。

    岩三郎殿     房太郎拝
 一二月一六日夜
  一一月二一日付のお手紙、正に入手いたしました。いよいよ引っ越されるとのこと、何かにつけてご不自由とは思いますが、致し方のない事情ですから、しばらくご辛抱ください*5
  さて、小生の帰国の件につき、いろいろご意見をたまわり、まことに有難うございました。大いに参考になりました。アメリカからの帰国者が失敗する原因についてのご意見は、おそらくそうに違いないと推察いたします。しかしながら、ご意見は参考にはなったものの、いまだ小生の見解を左右するものではありません。先に井山憲太郎氏に転送方をお願いした手紙のなかで、小生の帰国理由および帰国の際の条件などについて書きましたから、おそらく貴弟もお読みになっていると思います。とすれば、小生は、貴弟が憂慮しておられるところに関しても、すでに充分考えていることも、ご承知いただいていると存じます。
  もともと小生が計画している事業は、少なくみても資本金が一万円は必要であると思われます。とうぜん微力な小生にとって、実現困難な事業であることは明らかです。ただ小生の見聞の範囲では──カリフォルニアとワシントン州に限られていますが──本事業が有望であることを確信しています。そこで、容易に手の届かない事業であることは承知の上で、成功の見込みも皆無ではないと考え、帰国しようと考えているのです。
 前回の便りでも書きましたが、小生の計画は日本に帰って現地を実地に探査した上でなくては、はっきりした見込みはたちません。ですから、小生は自分の考えておるところが簡単に、またかならず成功すると自惚れているわけではないのです。
  小生の考えを率直に申すならば、日本に帰国し事業を起こそうとして成功しないことと、アメリカにとどまってただ年数だけ過ぎて行くことの間には、利害得失の差に違いはないと思います。もともと、日本人は渡米者に過大な期待をかけすぎています。もし日本の人びとが渡米者に対して、ちょうど田舎の人が東京へ出た程度に見てくれたら、渡米者の状況は今日のように惨憺たるものにはならなかったでしょう。日本の人びとが、渡米者に過大な期待をかけているので、渡米者はなかなか帰国できず、いたずらに異国で歳月をかさねることとなっています。そのため、本国の事情にはますますうとくなり、滞在している土地では、その起業心を満足させるような状況が存在しないので、とどのつまりは何もせずに、年数ばかりが経つという結果に終わっています。「日本に帰ることもならず、アメリカに留まっても事業を起こす見込みはない、ああ、いったいどうしたら良いのか」とは、この国に五、六年滞在した人びとがよく口にする言葉であろうと思います。
  帰国した人びとは、こうした気持ちに追いつめられて帰ったもので、帰国後、なかなか華々しい活動をすることができずにいるのは、それほど不思議なことではありません。小生はむしろ、これらの人びとが、一時の恥をしのんで帰国したことを上出来だと考えます。彼らがこの国で見聞したところが、将来、役に立つこともありうるでしょう。この見聞が役に立つのは、日本においてだからであって、異国においてはほとんど役には立たないものです。ですから、これらの人びとがこの国に留まって無為に歳月を過ごすより、帰国してその経験を生かす方が有意義でしょう。かりに帰国して何事もなしえずに終わったとしても、それほど残念ということでもないでしょう。なぜなら、この国に留まったとしても、何事かをなす望みがあるわけではありませんから。ですから、もし彼らが首尾よくなにか事業を発見し、日本国内において成功したなら、それは上出来であり、うまいことをした者というべきでしょう。同じならば、上出来なこと、うまいことを日本本国で見出すことが上策というべきでしょう。要するに、小生は帰朝者にあまり大きな期待を抱いてはいないのです。日本にいる人びとも同様に、渡米者に過大な期待を抱かないよう希望します。
  小生が、なぜこのように偏屈な意見を吐くのかと、お疑いになるに違いありません。そこでひとこと言わせてください。もともと日本人がアメリカで何か事業を起こそうとするのは大間違いです。その間違いの程度は、帰国者が日本で事業に失敗するより大きなものです。ためしに、これまで日本人がアメリカで事業を始めた結果を見てごらんなさい。ひとつとして成果をあげたものがありません。この国に一〇年、二〇年も滞在している人でも、事業に成功していません。日本の資産家がこの国に来て事業を始めても失敗するのが常です。いったい何故でしょうか。一〇年、二〇年もこの国にいる人が失敗するのですから、アメリカの事情に暗いことが原因ではないでしょう。また日本の資産家が失敗するところを見ると、資本が不足しているからでもないと思われます。では、在米日本人がしばしば言うように、アメリカ人が日本人を中国人と同一視して、これを排斥するからでしょうか。決してそうではありません。
  小生の見るところでは、その原因はもっと絶望的なものです。それは、日本人とアメリカ人の国民性の違いです。日本人が事業を始めると、常に、その国民性である廉恥心義侠心がその施策の上に現れて来ます。事業計画が大まかで、またスケールが小さいのも日本人の起業の特徴です。これをアメリカ人の起業と比較してみれば、その違いは歴然としています。このような国民性をもつ日本人がこの国に来て、この国の激しい競争に立ち向かうのは困難というよりむしろ不可能と言うべきでしょう。ユダヤ人や中国人は、アメリカ人によって非常な排斥を受けています。排斥の度合いは日本人に対するものより、はるかに大きなものがあります。しかし、ユダヤ人や中国人は、みなよく起業に成功しています。事業上で発揮される国民性が、彼らとアメリカ人との間にまったく同一でなければ、このような成果をあげることは不可能でしょう。ですから、もし日本人でもしこの国で事業を起こそうとするなら、この国の国民性を身につける必要があります。これを身につけるには、この国の人びとと広く交際し、もともとの日本人としての国民性を淘汰するように心掛けなければなりません。日本人としての特質を淘汰することが出来れば、起業でも成功する望みがあります。
  以上は、小生が、この頃考えるようになったことで、もし日本に帰って事業を起こす望みがないとすれば、もう一度アメリカに戻って、その国民性を身につけ、その上でこの国において起業しようかとも考えています。
  ご意見のなかにあった、小生が帰国する際に必要な金については、もちろん準備いたします。なお、学校への入学が遅れたので、来年帰国することはどうも難しいだろうと考えております。
  学校も来月四日か五日には始まります。それまでに、今働いているこの家を去り、入学手続きなどをとるつもりです。
  養鶏のことは大賛成です。タコマにいたときに、ある友人の体験を聞き、面白い事業だと感じたことがあります。
  図面機械目録は手に入り次第送ります。日記帳は、次の便で送金する際にいっしょに送ります。面白い小説を一、二冊持っております。お届けする手だてもありませんが、ことによれば次の便でお送りしましょう。ウエブスター辞書が昨年限りで著作権が切れたため、その後続々と出版されています。代金は四ドルと記憶します。サンフランシスコ・クロニクル社では、その週刊紙の二〇年分と辞書一部を抱き合わせ四ドル五〇セントで販売していますが、そういう廉価版は文字などに違いはないのですが、紙質がひどく悪いとのことです。
  この国では自動器械と称して、いろいろな品物を番人なしで販売する器械があります。そのなかでもペンを小さい箱に入れ、これを器械に入れて柱などに掛けておき、ペンが欲しい人は五セントを機械のなかに入れると、その価のペンが自然に出てくるものがあります。もうひとつは大きな器械で、五セントを投入すると体重、体長、肺活量、筋力などが分かるものがあります。前者は安い器械ですが、後者は五〇ドルもするようです。どちらも日本の銅貨を使えるように製造することが出来るとのことです。こういう器械がすでに日本に輸入されているでしょうか、お伺いいたします。前者は貴弟の通学する学校に備え、後者は上野や新橋などの駅に備えておけば、大いに利益が上がるのではないかと思います。貴弟のお考えはいかがでしょう。
  以上、とりあえず申し上げました。早々。
【上掲書簡の原文テキスト】

   この思い詰めた口調の手紙から読みとれる事実はいくつもありますが、私が第一に注目するのは、房太郎が依然として実業界における成功を、彼の人生の最大目標においていることです。これまでの高野房太郎研究は、彼が日本労働組合運動の創始者となったという結果から出発し、その在米体験も、労働運動との関りだけで考える傾向があります。たしかに、房太郎はすでに労働組合の重要な役割を認識し、アメリカの労働運動を紹介する長大な論稿を『読売新聞』に寄稿しています。また、半年あまり後には職工義友会創立の中心となっています。しかし、この時点でかれが追い求めていたのは、起業家として、実業界で飛躍することだったのです。
  第二に注目されるのは、アメリカ滞在者にとって、故国の人びとから寄せられる過大な期待が精神的重圧となり、そのため帰国を望みながら帰ることが出来ないでいる人を生み出していると論じている点です。また、日本人がアメリカで事業を起すことが困難であることを指摘すると同時に、日本でも在米体験を生かして成功した例がないことを強調しています。「日本に帰ることもならず、アメリカに留まっても事業を起こす見込みはない、ああ、いったいどうしたら良いのか」とは、おそらく房太郎も、時には口にした言葉だったのでしょう。
  とはいえ、彼はまだ二二歳になる寸前という若さでしたし、生来ものごとをあまり悲観的に見る性質ではありませんでした。どうすれば起業家として成功できるのか、その方策を懸命に思いめぐらしていたのでした。
  ここで彼はその打開策をたてる前提として、日本人がアメリカのおいて起業に成功しない原因を、きわめて論理的に追究しています*6。在米経験の長い日本人、あるいは日本の資産家による起業の失敗を例にあげ、これと日本人以上に人種差別による迫害を受けているユダヤ人や中国人の起業の成功と比べ、失敗の原因を追究しています。そこで発見したのが、国民性の違いでした。具体的には、日本人は事業経営にあたって廉恥心、義侠心といった日本人独特の価値観にとらわれ、それが事業経営の妨げになっていることでした。アメリカで起業するには、日本人であることをやめ、アメリカ人にならねばならない、とまで論じています。
  もうひとつ彼が批判している日本人の起業計画の問題点は、その計画が大まかであり、スケールが小さいことでした。房太郎が、どんなに少なく見積もっても一万円は必要とする、彼の力に余る大きな計画を立て、その準備のために日本の山林地帯をすべて見て回るという徹底した調査旅行を計画していた背景には、こうした考えがあったのでした。



【注】


*1 旅行案内書として有名なベデカーのアメリカ版第1冊〔一八九三年版〕復刻(Beadeker's United States 1893,An unabridged reproduction of the first American Beadeker published in Leipzig and New York in 1893. 1971, Da Capo Press, Inc. New York.) p.xxxiii。

*2 渡米直後の一八八七年に書いた一通をふくめ、計二七通の高野房太郎より岩三郎に宛てた手紙は、兄の伝記を書く望みをもっていた高野岩三郎が、ほかの史料とともに保管していたものである。岩三郎の没後は、房太郎長女原田美代氏および岩三郎長男高野一郎氏のもとに受け継がれ、その後『高野岩三郎伝』を執筆された大島清氏によって発掘され、三十数年も前に法政大学大原社会問題研究所『資料室報』に紹介された〔大島清「労働組合運動の創始者・高野房太郎」(一)(二)(三)、法政大学大原社会問題研究所『資料室報』No.一〇六(一九六五年一月)、No.一二四(一九六六年一〇月)、No.一三九(一九六八年四月)〕。もともと発行部数の少ない雑誌だったこともあり、今日まであまり利用されていない。たとえば、世界最初の高野房太郎の伝記であるスティーヴン・マーズランドの本も、この史料の存在を知らず、まったく利用していない。また『資料室報』はタイプ印刷であったこともあり、やや誤植が多い。
 そこで、本著作集では、オリジナルの手紙からおこしたものを「高野房太郎から岩三郎宛書簡」として掲載している。

*3 高野家の家計が窮迫していたことについては、井山憲太郎の日記『白雲深処草堂日誌』一八八八(明治二一)年三月一七日の項に「此夜東京ヨリノ来信ヲ見ルニ財政困難ノ向キヲ報ズ。実ニ読ムニ忍ビザ〔ル〕悲惨ノ情アリ」と記されていること、さらに一八九一年七月一七日付房太郎より岩三郎宛て書簡に、「次便着迄浪花町肴やヘノ月払金払込方御見合置被下度事ニ候。友人ヨリノ借金等ニテ多分間ニ合フベクトハ思候得共」とあることなどから伺える。

*4 房太郎が思い描いていた「材木伐出場」が、具体的にはどのような内容のものだったのか、一連の手紙でも明瞭ではない。「伐り出し」という言葉からは、木を伐採して製材所まで運ぶ「林業」が思い浮かぶが、「最近はもっぱら設立に必要な機械の価格などを調べております」という言葉から推測すると、彼が企画していたのは機械製材だったと思われる。伐木は、アメリカでも当時はまだ完全に手作業であったのに対し、製材工程は全面的に動力機械が採用されていた。おそらく房太郎がその計画のモデルとしたのは、彼自身が実際に体験したガルシア・ソーミルではなかったろうか。北カリフォルニアからオレゴン、ワシントン州では製材工場が集中し、とりわけワシントン州では州内最大の産業であった。そこでの体験、見聞が、房太郎に「材木伐出場」設立計画を着想させたことは明らかである。

*5 高野家は、この時、東京市本郷区東片町一三六番地より、本郷区駒込千駄木林町五三番地に移転している。おそらく財政困難のため、持ち家を処分して他に移ったか、あるいは家賃のより安い家に移ったものであろう。

*6 これは、改めて論ずる必要がある問題だが、私は房太郎が高野家の戸主で、長崎屋再興という責務を負わず、もし仮に弟岩三郎のように学問の世界への道を歩んでいたたなら、かなりの成果をあげえた人物ではなかろうかと考えている。それは、彼がすぐれた語学力に加え、このようにものごとを論理的に追究す資質をもっていたからである。



『高野房太郎とその時代』既刊分目次  続き(三四)

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