高野房太郎とその時代 (59)6. 労働運動家時代後援者・佐久間貞一すでに紹介した『高野房太郎日記』の抜き書きを、もう一度見ることから始めましょう。1897(明治30)年3月、高野房太郎と佐久間貞一の出会いに関わる箇所です。主要部分はほとんど重複していますが、読みやすさ分かりやすさを優先させることにします。 3月6日(土) 房太郎と佐久間貞一との最初の顔合わせは、1897(明治30)年3月6日、学士会事務所で開かれた社会政策学会の席上でした。この日は、岩三郎の指導教授・金井延とも初対面だったと思われます。しかし、金井延については会合に出席していた事実を記しただけでしたが、佐久間貞一に関しては「佐久間君ノ労働ノ談甚タ面白カリシ」と、例によってごく短い文章ながら、好感をいだいた様子がうかがえます。 3月14日(日)
一方、佐久間貞一の側でも、房太郎の見識を高く評価したようです。2度目の出会いから10日後に、今度は佐久間から房太郎に宛てた手紙が届きました。佐久間が会長をつとめる東京工業協会総会の席上で講演するようにとの依頼でした。房太郎は喜んで、直ちに承諾の旨を書き送っています。
1897年4月15日
この手紙は、職工義友会を再建した人びとのことや、「職工諸君に寄す」の執筆者のこと、講演会を開くための経費をはじめ運動の財政面のことなど、これまで詳しい事実が知られていなかった問題について、注目すべき情報を提供しています。しかし、今はそのひとつひとつについて触れている余裕はないので、次回以降にまわしたいと思います。ここでは、4月6日の会合の性格が日記と手紙とでは大きく食い違っている点を、検討するにとどめます。 もっとも、この日の会場で、日本史上初めて、労働者に対し労働組合の結成を呼びかけた文書『職工諸君に寄す』が配布されたことは確かな事実だと思われます。その意味で、この「東京工業協会総会」が、日本労働運動史の上で記念すべき会合となったことは明らかです。左の写真は、会場となった貸席・錦輝館の模様です。舞台の直前は平土間、後ろは椅子席になっています。この絵は(明治30)年3月6日、つまり房太郎が講演したちょうど1ヵ月前に、錦輝館でナイアガラの滝などを撮影した映画、当時の言葉で言えば「活動写真」を上映した様子を描いたものです*2。演説会の場合は、もちろん舞台の上に演壇を置いたに違いありません。 東京工業協会は、東京府下の工業関係の同業組合を結集した連合体でした。1891(明治24)年に、当時、東京商業会議所議員、同工業部長だった佐久間貞一の提唱によって結成された団体です。工業関係の同業組合といっても、その頃のことですから、半数近い11組合は大工、左官、石工など建築関係職人の組合、他は鋳物、鍛冶、諸車製造、印刷、製本等で、全体で26組合が参加していました*3。同業組合、しかもその上部団体ともいうべき連合体ですから、その総会に出席した人びとは、主として経営者、あるいはそれに近い人びとだったと推測されます。もちろん、経営者とはいっても、親方職人や町工場の経営者ですから、自らも労働に従事する人びとであり、労働者に近い立場の人びとが少なくなかったと思われます。また、設立の中心人物だった佐久間貞一が、この団体の目的として〈労働者保護〉を強調し、職工の地位向上を主張していました*4から、労働組合の結成を呼びかける文書を配布したり、アメリカの労働組合運動の現状について説くことが、場違いに感ぜられることはなかったでしょう。しかし、この会合に集まった人びとが「労働者が多数を占める聴衆」であったとみるのは、やや無理があるように思われます。 このように、最初の出会いからすぐに、佐久間貞一は高野房太郎とその運動にとって有力な後援者の一人となりました。確かなことは分かりませんが、『職工諸君に寄す』は、佐久間の秀英舎が無償で印刷してくれたもののようです*5。そのような財政的な支援だけでなく、警察や役所との折衝が必要になった時、房太郎らはもっぱら佐久間に頼っています。佐久間貞一は秀英舎、大日本図書会社、東京板紙会社など有力企業の経営者であると同時に、東京市会議員、東京商業会議所議員など、その社会的地位からしてもっとも頼りになる人物だったのです*6。 【注】*1 この手紙は『アメリカン・フェデレイショニスト』第4巻第4号、1897年6月号に掲載された。ただし、佐久間貞一について「東京の大印刷会社の社主で」と説明した箇所は、『アメリカン・フェデレイショニスト』誌では削除されている。 *2 『風俗画報』第138号、1897(明治30)年4月10日、東陽堂。 *3 東京工業協会については、その発起総会における佐久間の演説を記した「東京工業協会の設立にあたって」(矢作勝美編『佐久間貞一全集』所収)および、編者の矢作勝美による解説参照。なお参加した組合の職種別はつぎの通りである。大工、左官、石工、家根、建具、木具指物、経師、畳、ペンキ、瓦、煉瓦、鋳物、鍛冶、諸車製造、活版印刷、製本、木版、彫師、染物、足袋、菓子、塗師、煙草、造靴、皮、形付。 *4 東京工業協会の発起総会において、佐久間貞一は冒頭つぎのようにのべている。 諸君、現時職工の地位たるや誠に低し、之を高め併せて工業社会の利益と進歩とを謀ることは、我々職業者の社会に対する義務なるべし。今我が国職工社会の現状を見るに、教育なく道徳なく実に憫れむべき有様なり。之を今日に改良せざれば、職工其の人々の生活弥よ退却して、終には糊口だも出来ざるに至るべし。然る時は欧米に見る所の社会党、共産党の如きもの我が国に現出する火を観るよりも明らかなり。〔後略〕 矢作勝美編『佐久間貞一全集』66ページ。 *5 日記には、『職工諸君に寄す』の製本代と見られる支出金の記載はあるが、印刷代についてはなんら記録がない。 *6 労働組合運動をすすめる際に、もっとも大きな妨げとなったのは、警察による干渉でした。そうした際に、房太郎がどれほど佐久間を頼りにしていたのかは、次に掲げるゴンパーズ宛て1897年9月3日付書簡が示しています。 7月31日、私が『フェデレイショニスト』を入手したその日の夕刻、市内の牛込で集会が開かれました。この機会を利用して、私は400人の機械工からなる聴衆にこのアピールを読んで聞かせ、早急に機械工組合を結成して、アメリカを代表する労働運動の指導者たちの後に続くようにと、彼らに勧めました。この集会の結果、労働組合期成会は80人の機械工を会員に獲得しました。 そのほか、翌1898年春に期成会の「大運動会」が警察の禁止命令を受けた際には、房太郎は直ちに佐久間貞一に知らせ、佐久間は警視庁を訪問して、命令撤回を働きかけてくれたのでした。この問題については、またあらためて触れることになるでしょう。 |
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