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高野房太郎とその時代 (60)




6. 労働運動家時代

「職工諸君に寄す」

片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』、労働新聞社、1901(明治34)年刊行。この本のおかげで「職工諸君に寄す」の内容が後世に残った。

 『職工諸君に寄す』は、日本国内で最初に労働者に向けて労働組合の結成を直接呼びかけた、記念碑的な文書です。しかし、残念ながら、未だにその現物は見つかっていません。今後発見される可能性も低いでしょう。現物がないので、どのような文書だったのか確実なことは不明です。しかし、前回紹介した房太郎のゴンパーズ宛書簡に次のように記されていますから、パンフレットであったこと、その執筆者が高野房太郎であったことは、まず間違いのないところです。

 〔4月6日の〕集会の際、私が書いたパンフレットを配布しましたが、そこには組織的活動の利益と組合結成の計画、および合衆国で普及している共済制度について詳しく述べています。これは日本で公刊されたこの種の文書の最初のものですから、その一冊を同封いたします。

 さらに言えば、房太郎は『日記』に『職工諸君に寄す』の出版届けを出したこと、製本代を支出したことを記しています*1。これも、『職工諸君に寄す』が房太郎自身の執筆によるものであること、また冊子体であったことを裏付けています。
  実は、このパンフレットの形状も推測可能です。と言うのは、労働組合期成会・代表高野房太郎の名で発行された『工場法案に対する意見書』が、国会図書館に残されているからです。発行日は1898(明治31)年11月3日、菊判で本文16ページの小冊子です*2。文章の長さも大きな違いはありませんし、どちらも秀英舎で印刷されています。『職工諸君に寄す』もこれと同じ体裁だったと見てよいでしょう。つまり表紙は白無地、中央に「職工諸君に寄す」と記され、左下に「職工義友会」と、2行に分けて記されていたと推測されます。奥付けには、編輯兼発行者として職工義友会、印刷所として株式会社秀英舎の名が記されていたに違いありません。問題は職工義友会の代表者ですが、おそらくその住居に職工義友会事務所が置かれていた城常太郎だったのではないかと思います*3

 現物は残っていませんが、幸いその内容は分かっています。全文 ─ ただし本文だけです ─ が、片山潜・西川光二郎著『日本の労働運動』に引用されているからです。5450字と、宣伝文書としては異例の長さである上に、けっして読みやすい文章ではありません。原文は別ファイルで見ていただくことにして*4、ここでは大筋を紹介するにとどめましょう。もっとも、高野房太郎一世一代の文章ですから、大筋とはいえ、なるべくその全容が分かるようにしたいと思います。引用抜きで雰囲気を伝えることは出来ませんので、全体としてかなり重苦しくなりますが、ご容赦ください。
  冒頭は、次のような文章で始まっています。

 来る明治三十二年は実に日本内地開放の時期なり。外国の資本家が、低廉なるわが賃銀と怜悧れいりなるわが労働者とを利用して、巨万の利を博せんとてわが内地に入り来るの時なり。されば性行風俗習慣の相異なるのみならず、かねては労働者を苛遇かぐうするとの評ある彼等外国の資本家は、今より三年ならずして、まさに諸君の雇主たらんとす。

 ここで論じられているのは、いわゆる「内地雑居問題」です。「内地雑居」とは、それまで開港場周辺の〈居留地〉内に限られていた外国人の居住を、日本中どこにでも住めるよう改めることでした。領事裁判廃止などの「不平等条約改正」とともに、外国人の居住、移動、営業に対する制限が撤廃されることが決まっていたのです。外国の資本家が、日本各地で自由に営業できるようになること、さらには低賃金の中国人が多数入国し、日本人労働者の競争相手が増えることを予想し、強い危機感をいだいた人が少なくありませんでした。横山源之助が『内地雑居後の日本』と題する本を書いているように、多くの日本人が「内地雑居」に不安を抱いていたのでした*5

 つぎに強調されているのは、労働者の生活がいかに不安定なものであるか、でした。労働災害や老衰で働けなくなればすぐ生活出来なくなり、本人が死亡でもすれば残された家族はたちまちその日の暮らしに困ることが指摘されています。さらに房太郎は、工場の機械化にともない家族生活の破壊が進行している事実に目を向け、妻や幼い子供たちまでもが工場労働に従事するように変化しつつある傾向について、つぎのように論じています。

 さは云へ、これを思へば、家を守るべき妻、学校にあるべき小児が工場に働くとは誠に不自然きわまりたる次第にて、更にそのもとを尋ねて、賃銀の安きため男一人の腕にては妻子を養ふことを得ざるに依ることを思へば、誠に一大恨事のきわみなりと云はざるべからず。これを思へば、いやしくも夫たりその妻に安易なる生活を与へざるべからず、いやしくも親たりその子を無教育に終らしむべからずとの気概は諸君の当然起さゞるべからざる者にて、一度此気概を奮ふて事に当りなば、遂には彼の不自然を匡正きょうせいするの道立ちて諸君の面目も立つことならずや。

 これらの箇所は、労働者に対し、彼らの生活がいかに不安定で貧しいものであるかを再認識させ、それによって労働組合の必要性を理解させようとの意図で書かれていることは明らかです。しかし我々にとって興味深いのは、引用した部分に示されている房太郎の家族観、女性観です。もっとも、その考え自体は明治男としてはごく普通のもので、男は「一家のあるじ」として妻子を養う義務があり、妻は家庭を守るべき立場にあるとみなしているのです。
  より注目すべきは、房太郎が組織化の対象として想定していたのは男子労働者だけだったという事実でしょう。実はパンフレットの最終部分では、「立て職工諸君、立つて組合を組織し、以てその重大なる責務とその男子たる面目を保つを務めよ」と、より明示的に、男子労働者だけに呼びかけているのです。フェミニストからの厳しい批判をまぬがれることは出来ないでしょう。
  ただ、この当時、世界の労働組合運動は、先進国をふくめどこの国でも男性中心の運動でした。また仮に、この時点で、日本の女性労働者が労働組合運動への参加を呼びかけられたとして、果たしてこれに、どれほど積極的に応えたでしょうか。製糸女工や紡績女工の圧倒的多数は、女性であるだけでなく、年少労働者でした。また工場で働いてはいても、それは出稼ぎに来ているだけ、つまり生涯の一時期のありように過ぎず、自らを労働者階級の一員などとは夢にも思わない人びとでした。房太郎らの「女性無視」の組織化方針には、まさに時代の制約としか言いようのないところがあったのでした。

 『職工諸君に寄す』はこれに続けて、労働者に対し不正、不徳の行為をしないよう心掛けることを訴えています。

 尚ほなお一事の云ふべきことは諸君の行為に就てなり。諸君はその労力を売りて生活を立つる一個の正路者なれば、その為す所、行ふ所にして誤ることなくんば、白日の下、天下に恐るべき者なきなり。されど若し諸君にして一度不正の事をなし又は不徳の行いを為さば、正路者たるの資格はここに消へ去りて、遂に身をも滅ぼすに至るべし。正直の頭に神宿るとは、我も人も知る所にて、諸君の守るべき道は此外にあらじ。まして諸君の如く不利益の地位に立つ者は、その不利益を直さんとするには少なくも自からの行を謹まざれば万事円満の結果を得難し。されば諸君は一方に於ては地位実益の上進拡張を務むると共に、また正道を踏むの勇気あること必要なり。諸君にして内を整へ行を正し正々堂々その求むる所を得るに務めんか、如何に無情なる人も諸君の正道の前に降伏せさる者あらんや。

 この労働者自身に自制を求め、修養をつむようにとの訴えは、労働組合期成会だけでなく、以後の、日本の労働組合運動、たとえば日鉄矯正会、さらには大正期の友愛会にいたるまで、繰り返し強調された点でした。労働者が社会的地位の向上をはかるためには、一般社会に受け入れられるよう、正道を歩み、社会的尊敬をかちとるように心掛けなければならないとの主張です。こうした呼びかけが繰り返されたことは、この問題が予想以上に根の深いものであることを示唆しています。

 ここで、ようやく労働者側の対応策が提起されるところに来るのですが、実際には、まず職工義友会の政治的立脚点が宣言されます。革命的な変革には反対であるとの立場が鮮明に打ち出されているのです。『職工諸君に寄す』を取り上げる論者が必ずふれる、有名な箇所でもあります。

 諸君の為さゞるべからざる準備覚悟行為は前陳ぜんちんの如くなる以上は、如何にして之に応すべきかとは諸君の自然に起す疑問なるべし。或人は云ふ「今日のこと誠に云ふに忍びず、富者益々富み貧者益々貧し。労働者のこうむる不正、その沈淪ちんりんせる境遇、実に悲憤の極にして、之を改良せんとする唯革命あるのみ、貧富を平均するあるのみ」と。誠に愉快の議論にして論者の云ふ如く革命に依り全然改良の実を挙げることを得ば結構の次第なれども、世間のことは論者の思ふ如く左程単純の者にあらず。意外の事起り、為めに全く当初の目的を達し得ざるの奇観は大紛擾の下に於て屡々しばしば見る所、諸君の容易に賛成すべきことにあらず。且つ又社会の進歩なる者は常に遅緩にして秩序ある者なるに、革命なる者は之に反して急速突飛を要素とすることなれば、両者の行道全然相反するのみならず、元来貧富平均のことたる人に賢愚の別ある以上は、その財産に不平均あるは誠に已を得ざることなれば、貧富平均論は言ふべくして行ふべきことにあらず。されば我輩は諸君に向つて断乎として革命の意志を拒めよ、厳然として急進の行ひを斥けよ、尺を得ずしてひろを求むるの愚は、是を貧富平均党に譲れよと忠告するに躊躇ちゅうちょせざる者なり。

 以上、紙面のほとんど半ばを費やしての前置きの後で、ようやく本題の労働組合運動についての説明がなされます。『職工諸君に寄す』の主要部分ですから、かなり長くはなりますが、原文を見ておきましょう。

 而して、我輩の諸君に勧告する所は、同業相集まり同気相求むてふ人類至情の上に基礎を置ける同業組合を起して全国聯合共同一致以て事を為すことにあり。
  つらつら已往いおうに於て諸君の為す所を見るに、個々相乖離あいかいりし同業相鬩あいせめぎ、その間さらに一致の行なし。されば一方に於て惨憺たる苦心の後百方懇請の末漸く増給を得る者あれば、他方に於ては法外の廉賃銀を以て甘ずる者あり。不徳の同業者を懲戒せんとする者あると共に、之を擁護せんとする者あり。一方より建てたる者を他方より破壊し行くの有様にて、実に骨肉相鬩ぐの観あるは諸君の為め もっとも惜しむべきことなり。兄弟内に争ひ外侮りを受く。諸君の今日の地位に陥りたるもの、諸君の一致行動を欠きしことその原因の多きに居ることなれば、既に前には外敵の攻め来り内には甚だしき弊害ある今日に於て、同業相争ふ如き事を止め、大挙事に従ふの必要火をみるより明かなり。諸君にして堅く集まりて散ぜず、社会進化の大勢と伴ひて、内健全なる思想を養ひ、外着実なる行動をなし、以て外人に対し、無情の雇主に対し、はたまた弊風の矯正に務めんか、世間諸君の意の如くならざる者幾何かあるべきや。
 まして労働は神聖にして結合は勢力なり、神聖なる労働に従事する者にして、勢力ある結合を造る。羽毛能く船を沈め得べくんば、諸君の熱血のほとばしる所、何事か為し得ざるべき者あるべき。かつては亜米利加に於て十五万人の無資無産の鉄道工夫は、八億余万弗の資本を有する廿四の鉄道会社を相手として三週間汽車の運転を止めしめたることもあり。三万人の小揚人夫は三ヶ月間英国ロンドン市場に食物の欠乏を来さしめたる例しもあり。仮令たとい短小の時日を以てその目的を達するを得ざる迄も、その為す所は革命党の如く華麗ならざる迄も、その進むや堅く、その守るや強し。遅緩なると共に確実に、穏和なると共に完全に平和の下、秩序の内、その目的を達す。諸君の採るべきの手段誠に是れあるのみ。我輩、ここに再び諸君に同業組合の組成を勧告する者なり。しからば如何にして同業組合は組織すべきか。
 第一 一郡市内同業者七人以上ある職業者集まりて地方同業組合を設くべし。
 第二 一郡市内にある種々の同業組合聯合して地方聯合団を設くべし。
 第三 全国処々にある地方同業組合聯合して全国同業聯合団を設くべし。
 第四 全国処々にある全国同業聯合団を聯合して大日本仝盟団を設くべし。
(例へば東京に二千人の組合員を有する大工組合、二千を有する印刷工組合、貳千人を有する靴工組合ありとし、此三組合聯合して東京職工聯合団を造る。更に大阪には千人を有する大工組合、千人を有する印刷工組合、千人を有する靴工組合ありて、相聯合して大阪職工聯合団を造る。また長崎には五百人を有する大工組合、五百人を有する印刷工組合、五百人を有する靴工組合ありて、相聯合して長崎職工聯合団を造る。斯くて東京大阪及長崎の大工組合印刷工組合及印刷工組合聯合して各々三千五百人を有する全国同業聯合団を造り、続いて此三聯合団聯合して壱万五百人を有する大日本職工団を設く。故に若し東京大工組合にて或事件起るときは東京職工聯合団の助力を求め、充分ならざるときは更に全国大工聯合団の協力を求め、尚足らざるときは大日本職工団の助力を求む。左れば必要の場合に於ては六千人の東京聯合団に加ゆるに千五百人(東京組合を除きたる数)の全国大工聯合団と亦進んでは参千五百人(東京組合及全国大工聯合団を除きたる者)を有する大日本職工団惣計壱万五百人の職工は東京大工組合の為めに動くこととなる)

 房太郎はここで「労働組合」ではなく「同業組合」の語を使っています。実のところ"trade union"の訳語としては「労働組合」より「同業組合」の方がもとの意味に近いのです。
  ここの論旨を簡単に述べれば、労働問題解決のためには、職業別労働組合を各地で結成し、それを全国的に連合し、一致団結することが重要であると説いているのです。具体例をあげての懇切な説明ですから、現代の読者には分かり切ったことをくどくど述べている、と感じられるかもしれません。しかし、当時の日本人は、労働組合についてまったく知らなかったのです。やはりこれだけ丁寧な説明が必要だったと思われます。
  続いて、労働組合の共済活動についての紹介がなされます。そこでは、ゴンパーズの出身母体である葉巻工組合の実績が具体的な金額として例示され、その役割の大きさが説かれています。
 そして最後は、つぎのように結ばれています。

 今日に於ては職工にして一度災厄に逢はんか、一に他人の救助を仰がざるべからず。その独立の体面を汚すこと少々にあらず。また時としては依るべき他人なくして非常に困難を極むることもあり。之に反して組合より救助を受くるは恵まるゝにあらで約束上受取り得べき金額を受くる者なれば毫も独立の面目を汚すことなく、また災厄の場合に対し既にその困難を薄ふすべき方法の附き居る以上は、ことさら此等のことに苦慮して卑屈の行ひをなすを要せざることとなり、自助の精神自信の意気大にたかまり、ために職工の品位を高むることすくなからざるべし。
 立て職工諸君、立つて組合を組織し、以てその重大なる責務とそのの男子たる面目を保つを務めよ。諸君の前途は多望なり。要する所は不抜の精神と不屈の意志のみ。天は自から助くる人を助くると云はずや。奮えよや諸君。その自助心を発揮せよ。
 終りにのぞんで一言すべきは、諸君の内には或は組合抔は到底成り立つ者にあらず、又成立ちたる例しなしと云ふ人もあらんかなれとも、左りとて打置かば、何時組合は成立つべきや。大敵を前に控へて区々たる情実又は紛争の為めに益々身を沈むるは愚の極にあらずや。又世間には組合員となる人の少なきを憂ふる人もあれども、唯人数のみ多くとも、その人々にして深く自らその責任を覚りて相集まりたるに非れば、例へば烏合うごうの兵の如く何事も出来すして終るべし。むしろ人数は少なくとも偏へにその地位の墓なきを覚り、自からの為めその妻子の為めに務めんとする人、言はば職工者中の花、戦場の決死隊とも云ふべき人集まりなば、以て花々しき運動を為し得べし。左れば我輩は人の多少は敢て問はず、唯々諸君の内より進んで此名誉なる戦場に名乗り出つる人あらんことを望む者なり。由来職工者は義侠の念に富めり、その中決死隊を以て自任するの人決して少なからざるべしとは我輩のひそかに確信する所なり。

 この『職工諸君に寄す』は、長文であることや、かなり難解な文体からすると、労働者向けの宣伝文書というより、「有識者」を念頭に執筆された労働組合運動についての解説書的色彩が濃厚です。この小冊子を受け取った労働者が、果たしてこれをどこまで実際に読み通したであろうか、またどれほど理解しえたであろうか、誰しも疑問をいだくところです。
  しかし一方、職工義友会の活動をみると、記録に残っている限りでは、この文書の発行のほかには演説会を1回開いただけなのです。にもかかわらず、『職工諸君に寄す』の発行から僅か3ヵ月で労働組合期成会の創立となり、さらにその半年たらず後には鉄工組合が誕生しています。そのように見てくると、『職工諸君に寄す』は予想以上の反響があったに違いありません。また、当時の労働者の間には、この文書を理解しえた人が一定数は存在したに違いないと考えられます。そのように見ると、当時の日本の労働者の知的水準は、そのトップレベルに関する限り、相当な高さであったことも、また疑いをいれないと思われるのですが、いかがでしょうか。



【注】

*1 『高野房太郎日記』の4月14日に、次のように記述されている。

此日内務省ニ「職工諸君に寄す」の出版届けをナシ、貿易品陳列所ニ至リ鈴木氏ニ書類ヲ渡ス。

 また、4月17日の金銭出納控えには、「製本代」として70銭の支出が記録されている。

*2 本著作集の付録として労働組合期成会『工場法案に対する意見書』を掲載したので参照ねがいたい。菊判は洋書の専門書に多く見られる判型で、A5判よりひとまわり大きいサイズである。表紙および奥付への直接リンクをはっておこう。

*3 『職工諸君に寄す』の執筆者であった高野房太郎の名が職工義友会の代表者として記されていた可能性も皆無ではない。しかし、次回に詳しく述べるが、片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』は、職工義友会再建の過程での高野房太郎の役割を過小に評価している。そうした評価が生まれた背景には、職工義友会の代表者として城常太郎の名があったからではないか。

*4 本稿で引用した箇所は、読みやすさを旨として一部の漢字をひらがなに改めている。これに対し別ファイルに翻字した「職工諸君に寄す」全文は、ほぼ原文通りである。ただし、ルビと句読点を加え、漢字は現行の字体に改めている。
  文字通りの原文を調べたい方は、国立国会図書館の《近代デジタルライブラリー》で、インターネット上で画像データとして見ることができる。つぎをクリックすれば片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』の該当個所にとぶので、参照願いたい。

*5 この『職工諸君に寄す』の冒頭の記述などを根拠に、高野房太郎が労働運動を始めるにいたった直接的契機は「内地雑居」問題にある、とする意見がある。たとえば、辻野功『明治の労働運動』(紀伊国屋新書、1971年刊)は、つぎのように主張している。

 高野が労働組合運動を始めるにいたった直接的契機は、内地雑居という、きわめてナショナルな契機であって、資本主義の発展に伴う労資の対立というような一般的な契機では決してなかった。前に紹介した「職工諸君に寄す」は、このことを明瞭に論じている。内地雑居が労働組合運動誕生の直接の契機になったことを証明する史料は、「職工諸君に寄す」にとどまらず、「労働組合期成会は組合設立の要を訴うるに他の理由あり、明治三二年は我国内地開放の年なり」と論じた「〈労働組合期成会〉設立趣旨」をはじめとして、『労働世界』に掲載された論文等その数も少なくない。(前掲書28ページ)

 しかし、ゴンパーズとの往復書簡を見ている私としては、この主張には賛成しえない。房太郎が労働運動家となることを決断した「直接的契機」は、ゴンパーズの督励に加え、日本各地で労働争議が頻発するようになりつつあった情況を好機ととらえた彼の判断があったことを見落とすべきではないと考えるからである。これについてより詳しくは第57回「運動開始を決断」を参照ねがいたい。
 むしろ内地雑居問題が、『職工諸君に寄す』で強調された背景としては、高野の親しい友人である鈴木純一郎の影響を見るべきであろう。鈴木には、『国民要意 内地雑居心得』(袋屋書店、1894年)の著書があり、房太郎がこれを読んでいたことは確実である。ことによると、房太郎は『職工諸君に寄す』を原稿段階で鈴木に見せ、その意見を聞いていたのかもしれない。





法政大学大原社会問題研究所        社会政策学会


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Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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