高野房太郎とその時代(62)二村 一夫6. 労働運動家時代「我国最始の労働問題演説会」1897(明治30)年4月初旬に『職工諸君に寄す』を刊行し、労働者に向けて組合結成を呼びかけた房太郎でしたが、すぐには次の活動に移りませんでした。『日記』を見る限り、その後2ヵ月余は、柔術の稽古をしたり、友人の大沢竜吉や鈴木純一郎と夜の巷を遊び歩いたりと、労働運動家としてはいささか悠長にすぎる日々を送っています。職工義友会の会合も開かなかったらしく、城常太郎とは頻繁に会っていますが、沢田半之助とは6月下旬まで顔を合わせていません*1。運動経費をまかなう見通しがたたなかったためか、『職工諸君に寄す』の反応がいまひとつで意気消沈したのでしょうか。ただ、運動経費については、アメリカの労働組合機関紙誌へ英文原稿を寄稿して原稿料を得ることを思い立ち、かねてからゴンパーズに依頼していました。しかし、その返事がなかなか来ないのに苛立ち、再三返事を催促する手紙を出しています。 さしあたり目標としていたのは、職工義友会の主催による、運動推進のための演説会の開催でした。ようやく6月中旬になってその準備をはじめ、同月25日「我国最始の労働問題演説会」*2の開催にこぎつけています。房太郎は、その会合の模様を、ゴンパーズ宛書簡1897年7月3日付*3で、次のように報告しています。ただ、前便で4月6日の東京工業協会総会を「職工義友会主催の演説会」と小さな嘘をついていましたから、この手紙でも辻褄をあわせるため、「職工義友会がまた公開演説会を開いた」としている点に注意する必要はありますが。 ふたたび良いお知らせができるのはこの上ない喜びです。職工義友会がまた公開演説会を開き、しかも大成功をおさめたのです。集会は6月25日の夕刻、神田の基督教青年会館ホールで開かれました。われわれの運動を妨害する連中〔警官〕がまたやって来た上に、雨とぬかるみ道だったにもかかわらず、約1200人ものさまざまな職業の労働者が集まりました。弁士は、職工義友会の一員である城〔常太郎〕氏、YMCAの講師である松村介石牧師、著名な資本家で働く人びとへの同情者・佐久間貞一氏、ハーヴァード大学卒業生の片山潜氏、そして私です。労働大衆の集会で、これほど多くの人が集まり、しかも熱烈な会合は、この国ではかつて例のないものでした。拍手大喝采がこの日の「常態」で、弁士が労働大衆の悲惨な状態にふれ、彼らに一致した行動をとるよう勧める発言をする度に、満場は熱烈な喝采に包まれました。 この手紙だけでは、房太郎がゴンパーズに運動の成果を過大に報告したのではないかとの疑問も出てきます。しかし、この夜の会合が多くの聴衆を集め、反響も大きかったことについては、『毎日新聞』に次のような記事が掲載されています*4。その10日後には労働組合期成会創立が実現している事実とあわせ考えれば、房太郎の報告にそれほど誇張はないとみてよいでしょう。 労働問題演説会
演説会の開催に際して一番問題となったのは、その経費をいかにして工面するかであり、ついで弁士の依頼だったと思われます。演説会を開くとなると会場費や宣伝費などだけで1回20円以上かかりました。小学校教員の初任給が8円の時代のことです。演説会開催には、その3ヵ月分にも当たる費用を必要としたのです。さらに、労働組合運動の意義を理解し、しかも無償で出演してくれる弁士を探さねばなりませんでした。会員が4人しかいない職工義友会の場合、会員だけの演説では、聴衆を惹きつける弁舌や知名度の点で不安がありましたから、人を集める力のある弁士が必要でした。最終的に登壇し演説したのは、今見たとおり、会員から城常太郎、高野房太郎の2人、外部からは松村介石、佐久間貞一、片山潜の3人の計5人でした。各人の演題は、城「開会の辞」、高野「日本の職工と米国の職工」、松村「希望の曙」、佐久間「水火夫問題」、片山「労働者団結の必要」でした(片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』)。
「希望の曙」の演題で労働者教育の重要性を説いた 先生の風貌は、頭はくりくりで目はギョロギョロ、顔色黒く、服装は紋付き羽織に袴を着し、一見国士の風を帯びて居られた。(中略)その高潮に達した時には、慷慨悲憤、切歯扼腕、惰夫をして起たしむるの慨があり、そうかと思うと、諧謔機智を以て聴衆を一時に笑わしめられた。(中略)私は先生の講話を聞き、十五分もすると、身がゾクゾクとして来て、その魔力に魅せられ、その熱情に動かされ、狂喜、尊敬、崇拝の情が燃えるが如きことがしばしばであった。 房太郎が、どのような縁故で松村介石に出演を依頼したのか、確かなことは分かっていません。ただ、片山潜に弁士を依頼して承諾を受けた直後に、基督教青年会舘を訪ね、松村介石にも出演を依頼しているところを見ると、キリスト教社会事業家だった片山潜の示唆によるものではないかと推測されます。なお、この頃松村介石は6年間続けていたYMCA講師の座を追われています。ことによると、職工義友会の演説会への出演も、その一因となったのかもしれません*5。 佐久間貞一については、第59回で詳しく紹介しました。秀英舎舎長、東京市会議員、東京商工会議所議員、東京工業協会会長などとして、働く人々の間にも、多くの支持者をもつ人物で、この夜も「拍手喝采」をあびています。
弁士のなかでもっとも注目されるのは、片山潜(1859〜1933)です。労働組合期成会で房太郎と並んで中心的な指導者となり、機関紙『労働世界』の主筆にもなったこの人物については、あらためて詳しく述べる必要があります。ここではごく簡単にそれまでの経歴を紹介し、高野がいかに彼と知り合ったのかを探るにとどめます。 此日午后片山氏ヲ訪ヒ演説会出席ノ承諾ヲ得、青年会ニ至リ丹羽氏ニ面会、二十五日会館借受ノコトヲ依頼シ、松村介石氏ニ面シテ出演ノ承諾ヲ受ケタリ。 一方片山自身も最晩年の著作『わが回想』のなかで次のように述べています*6。 日清戦争後の日本人、少なくとも此時期の労働者の多数は労働問題が何物であるかを解し得ない、従って日本には労働問題の解決に向っては何の用意もなかった。労働運動取り締まりとか、之が圧迫とかと云ふ政府の法律も方針もなかった。要するに幼稚なものであった。予も亦誠に無経験であった。 房太郎が、どのようにして片山潜と知り合ったのか、確実なことは分かっていません。ただ注目されるのは、高野『日記』5月18日の項に「午后ヨリ伊東為吉氏ヲ訪フ」と記されている点です。 演説会開催に当たってもうひとつの問題であった経費について、もう少し見ておきましょう。この頃、演説会を開くとなると、いったいどのような費目にどれほどの経費がかかったのでしょうか? 時期的には1ヵ月ほど後、労働組合期成会が誕生した後に開かれた会合ですが、同じ基督教青年会舘で開いた演説会費用の内訳が分かっています*8。6月25日の会合の費用もこれと大きく違うことはなかった筈です。 草履五百足代 6円 最大の支出項目は下足関係の費目です。まだ土足で会場に入ることはできず、下足番を置き、下足札と草履を渡して入場させる仕組みだったのです。雨が降れば東京のど真ん中でさえ道は泥んこになり、多くの人が下駄履きだった時代ですから、それも当然でした。直接の会場費にあたるのは青年会への寄付3円ですが、書記への謝礼、小使への謝礼各1円も、これに相当するでしょう。それに電灯料や掃除人の賃銭も広い意味では会場費の一部とみるべきでしょう。YMCAホールは電灯を設備した最新の集会場だったのですが、電灯料は1時間当たり1円25銭もかかっています。『毎日新聞』記事によれば、6月25日は午後7時開会、同10時閉会ですから、5円ではなく、3円75銭だったのかもしれません。これらすべてを合計すれば会場費は17円余になります。 いずれにせよ、会場を決めたり、片山潜や松村介石に出演を依頼をして承諾をえたのは、演説会のわずか2週間前6月12日のことでした。それどころか、佐久間貞一の出演承諾は6月17日、佐久間を介して依頼していた島田三郎に断られ、最終的にプログラムの内容が確定したのは講演会のわずか5日前でした。そこでようやく広告のチラシを印刷し、東京工業協会の役員に托して傘下の同業組合へ傍聴券の配布を依頼したのが22日、人力車夫を雇って広告チラシを配布したのは、なんと演説会の前日でした*9。このように、主催者が演説会開催について未経験で、明らかに準備不足だったのに、この夜の演説会は大成功をおさめました。雨にも関わらず、1200人から1500人もの聴衆が集まっただけでなく、その反応は熱狂的で、房太郎はかえって不安を抱いたほどでした。その夜の雰囲気を、房太郎はゴンパーズ宛て書簡のなかで次のように記しています。 とはいえ、この集会はまた、日本の労働大衆がきわめて危険な心理状態にあることも教えてくれました。弁士が資本家を厳しく非難する発言をする度に熱狂的な反応があり、労働大衆が資本家に対し強い憎悪感を抱いていることが、むき出しになったのです。この激しい憎悪は、もし適切に指導されなければ必ずや混乱状態をもたらし、その機をとらえて悪意ある労働者の偽りの友があらわれ、自分勝手な欲望のために労働者をあおり、さらなる混乱をもたらすに相違ありません。そうなれば、この国における労働運動の計画は計り知れない損害を被るに違いありません。こうした事実が分かったことで、私のかねてからの決意、すなわち激烈な言葉は使わず、純粋で単純な労働組合主義に具現されている保守的な考えだけを述べること、また、労働者の、あらゆる急進的な行動を非難する、という決意は強くなりました。同時に、労働者の熱意を最高度に保持し、また労働組合を組織する仕事を強固な基盤の上に築くために、努力を傾ける決意です。 こうした聴衆の熱意をみて、房太郎らは運動推進に向けて次の一歩を踏み出すことを決意し、演説会の最後に運動参加の意思のある人びとは会場に残るよう呼びかけました。それに応えて、連絡先の住所を残した人は47人に達しました。その場で、7月5日に労働組合期成会の設立準備会を開くことを決め、この「我国最始の労働問題演説会」は成功裡に幕を閉じたのでした*10。
6月17日 *10 この情況を、房太郎はゴンパーズ宛て書簡のなかで次のように記しています。 聴衆があまりに熱狂的だったので、私はこれこそ労働組合の結成にむけた第一歩をふみだす絶好の機会であると考え、労働運動の大義のために働く意志のある人は会場に残るよう呼びかけ、閉会後、その場に残ってくれた人びとに、労働組合運動についての私の計画を打ち明けました。それは、以下のような特別の目的をもつ団体を結成することでした、1) 労働組合主義を宣伝すること、2) 自分の職業の組織をつくることを希望する人々にあらゆる援助をすること、3) 労働雑誌や労働文献を刊行すること。この提案は会場に残った人びとの強い支持を受け、およそ50人ほどが今月5日に開く準備会に出席することを約束し、それぞれの住所を記して帰りました。この準備会では、会の結成を完了し、目的達成のための活動についてとりあげることになるでしょう。 また高野房太郎『日記』は、この演説会の模様を次のように記しています。 6月25日 |