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高野房太郎とその時代 (61)




6. 労働運動家時代

職工義友会の再建

職工義友会の三人組、左から城常太郎、高野房太郎、右端は沢田半之助?

 ここで検討しておきたい問題があります。それは労働組合期成会の母体となり、「職工諸君に寄す」を発行した「職工義友会」の再建をめぐる史実です。職工義友会については、これまで不正確な事実が大手を振ってまかり通って来ました。サンフランシスコ時代の職工義友会に関しては、すでに第35回「職工義友会の創立」で述べましたので、繰り返しません。今回は、1897(明治30)年に東京で再組織された職工義友会を取り上げたいと思います。史料について仔細に検討する必要があるので、ちょっと込み入った議論になりますが、高野房太郎の歴史的評価にかかわる問題ですから、お許しいただきたいと思います。

 職工義友会再建をめぐる史実で検討を要する最大のポイントは、その再組織を進めた中心人物は誰か、ということです。これまで、ほとんど全ての研究──といっても簡単な通史的叙述ばかりですが──において、「職工義友会は城常太郎、沢田半之助の2人によって再興され、その後、沢田が高野房太郎を説得して職工義友会へ参加させた」と論じているのです。
  その一例として、詳細な叙述と史実に忠実な点で、今なお最も信頼しうる大河内一男・松尾洋『日本労働組合物語』を見てみましょう。同書の明治編は、職工義友会の再組織の経緯を次のように描いています*1

  明治三十年四月、城常太郎(靴工)、沢田半之助(洋服職人)の二人が、職工義友会という団体をつくり、その事務所を東京麹町区内幸町の一角においた。職工義友会ができるについては、つぎのようないきさつがあった。
 これよりさき、明治二十三年の夏ごろ、当時アメリカに出稼ぎに行ってサンフランシスコに滞在していた城、沢田のほか、高野房太郎、平野栄太郎、武藤武全、木下源蔵らは、「欧米諸国における労働問題の実相を研究して、他日わが日本における労働問題の解決にそなえん」という趣旨から、労働問題の研究団体を結成し、これを職工義友会と名づけた。〔中略〕
  これらの日本人たちは明治二十九年には相ついで帰国してきた。日本は、ちょうど日清戦争をおわって産業の発展期をむかえていた。城、沢田の二人は、「日本における労働運動の時期はすでに熟せり」と、その名もサンフランシスコ時代とおなじ職工義友会を再興したのだった。城と沢田は、在米時代にやはり職工義友会の会員であった高野房太郎に相談した。高野は、日本に帰ると横浜に住んで、外国居留民のための日刊英字新聞『ヨコハマ・アドヴァタイザー』の記者をしていた。かれは、東京からたずねてきた沢田に、労働組合運動に専念することを約束した。

 しかし、職工義友会再建の実態は、この叙述とは大きくかけ離れたものでした。日本で労働組合の組織化に乗り出すことを最初に決断し、職工義友会の再建を図ったのは、城でも沢田でもなく、高野房太郎だったのです。そのことを証拠立てているのは一連の高野・ゴンパーズ往復書簡です。とりわけ1896年12月11日付のゴンパーズ宛て房太郎書簡が注目されます。すでに紹介したことのある手紙*2ですから、関連箇所のみ引用しておきましょう。

 〔前略〕 この1年は、日本の労働運動史上、もっとも注目すべき時期でした。労働問題に関する世論に大きな変化が見られたのも、この1年のことです。また、労働者階級の福祉についてこれほど論じられた年はかつてありません。このように注目すべき世論の前進があったのは、一方では労働需要の著しい増加があり、他方ではストライキが繰り返し起きたからです。これらの要因は今なお存在していますから、来るべき年も、この国の虐げられた民衆のためにさまざまな活動が展開されるであろうと予言しても、大きく外れることはないでしょう。
  ここで、私自身も彼らに手をさしのべようとしていることを、あなたにお知らせしたいと存じます。一カ月前に私はこの決意を固めたのですが、事情があってその時は申し上げるのをためらったのでした。しかし日が経つにつれて、絶好の機会が近づいているのに、ただ何もせずに、この好機を逃してしまうのは愚の骨頂であることがはっきりしてきました。もはや躊躇している余裕はないので、1週間前にデイリー・アドヴァタイザーを辞め、友人の一人──靴造りを職業にしています──と相談するために上京しました。〔以下略〕

 つまり、房太郎は1896年11月には労働運動に乗り出す決意を固め、12月にはデイリー・アドヴァタイザー社を辞めて、この問題について「友人の一人」と相談しているのです。 高野房太郎日記、1897年1月1日  
 高野房太郎が、城や澤田に勧められて労働運動開始を決断したのではなく、自分で決断した事実を明白に証拠立てている記録が、もうひとつあります。それは1897(明治30)年の房太郎の日記です。房太郎はこの日記の冒頭、つまり1月1日の項で、英語で次のよう記しているのです。

Organization, education and inculcation.(組織、教育そして説得)

 これは、まず間違いなく「年頭の決意」を書き留めたものでしょう。さらに房太郎は、この日記の各所で労働運動開始を示唆する内容の記述を残しています。たとえば1月18日、ついで同20日には次のように述べているのです。

1月18日 労働問題ノ事ヲ議セントスル者又此ノ如キヲ得ルカ。況ンヤ日本ニ於ケル最始ノ運動ヲヤ。周囲ヲ見ヨ、形勢ニ察セヨ、沈思熟慮後ニ始メテ立ツベシ。
1月20日 労働運動ノ中ニ現時ノ壮士的動作ヲ交ユルハ運動ヲ破壊スル所以。
 篤実ナレ、執着ナレ、軽挙スルナカレ、前途洋々タル大海ニ浮バントス。其決意尋常ナルベカラズ。

 この決意を実行に移すため、房太郎はこの直後の1月26日に横浜を引き払って上京し、その道すがら、沢田と城を訪ねてた事実については、第58回「社会政策学会ニ列シ遂ニ会員トナル」の冒頭で述べたとおりです。
  要するに、房太郎は横浜まで訪ねてきた沢田の説得によって職工義友会に参加したわけではありません。この時すでに房太郎は横浜にはいなかったのです。房太郎が、労働組合運動を始めるためにアドヴァタイザー社を退職して上京したのは、職工義友会結成時とされてきた1897年4月より数ヵ月も前のことです。房太郎自身が運動開始を決断して東京に移住することを決め、上京の途中で沢田や城を歴訪しているのです。日本国内で労働組合運動を始める第一歩として職工義友会の再建を考え、運動の主導権をとったのは、明らかにAFL日本担当オルグの高野房太郎だったのです。

 ところが、赤松克麿『日本社会運動史』をはじめ、これまで刊行されてきた日本労働運動史は、ひとつの例外もなく、職工義友会再興の際の高野房太郎の役割を無視しています。何故このような誤った事実認識がまかり通ったのかといえば、片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』に原因があります。1901(明治34)年に、期成会機関紙『労働世界』の発行所・労働新聞社から刊行されたこの書物は、草創期の労働運動の実態を、その当事者が自ら記した唯一といってよい貴重な記録です。前回見たように「職工諸君に寄す」も、この本がなければ、その具体的な内容が後世に残ることはなかったのです。
  しかし、すでに高野房太郎が運動を退いた後で刊行されたこともあってか、片山潜自身が直接体験していない職工義友会時代についての記述は、簡単に過ぎ、しかも正確を欠く点が少なくないのです。まずは、『日本の労働運動』が、職工義友会についてどのように記述しているかを見ておきましょう。

 労働組合期成会の前身は職工義友会なり。故に期成会に就き云ふ所あらんとせば、先づ義友会より談らざるべからず。
 職工義友会は日本に於て創設せられし者にあらざりき。爰に面白き意味あり。此の会は明治廿三年仲夏、米国桑港に於て当時同地に労働しつゝありし、城常太郎、高野房太郎、沢田半之助、平野栄太郎、武藤武全、木下源蔵外四五名の労働者によりて組織せられし者にして、其の期する所は「欧米諸国に於ける労働問題の実相を研究して、他日我日本に於ける労働問題の解決に備へんとするにあり」たり。
  然かるに明治廿九年の末に至り、彼らの多くは帰朝し、先づ沢田半之助及城常太郎の両氏は、日本に於ける労働問題の時期已に熟せるを見たりしかば、翌三十年四月に東京麹町区内幸町に職工義友会を起し、「職工諸君に寄す」てふ印刷物を普く各工場に配布しぬ。是れ日本に於ける労働運動の最初の印刷物なるを以て、吾等は其の全文を左に記載せん。〔中略〕
  先是職工義友会は適当なる運動員を得るの必要を感ぜしを以て、元と桑港に於て職工義友会の一人たりし人にして、当時横浜に於て洋字新聞「アドバアタイザア」の記者たりし高野房太郎氏に嘱目し、沢田半之助氏を使はして高野氏を説かしめしに、高野氏は甘諾職を捨てゝ東京に出で来りぬ。〔以下略〕  

 では片山潜・西川光二郎は、なぜこのように事実とは異なる記述をしたのでしょうか? それには、高野房太郎にも多少の責任があります。片山らが、職工義友会について記述する際に主として依拠したのは「労働組合期成会成立及発達の歴史」〔以下「発達の歴史」と省略〕だったことは、内容からみて確実です。労働組合期成会の機関紙『労働世界』に3回にわたって連載されたこの「発達の歴史」の筆者は、無署名ではありますが、間違いなく高野房太郎です。彼のほかに、こうした文章を書き得た人物は見当たりません。また、文中に複数の人名が並んで出てくる時、高野房太郎の名はほとんど最後に置かれています。例外は演説会の弁士名の順序ですが、これは登壇順に並んでいるためです。これも、「発達の歴史」の筆者が房太郎であることを示しています。つまり、房太郎には、自らの業績を誇示することへの「照れ」があり、必要以上に職工義友会における彼の位置を控え目に記したのでした。そのことが、『日本の労働運動』の高野房太郎評価を実際より低くさせた一因となったことは否めません。
  しかし、これだけでは、片山・西川が誤った記述をしたことの説明はつきません。なぜなら「発達の歴史」は、職工義友会再建の経緯については次のように述べているだけで、城・沢田の2人によって再興されたとか、沢田の説得で高野が加わったなどとは、どこにも記していないのですから。

 明治二十九年の末〔アメリカにおける職工義友会の〕会員の四、五相前後して帰朝するや、日本における労働運動の時期已に熟せる者ありしとえども、軽挙事を挙ぐるは失敗の基いなりと信じ、専ら実情の考査に勉め、漸く明治三十年六月に至りて、ほぼその計画を全うし、同年中旬を以て職工義友会事務所を当市麹町区内幸町城常太郎方に設け〔以下略〕

 どうも、片山が正確な事実を知らないまま、うろ覚えの記憶や臆測によって執筆し、さらに西川が加筆するなどして、事実と離れてしまったとしか考えられません。念のためにいえば、私には、多忙な運動の最中これほど詳細な記録を残しておいてくれた片山潜・西川光二郎に感謝の気持ちこそあれ、非難する意図は全くありません。

 最後に、職工義友会が再組織されたのは何時であるかについて、検討しておきたいと思います。一般には一八九七年四月とされています。その根拠となったのは『日本の労働運動』の記述でしょう。ところが、いま引用したばかりの「発達の歴史」では、六月中旬に職工義友会事務所を設けたと記しています。職工義友会は六月二五日に、はじめて自前で演説会を開催していますから、その時点で事務所を設けたと述べたものでしょう。
  ところで、『日本の労働運動』は、職工義友会時代のことについては、ほとんど「発達の歴史」に依拠して書いているのに、義友会再結成の時期だけは、6月でなく4月としています。これは何故でしょうか? 私は、おそらく『職工諸君に寄す』の奥付に依ったからであろうと推測しています。もっとも『職工諸君に寄す』が職工義友会の名で出されたことについての確証はなく、推測によるものです。しかし、まったく根拠なしの推測ではありません。『職工諸君に寄す』の最後に、次のような言葉が記されているところから推理したものです。

 (組合設立の運動方法、組合の規則、持続方法等詳細の事は本会について問はれなば丁寧に説明すべく、又時宜に依りては助力をも承諾すべし)。

 ここで「本会」とあるからには、『職工諸君に寄す』の発行主体が「○○会」であることは明瞭で、それは職工義友会でしかありえません。前回みたように『職工諸君に寄す』には奥付が付されており、そこには発行日付、発行主体の団体名と代表者、同事務所の所在地などが記されていたと推測されます。そこで『日本の労働運動』の筆者たちは、職工義友会の名が6月以前に使われていたことを知り、再組織の日を奥付の4月、さらにこれも奥付にある事務所の所在地「東京市麹町区内幸町」も記録にとどめたのだと思います。
  しかし、実際に職工義友会が再組織されたのは3月以前であったと思われます。なぜなら『職工諸君に寄す』の印刷依頼は3月29日になされているのです。その時には、すでに職工義友会の再建は決定されていたに違いありません。
  ところで、再興された職工義友会の会員は、僅か4人でした*3。高野、城、沢田の他に靴工がもう一人──おそらくは平野永太郎──がいただけでした。こうした小さな組織が、再建大会を開くとか、何月何日をもって再組織を決議するといった手続きをとることは、まずないでしょう。その意味で、私は、1897年1月26日に高野房太郎が運動開始を決意して東京に移住し、その途中で城と沢田に会った時こそ、職工義友会の再組織が事実上決まった日であったと考えています。


【注】

*1 大河内一男・松尾洋『日本労働組合物語(明治)』(筑摩書房、1965年刊)52ページ。

*2 1896年12月11日付、高野房太郎よりサミュエル・ゴンパーズ宛て書簡。第57回「運動開始を決断」所収。

*3 これについては、ゴンパーズ宛て高野房太郎書簡(1897年4月15日付)に次のように記されています。 

 「職工義友会」──この団体の主催で集会は開かれたのですが──これは何年か前に、サンフランシスコ在住の12人ほどの日本人によって結成された会の生き残り4人からなる組織です。この生き残りとは仕立職人1人と靴工2人、それに私自身で、全員が労働組合主義の忠実な信奉者です。

 同書簡の全文日本語訳同英語版参照。






Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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