高野房太郎とその時代 (61)6. 労働運動家時代職工義友会の再建
ここで検討しておきたい問題があります。それは労働組合期成会の母体となり、「職工諸君に寄す」を発行した「職工義友会」の再建をめぐる史実です。職工義友会については、これまで不正確な事実が大手を振ってまかり通って来ました。サンフランシスコ時代の職工義友会に関しては、すでに第35回「職工義友会の創立」で述べましたので、繰り返しません。今回は、1897(明治30)年に東京で再組織された職工義友会を取り上げたいと思います。史料について仔細に検討する必要があるので、ちょっと込み入った議論になりますが、高野房太郎の歴史的評価にかかわる問題ですから、お許しいただきたいと思います。 職工義友会再建をめぐる史実で検討を要する最大のポイントは、その再組織を進めた中心人物は誰か、ということです。これまで、ほとんど全ての研究──といっても簡単な通史的叙述ばかりですが──において、「職工義友会は城常太郎、沢田半之助の2人によって再興され、その後、沢田が高野房太郎を説得して職工義友会へ参加させた」と論じているのです。 明治三十年四月、城常太郎(靴工)、沢田半之助(洋服職人)の二人が、職工義友会という団体をつくり、その事務所を東京麹町区内幸町の一角においた。職工義友会ができるについては、つぎのようないきさつがあった。 しかし、職工義友会再建の実態は、この叙述とは大きくかけ離れたものでした。日本で労働組合の組織化に乗り出すことを最初に決断し、職工義友会の再建を図ったのは、城でも沢田でもなく、高野房太郎だったのです。そのことを証拠立てているのは一連の高野・ゴンパーズ往復書簡です。とりわけ1896年12月11日付のゴンパーズ宛て房太郎書簡が注目されます。すでに紹介したことのある手紙*2ですから、関連箇所のみ引用しておきましょう。 〔前略〕 この1年は、日本の労働運動史上、もっとも注目すべき時期でした。労働問題に関する世論に大きな変化が見られたのも、この1年のことです。また、労働者階級の福祉についてこれほど論じられた年はかつてありません。このように注目すべき世論の前進があったのは、一方では労働需要の著しい増加があり、他方ではストライキが繰り返し起きたからです。これらの要因は今なお存在していますから、来るべき年も、この国の虐げられた民衆のためにさまざまな活動が展開されるであろうと予言しても、大きく外れることはないでしょう。
つまり、房太郎は1896年11月には労働運動に乗り出す決意を固め、12月にはデイリー・アドヴァタイザー社を辞めて、この問題について「友人の一人」と相談しているのです。
Organization, education and inculcation.(組織、教育そして説得) これは、まず間違いなく「年頭の決意」を書き留めたものでしょう。さらに房太郎は、この日記の各所で労働運動開始を示唆する内容の記述を残しています。たとえば1月18日、ついで同20日には次のように述べているのです。 1月18日 労働問題ノ事ヲ議セントスル者又此ノ如キヲ得ルカ。況ンヤ日本ニ於ケル最始ノ運動ヲヤ。周囲ヲ見ヨ、形勢ニ察セヨ、沈思熟慮後ニ始メテ立ツベシ。
この決意を実行に移すため、房太郎はこの直後の1月26日に横浜を引き払って上京し、その道すがら、沢田と城を訪ねてた事実については、第58回「社会政策学会ニ列シ遂ニ会員トナル」の冒頭で述べたとおりです。 ところが、赤松克麿『日本社会運動史』をはじめ、これまで刊行されてきた日本労働運動史は、ひとつの例外もなく、職工義友会再興の際の高野房太郎の役割を無視しています。何故このような誤った事実認識がまかり通ったのかといえば、片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』に原因があります。1901(明治34)年に、期成会機関紙『労働世界』の発行所・労働新聞社から刊行されたこの書物は、草創期の労働運動の実態を、その当事者が自ら記した唯一といってよい貴重な記録です。前回見たように「職工諸君に寄す」も、この本がなければ、その具体的な内容が後世に残ることはなかったのです。 労働組合期成会の前身は職工義友会なり。故に期成会に就き云ふ所あらんとせば、先づ義友会より談らざるべからず。 では片山潜・西川光二郎は、なぜこのように事実とは異なる記述をしたのでしょうか? それには、高野房太郎にも多少の責任があります。片山らが、職工義友会について記述する際に主として依拠したのは「労働組合期成会成立及発達の歴史」〔以下「発達の歴史」と省略〕だったことは、内容からみて確実です。労働組合期成会の機関紙『労働世界』に3回にわたって連載されたこの「発達の歴史」の筆者は、無署名ではありますが、間違いなく高野房太郎です。彼のほかに、こうした文章を書き得た人物は見当たりません。また、文中に複数の人名が並んで出てくる時、高野房太郎の名はほとんど最後に置かれています。例外は演説会の弁士名の順序ですが、これは登壇順に並んでいるためです。これも、「発達の歴史」の筆者が房太郎であることを示しています。つまり、房太郎には、自らの業績を誇示することへの「照れ」があり、必要以上に職工義友会における彼の位置を控え目に記したのでした。そのことが、『日本の労働運動』の高野房太郎評価を実際より低くさせた一因となったことは否めません。 明治二十九年の末〔アメリカにおける職工義友会の〕会員の四、五相前後して帰朝するや、日本における労働運動の時期已に熟せる者ありしとえども、軽挙事を挙ぐるは失敗の基いなりと信じ、専ら実情の考査に勉め、漸く明治三十年六月に至りて、ほぼその計画を全うし、同年中旬を以て職工義友会事務所を当市麹町区内幸町城常太郎方に設け〔以下略〕 どうも、片山が正確な事実を知らないまま、うろ覚えの記憶や臆測によって執筆し、さらに西川が加筆するなどして、事実と離れてしまったとしか考えられません。念のためにいえば、私には、多忙な運動の最中これほど詳細な記録を残しておいてくれた片山潜・西川光二郎に感謝の気持ちこそあれ、非難する意図は全くありません。 最後に、職工義友会が再組織されたのは何時であるかについて、検討しておきたいと思います。一般には一八九七年四月とされています。その根拠となったのは『日本の労働運動』の記述でしょう。ところが、いま引用したばかりの「発達の歴史」では、六月中旬に職工義友会事務所を設けたと記しています。職工義友会は六月二五日に、はじめて自前で演説会を開催していますから、その時点で事務所を設けたと述べたものでしょう。 (組合設立の運動方法、組合の規則、持続方法等詳細の事は本会について問はれなば丁寧に説明すべく、又時宜に依りては助力をも承諾すべし)。 ここで「本会」とあるからには、『職工諸君に寄す』の発行主体が「○○会」であることは明瞭で、それは職工義友会でしかありえません。前回みたように『職工諸君に寄す』には奥付が付されており、そこには発行日付、発行主体の団体名と代表者、同事務所の所在地などが記されていたと推測されます。そこで『日本の労働運動』の筆者たちは、職工義友会の名が6月以前に使われていたことを知り、再組織の日を奥付の4月、さらにこれも奥付にある事務所の所在地「東京市麹町区内幸町」も記録にとどめたのだと思います。 【注】*1 大河内一男・松尾洋『日本労働組合物語(明治)』(筑摩書房、1965年刊)52ページ。 *2 1896年12月11日付、高野房太郎よりサミュエル・ゴンパーズ宛て書簡。第57回「運動開始を決断」所収。 *3 これについては、ゴンパーズ宛て高野房太郎書簡(1897年4月15日付)に次のように記されています。 「職工義友会」──この団体の主催で集会は開かれたのですが──これは何年か前に、サンフランシスコ在住の12人ほどの日本人によって結成された会の生き残り4人からなる組織です。この生き残りとは仕立職人1人と靴工2人、それに私自身で、全員が労働組合主義の忠実な信奉者です。 同書簡の全文日本語訳、同英語版参照。 |
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