労働組合期成会は、短期間に急速な発展をとげました。一八九七年七月五日の発起会の時は参会者七一人でしたが、その後わずか一、二ヵ月で会員三〇〇人に達し、一一月には一一〇〇人を超えています*1。こうした発展の模様を生き生きと伝えているのは、一八九九年六月に発表された片山潜の講演記録「日本に於ける労働」です*2。創立から二年たらず、まだ記憶が新鮮な頃の証言ですから、内容的には信頼出来るでしょう。長文ですから、ここでは一、二箇所、部分的に紹介するにとどめざるをえませんが。
それ〔創立〕から二三箇月の間に此労働組合期成会に加入する人は非常な勢ひでありました。殊に始めの中は活版工などが多く、また人形屋もあれば靴職工もございまするし種々ありましたが、其内で一番沢山入会して来たものは鉄工であります。殊に鍛冶屋とか若くは仕上工等の職工が一番多くありました。吾々の労働運動は重もにアジテーション演説を諸方に開くを以て吾々運動の手段とした。さうして到る処に演説を開きますれば、其演説を聞いた毎に百人二百人と入会者が集て来る有様であつた。併し演説を開く上に其地方の重もなる労働者職工に向つて談話をなし、労働組合の必要を述べ、又は彼らの状態を聞き、常に彼等の導火線となるのみにて、吾々が自ら進んで工場の中に這入つて其工場の労働者に組合の必要を説くとか、又は労働者の家に行つ入会を勧むると云ふやうなことはなかつた。
やや古風な言い回しである上に、発言そのままを文字にしているのでちょっと分かり難いところがありますが、要点はつぎの三つです。(一)期成会が組織を広げるための主たる宣伝手段は演説会であり、会合のたびに一〇〇人、二〇〇人と入会者があった。(二)入会者の職業は、当初は活版工など多様な職種の者だったが、多数を占めたのは「鉄工」=金属機械工場で働く労働者だった。(三)入会した労働者が自発的に仲間を勧誘しており、片山らが直接工場や労働者の家を訪ねて宣伝するようなことはしなかった。
つまり、期成会が急速に発展したのは、演説会を機に入会した労働者が、仲間をつぎつぎに引き入れ、鼠算式に会員が増加したからだったのです。これは、期成会の『出版物控』からも裏付けられます。期成会発足直後に発行した『労働者の心得』は、一部ずつ売れるのではなく、主だった活動家がまとめ買いをし、仲間に配ったり売ったりしているのです。その買い手の主な顔ぶれと部数を紹介すれば、松田市太郎一〇部、村松民太郎二〇部、石津孫一が四五部、間見江金太郎三〇部、松岡乙吉五九部、間見江金太郎さらに三〇部、高橋定吉四〇部といった工合です。こうした事実からも、熱心な活動家が自発的に活動している様子がうかがえます。ここに名前が出てくる人びとの多くは、すでに前回紹介しました。常置委員のひとり松岡乙吉の職業は不明ですが、あとはいずれも鉄工、それも石津孫一の他は、すべて東京砲兵工廠の労働者です。そうした活動家について、片山はさらに次のように述べています。
ちよつと考へて見ると労働運動を賛成して集つて来る所の職工は多くは軽薄であつてマア御饒舌りでもすると云ふやうな者でありさうなるに、決してさうでない。工場内で第一に賛成して来た職工は重に上等職工であつて、往々工場内に於て職工の上に全権を取つて人の上に立つ者故に、其工場内に運動をするに於ても大に都合が宜い、それだからして工場主もそれ程反対を為ない。何故と云ふに上等職工にして多くは信用のある所の者なれば此等の者が運動するに反対すれば幾くらか都合が悪いと云ふやうな所からして、今日まで恐るべき程の反対はない。
最後の「今日まで恐るべき程の反対はない」という判断には、やや疑問があります。ただ、労働組合期成会に積極的に参加してきた労働者が、工場内での地位が相対的に高かったことは事実だと思われます。おそらく、収入面でも多少の余裕はあったとみえ、期成会の『寄附簿』を見ると、間見江金太郎、松田市太郎らがそれぞれ毎月一円を寄附しているのをはじめ、数多くの会員が三〇銭前後の寄附をしています。
こうした熱心な会員の増加にともない、期成会は急速に組織としての形を整えて行きました。これについて片山は次のように語っています。
我期成会の本部は始めの内は小さな所を借りましてシカモ一人の職工の家に本部を置きましたけれども、後段々盛んになるに従つて遂に日本橋の呉服町の柳屋といふ貸席を借りまして、其所に一人の運動者が毎日出張して居りまして一人の書記と諸方から来る所の労働者に向ひ色々労働運動の必要を説くと、此労働運動の必要を説きました所の職工が其工場内に働いて居て、さうして色々な運動をして、遂に会員を拵へる。シテ此等の職工が申込書を持つて行つて会員を募つて来ると云ふやうな工合で、我が労働運動の発達したのは労働者其者が大に与つて力がある。〔強調は引用者〕
この談話で事務所に毎日出張している「一人の運動者」とは、もちろん高野房太郎のことです。また最初に労働組合期成会の本部を置いた「一人の職工の家」とは沢田半之助宅でした。当時は京橋区元数寄屋町一丁目三番地で「米国裁縫師」を看板に掲げ、洋服店を経営していました。高野『日記』を見ると、房太郎は六月二五日の講演会以降八月中旬まで、毎日のように沢田方に出向いています。しかし、会員が増加し処理すべき事務量が増加するにともない、沢田裁縫店の店先だけでは間に合わなくなったのでしょう、自前の事務所を探し始めます。『日記』によれば、八月一九日、房太郎は沢田と共に日本橋区内の貸家を見て回っています。しかし適当な物件がなく、けっきょく第一回月次会の折に会場として使った貸席・柳屋に事務所を置くことにしました。事務所用の席料は月五円でした。このように事務所設置を可能にしたのは、会費や寄付金の増加で財政面に余裕ができたからでしょう。柳屋の所在地は日本橋区呉服町一番地。房太郎『日記』に「事務所ニ至ル」の文字が初めて記されたのは八月二七日のことです。これ以降『日記』から「沢田氏方ニ至ル」の記述は消え、代わって「事務所ニ至ル」と記されるようになります。そのころ房太郎は本郷区駒込追分町三一番地に母や弟と一緒に住んでおり、そこから日本橋の事務所に通う日々が始まったのでした*3。もっとも出勤時間は不定で、午前九時か一〇時のときもあれば、他を回って午後から出ている日も少なくありませんが。なお、房太郎は、このように労働組合期成会の活動に専念していましたが、会から給与を受けることはなく、生活は自分で支えていました*4。
最後に、労働組合期成会がもっとも活発な活動を展開したと見られる一八九八(明治三一)年一〇月時点における期成会会員の所在地別および職業別人数を紹介しておきましょう。労働組合期成会が『工場法案に対する意見書』を作成した際、パンフレットの冒頭に付していたものです*5。
東 京 鉄 工 一四〇九人
東 京 活版工 四五人
東 京 人形職 三人
東 京 船大工 二人
東 京 鉄道員 一人
東 京 靴 工 一八人
東 京 雑 業 九人
大 宮 鉄 工 九六人
横 浜 鉄 工 四一三人
横 浜 船大工 一五人
横須賀 鉄 工 四一五人
福 島 鉄 工 八五人
青 森 鉄 工 三六人
盛 岡 鉄 工 七六人
盛 岡 木 工 五七人
北海道
滝川 鉄 工 二四人
神 戸 靴 工 二人
一ノ関 鉄道員 九人
弘 前 雑 業 二人
合 計 二七一七人
鉄工は総計二五五四人、九四パーセントと圧倒的多数を占めているだけでなく、東日本各地と北海道まで八地域に組織を広げています。その他の職種は木工が五七人、活版工が四五人、靴工が二〇人、船大工が一七人、雑業一一人、鉄道員一〇人、人形職三人といずれも二桁どまり、地域的にも最大で二地域にとどまっています。こうした職種別アンバランスがなぜ生じたのでしょうか? こうした疑問は、鉄工組合について見た上で考えようと思います。
*1 『毎日新聞』八月二二日付の「労働組合期成会の近況」と題する記事は次のように報じています。
高野房太郎、片山潜等諸氏の尽力に由りて組織せられたる労働組合期成会は、去る六月初めて社会に発表せられてより僅かに三ヶ月の日子を経過したるに過ぎざるも、入会者日に増加し、目下既に会員三百余名に達し、来たる天長節には上野に於いて一大運動会を催すの計画ある由。
同会の初めて発表せられてより三回の演説会を催し、佐久間貞一、島田三郎、鈴木純一郎の諸氏の出演せらるヽあり。毎回聴衆は満堂立錐の余地なき盛況にて今日迄で二千人内外の職工に演舌するを得たりと云ふ。
また、一一月はじめで期成会の会員が一一〇〇人を超えたことについては、房太郎からゴンパーズ宛ての一一月八日付の手紙に記されている。『明治日本労働通信』六一ページ参照。
*2 『社会』第一巻第四、五、六号、一八九九(明治三二)年六月〜八月。岸本英太郎編・解説『明治社会運動思想』(上)、青木文庫、八五〜一〇六ページ。
*3 沢田の家の住所については『労働世界』第三号(復刻版三〇ページ)の広告参照。また労働組合期成会本部が置かれた柳屋の住所については『労働世界』を参照。一八九九(明治三二)年六月二〇日に日本橋区本石町一丁目一二番地に移転するまで、ここが期成会の本部であった。また、房太郎の住所が駒込追分町三一番地であることは、冒頭に掲げた「労働組合期成会会員証」や名刺から分かる。また、高野岩三郎も同一番地に住んでいたことは『国家学会雑誌』第一二九号(一八九七年一一月一五日)編集部広告参照。
*4 房太郎が無報酬で活動していたことについては、片山潜が一八九九(明治三二)年二月一〇日に開かれた社会政策学会の例会報告で、次のように述べていることから判明する(『国家学会雑誌』第一四五号所収「社会政策学会記事」)。
而して此の期成会の創立者とし、整理者とし、労働者運動の首領として功ある者は、実に高野房太郎氏なり。氏は卅年六月より昨年十月迄一日の如く組合運動に万般の事務に尽瘁せられたり。而かも全然無報酬を以て其全身を犠牲に供して斯の運動に従事せられたるは、労働運動の盛運今日有るを致したる所以なり。〔強調は引用者〕