高野房太郎とその時代 (72)
6. 労働運動家時代
鉄工組合の誕生
1897(明治30)年12月1日は、房太郎にとって、まさに「わが人生最高の日」となりました。この日、労働組合期成会の機関紙『労働世界』第1号が発行されると同時に、長年の夢であった日本最初の近代的労働組合「鉄工組合」が正式に発足したのです*1。
「鉄工」とは今ではあまり使われない職名ですが、鉄工場、つまり金属機械工場で働く労働者の総称です。したがって「鉄工組合」は、良くいわれるような「職業別労働組合」ではなく、旋盤工や仕上げ工、鍛冶工、製缶工、鋳物工、さらには木工や塗装工まで含む、金属機械産業で働くさまざまな職種の労働者を組織対象とした「産業別組織」だったのでした*2。
その記念すべき鉄工組合の発会式は、同日午後6時から、東京YMCAの神田青年会館で開かれました。会館の周囲には熱心な組合員の手で取り付けられた万国旗がはためき、数百の提灯が辺りを照らしていました。また、館内のあちこちには生け花や盆栽の鉢が会場を華やかに彩り、にぎやかな楽隊の演奏が参会者を迎えてくれました*3。このような会場の飾り付けや音楽にまで気をくばった準備状況からも、組合員の自発性の高さ、さらには、彼らがいかにこの日の来るのを待ち望んでいたのかが分かります。参会者は1180人の組合員、それに他職業の期成会会員、さらには各界の人びとからなる来賓で、総勢1300人にも達しました。翌日の『毎日新聞』は、この式典の模様を次のように報じています。
労働組合期成会より成りたる鉄工組合の発会式は、去一日午後六時より神田美土代町青年会館に於て開会したるが、同会幹事高野房太郎氏は開会の旨趣及鉄工組合の性質を演じ、次いで同氏の紹介にて佐久間貞一氏は労働社会に組合の必要なるを説き、今日工業社会に行はるヽ労働者待遇の不可なるを打撃し、若し資本家にして之れに保護を加へざれば工業は発達せざるのみならず、却て社会を亡ぼすに至るべしと論じ、更に賃銀の事に及び満腹〔満腔〕の同情を労働者に置きつつあることを述べ、次に又高野氏の紹介にて島田三郎氏は職工の為に自己の閲歴を語り、少時苦難の間に人となりしを述べ、更に職業に貴賤なく人物に高下ありと自己の社会に対する観念を語り、華族の貴ぶ可らざるを攻撃し、額に汗して生活する労働者の貴ぶべきことを称して演説を了れり。次に高野岩三郎氏は労働者は資力を進むるの義務あり且つ権利あり故に之を負ふて立つの慨なかるべからずと論じて痛切を極め、鈴木純一郎氏は職工に忠告を加へ、三好退蔵氏も所感を述べて聴衆を動かし、最後に片山潜氏期成会幹事の一人として演壇に出て、同盟期成会の世間に誤られつヽありたるを今ま言語の上に辨解せずして鉄工組合の成立によりて充分辨明しえたりと説き、閉会せしは方に午後十時なりし。
故国の人びとに労働運動の社会的意義を教え労働組合を組織させようという、房太郎の悲願は、ようやくここに実現したのです。この夜彼は、満堂の聴衆を前に、「鉄工組合創立委員会議長」として開会を宣言すると同時に、司会を務めるという晴れがましい役割を演じたのでした。また弟の岩三郎も「来賓」のひとりとして演壇に立ち、祝辞を述べました。日本の最高学府を卒業した「法学士」、いずれは母校の教授となることがほぼ約束されている弟を紹介しつつ、アメリカから学資を送りつづけた労苦が報われたことを、あらためて実感したのではないでしょうか。
労働組合の結成、弟の成長という、この10年、貧困に耐えて追求してきた目標の2つまでもが花開いた形でした。房太郎の胸中にはいくつもの思い出、さまざまな感慨がわき上がっていたに相違ありません。まさに「万感交々到る」でした。そのなかには、ようやくゴンパースの期待を裏切らずにすんだことへの安堵の思いも含まれていたことでしょう。ゴンパーズは、英文通信のシンジケートを組織して彼の生活を助けるなど、房太郎への支援を惜しみませんでしたが、同時に、なるべく早い段階で期成会のような労働運動の宣伝啓蒙団体的段階を脱し、労働組合を組織することの重要性を強調していたのでした*4。
この夜祝辞を述べた三好退蔵は前大審院長、島田三郎は衆議院副議長と司法・立法の大物でした。さらに発会式には行政府からも、労働問題を所管する農商務省の志村源太郎工務局長と織田一文書課長が来賓として出席していました。志村や織田を出席させるについては、同じ農商務省で働いていた鈴木純一郎の力添えがあったものと推測されます*5。ちなみに、織田は、房太郎や鈴木も会員である、社会政策学会の創立メンバーでした。いずれにせよ、鉄工組合の発会式には、司法、立法、行政府の大物が揃って参加したのでした。
発会式でもうひとつ注目されたのは、組合員の多くが所属する砲兵工廠や逓信省電信灯台用品製造所の技師たちが「来賓」として参列したことでした*6。鉄工たちの直接の上司である技師連の出席は、軍工廠など関係当局が鉄工組合の創立を歓迎こそしても、妨害する意図がないことを人びとに印象づけたことでしょう。彼らを開会式に招き得たことは、その後の鉄工組合の発展にとって大きな力となったに違いありません。
最後は全参会者による「鉄工組合万歳」の三唱、さらに君が代の斉唱とそれにつづく万雷の拍手で、発会式はめでたく幕を閉じました。時刻はすでに11時近く、所要5時間の祝賀の集いでした。
翌12月2日、房太郎はすぐにゴンパーズに宛てて、手短に発会式の成功を伝えました。
先にお知らせしたように、11月22日に機械工たちの組合が鉄工組合の名のもとに、組合員1100人で結成されました。昨夜、創立の式典を開催し、多くの著名な官僚や各界の人士が出席されました。つぎの便で、式典の模様と関連した事柄について詳しくお知らせいたします。
昨日、『労働世界』が発刊されました。この便で1部お送りいたします。また私の写真も同封いたします。
何人もの鉄工が私に面会を求めて待っておりますので、これ以上手紙を書いているわけにはいきません。
この約束どおり、12月17日に、房太郎は鉄工組合発会式の模様を詳しく英文通信にしたためてゴンパーズに送っています。その通信は、「日本における新しい労働組合」として『アメリカン・フェデレイショニスト』*7はじめいくつかの労働組合機関紙に掲載されました。長いものですが、発足時の鉄工組合の状況をよく伝えていますので、全文を紹介しておきましょう。
さる12月1日夕刻、新しく結成された鉄工組合は、東京の青年会館において、著名な官吏や資本家を来賓に迎えて、はなばなしく発会式を挙げました。出席したのは組合員全員1200人と、それと同数の他の職業の労働者です。式は、組合創立委員会議長としての私自身の開会宣言によって始まり、労働者の同情者である佐久間貞一氏が最初に祝辞をのべ、ついで衆議院副議長・島田三郎氏、前大審院長・三好退蔵氏、高野岩三郎教授、鈴木純一郎教授が熱弁を振るいました。最後に、ウイスコンシン大学文学修士・片山潜氏が演説し、組合への万雷の拍手のうちに閉会しました。
この組合結成そのものについて、またこの発会式についても、いくつか注目される特徴があります。第一は、わが国の産業史において、鉄工組合ほど多数の組合員を擁して結成された労働者団体はなく、また労働者の主催で開かれた会合にこのように官吏や資本家が出席したことは例がないことです。さらに、このような多数の労働者の組合参加が、労働組合期成会による僅か5ヵ月間の運動の成果であるという事実を知れば、この国における労働運動の成長が注目に値することがお分かりいただけると思います。これまで誰が、低賃金が支配的なこの国で、鉄工組合のように大規模な組合が結成されることを、想像したでありましょうか。
日本の労働者の友人として、この組合の結成自体がおおきな喜びですが、規約を一読するとさらに嬉しくなります。組合結成を推進した人びとの配慮が、規約のすべての条項にうかがえるからです。現在のような日本の社会状況において、組織労働者が激越な宣言を発し、好んで過激な発言をおこなうのは愚の骨頂です。労働者がまだ十分に組織されておらず、つねに政府の強力な腕が労働者の組織を破壊しつくそうと身がまえているときに、組合の創設者が賢明にも純粋で単純な労働組合主義に代表されるような平和的・保守的方法を選択したことは賞賛されてよいでしょう。さらに創設者の意向は、党派的な政治色をもつ行動にはいっさい近寄らないことで、組合が危険にさらされるのを最小限にとどめようとしている、といわれます。組合員が選挙資格制限のため(国税15円を納めるものだけが投票資格を有するのです)完全に政治参加を拒否されているところで、労働組合が何らかの政治行動を宣言するといったことは、まさに無意味というほかありません。そのような行動によって得られるのは、政府の敵意と支配階級の嫌悪だけです。
こうした危険を避け、組合は救済金制度 ─ 疾病給付は、1年につき90日間について1日あたり20銭、葬儀給付は20円、死亡給付は10円から30円 ─ をもって組合員の連帯性を高め、これによって組織の強固な基盤を築こうとつとめています。組合費は、1カ月当たりで、ころ合いの金額である20銭が全組合員から徴収されます。組合員への初等教育 ─ この初等教育を受けていないのが日本の労働者の特徴です ─ は、組合の母胎である労働組合期成会に委託されます。ついでながら、この新組合は、期成会と密接な関係をもち、期成会によってつくられる他の組合との連携をとります。この方法は、既存の諸組合を連合させるという仕事を容易にし、期成会が他の職業の組織化に成功したとき、すぐそれらの組合を、組織労働者の軍勢の堅固な前線に参加させることを容易にするものと考えられています。
現在、組合は13支部を有していますが、うち10支部は東京市にあって合計1000人の組合員を擁しており、1支部は200人で横浜に、そしてあの頑強な日本鉄道会社の工場のある大宮に、組合員70人の1支部があります。来年中には、鉄工場のある国内すべての地方に支部が設置され、組合員を5000人に増加し得るだろうと期待されています。
おそらく皆さんのなかには、この組合の将来について疑いをいだく方がおられると思います。この報告で組合の将来について述べるのはまだ早すぎますが、ひとつだけ確実なのは、この組合の組織基盤が比較的強固なことです。それというのも、この職業の労働者は他の職業の労働者に比べるとより知的で、より多くの賃金を得ているからです。彼らに組織を維持する能力があることは、次のような事実が示しています。すなわち、労働組合期成会は、他の職業の労働者をわずか100人しか集めることが出来なかったのですが、鉄工の場合は同一期間内に1200人が期成会に結集したことです。これは、鉄工が知的でまた相対的に高賃金であるため、組織的な運動の必要性を容易に理解し、期成会の働きかけを受け入れやすかったことを示しています。こうした有利な要因があるので、現在のところでは、組合については明るい未来だけを予想しているのです。
一読して分かるように、鉄工組合がなにより重視したのは組合の持続的発展でした。そのためには、1)官憲の疑惑を招かぬよう穏健な方針をとること、2)労働者を組合に繋ぎ止めておくための共済活動、3)期成会と結んでの労働者教育の重視でした。
鉄工組合は、教科書的な労働組合の定義、たとえばウエッブ夫妻の「生活条件を維持・改善するための賃金労働者の持続的団体」とか、あるいは大河内一男氏の「労働組合は労働力の売り手の組織であり、それ以上でもそれ以下でもない」といった基準からすると、とても「労働組合」とは呼べそうにもない組織でした。しかし、これが日本の労働組合運動が出発した時の現実だったのです。
日本の労働問題研究は、伝統的に経済学者によってすすめられて来たこともあって、「労働組合とは労働力の売り手の組織」であるという規定を公理として論じられることが少なくないのですが、こうした基準だけでは、日本の労働組合、とりわけ戦前期の労働組合を評価することはできないと私は考えています。この問題については、またあらためて述べる機会があるでしょう。
【注】
*1 鉄工組合の創立日を何時と見るかについては、若干の問題がある。一般には発会式が挙行された1897年12月1日としている。しかし実際には、それより10日前、11月21日に「鉄工組合発起総会」が開かれている(『労働世界』第1号、復刻版9ページ)。なお、本文で引用した房太郎のゴンパーズ宛て書簡は、組合結成の日付を11月22日と記しているが、おそらく間違いであろう。11月21日は日曜であり、この日に発起総会が開かれたものと見てよいのではないか。次に示すように、鉄工組合の準備会合がすべて日曜に開かれていることが、それを傍証している。
1897(明治30)年10月24日(日曜) 鉄工組合規約編成相談会を開く。
1897(明治30)年11月14日(日曜) 鉄工組合創立相談会を開き創立委員の撰挙をなす。
なお、冒頭に掲げた写真は「労働組合期成会鉄工組合創立委員」の面々である。最前列、床に座り込んでいる人の右端が房太郎、その隣が片山潜である。この記念写真は、発起総会時のものではなく、1898(明治31)年11月29日の幹事会で役員の功労に酬いるため写真を撮影し、本部に掲げることを決めたこと(『労働世界』復刻版261ページ参照)により、撮影されたものと思われる。
*2 鉄工組合は、その組織対象について規約で次のように規定していた。
第2条 本組合は全国各地に居住する機械、鍛冶、製缶、鋳造、模型、銅工、鉄船工、鉄工場在勤機関手及火夫等の諸業に従事する者を以て組織す。
もちろん支部のなかには同一職種の労働者だけで組織されたものがあったと思われる。
なお、鉄工および鉄工場についての具体例は『職工事情』のなかにある「鉄工事情」参照。岩波文庫『職工事情』【中】所収。
*3 『労働世界』第2号(1897年12月15日付)、復刻版17ページには、この夜の会場の様子が次のように描かれている。
会館は鉄工諸氏の奮発にて数百の球燈は以て館外を照し各国旗章は以て其の祝意を表し、館内及び客室は花卉奇木を以て美しく装飾して古今未曾有の独立職工組合の開会式を挙げられたり。
また音楽隊の演奏があったことは、「鉄工組合発会式費用収支決算報告」に「音楽隊雇料心付及茶菓代」として15円50銭が支出されていることから判明する。なおこの会合の費用52円34銭は、組合員850人の拠出金34円75銭をはじめ、東京と横浜の船大工職工組合など有志の寄附59円95銭によって賄われ、7円57銭を残している(『労働世界』第6号、復刻版60ページ)。
*4 期成会結成の知らせを受けたゴンパーズは、ひとつの職種で充分な数の会員が集まったなら、なるべく早い段階で労働組合を結成するよう強く勧める手紙を書き送って来ている。1897年8月21日付の書簡参照。
*5 鈴木純一郎が東京工業学校講師のかたわら、農商務省商品陳列館で働いていたことは、房太郎『日記』から明らかである。もっとも、鈴木純一郎の名は、農商務省の職員録には記載されていない。しかし、鈴木が単なる「臨時雇い」的存在でなかったことは、1898(明治31)年6月から2年余り農商務省から商業視察のためイギリスに派遣されていることからも明らかである。鈴木は、農商務次官、農商務大臣を歴任した金子堅太郎から目をかけられており、後に金子が労働組合期成会で講演しているのも、鈴木の働きかけによるものと推測される。この金子との密接な関係は、日露戦争の際、金子が政府の密命を受けアメリカ国民の間における対日世論の好転をめざす「民間大使」としてアメリカに渡った際、その随員として働いていることからもうかがえる。
*6 「労働組合期成会成立及び発達の歴史(2)」『労働世界』第16号所収。『明治日本労働通信』393ページ参照。
*7 『アメリカン・フェデレイショニスト』第4巻第12号、1898年2月。
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