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高野房太郎とその時代 (73)




6. 労働運動家時代

鉄工組合参事会員・期成会幹事長として

永山栄次鉄工組合会計部長、片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』口絵写真より

 発会式を終えた鉄工組合は、その直後の12月10日に「本部委員総会」を開き、役員を選出しました。「本部委員」は今の労働組合なら中央委員に相当する役職で、各支部から組合員数に応じて50人未満1人、100人未満2人、後は50人ごとに1人を加える方式で選ばれるものでした。
  房太郎は、この最初の役員選挙で「本部参事会員」に選ばれています。「本部参事会員」とは、本部委員総会の決定を実行する、いわば「中央執行委員」です。参事会は、当初、房太郎をふくむ5人で構成されていましたが、後には11人に増員されました。
  房太郎以外の「本部参事会員」には、期成会幹事としての資格で片山潜、さらに会計部長、救済部長、庶務部長の本部3部長が就任しました。初代の会計部長には東京砲兵工廠の砲具製造所鍛工場で働いていた永山栄次、救済部長には「汽缶、機械」製造・中島工場の長老格の労働者と推測される大江松蔵が選ばれました*1。右上の写真の人物が永山栄次です。かなりの年配に見受けられますから、おそらく助役クラスの熟練労働者だったのでしょう。
  庶務部長の選出は難航し、当初は欠員のままでしたが、間もなく横浜船渠の職長で第3支部の平井梅五郎が就任しました。ところが、平井は就任後1ヵ月も経たないうちに会社からの圧力に屈して組合を脱退したため、同じ第3支部の支部員で、横浜第161番機械所の職長・森田長吉が後任の庶務部長に選ばれています*2
  このほかにも規約の上では、組合を代表する役職として「参事会議長」〔または参事会長〕が置かれ、会計・救済・庶務の3部長の互選によって選出されることになっていました。しかし、『労働世界』のどの号にも、また片山・西川『日本の労働運動』にも、参事会議長の名は記録されていません。おそらくこのポストは空席で、「労働組合期成会幹事長」でもある房太郎が、事実上鉄工組合の代表としての役割も果たしていたのではないでしょうか。
  参事会員と同時に、本部の会計委員6人、救済委員12人、庶務委員13人も選出されました。いずれも委員長をふくむ数です。この「会計委員、救済委員、庶務委員」という役職構成は、本部だけでなく、支部でも同様でした。もっとも支部の場合には、この他すでに見た「本部委員」と、支部長的役割を果たす「幹事」が選出され、各委員の定数は支部の規模によって異なりました*3。いずれにせよ、すべての支部に「救済委員」を置いた事実は、鉄工組合における共済活動重視の姿勢を明示しています。

 発足時の鉄工組合の組合員総数1180人で、それが13支部に分かれていました。各支部が組織基盤とした工場および1897年12月1日現在の組合員数はつぎの表にしめす通りです*4。注目されるのは、鉄工組合における東京砲兵工廠の比重の大きさです。砲兵工廠だけで7支部、677人と、支部数でも組合員数でも半数を超えています。

鉄工組合支部一覧(1)
支部名組織基盤組合員数
第1支部東京砲兵工廠小銃科仕上場189人
第2支部日本鉄道大宮工場53人
第3支部横浜(横浜船渠ほか)185人
第4支部逓信省電信灯台用品製造所40人
第5支部東京砲兵工廠小銃科機関場163人
第6支部本所地域の諸工場136人
第7支部東京砲兵工廠小銃科修理場108人
第8支部東京砲兵工廠小銃科製器場69人
第9支部東京砲兵工廠小銃科鍛工場41人
第10支部東京砲兵工廠銃砲科鍛工場64人
第11支部東京砲兵工廠砲具製造所鍛工場43人
第12支部新橋鉄道局鍛工場51人
第13支部新橋鉄道局旋工場35人

 なお、第6支部は本所地域の複数の工場を組織基盤としていましたが、その工場名と組合員数などは次の通りです。鉄道車両製造で知られた本所区錦糸町の平岡工場が43人、工作機械などを製造した本所区外手町の中島工場53人、金庫製造の本所区南二葉町の竹内金庫14人、深川区東大工町の東京紡績場15人、原鉄工場11人。
  このほか、現在のJR中央線の前身である甲武鉄道の鉄工6人も参加していました。ただし、支部を構成する条件である最低25人を満たしていませんから、他工場の支部に属していたわけですが、どの支部であったのかは不明です。当時、甲武鉄道の終点であった飯田町(飯田橋)で働いていた鉄工だったとすれば距離的に近い東京砲兵工廠の支部だった可能性が高いと思われます。

 ところで、5人の「参事会員」がいるといっても、毎日、鉄工組合の活動に従事することが出来たのは房太郎だけでした。片山潜はキングスレー館の経営と同時に『労働世界』の編集長でしたし、他の参事会員は雇われて工場で働いている身で、勝手に休むわけには行きませんでした。会計部長でさえ、月1回本部へ詰めるのがやっとでした。
  もちろん房太郎も、労働組合期成会幹事長としての責務も負っていたのですが、鉄工組合と期成会は不可分の存在でした。そのことは組合の正式名称「労働組合期成会鉄工組合」が明示しています。鉄工組合の組織活動は、そのまま労働組合期成会の組織活動でもあったのです。それに、期成会の本部も鉄工組合の本部も、ともに呉服町の貸席・柳屋に置かれていました。だから、毎日、本郷の母の家から呉服町へ通う生活そのものは、これまでとあまり変らなかったのでした。
  とは言え、鉄工組合の発足にともない房太郎の仕事量は急増しました。役員会の回数は2倍以上になりましたし、期成会の会員や鉄工組合の支部役員など、房太郎の助言を求める人びとが相次ぎました。こうした事態に対応して、房太郎は以下のような出勤時間表を『労働世界』に広告しています*5。出勤は午後からですが、1週間7日、つまり年中無休です。

 本会事務所ヘ幹事長出張ノ時間左ノ通リ改正致候間此段御通知申上候也
  一 日月火水木の五曜日 自午後一時半至六時半
  一 金土両曜日       自午後一時至五時

  一月十日      労働組合期成会
              事務所 日本橋区呉服町壱番地

会員諸君

 演説会への出演回数もずっと多くなり、その開催地も東京、横浜だけでなく、海軍工廠のある横須賀や日本鉄道の修理工場のある東北各県へと広がって行きました。残念ながら房太郎『日記』が1897(明治30)年分しか残っていないので、他の年については、彼の日々の動静までは分かりません。ただ猛烈に忙しかったことだけは明らかで、ゴンパーズ宛ての手紙は、いつも多忙の言い訳けから書き出しています。例えば、1898(明治31)年8月23日付の手紙はつぎのような文章で始まっているのです。

拝啓
 長い間ご無沙汰いたしてしまいまことに申し訳ございません。実は、鉄工組合が結成されからというもの、膨大な仕事があいついで押し寄せてきて、私の時間はすっかりその処理に奪われているのです。

 こんな様子ですから、房太郎だけで期成会と鉄工組合の本部事務を処理することはとうてい不可能でした。とくに経理事務は、房太郎はどうも苦手だったようです。そのため期成会時代から、主として経理を担当する書記を雇っていました。鉄工組合の発足にともない、1898年1月から、書記の給与もふくめ事務所関係の費用はすべて期成会と鉄工組合との折半になりました*6

 多忙に加えて、この頃、房太郎を悩ませていた問題がいくつかありました。そのひとつは生活問題です。彼は手弁当で運動を続けていましたから、いかに忙しくとも、何らかの手段で収入を得なければなりませんでした。それに支出増の要因も生じていたのです。この問題については、改めて述べることにしましょう。
  もうひとつの問題は、もっと不愉快なものでした。労働組合期成会の発足以降、警察が彼を要注意人物とみなすようになっていたのです。それでも、はじめのうちは演説会に警官が制服や私服で出席する程度でした。しかし、次第に警察は監視を強化し、陰に陽に運動を妨害し始めました。房太郎をはじめ、主立った運動家個々人に巡査の尾行がつき、警官が私宅を訪れて身元調べをおこなうまでに至っていたのです。こうした警察による運動妨害の事実は、『労働世界』をはじめ、同時代の日本語史料には、ほとんど記録されていません。発禁処分に対する警戒や、一般組合員が、労働運動に対して警戒心や恐怖心を抱くようになることを恐れたからでしょう。しかしそうした恐れのない英文通信では、弾圧の様子はより具体的に報じられています。鉄工組合発足直後の1898年1月17日付で執筆された論稿が「日本における労働運動家の経験」と題して、『アメリカン・フェデレイショニスト』に掲載されています。つぎにその一部を紹介しておきましょう*7

〔前略〕   有史以来2500年の日本の歴史において、被抑圧階級の権利を公然と擁護した事例は、ほんの数カ月前まで全くありませんでした。しかし、1897年6月25日の夕刻、労働運動の大義の推進を唯一の目的とする集会が開かれ、常に神経を尖らせている首都の警察を驚かせたのです。警察当局はいつも労働者を蔑視しているので、日本の労働者が労働運動といった組織的な活動を始め、これを持続させる力をもっているなどとは、夢想だにしませんでした。さらに、衆議院副議長の島田三郎氏や有名な資本家・佐久間貞一氏のような著名人が労働運動を心から支持するなどとは、考えてもいなかったのです。
  警察当局が、このように何も知らずに眠りこけていた時、突然、多くの有名人を講演者に加えた大衆的集会の開催が公表されたのです。このような集会は、労働者の暴力行使の予兆であると信じている人びとには、この知らせはまったくの不意打ちでした。そこで警察は、この集会を過度に重視して厳戒態勢をとり、多数の私服警官を会場に派遣しました。だが、彼らの予期に反し、この集会の聴衆は、かつて例のないほど、おとなしい労働者の集まりでした。
  また、講演者は一人として扇動的な言辞を述べませんでした。それどころか、どの弁士も聴衆に対し、労働者は過激な行動をさしひかえ労働組合結成をめざして前進するよう説いたのです。そして、警察にとって不可思議なことに、こうした穏健な忠告が聴衆の熱狂的な歓迎をうけたのです。警察は失望し、とまどいましたが、依然として疑念を捨てようとはせず、直ちに、この集会実現の中心となった人びとを厳重に監視し始めました。指導者の私宅に刑事が頻繁に訪れるようになりました。彼らの前歴が秘密裡に調べられ、あたかも犯罪容疑者のように尾行がつき、日々の言動を調べました。指導者たちの家庭生活は無慈悲にもかき乱され、かくて彼らの悲劇が始まったのです。しかし当局は、そこでも運動を弾圧する口実を何一つ見出すことが出来ませんでした。そこで彼らは次には、集会を成功裡に終わらせまいとする妨害戦術をとり、また運動参加者を陰で脅したのです。
  ある時は会場の秩序を保つという名目で制服警官が集会に配備されましたが、これは出席した労働者を威嚇すると同時に、弁士の発言を監視するためでした。またある時は、われわれの集会に会場を貸すことを密かに禁止しました。またある時には、運動参加者全員の名簿を提出せよと要求しましたが、これは組合員を脅して運動から遠ざけようとしたのです。
  こうした様々な対策をとりましたが、警察はわれわれの運動のなかに治安を乱す要素はなにひとつ見いだせず、その唯一の成果は、指導者たちの生活をいっそう悲惨なものにしたことでした。
  当局がつぎにどのような手をうってくるか、そしてどこまで運動を妨害しようとするのか、これがいま残されている問題です。つまり、これから先、われわれ日本の労働運動家にはいかなる不幸が待ち受けているかという訳です。〔後略〕

 期成会や鉄工組合の急速な発展は房太郎を喜ばせていましたが、同時に、警察による監視の強化や、いったん選出した本部庶務部長が会社側の圧力に屈して組合を脱退してしまったことなどは、前途の困難を予感させるのに充分でした。


【注】

*1 大江松蔵は、本所地域の複数の工場を組織基盤とする第6支部所属である。大江を中島工場の労働者と推定したのは、同支部所属でもっとも多い53人の組合員を擁していたのが「汽缶、機械」の中島工場53人だからである。もっとも組合員43人の「車両鉄物諸機械」の平岡工場の労働者であった可能性も皆無ではない。

*2 平井の退会と庶務部長の交代については『労働世界』第4号(1898年1月15日付、復刻版41ページ)参照。またその背景に横浜船渠会社の圧力があったことは、同号の「横浜の船渠会社と鉄工組合」(復刻版35ページ)参照。
 また後任の森田長吉が横浜第163番機械所の職長であることは上掲の「横浜の船渠会社と鉄工組合」および、『労働世界』第26号(復刻版p.260)参照。

*3 各支部の役員の氏名は『労働世界』第3号(復刻版30ページ)はじめ、各号の巻末近くにある「組合彙報」に記されている。

*4 片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』による。なお、支部の組織基盤のなかで、東京砲兵工廠の分工場と支部の対応関係は、推測によるものである。

*5 『労働世界』第4号(1898年1月15日付、復刻版41ページ)。

*6 『労働世界』4号(復刻版41ページ)、同8号(同81ページ)ほか参照。なお、書記は「毎日午前十時から午後六時まで」組合事務所に詰めていることが広告されている。

*7  『アメリカン・フェデレイショニスト』第5巻第1号、1898年3月。翻訳全文は『明治日本労働通信』(岩波文庫、1997年刊)169〜175ページ参照。





法政大学大原研究所        社会政策学会


編集雑記        著者紹介


Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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