二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(八四)

工場法制定の大運動計画

『労働世界』第40号巻頭論説

 本部常任に復帰した房太郎が、最初に取り組んだのは「対工場法案運動」でした。前年秋、常任をやめる直前にも、力を入れていたテーマです。その時は「工場法案」が農商工高等会議に諮問されていた最中で、房太郎ら期成会の陳情委員は、同会議の議員に政府原案の修正を働きかけ、ある程度の成果をあげました。しかし、農工商高等会議が修正案を可決した時には、法案を諮問した第一次大隈内閣は派閥対立のため事実上崩壊しており、工場法案は議会に提出されることなく終わりました。
 それから半年後、労働組合期成会は、ふたたび工場法制定運動に取り組むことを決めたのでした。今回は、鉄工組合だけでなく、他の労働団体にも呼びかけ、労働側として工場法案を策定し、その法制化に向け大規模な運動を展開することを企てたのです。月々の手当を払ってまで、房太郎を常任に復帰させることが簡単に決まったのも、誰もが彼はこの運動に不可欠の人材だと認めていたからでしょう。ところで、何故かこの運動のイニシアチブをとったのは、期成会ではなく鉄工組合でした。房太郎の常任委員再任を決めた六月二五日の鉄工組合第九回委員総会の議事録には、次のように記されています*1

 一 緊急動議 農商務省をして工場法案を来る議会へ提出せしむる為め、全国労働者の代表者を東京に集会せしめ、大運動を試みるの件
  大多数を以て可決。
〔中略〕
 工場法制定に対する運動方針の決定
一 期成会幹事並びに鉄工組合参事会員を以て法案編成委員と為す事
一 七月十日迄に支部各個人より意見を徴する事
一 七月の期成会月次会に於て討論を為さしむること

 鉄工組合の申し入れを受けた期成会の動向について、『労働世界』同号巻頭の論説〔上掲の挿絵参照〕は、次のように述べています。

 労働組合期成会は去月廿五日の月次会に於て鉄工組合の交渉を受け、終に一致して対工場法案運動を為すに決議したり。又進んで其一部事業として関西労働運動を直ちに決行することに定まり、本月の期成会幹事会を以て其の派出員を撰定し、愈八月初旬関西運動に着手せんとす。又対工場法運動として期成会は主謀者となり、全国の労働団体に向つて交渉し、工場法研究会なる者を東京に開き、各労働団体と共に協議して工場法私案を決定し、之を以て全国労働者が一致運動を為さんとするの計画なり。而して関西運動を着手するの前に東北各地へ視察員を派して、奥羽地方及北海道の組合員及労働者を訪問して彼等の意向を叩き共に伴に斯事に尽力せんとし、既に其常任幹事片山潜氏を派出し、現に奥羽地方に遊説中なり。又本部にては工場法案運動準備として、討論会に訪問に印刷に向て常任幹事高野房太郎氏尽力せらる。

 自前の事務所を設けた上に、房太郎を有給役員として中央に復帰させ、片山潜との「常任二人体制」にするなど、鉄工組合と期成会が積極策をとり、関東中心の組織から全国組織へ向けて一段と飛躍しようという、意欲的な姿勢がうかがえます。

 それはそうと、労働組合期成会や鉄工組合は、また房太郎は、なぜこれほど「工場法」制定にこだわったのでしょうか? 工場法の眼目のひとつである、年少労働者保護は、鉄工組合の組合員にとって、無縁とは言えないまでも、差し迫った課題ではありませんでした。もちろん、工場内における安全確保や労働時間の制限、休憩時間の確保、労働災害に対する補償等が法律によって定められることは、労働者側にとって有利であることは確かです。しかし、前回の工場法案運動の際、原案に職工證に関する規定が盛り込まれていた事実が示すように、組合員にとって不利な規定が盛り込まれるおそれもありました。
 実のところ、房太郎個人は、工場法よりも労働組合法の制定を重視していたと思われます。第五七回「運動開始を決断」で見たとおり、彼はまず、労働組合法制定の国会請願から運動を始めようと考えていたのでした。組合運動にとって決定的に重要なのは団結権の獲得であるとは、ゴンパーズから教えられたことでした*2
 もともと労働組合は、ごく普通の労働者を、できるだけ数多く組織することを目指す団体です。少数の意識的な人びとを結集する革命政党のように、秘密結社としてでも活動しうる組織ではありません。当然のことながら、労働組合運動の発展にとっては、組合員が不利な扱いを受けることのないよう、組合の存在が法的に認められることが決定的に重要でした。房太郎が、労働組合法の制定を重視し、組合員に対して秩序ある行動を絶えず呼びかけていたのも、こうした点に対する配慮があったからでした。
 しかし、当時の日本で、労働組合法制定の見通しはきわめて暗いものでした。労働者の自主的な団体というと、すぐ治安問題と結びつけて考える人びとが少なくなかったのです。その点「工場法」なら、農商務省が法案を策定した事実が示すように、開明的な官僚や社会政策学会の会員ら有識者の支持もあり、実現の可能性は、はるかに高いことは明らかでした。もちろん工場法が成立したからといって、労働組合が認められるわけではありません。しかし、工場法が制定されれば、つぎのステップとして、労働組合法制定が問題となるであろうことは、容易に予想されました。また何よりも、前回の運動の際、金井延が労働団体への法案諮問を提案した事実が示すように、工場法制定運動で力量を示せば、期成会や鉄工組合の存在を広く世に認めさせる成果をあげうる、と考えたものでしょう。

 こうした方針を受けて期成会は月次会で工場法案に関する討議を開始しました。七月二三日の第二五次月次会、八月六日の臨時月次会、八月二七日の第二六次月次会、九月三〇日野代二七次月次会と審議を重ね、期成会としての「工場法案」を策定しています*3。また、日本鉄道矯正会や印刷工組合、さらには大阪の大日本労働協会などに、共同して運動するよう申し入れもしています*4
 しかし、当初の意気込みにもかかわらず、工場法制定運動は盛り上がりに欠け尻すぼみの終わったようです。他の労働団体を集めて大集会を開くどころか、期成会としての示威集会さえ開けませんでした。何よりも、工場法案の請願という当初の目的さえ、実現しませんでした。『労働世界』第五六号(一九〇〇年三月一日付)は、なんと次のように記しています。

  ○鉄工組合記事
二月十三日夜参事会開会。決定事項左の如し
〔中略〕
一 工場法請願書は書式に違例ありたるを以て、到底本期議会へ提出の運びに至らず、依って参事会員代表者となり単に工場取締法制定を請願する事
 右了つて散会したるは午後十一時なりし。

 なぜ、このような結果に終わってしまったのでしょうか? その理由は、いずれ回を改めてとりあげることにします。いずれにせよ、復帰後の房太郎の日々は、なんとも不本意なことばかり続いたようです。これについても、またふれる機会があるでしょう。



*1 『労働世界』第四〇号(一八九九年)

*2  一八九四年三月九日付、サミュエル・ゴンパーズから高野房太郎宛書簡。同書簡英語原文

*3 『労働世界』第四六号(一八九九年一〇月一五日付)〔復刻版四四四〜四四五ページ〕。

*4 『労働世界』第五〇号(一八九九年一二月一日付)〔復刻版四六八ページ〕。



『高野房太郎とその時代』目次 第八五回



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