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高野房太郎とその時代 (57)




6. 労働運動家時代

運動開始を決断

サミュエル・ゴンパーズより高野房太郎宛て書簡、1896年10月31日付。本節注1で紹介している手紙。

 1896年暮、帰国してまだ半年、デイリー・アドバタイザー社に就職してまだ数ヵ月しか経っていないのに、房太郎は早くも労働運動家として立つことを決断しました。いったん決めたとなると行動に移すのは早く、彼はすぐ新聞社に辞表を出し、運動開始の決意をゴンパーズに書き送っています。やや長い手紙ですが、彼の生涯の一大画期となった事実を伝えるものですから、以下に全文を翻訳紹介しておきましょう。なお、冒頭にある「新聞の切り抜き」とは、AFL本部のあるインディアナポリスの地元紙が房太郎について紹介した記事の切り抜きです。房太郎からの手紙が届いた席にたまたま居合わせた地元紙の記者に、ゴンパーズが奇特な日本の若者のことを語り、それが記事になったのでした*1

 
アメリカ合衆国インディアナポリス
サミュエル・ゴンパーズ様

拝啓
 10月31日付のお便りと同封されていた新聞の切り抜きを、有難く、また興味をもって拝読いたしました。切り抜きの記事に書かれているほど、私が賞賛に値するとはとても思えませんが。
  この手紙がお手元に届くのは、新年を少し過ぎた頃ではないかと思いますので、この機会に新年のご挨拶を申し述べたいと存じます。
  また、シンシナチ大会であなたが会長に再選されたであろうことに、心からのお祝いを申し述べては間違いでしょうか。もちろん、今の私には選挙結果を知るすべはありませんが、私の見るところあなたは絶対優勢ですし、なによりアメリカの労働者が健全な判断をくだすことに疑いをさしはさむ余地はありませんから。
  この1年は、日本の労働運動史上、もっとも注目すべき時期でした。労働問題に関する世論に大きな変化が見られたのも、この1年のことです。また、労働者階級の福祉についてこれほど論じられた年はかつてありません。このように注目すべき世論の前進があったのは、一方では労働需要の著しい増加があり、他方ではストライキが繰り返し起きたからです。これらの要因は今なお存在していますから、来るべき年も、この国の虐げられた民衆のためにさまざまな活動が展開されるであろうと予言しても、大きく外れることはないでしょう。
  ここで、私自身も彼らに手をさしのべようとしていることを、あなたにお知らせしたいと存じます。一カ月前に私はこの決意を固めたのですが、事情があってその時は申し上げるのをためらったのでした。しかし日が経つにつれて、絶好の機会が近づいており、ただ何もせずに、この好機を逃してしまうのは愚の骨頂であることがはっきりしてきました。もはや躊躇している余裕はないので、1週間前にデイリー・アドヴァタイザーを辞め、友人の一人──靴造りを職業にしています──と相談するために上京しました。
  その結果、12月22日に3ヵ月の会期で開会する衆議院に、職業別労働者団体に関する法律の制定を求める請願書の提出を第一歩とする運動の計画を作り上げました。請願書では、同法は職業別組合主義の主要原則のみを定めるものとし、組合の運営や管理は完全に組合自身の手に委ねるよう提唱します。言いかえれば、その法律は、実質上、働く人びとが職業別に団結するような、政府の命令です。請願書の提出に先立って、私は東京でなるべく多くの署名を集めるために一連の集会を開催する予定です。これは私たちの実際的な運動の出発点となり、その後は世論を喚起する運動を続けるつもりです。ここで私が思うのは、なぜ請願書を提出するか、その理由を説明することが不可欠だということです。日本では、政府以外に労働者の組織化を焦眉の急として、彼らを決起させる力をもっているものがありません。組合結成に関しては、政府のひとつの命令が、数年間の世論喚起の努力に匹敵するのです。この法律が発布されれば、われわれの組織化の努力および日本の労働者の労働条件の改善へ向けた運動は大いに促進されるものと確信しています。現在、私はこの請願書を書いているところで、1月中には衆議院に提出できるだろうと思います。
  私は、運動の第一歩をやり通すのに必要な資金を自分で稼ぎ、さらに自分自身の生活を支えるためにも、英語を日本語に、また日本語を英語に翻訳する仕事に従事して、元気に過ごしております。この翻訳の仕事を運動の余暇にすることで、何とか生活が成り立つだけの収入は得たいと考えているのです。できればなるべく多くの収入を得たいので、あなたのご尽力によって、御地の労働新聞あるいは労働雑誌に、毎月、日本の産業あるいは産業生活に関する小論を寄稿し、それに対し多少なりとも一定の報酬を得ることが考えられないかどうか、お伺いする次第です。もし、あなたの友人諸氏に宛てて、この問題についてお尋ねくださり、できるだけ早い機会にお知らせいただければ、ご恩は終生忘れません。
 なお、貴組織の紋章の図柄──地球と握手を組み合わせたもの──を使わせていただけないでしょうか。お差し支えなければ、これを私がいま創立しようとしている会の紋章として使わせていただきたいのです。
 また、近いうちにお便りいたし、運動の最終的な計画についてお知らせしたいと存じます。
                                敬具

1896年12月11日

                    横浜にて
                       高野 房太郎



  本書簡英語原文      

   この手紙は重要な内容をいくつも含んでいますが、まず注目されるのは、日本の社会・経済の現状に対する房太郎の認識です。今こそ労働運動を始める絶好の機会であると考えているのです。その根拠は、1896年中にストライキが頻発し、労働問題に関する世論の変化が急速に進んだこと、そうした動きは翌1897年においても続くであろうと予測したからでした。こうした判断は、実は、この手紙より2ヵ月前の10月10日付ゴンパーズ宛書簡でも述べられていました。すでに第55回で紹介したところですが、関連箇所をもう一度見ておきましょう。

 お送りした新聞でお気づきかと存じますが、この国でもストライキがしばしば起きており、働く人びとの不満が高まっていることが分かります。また、これまで起きたいずれのストライキも成功をおさめていますが、これも〔労働〕市場の状況を考えればとくに不思議ではありません。今ほど労働需要が盛んなことはこれまでなかったことで、もし力のある指導者に率いられて運動するなら、労働者はさしたる苦労なしに雇い主を屈服させることができると断言しても、それほど的外れではないと存じます。私自身が非力で、彼らになにか実質的な援助をできずにいることはまことに残念です。ストライキについての記事を新聞で見ると、私は実際、自分がその場にいて闘争計画について助言できれば良いのにと考えるのですが、それに必要な費用を考えていつも自制しています。しかし、これから先もずっとこのように何もせずにいるつもりはなく、いずれは労働者状態の改善のために私が実行したことをご報告できるようにしたいと思います

 「もし力のある指導者に率いられて運動するなら、労働者はさしたる苦労なしに雇い主を屈服させることができる」との断言は、いささか楽観的に過ぎるでしょう。しかし1897年もストライキが頻発し、労働問題に関する論議が高まるであろうとの観測は、その後の事態の推移を言い当てたものでした。実のところ、冒頭の手紙が執筆された1896年末時点での労働争議件数は、それほど多くはありませんでした。いま分かっている限りですが、同年中の労働争議は25件、うちストライキは三重紡績や門司の沖仲仕など14件に過ぎません。しかし、翌1897(明治30)年になると労働争議は急増し、年間112件、うちストライキは81件に達しています*2。日本の労働争議統計が1897年後半から始まった事実は、労働争議が多発し、政府がこの問題の重要性を認識するようになったことを明示しています。いずれにせよ、今が労働運動を始める好機であるとの認識そのものは、間違ってはいませんでした。1896年暮という、労働争議の増加といってもまだその予兆といってよい段階で、房太郎がこのように先行きを見通し得たことは、彼がいかに労働問題の推移を注意深く見守っていたかをうかがわせます。また、労働争議急増の背景として労働需要の増加をみていたことは、その経済を見る目の確かさを示しています。
  もうひとつこの書簡の内容で注目されるのは、運動の第一歩として、労働組合法制定の国会請願を企図していた事実です。これは、おそらくはゴンパーズの考えに示唆されたものと思われます。ゴンパーズは、房太郎から労働組合運動の進め方について訊ねられた時、団結権の獲得こそ、運動の最初のステップとして重要であると教えていたのでした*3
  しかし、第二次世界大戦前の日本で、団結権の法認はきわめて困難な課題でした。内務官僚が労働組合法制定を推進しようとした時でさえ、成立にはいたらなかったのです。まして労働組合そのものがほとんど知られていない段階で、労働組合法の制定について働きかけても、人びとの理解を得ることは無理でした。誰も彼を援助してくれないので、房太郎は請願書の作成から労働組合に関する説明文まで、独力で準備するほかありませんでした。1897年2月11日のゴンパーズ宛の手紙は、前年暮の手紙とはうって代わって、運動の困難さを伝えるものとなっています。その一部を見ておきましょう。

 先にお知らせした、日本の労働者を組合に組織する事業は誰の助けも得られないこともあって、あまり進んでいません。議会への請願書はでき上がりましたが、提出するには労働組合の計画についての十分な情報を提供する文書を整えなければなりません。また働く人びとに対しても、決起して団結せよとの呼びかけが必要です。貴組織および国際葉巻工組合、機関士組合の規約の翻訳、そのほか労働組合はいかにあるべきかといったことを日本の労働者に分からせうるパンフレット類の翻訳など、あらゆる仕事がすべて私の肩にかかっています。こうした準備段階の仕事が終われば、実際運動の第一歩として演説会に取り組もうと考えています。 〔中略〕
  わが国では、〈労働者の友〉を自称する人びとからさえ、私の事業に協力はおろか、私の苦労への同情の声も期待できません。彼らは社会主義を論じ、工場法の必要性を語りますが、誰一人として労働組合の可能性について理解する者はおりません。この問題についていえば、彼らは労働運動の実際について初歩的なことさえ知らないのです。かくて私には、働く民衆だけでなく、いわゆる労働者の友人に対しても、組合の必要性を教えるための大仕事があるのです。〈労働者の友〉に対する教育について言えば、現在のところはほとんど何もなしえず、ただわれわれに敵対しないようにしている程度です。いずれにせよ、私の事業の見通しは暗いのですが、合衆国の友人からの同情と励ましが私の信念を強め、辛い日々を無事に乗り切る力を与えてくれることを祈っています。

 彼を励ましたのは、ゴンパーズらアメリカの友人たちの声と、職工義友会の仲間、城常太郎、沢田半之助の支援だけでした*4。結局、労働組合法制定運動は、すぐに断念せざるをえませんでした。半年もたたないうちに、房太郎はゴンパーズ宛の手紙で次のように報告しています*5

 「以前あなたへの手紙でのべた衆議院に〔労働組合法制定の〕請願を提出することは、一議員の忠告にしたがって取りやめました。しかし、彼は、つぎの会期中に、労働組合の結成を奨励する法案を国会に提出することを約束してくれました。」

 おそらく「国会にこの請願を出しても、取り上げられる見込みはまったくない」と言われたものでしょう。

   ところで、労働運動家として立つことを決意した房太郎にとって、もっとも重大かつ切実だったのは、いかに家計をなり立たせるかということでした。安い給料だったとはいえアドヴァタイザー社からの収入がなくなったのです。運動にたずさわる自由な時間を確保しつつ、一定の収入を得るにはどうしたらよいか、それが問題でした。そこで彼が考えたのは、アメリカの労働組合機関誌に英文通信を送り、原稿料を得ることでした。『アメリカン・フェデレイショニスト』への寄稿を、ゴンパーズが高く評価してくれていたことがヒントとなり励ましにもなったのでしょう。冒頭に掲げた手紙の最後で、彼はこの件についてゴンパーズの支援を求め、「ご恩は終生忘れません」とまで述べて、その必死の思いを伝えようとしています。AFLの本部がインディアナポリスからワシントンDCに移転するという多忙を極めた時期にもかかわらず、ゴンパーズは快くこの請いを容れ、傘下の組合に働きかけ、かなりの成果をあげました。これについては、いずれ回をあらためて詳しく述べたいと思います。


【注】

*1 この房太郎紹介の新聞記事については、つぎのゴンパーズ書簡(口絵写真)を参照。本節の冒頭で紹介した手紙は、これに対する返信として書かれたものである。

1896年10月31日
日本・東京
F. タカノ 様
  9月10日付のお便り拝受、拝読いたしました。お手紙が届いたとき、たまたま新聞記者が来ており、どのようにして知り合ったか、貴君が労働運動に関心を抱くようになった経緯などについて話しましたところ、その件を記事に書くことを約束いたしました。
  おそらく明日の新聞に掲載され、口述したこの手紙が書き上げられるまでの間には手に入るでしょうから、その記事の切り抜きを同封するようにいたさせます。事前の了承なしにこのようなことをしたことをお許しください。
 『デイリー・アドヴァタイザー』はまだ届きません。首を長くして待っているのですが。1日の発行部数が80万部になる合衆国の新聞事情からすると、発行部数がわずかに600部そこそこの新聞が存在しうるのが不思議に思われます。今後発展の余地が十分あることは明らかで、日本の皆さまがこうした目前の好機を利用されることは間違いないと思います。
  日本の働く人びとが、アメリカやイギリスの仲間の後を追っていること、すなわち日本の領土内に「外国のもの」が入り込むことを許していること、も明らかです。それは他ならぬ「ストライキ」で、これは我々がつねづね「非アメリカ的」であると言われているもので、おそらく貴国においても、ストライキは非愛国的であり、非日本的だと非難する勢力がいることでしょう。人びとが愛国主義をどのように理解しているのか、また愛国主義の名のもとにどれほどの悪行がなされているのか、驚くべきことです。どこかで読んだのですが、愛国主義は、悪党や人権の破壊者の間での最新流行なのだそうです。
  貴方が帰国の同胞の闘争を助けることができる情況ではないことは残念です。しかしながら、いずれ、貴方が彼らへもっと注意を向けることが出来るようにななり、貴方の経験を生かして忠告を与えることが出来るようになる時が来るであろうことを確信しています。
  『フェデレイショニスト』の9月号および10月号に貴方のお便りと論稿を掲載したことはご承知のことと存じます。総同盟シンシナチ大会の招集状を同封いたします。『フェデレイショニスト』の11月号は月曜日に発送いたします。もちろん、お忙しい貴方に無理は申せませんが、私的あるいは公的にでも、私宛てに、日本の労働条件や、勤労民衆の間における組織化の進展についての情報をお知らせくだされば、まことに幸いです。
貴君のご成功と、もっと頻繁にお便りくださることを願いつつ。
                             敬具。
サミュエル・ゴンパーズ

 何とかこの地方紙の記事を探し出そうと努力してみたが、未だに発見しえずにいる。ただ、この事実だけでも、ゴンパーズが房太郎を高く評価していたことが分かる。

*2 この件数は、新聞や雑誌などで報じられた労働争議を後に集計したもので、同時点できちんとした統計的手続きにしたがって記録されたものではない。より長期的な動向は、二村一夫「日本労働運動史──1868-1914」の第1表参照。

*3 1894年3月9日付、サミュエル・ゴンパーズから高野房太郎宛書簡。同書簡英語原文

*4 冒頭の書簡で、「1週間前にデイリー・アドヴァタイザーを辞め、友人の一人──靴造りを職業にしています──と相談するために上京しました」とある友人が、城常太郎であることは確実である。彼は、房太郎の帰国に先立ち、1896年2月18日に帰国し、3月28日消印の葉書で次のように房太郎に書き送っています。

「拝啓野生こと去月十八日帰朝。其后種々取込居候為め遂々御無沙汰御海容被下候。陳者少々御面談仕度義モ有之候間何時頃御在宿ニ御座候ヤ。御一報願上候。余ハ拝眉ニ譲ル 早々 三月廿八日」。

 なお、この葉書の宛名は千駄木林町百八十番地高野房太郎、差出人城の住所は京橋区宗十郎町十七番地真田方となっている。

*5 1897(明治30)年5月2日付、高野房太郎よりゴンパーズ宛書簡。 高野房太郎著『明治日本労働通信』(岩波文庫、1997年刊)45〜48ページ参照。






Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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