高野房太郎とその時代 (93)6. 労働運動家時代労働組合期成会をめぐってしばらく鉄工組合ばかり取り上げて来ましたが、「労働運動家時代」を閉じる前に、労働組合期成会をめぐるいくつかの問題について検討を加えておこうと思います。房太郎の主な活動の場は、鉄工組合だけでなく、労働組合期成会でもありましたから。対外的な活動舞台という点では、むしろ期成会の方が大きな役割を果たしていました。東京市内や横浜、横須賀、大宮などで開いた数多くの演説会、東北遊説や工場法制定運動、日本最初のメーデー集会を意図した「大運動会計画」などは、いずれも期成会の企画でした。さらにつけ加えれば、鉄工組合の組織や活動はすべて海外の運動体験に学んだものでしたが、労働組合期成会の構想、すなわち知識人が主導する労働組合運動についての宣伝教育機関を組合に先立って設立するという構想は、房太郎が自分の頭で考え、ゴンパーズをも説得して採用したものだったのです*1。 あらためて言うまでもなく「労働組合期成会」は日本に労働組合運動を広げようとする人びとの集まりでした。そのメンバーであることが参加者個人の利益になる、といった性質の組織ではありません。その点は、組合員に実際的な利益をもたらすことをセールスポイントとした鉄工組合との大きな違いです。だからこそ、房太郎は知識人に大きな期待を寄せていたのです。その際、彼が想定していたのは、社会政策学会の会員のような労働問題についての研究者だったと推測されます*2。しかし、学会員で期成会に直接協力を惜しまなかったのは弟の岩三郎と鈴木純一郎だけでした。金井延や桑田熊蔵、田島錦治らも労働組合の理解者でしたから、期成会に参加する可能性はあったと思われますが、実現しませんでした。しかし、全体的にみれば、かなりの数の知識人が房太郎らの呼びかけに応え、さまざまな形で期成会の活動に協力しています。
知識人の間でもっとも積極的な活動家となったのは片山潜でした。彼は『労働世界』創刊後はその編集長として毎号のように論説を書くなどして運動内での影響力を増し、ついには房太郎をしのぐ力を発揮するに至ります。片山は、日本の社会運動史上、機関紙を掌握することの重要さを最初に認識した運動家でした。『労働世界』の発行所である労働新聞社が財政難に陥った時、片山はすすんで『労働世界』の経営を引き受けたのです。もともと労働新聞社は、労働組合期成会の会員だけを出資社員として創立された企業です。しかし『労働世界』の継続刊行が困難になるや、片山は単独でその経営を引き受けることを決断し、1900(明治33)年10月1日号から片山潜の個人責任で発行する新聞としたのでした。同紙はその後、日刊の『内外新報』、雑誌版『労働世界』、『社会主義』、『渡米雑誌』、『週刊社会新聞』などと改題を繰り返しつつ、明治社会主義運動の機関紙誌の主要な一系列として、1911(明治44)年まで、片山潜の活動拠点であり続けたのです。
ここで話をもう一度、労働組合期成会に戻しましょう。片山潜のほかに、期成会の活動に加わった知識人には、つぎのような人びとがいました。 いずれにせよ、日本ではまだほとんど知られていなかった労働組合運動の応援団として、これだけの協力者が現れたことは、房太郎の構想がそれなりの成果をあげたものと見て良いでしょう。ただ当然のことながら知識人だけでは労働組合期成会は成立せず、維持することも出来ませんでした。何より、彼らの数は限られており、財政面で会を支える力はなかったからです。 なにしろ、期成会は金食い虫でした。『労働世界』の刊行には1号あたり30円ほどかかりました*5。さらに、演説会を開くにせよ、地方遊説をおこなうにせよ、先立つものは金でした。錦輝館や横浜蔦座などを使った大演説会を1回開くとなれば、席料だけで15円、下足係の日当、宣伝ビラの印刷費などの諸経費を含めれば20円から30円近くかかったのです。比較的高賃金の大工や石工でさえ1日50銭前後、印刷工などは40銭に満たない頃のことでした。要するに、演説会を1回開くためには労働者1人の1ヵ月から2ヵ月分の稼ぎに相当するお金を必要としたのです。小規模な集会でも7、8円はかかりました*6。さらに地方遊説ともなれば汽車賃や宿代なども馬鹿になりませんでした。こうした経費は、当初のうちは寄附金でまかなわれていましたが、それでは持続的に活動することは困難でした。
実際に財政面で大きく貢献したのは労働者、とりわけ鉄工労働者でした。これは房太郎はじめ職工義友会の面々の予想をはるかに上回るものだったに違いありません。もともと房太郎は、日本の労働者は自ら労働運動を始めることが出来ないほど「無知」であると考え、だからこそ、労働組合期成会のような宣伝啓蒙団体が必要だと考えたのでした。しかし実際には、期成会に率先して参加してきた先進的な労働者は、一般の知識人などよりはるかに良く房太郎らの訴えを理解したのでした。彼らの知的レベルについて、房太郎はあまりにも「無知」だったというべきでしょう。
なお、期成会の会費は1人毎月10銭でしたが、鉄工組合の組合員の場合は半額の1人あたり5銭で、これを毎月の組合費20銭のなかから組合が一括して期成会へ納入していました。したがって、鉄工組合の期成会費納入状況を見れば、鉄工組合の組合員数も判明します。つまり1898(明治31)年中に鉄工組合が納入した期成会の会費は1ヵ月平均75円09銭、これは1502人分になります。翌1899(明治32)年は、1ヵ月平均84円75銭、1695人分になります。これに対し、1900(明治33)年になると、鉄工組合からの会費納入額は激減しています。2月〜4月はデータが欠如しているので正確なことは分かりませんが、5月以降は完全にゼロになっています。これはおそらく1900年6月9日決定の「鉄工組合刷新策」で組合費の使途をつぎのように決めたことと関わっていると考えられます。 三、 組合之経費支途を改正して 前々回、この「刷新策」を見たときには触れませんでしたが、鉄工組合の支出項目に「労働組合期成会々費」がまったく計上されていません。もともとは組合員1人につき5銭を期成会費として納め、その対価的な意味合いで『労働世界』を月2回、組合員には無料で配布していたのですが、この「刷新策」では、期成会費を納める代わりに「新聞一回之代金弐銭」が計上されたのでした。つまり期成会への会費納入をやめ、月1回の『労働世界』代金として労働新聞社へ2銭を支払うことを決定した形です。 【注】*1 高野房太郎『明治日本労働通信』(岩波文庫)18〜19ページ参照。 *2 房太郎は、ゴンパーズに面会する前に、アメリカ労働総同盟機関誌『アメリカン・フェデレイショニスト』に寄稿した論文で以下のように述べています。 日本に労働運動が存在しないことの原因が無知にあることはよく知られていますが、その治療法も同じく周知のことです。すなわち、人びとを奮い立たせ、組織し、教育することです。〔中略〕日本で労働運動を創始するには、この方策、つまり人びとを奮い立たせ、組織し、教育することしかなく、私は何のためらいもなく、これを推奨します。しかし、この方法には慎重な配慮を要する他の側面、実際的な側面があります。 房太郎が「工場法制定の必要性を説いているすぐれた学者」と述べたとき、念頭にあったのは金井延、添田寿一らであったに違いない。「金井博士及び添田学士に呈す」〔高野房太郎『明治日本労働通信』(岩波文庫)289〜293ページ〕参照。なお、上に引用した論稿全文も同書83〜97ページに収めてある。 *3 片山潜『わが回想(上)』(徳間書店、1967年)249ページ。 *4 『労働世界』各号の広告欄参照。『労働世界』は運動の機関紙であっただけでなく、片山個人の事業の宣伝にも大いに活用されたのであった。 *5 「鉄工組合本部臨時本部委員総会議事録」につぎのように記されている。 ▲武田君 千人くらいの人にやる新聞は僅かの金ならん。 『労働世界』第55号(1900年2月15日付付録、復刻版517ページ)。 *6 演説会を開くための費用明細は『労働組合期成会寄附・演説会費・出版物控』(法政大学大原社会問題研究所所蔵)に記されている。 *7 この表は『労働世界』各号に掲載された「労働組合期成会会計報告」の収入欄のうち繰越金を除いて集計したものである。鉄工組合からの会費納入はしばしば遅れ、複数月分を一括納入している場合がある。ここではすべて実際に納入された月分として計上している。なお、1899年12月は、繰越金を除いた収入総額103円60銭に対し、鉄工組合分は139円30銭と矛盾した数値が掲げられている。おそらくどちらか、あるいは両者とも誤っている可能性があると考えるが、それを判断しうる材料がないので、そのままにした。 |
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