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高野房太郎とその時代 (92)




6. 労働運動家時代

鉄工組合の壊滅

『労働世界』第63号、1900(明治33)年7月1日付、巻頭論文「鉄工組合の基礎定まる」

 1900(明治33)年6月9日、鉄工組合本部委員総会は、死亡給付金だけ残して共済制度を全廃し、組合費20銭のうち6銭を基金として積み立てて財団法人設立をめざすなどの「改革策」を打ち出しました。この決定を報じた『労働世界』第63号は、その巻頭で「鉄工組合の基礎定まる」と題する論説を掲げ、新たな方針のもと、強固な組織を再建発展させる意気込みを見せています*1。もっとも、その欄外トップには「労働界の変調及逆勢を恢復するは労働者の手腕を待つ」との〈呼びかけ〉を掲げていますから、運動が逆境にあることは強く意識していたのですが。
  しかし、この方針転換はまったく成果をあげえず、むしろこの時を境に鉄工組合の各支部はその実質を失い、組合とは名ばかりの存在になって行きました。鉄工組合の実勢の推移は、会計報告が1900(明治33)年2月分を最後に発表されていませんから、分かりません。しかし種々の状況証拠は、1900(明治33)年夏から秋にかけて、鉄工組合が壊滅状態に陥ったことを示しています。

  状況証拠の第1は、この鉄工組合の会計報告が公表されなくなった事実そのものです。実情を知らせることが組織の維持に悪影響を及ぼす、と当事者が考えるほど、財政状況が悪化したからだと思われます。

  状況証拠の第2は、『労働世界』第64号(1900年8月)以降、《組合彙報》欄に支部の活動がほとんど報じられなくなったことです。それまで『労働世界』は鉄工組合の本部役員の交代はもちろん、支部役員の改選なども詳しく報じていました。しかし1900年8月以降、支部に関する情報は紙面にほとんど現れなくなり、1901(明治34)年に入ると《組合彙報》欄そのものが消えてしまいました。これも、組織の実態を反映したものと見るべきでしょう。

  状況証拠の第3は、『労働世界』が経営的に行き詰まってしまった事実です。1900年6月9日に決定された鉄工組合「改革策」のポイントのひとつは、『労働世界』の発行頻度を月2回から1回刊行に減らす一方、組合費のなかから毎月2銭を紙代として支払うというものでした。しかし現実には、『労働世界』はすぐに印刷代さえ支払えない状況になり、月1回の刊行さえままならない状況に陥ったのでした。原因は鉄工組合が紙代を納入しなかったからで、『労働世界』第68号はつぎのような広告を掲載しています*2

     緊急広告
労働世界は明治卅年十二月初号を発刊してより茲に三ヶ年一日の如く幾多の困難と幾多の経験との間に義侠の精神と熱誠とを以て我幾万の労働者に忠実と同情の言思と文明の知識を風調し、鼓吹したり。然るに経済界及工業界の不振は組合の不振となり、社の経済に一大困難を生じたり。印刷代支払の延滞は社をして進退維究せしめ、且や我社と直接の関係を有する組合は其代金支払に困難を感ずるに至れり。故に明治卅三年九月廿五日鉄工組合本部に於て社員総会を開会し、其決議左の如し。
  一、 労働新聞社は九月卅日以後は左の条件を以て全部片山潜の責任に帰す。
     一、 労働新聞社は明治三十三年九月三十日以前の労働世界代金を期成会及鉄工組合に請求せざる事
     二、 労働新聞社は九月卅日迄の収支決算を為し、若し残金ある時は之を各社員持分券に応じて分配する事
     三、 労働新聞社は九月卅日迄の決算に於て残金を生じたる時、之を社員に支払の外は一切関係を有せざる事
                         労働新聞社
 社員御中

 つまり、改革策を打ち出して3ヵ月もたたないうちに、鉄工組合は『労働世界』の紙代さえ納入出来なくなっているのです。

  状況証拠の第4は、1900(明治33)年10月27日に開かれた鉄工組合本部委員総会が、つぎのような決議を行っていることです*3

 一 本組合常任幹事の定額車代を廃止して実費を給すること
 一 本部は会員中経費未納者へ特別通知書を発して催促する事
 一 本部役員改選は来明治卅四年一月総会迄延期する事
 一 本部は通常経費の集まる迄基本金を以て死亡救済金に流用する事を得

 決議項目のすべてが、鉄工組合の著しい衰退を示唆しています。第1項の「定額車代」とは、片山潜に支払われていた常任委員としての給与をさしています。これを、定額の月15円でなく、片山が実際に組合活動のために支出した交通費の実費にすることに改めたのです。とりわけ注目されるのは第2項で、組合の基本単位である支部が機能不全に陥っている状況を明示しています。もともと会費徴収は各支部の最も重要な任務のひとつだったのですが、ここでは本部が会費未納者への催促を直接おこなうことを決めているのです。さらに経常費だけでは死亡救済金さえ支払えず、基本金を流用せざるを得なくなっている事態は、財団法人化をめざして基金を蓄積しようとの改革方針が破綻している事実を明示しています。

  状況証拠の第5は、『労働世界』1901(明治34)年新年号から、それまで恒例となっていた鉄工組合支部員連名の年賀広告がまったく出なくなったことです。

1900(明治33)年『労働世界』新年号年賀広告 1901(明治34)年『労働世界』新年号年賀広告

 上の写真をご覧ください。左は1900(明治33)年の新年号、右は1901年の新年号です。『労働世界』の広告ページそのものは、明治33年の3ページに対し34年は6ページと倍増しています。しかし34年に支部として年賀広告を出しているのは支部結成からまだ半年も経たない第37支部(東京砲兵工廠小銃製造所銃床場)だけ、それも支部名だけの2行広告で、支部員の名はまったく記されていません。組合関係者で年賀を掲げているのは小沢辨蔵、永山栄次、馬養長之助、村松民太郎、片山潜ら、経済的にも余裕のある組合役員だけで、いずれも個人名の広告です。あとは歯磨き、醤油、薬、銀行などの商品や企業の広告が紙面を埋めています。『労働世界』が広告収入に依存して辛うじて刊行を継続している状況と同時に、鉄工組合の支部がほとんど消滅してしまっている事態を反映したものと言えるでしょう。

  状況証拠第6。これは、かならずしも鉄工組合全体の動向を示すものではなく、一部の主要支部、具体的には日本鉄道大宮工場と東京砲兵工廠の事例です。しかし、両者は、創立期から鉄工組合の中心的な組織基盤でした。この2つの経営体において、治安警察法公布前後から、経営側の反組合方針の前に、鉄工組合支部は壊滅させられているのです。これは鉄工組合全体の組織動向にとっては「状況証拠」的ですが、両者における鉄工組合支部壊滅の事実は史料的に明白で、単なる状況証拠ではありません。
  日本鉄道大宮工場においては、1900年3月、第2支部が中心となって、日本鉄道で働く鉄工の待遇改善運動を開始しました。これに対し、会社側は治安警察法の条文を職場に掲示して運動を抑えた上、大宮工場の労働者28人、盛岡工場で15人、福島で2人を解雇しています*4。さらに新規採用に際しては、求職者が期成会と無関係であることを条件としたのです。その結果1900年の半ばになると「大宮工場在勤の鉄工は極秘密に組合員たるを得るのみ」といった状況になってしまったのでした*5
  東京砲兵工廠の場合も事態は同様でした。村松民太郎のように「助役」として労働者の最高位にある有力者であっても、鉄工組合の活動家であることが原因で、退職に追い込まれています*6。その結果、1901(明治34)年春以前に、東京砲兵工廠から鉄工組合支部は完全に追放されてしまったのでした。その事実は『労働世界』第76号に掲載された「砲兵工廠の諸君に告ぐ」と題する論稿によって判明します*7。同年4月3日、二六新報社主催の「労働者大懇親会」が開かれた際、その日が神武天皇祭の休日であるにもかかわらず、工廠側は労働者がこれに参加せぬよう干渉しました。『労働世界』は、このような干渉を受けるのは、砲兵工廠に労働組合がないからだと論じているのです。
  この2つの経営における事例が示しているのは、治安警察法の制定が、単なる同盟罷業に対する法的規制にとどまらず、この時期には、事実上、労働組合禁止法に近い効果をあげていた事実です。つまり、治安警察法は、国家が労働組合を治安対策の対象として取り扱うことを宣言したに等しく、同法の公布によって、警察はもちろん経営側も労働組合排斥の方針を鮮明にし、意図的に活動的な組合員を職場から排除したのでした。一方、こうした解雇を抑制する法的規定や労使慣行はまったくなかったのです。

 以上見てきたところから、鉄工組合は、1900(明治33)年夏から秋にかけて、実質的に壊滅状態に陥ったものとみて大過ないでしょう。
  ただし、「鉄工組合」の名を用いた会合は、それから5、6年後にも開かれています。今わかっている限りで、鉄工組合の名を冠した最後の会合は、1906(明治39)年1月に開かれた新年宴会です*8。つまり鉄工組合は創立から9年間は、組織を維持し続けたことになります。しかし、その実態は1901(明治34)年以降、労働組合とはほど遠いもので、片山潜を中心とした少数の活動家の懇親会的存在になっていたと見られます。そのように推測する根拠は、1903(明治36)年に開かれた鉄工組合新年会についての記事です*9。かなり長いので、出席者の氏名を中心に紹介すれば、以下の通りです。

 一月十六日、神田美土代町青年会館に於て、鉄工組合新年会は開かれたり。〔中略〕
午前十一時開会、山根吾一氏発企人に代りて開会の挨拶を為し、後組合の決算報告を為す。午食の後、
岡千代彦氏立て、職工は今日如何なる態度を持しつゝあるか〔中略〕次に
深川新兵衛氏出でゝ労働組合の必要なるを論じ〔中略〕、次に
加納豊氏は今日来会者の前年に比し少なき理由を説明し、組合の利益の眼前に挙がらざる為めなりとなし〔中略〕、第四
田中半四郎氏平素の所感を述べんとて、先ず議院制度に向て一矢を放ち〔中略〕第五に
西川光二郎氏現はれ、吾人は此の新年会の如く凡ての社会が倣はん事を望む〔中略〕次に
山根吾一氏は本組合昔日の隆盛、今日の衰微は考ふべき事なり〔中略〕
時に午后三時一同茶菓を喫しつつ余興に移る。
余興としては岡氏の改良落語時間は金なりと及び仏国革命の講談上出来。松崎源吉氏の洋人声色及び鼻琵琶なかなか本物。松岡悟氏の詩吟は其声頗る美に、宮本勘二郎氏の演説あり。次で大広間に於て徒弟と合同し、剣舞、蓄音機等ありて、午後六時頃散会せり。

 この日集まった顔ぶれの中、鉄工であることが確認出来るのは、深川新兵衛ただ一人です。彼は東京砲兵工廠の労働者で、鉄工組合第27支部の支部役員の経歴の持ち主でした。また西川光二郎は『労働世界』の記者でしたから、広い意味で鉄工組合関係者と言ってもよいでしょう。
  しかし、その他の人びとの多くは片山潜周辺の社会主義的知識人でした。岡千代彦は文選工で活版工組合員、山根吾一は渡米協会会員で片山潜を助けて『渡米雑誌』等の編集に当たっており、松崎源吉も渡米協会の会員で『社会主義』編集者、松岡悟(荒村)は早稲田大学の学生で、社会主義協会員といった如くです。
  このように、鉄工組合が労働組合としての実態を失った後でも、その名を冠した新年会が続いていたのには理由があります。それは、鉄工組合が資産を所有し、そこから一定の収益を上げ続けていたからです。資産とはほかならぬ日本橋区本石町の本部事務所の建物でした。
  1903(明治36)年1月の雑誌版『労働世界』に掲載された年賀挨拶では、鉄工組合本部の所在地は日本橋本石町ではなく、神田三崎町3丁目1番地、つまり片山潜の住所になっています*10。そして、本石町の建物を月15円で貸していたことは『労働世界』の後継誌『社会主義』に掲載された「鉄工組合明治三十六年決算」で判明します。同年中の「鉄工組合」の総収入277円79銭のうち、貸家料が180円を占めているのです。この金で『労働会報』を発行し、演説会を開き、新年会の費用も賄っているのです*11




【注】

*1 『労働世界』第63号(1900年7月1日付)、復刻版581ページ。

*2 『労働世界』第68号(1900年12月1日付)、復刻版625ページ。なお、見出し以外の太字箇所設定は引用者によるものである。

*3 『労働世界』第63号(1900年7月1日付)、復刻版586ページ。

*4 『労働世界』第60号(1900年5月1日付)には、つぎのような記事が掲載されている(復刻版559ページ)。

 治安警察法と日鉄
 日本鉄道会社が其の雇人を虐待酷役することは既報の如くなるが、仝社雇いの鉄工千数百名は其待遇の不当なるを訴へ改善を請求したることも亦既報の如くなるが、日鉄会社は其非を改めざるのみならず、此平和的穏健なる願いを聞き届けざるのみか之が代表者となりたる者大宮工場より廿八名、福島より二名、盛岡より十五名を解傭したり。〔後略〕
日鉄治案法を濫用す
 日鉄が斯く傍若無人の振舞をなしたるは、彼が兼て望みたる治安警察法を振り回して労働者を脅迫し、彼らを圧制し、遂に彼らの請求は治安法内に埋りたり。其手段や周到尽せりと謂ふべし。各工場各駅に治安法を書き出し或は巡公に依頼して解釈否曲解し説諭否圧制に努めたり

*5 『労働世界』第63号に、つぎのような記事があります。

   渡辺主事期成会を蛇蝎視す
〔前略〕彼は厳酷なる試験を以て新職工を雇入る。其最要ケ条は期成会員たらざる者に限る事なり。故に会員も大宮工場に入らんとせば期成会とは何の関係なしと云はねば採用されず。爾来より工場に働き居る者も表面上は組合に無関係を装はざるべからず。故に今や千人斗りの大宮工場在勤の鉄工は極秘密に組合員たるを得るのみ。故に爾来の支部は立消の如く組合員同士も誰が組合員やら知らずという有様にて、大宮工場の鉄工は恰も伊国アナキスト団体の如く会社に対しては全然秘密なり。〔後略〕

『労働世界』第63号1900年7月1日付、復刻版582ページ。

*6  『労働世界』第69号(1901年1月1日付)、復刻版633〜634ページ。

*7 「砲兵工廠の諸君に告ぐ」『労働世界』第76号(1901年4月15日付)、復刻版697〜698ページ。

*8 『光』1906(明治39)年1月20日。

*9 榎本生「鉄工組合新年会を観る」『社会主義』第8巻3号、1904(明治37)年2月3日。

*10 『労働世界』第7巻1号、1903(明治36)年1月1日。

*11 『社会主義』第8巻3号、1904(明治37)年2月3日。






Written and Edited by NIMURA, Kazuo
『二村一夫著作集』
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