二 村 一 夫 著 作 集

高野房太郎とその時代(九六)

高野房太郎、1901(明治34)年6月27日、北京にて撮影

青島に死す



 一九〇四(明治三七)年三月一二日、房太郎はこの世を去りました。終焉の地は、中国は山東半島の港湾都市・青島(チンタオ)、当時は膠州湾ドイツ租借地の中心でした。享年三七歳。ただし、これは明治元年生まれとしての数え年によるもので、満年齢なら三五歳と二ヵ月六日の若さです。
  死の一ヵ月前、日本海軍は旅順港のロシア艦隊を攻撃し、日露戦争の幕が切って落とされました。旅順は、山東半島に北面する遼東半島の先端にある、ロシア海軍の極東における拠点でした。明治とともに生まれた高野房太郎は、明治日本が大国ロシアと戦争を開始した直後、戦場に近い異国の町で、その生涯を閉じたのです。

  死因は肝臓膿腫(のうしゅ)でした。肝臓膿腫は、アメーバ赤痢の原因となる原虫が、腸粘膜を突破し血流に乗って肝臓に入って膿瘍を作るもので、肝臓が腫れ、圧痛、発熱、吐き気、嘔吐、食欲不振といった症状を呈します。房太郎の発病原因は分かりませんが、おそらく加熱不足の魚介類を食べたことによる経口感染でしょう。青島のドイツ病院に入院加療中でしたから、当時としては最先端の医療を受けえたものと推測されますが、「薬石効なく」亡くなりました*1

 房太郎の訃報を祖国にいる人びとが知ったのは、その死から二ヵ月近い時日が経ってからでした。同志であり、親友でもあった横山源之助が、一九〇四(明治三七)年五月四日付と九日付の『毎日新聞』に、二回に分けて追悼の記事を書いています*2「労働運動卒先者の死」と題するその一文は、房太郎の経歴と労働運動および消費組合運動における業績を記した上で、次のような弟・岩三郎の言葉を紹介していました。

 令弟、高野大学教授、悵然(ちょうぜん)として〔恨み嘆いて〕曰く、「兄は失敗の人なりき」と。然り一己の事業に於ても、社会の事業に於ても、君は何等の成功を見ずして、世を去れり。

 房太郎は「失敗の人」だった、との思いは、岩三郎だけでなく高野家の人びと ── 母マス、姉キワ、義兄井山憲太郎ら ── に共通するものでした。幼くして父を失い、戸主となった房太郎に、高野家の面々は大きな期待を寄せて来ました。一方、小学校・高等小学校を通して優等生で失敗を知らなかった房太郎自身、実業界での成功はすぐ手が届くところにあると考え、希望に燃えて渡米したのでした。
  しかし現実はそれほど甘くはなく、最初に企てた日本雑貨店の経営に失敗し、以後は食堂のウエーターなどをして、苦学しつつ故国に仕送りする日々が続き、最後はアメリカ海軍の砲艦で給仕として働きながら帰国したのでした。房太郎が全力を投入した労働組合や消費組合運動の意義は、高野家の人びとにとって ── もちろん岩三郎は別ですが ── 理解し難いものでした。しかもその運動でも失敗し、さらに実業界での再出発をめざした中国で失意のうちにその生涯を終えたのですから、房太郎が「失敗の人」と見なされたのも、しごく当然のことでした。

  また誰よりも、房太郎その人こそ、自分の人生は失敗の連続だったと、死を目前にして、臍を噛む思いで振り返ったに相違ありません。とりわけ、一時は成功したかに思えた労働組合期成会や鉄工組合が壊滅に追い込まれたことは、文字どおり「残念無念」だったでしょう。「今十年隠忍して、徐ろに労働者の為に尽す」ことを期して故国を離れた房太郎でしたが、その一〇年の三分の一しか経たないうちに病を得て、異国の土となる運命を覚った時、なんとも心残りで、痛恨の思いがこみ上げて来たのではないでしょうか。

 なお、これより少し前、高野家の人びとを大喜びさせる出来事がありました。一九〇三(明治三六)年四月、高野岩三郎が、四年のドイツ留学から帰国し、同年五月に「帝国大学法科大学教授」に任ぜられたのです*3。この知らせは、父親代わりの房太郎にとっても誇らしく、嬉しいことでした。長い間、貧しい生活のなかから学費を送り続けて来た弟が、ついに日本唯一の最高学府で統計学の教授となったのですから。しかし喜びの反面で、学問一筋に精進することが出来た弟に、ある種の妬ましさも感ぜずにはいられなかったと思われます。房太郎自身、経済学になみなみならぬ関心を抱き、経済学書を買い集めていました。岩三郎が経済学を専攻するようになったのも、房太郎の影響が小さくありませんでした。こうした岩三郎の出世を人びとが讃えれば讃えるほど、房太郎は「失敗者」としての自分を意識せずにはおられなかったでしょう。自尊心が高い房太郎にとって、この落差は、心を乱すもとになったに違いありません。肉体的な苦痛にさいなまれる病の床にあって、こうした気持ちの乱れが加わったのですから、晩年の日々の辛さが思いやられます。

  ただ私としては、房太郎が最後の日々を、ひたすら失意と悔恨の毎日を過ごしたわけではなかろうと考えるのです。生来の楽天家だった彼とすれば、心のどこかで、「短い一生だったが、世界中を駆けめぐり、さまざまな体験をした、得難い面白い人生だった」と回想する折もあったに違いない、是非そうであって欲しいと思わずにはいられません。

 房太郎の葬儀は青島で営まれ、現地で荼毘(だび)に付されました。同年六月下旬、房太郎の遺骨は日本に帰り、同月二六日午前九時、東京は本郷・駒込にある曹洞宗の名刹・諏訪山吉祥寺で納骨式が執り行われました。

天涯茫々生(横山源之助)「高野房太郎君を憶ふ」『東洋銅鉄雑誌』

  その前日、横山源之助はふたたび「高野房太郎君を憶ふ」と題する文章を草し、自らが編集する『東洋銅鉄雑誌』の第一巻第一号に「天涯茫々生」の名で掲載しました*4。房太郎と横山源之助とが互に相手を認め信頼しあっていたこと、また房太郎の尽力によって、横山源之助が『職工事情』調査に参加しえた事実を伝える貴重な記録です。以下に全文を紹介しておきましょう。『職工事情』が官庁調査としては稀にみる赤裸々な記録として高い評価を受けているのは、横山の力が大きかったからですし、房太郎はその陰の功労者のひとりだったのです。

  労働運動の卒先者にして、兼て鉄工組合を創立し、消費組合を創設したる労働社会の明星、高野房太郎君が、清国山東省に逝けるは、既に三ヶ月の前に経過す。数日前、遺骨東京に到着し、明二十六日午前九時を以て、駒込吉祥寺に其埋骨式行はると聞き、感慨の湧起するを禁ずる能はず。
  余江湖に放浪すること爰に十幾年、一枝の筆に依りて、僅に陋巷に生を送る。然かも時に平らかならざる者あり。地方に出で、山間に隠るゝこと今に数回。想起す、今より六年前、余、毎日新聞社に在り、『日本の下層社会』を編し了りて、健康意の如くならず、避暑を名として、突然東京を出で、加州金沢を経て、郷里小戸の浦辺に還る。而して遂に新聞記者を廃して、農に帰らんと決せるなり。当時最も其の不可を称ひたるは君にして、翌年君の日本を去る急忙の際に於ても、尚且余を忘れず、桑田〔熊蔵〕博士と相謀りて、農商務省の工場調査に関係せしめたり。今日余が東京に帰りて、労働者の研究に従事するもの、先輩には佐久間貞一島田三郎二氏の援助ありしと雖、亦君が常に余を慫慂し、激励したるもの与りて力多きを認めずんばあらず。嗚呼余は君を忘るゝこと能はざるなり。
  豈啻に私情に於て君が死を惜しむのみならんや。近時、社会問題を論ずる者多く、竟に資本を公有にすべしと称するカールマークスの学派を汲める社会主義の徒を出だすに至れり。社会主義者の出づるも可也、其の諸説、如何に激烈なりと言ふも、亦一種の学説たるべし。故に余は学説としては、社会主義に与せずと雖、敢て之を排斥するの狭量ならざらんことを欲す。然かも其の唱へる者の行動如何と見れば、徒に其の説を奇激にして労働者を思ふの親切少きは、余輩の甚だ与みせざる所なり。
  今や年一年、社会主義を喜ぶ者増加す。此時に於て、社会主義の学説と其の運動方法を厭へる君の如き士の逝けるは、実に労働者の不幸にして、亦日本国の不幸なりと謂ふべし。

 『毎日新聞』の訃報からほぼ一ヵ月後、『労働世界』の後継誌『社会主義』も房太郎の死を伝えました*5。一九〇四(明治三七)年六月三日付で、次のような短信を掲載しています。

  故高野房太郎氏 三月十二日清国山東省に於て病没されたる同氏は労働運動の率先者にして嘗て米国にありて靴工組合の創設に尽力し、沢田半之助城常太郎諸氏とともに職工義勇団を組織し帰朝後片山潜鈴木純一郎の両氏と共に労働組合期成会を起し其の後横浜及東京八丁堀に消費組合を設け自ら番頭と成りて尽瘁したるも時期の可ならざる者ありて失敗に終り暫く運動を中止し清国に渡りて雑貨業を営みつつありしに不幸其の訃に接するに至れり又同氏は当社会主義と改題せる雑誌労働世界の創立に一方ならざる尽力を与へられ且つ鉄工組合にも少なからさる助勢者たりしといへば知るも知らぬも我労働界の為めに其の死を惜しまざるは無し。

 この時期、片山潜は日本を離れていましたから、この記事は『社会主義』編集部の山根吾一か西川光二郎が執筆したものでしょう。横山源之助の真情あふれる二本の追悼文にくらべると、いかにも素っ気ないものです。筆者が友人ではありませんから事務的になるのは仕方のないことですが、問題は「職工義友会」を「職工義勇団」としたり、鉄工組合における房太郎の役割を「助勢者」とするなど、歴史的な事実について不正確な点が多い点です。とくに労働組合期成会の創立に関して、房太郎を片山潜・鈴木純一郎と並べて、これを「起し」た一人と位置づけていますが、期成会の創立者としては誰よりも高野房太郎をあげるべきで、片山の役割は、房太郎と比べればはるかに小さなものでした。この一文は、片山派の「我田引水」的なもので、公正を欠いていると言わざるをえません。これについては、すでに「労働組合期成会の創立者は誰か?」で詳しく述べたので繰り返しません。ただ、『日本の労働運動』をはじめ、この種の偏りを含む記録を無批判に使用してきたことが、明治労働運動史の実像を歪める結果を招いている点を、この機会に指摘しておきたいと思います。



*1 以上は主として『大日本人名辞書』所収、高野岩三郎稿「高野房太郎」による。

*2 横山源之助「労働運動卒先者の死」『毎日新聞』一九〇四(明治三七)年五月四日付、および五月九日付。なお、全文を別ファイル〈横山源之助「労働運動卒先者の死」〉に翻字しているので参照されたい。また、立花雄一編『横山源之助全集』第四巻(法政大学出版局、未刊)に収録予定である。

*3 大島清著『高野岩三郎伝』(岩波書店、一九六八年刊) 三九〜五七ページ。

*4 天涯茫々生「高野房太郎君を憶ふ」『東洋銅鉄雑誌』第一巻第一号(一九〇四年六月号)。後に横山源之助『凡人非凡人』(新潮社、一九一一年刊)に小改訂の上「労働運動者」と改題して採録。立花雄一編『横山源之助全集』第四巻(法政大学出版局、未刊)に収録予定。

*5 『社会主義』第八年第八号、一九〇四(明治三七)年六月三日付。








『高野房太郎とその時代』目次 第九七回



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